「たとえば————」
フル・フロンタルの巨躯は、床に座るバナージから見ると、その仮面に隠された眉目ごと暗闇の中に消えてしまうほど際立って見えた。
冷たい床に膝をぺたりとつけて座り、ただ俯くしかない。バナージも、オードリーも。その男が、そうしろと言ったなら。ただそれだけの理由で。
たとえば。
ひどく曖昧に切り出すその言葉すら、まるで獲物を前に舌なめずりをしているかのようだ。
この場に立つのは、この男ただ一人。
側近も配下も持たず、ただ単身で、君臨するかのように。
「ここは地球の地下施設であり、気温が一定に感じられるのは空調のせいだ。かすかに鼻を突くかび臭い空気は、旧式の塩ビの床材のせいだろう。耳をすませば水滴が落ちる音がする。それは配管パネルの向こうに地下水が浸潤し劣化させていることを示している」
スペックを読み上げるような淡々とした調子で告げながら、フル・フロンタルは天井を見上げたようだった。
「あるいは、ここはサイド3・29バンチ————軍需工業基地のひしめく産業コロニーだ。ここでははさまざまなことを誰もが気にしない。配管から滴る冷却水、ゆるやかに腐敗する強化プラスチックの防水層、随分前に作って忘れ去られた宿舎の一室、そういったものを、何一つ」
オードリーの冷え切った眼差しがフロンタルの革靴を睨んでいる。
まるで、この男は次の瞬間にはその爪先を女の腹に叩き込むのも厭わないのだと言わんばかりに。
バナージはぞっとする思いで床の上を僅かにいざり、オードリーへ近づこうとした。
フロンタルの革靴が、突然目の前にぬっと差し込まれ、床を静かに踏みしめる。
仮面の顔がバナージを見下ろしている。
高みから見下ろす瞳の青だけが、一瞬だけ目に焼き付いたような心地がして、バナージは息を呑んだ。
「あるいは、こういうのはどうだろう。ここは君たちがどうしようもない運命と対面し、そして旅だった《メガラニカ》だ。未確定の可能性のゆりかごとなった巨大戦艦に、このような粗末な場所もあったかもしれない。《メガラニカ》も我々ネオ・ジオンが接収しているからな。それに————」
「まだ、続くのか」
唸るように、バナージは言った。
「要は、ここがどこなのか、おれ達に明らかにする気はないってことでしょう。こんな状況じゃ、地球なのかコロニーなのかさえわからない。おれ達に何をしたって、助けなんか来ないんだって……」
「呑み込みが早くて助かるよ」
「その嬲るような物言い」
冷え切った声で、オードリーが呟く。
「戦で濁った魂が、そのような陋悪に男を貶める」
「……」
微かに押し殺したような失笑が、バナージの耳に届いた。
オードリーは床に座す屈辱的な姿勢を強いられたまま、高みから見下ろすフル・フロンタルへ鮮やかな視線を真っ直ぐに通わせる。
「心底つまらない男に真似られたものですね。シャア・アズナブルは」
「あれだけのことを仕出かしてなお、あなたの存在はわれわれネオ・ジオンにとって有意義だ」
自然と会話を続けているかのようなトーンで、フロンタルはさらりとその事実を突きつけた。
「ジオンの者でありながら、連邦側から『ラプラス事変』を見届け、その終局にすら立ち会った。これからの新体制に、あなたの助力は欠かせない」
「なら、なぜバナージを?」
その問いと共にオードリーがまなじりを決し、立ち上がらんばかりの勢いでフロンタルを見上げる。その白い喉が引き絞った弓の弦のようで、バナージはその危ういほどの激情に胸を打たれる気分になった。
オードリー、だめだ————
口に出して制することもできない。ここに至ると、もはや何が、この場に決定的な暴力をもたらすかすらわからない。
「《ユニコーン》を奪ったなら、バナージを捕える必要はないでしょう。彼を解放して」
「愚かしく振る舞うことをおやめください、ミネバ様。その言葉は、あなた自身が一番信じていないでしょうに」
あらかじめ書かれたことを読み上げるかのように、フロンタルはすらすらと告げる。
オードリーが言葉に窮するのが、バナージにも伝わった。
そうだ。ネオ・ジオンが《ユニコーン》を手に入れたからこそ、バナージを手放すことはありえなくなった。《ユニコーン》の鍵。可能性の獣を唯一手なずけることができるパイロット。その価値は、争奪戦を制して『箱』を手中に収めてしまったネオ・ジオンにとっても未だに変わらないようだ。
「とはいえ」
このうえなく理知的な、穏やかな声で、フロンタルは告げる。
「ミネバ様がわれわれの要求通りに証言を行うとも、バナージ君がネオ・ジオンの尖兵となって《ユニコーン》で殺戮に興じるとも考えづらい」
「あたりまえだ、そんなことっ……!」
思わず声が出る。
フル・フロンタルは静かに、床の上の二人を見下ろしている。
「歌わない小鳥と、御せない獣」
どこまでも知性を滲ませる、思慮深い振る舞い。
なのに、なぜこんなにも怖気を誘われるのか。
バナージには、もうわかっていた。
フル・フロンタルは、豊かで静かな思索の果てに、最も悪意に満ちた結論に辿り着く男だからだ。
「我々は最も原始的な方法に、その活路を見出すことにした」