最も原始的な方法————……
オードリーの眼差しが強烈な軽蔑に翳るのを、バナージは見た。
この密室で、起きるべきでないことが起きようとしている。
その不吉な予感が、臓器をじりじりと削っている。
「待て……待ってくれ。その先は……」
バナージは俯いたまま軋むほどに歯を食いしばり、低めた声でフロンタルに尋ねた。
「今、あんたは、その先を口にすることを、少しでも躊躇しているのか」
「……不思議な質問だ」
突飛な質問をする生徒に向けたかのように、その声は温かかった。
「そうだな。君たちの正気と自由意志をもっとも効果的に破壊するためにこれから取る方法について、世間一般に好ましからざるものであるという認識はある」
一切の罪悪感の陰りも、欲情のたぎりも、その声にはなかった。
「それは生殖行為・それに類する行為を用いたものであり、一般的に適切とは判断されないからだ」
「……」
かくん、と、魂から何かか抜け落ちるような心地さえ、バナージは覚えた。
これは、駄目だ。
この男は、駄目だ。
揺らぐほどの良心もないくせに、象った魂の振る舞いを醜悪に真似続ける————
そんなものに、届く言葉なんかあるはずがない。
抗えない力が、突然視界を押し上げた。
フル・フロンタルの大きな手が、バナージの髪を掴んで顔を上げさせ、顔を覗き込んでいる。
ただの好奇心だろう。
寄る辺を失いつつある子供がどんな顔をするのか、確かめようと思っただけの。
バナージは怒りも悲しみもなく、ただ虚ろな声でつぶやいた。
「……下衆野郎」
「おや、育ちがいいな」
微かな笑いと共に髪を掴む手があっさりと離され、勢いよくその手が振りぬかれた。
膂力が違い過ぎる。この一撃を受ければ間違いなく床をなめることになる。せめてどこかに頭をぶつけないようにと咄嗟に倒れる方向を意識しながら目を硬く閉じたバナージの耳に、悲痛な声が届く。
「あ、っ……!」
バナージは目を見開き、愕然とする。
自分ではなかった。
頬を音高く打たれたオードリーが、体を庇うことすらできずに床に叩きつけられたのだ。
「ルールを覚えるんだ、バナージ君。なに、たいしたことではない————」
頭を床で打ったらしく、オードリーの瞳は焦点を失って、瞳孔がゆらゆらとさまよっている。
自分のせいなのか。自分が弱いから。弱いくせに、怒りなど持ってしまったから。
————違う。
正しく怒り、立ち向かうべきなのだ。
この男の行動に怒りさえ覚えなくなったら、魂が死んでしまう。
バナージは息を詰めた次の瞬間、爆発したようにフロンタルに食って掛かった。
「ふざけるなっ!」
手枷の懸かった体は立ち上がることにさえ苦労するが、なんとかバランスをとって立ち上がる。ふらつきながら並んでも、仮面の男は見上げるほどに体格で勝る。
怒りに乱れる呼吸を必死で押しつぶすかのように整えて、バナージは叫んだ。
「おれが————おれのことが気に食わないなら、おれを殴ればいいでしょう!女の子に、こんな……うっぷん晴らしで殴るなんて!あんたみたいな、大きな大人が……!」
「気に食わないからやっていると?それはとても非生産的だ……リンチというものだ。連邦軍の方が、そういったことは得意だったようだが」
フル・フロンタルの語調は、まるで録音されたものであるかのように変わらない。どこまでもなだらかな平野、沈まない陽を浴びる景色のように。
怒りに震え言葉を失うバナージの瞳にはいったい何が見えるのだろう。まるで味わい、噛み締めるように、フル・フロンタルはバナージの瞳を注視している。
「我々は理性的に、平等たらんとしている。機械のように、偏ることなく。意味は分かるかね」
「いまさら、白々しい——!」
「バナージ君は、私の許可なく立ち上がった」
手袋に覆われた人差し指が、ぴんと立った。
遅れて、二本、三本と指を立てて示しながら、フロンタルは続けていく。
「バナージ君は、私の許可なく発話した。バナージ君は、私と目を合わせてなお、服従の姿勢を取らなかった」
「ま、て、あんた、は、何を——」
眩暈。視界が色を失って極度に狭くなる。
全身が拒絶している。
この男の言葉が、何を意味しているのか。
「このペナルティを受けるのが、ミネバ様だということ。これで、ルールをよく理解できるだろう」
その掌が胸板をそっと押すだけで、抗い難い力で後ろから引っ張られたかのようにバナージの体はぐらついてたたらを踏み、腕を拘束された状態ではバランスを取る事もできず座り込んだ。
フロンタルの手が、腰に下げた棒状のものを優雅に構える。
バナージの二の腕ほどの長さで、端子部分を艶消しの金属で補強した警棒のようだ。 バナージは、それをスラムで一度だけ目にしたことがあった。
暴徒制圧用のスタンロッド——
「あ、……や、め……」
かすれた声が喉から漏れた。
次の瞬間にオードリーの喉から迸った絶叫が、全てを塗りつぶしてしまった。
「あっ、ぎっ、ぎゃっ、ぎ、ぃぃぃぃっ……!」
それは、人の声とも思えない悲鳴だった。
オードリーの華奢な肢体がばたばたと床の上を転がる。簡単に逃れられないようにフロンタルの靴がオードリーの薄い骨盤を踏みつけた。それでもなお必死に逃れようと、少女のつま先ががしがしと床を蹴り、腰が大きく反り返り、服を乱してみっともなくもがく。
その小さな顎からぼたぼたと滴るのは、泡を大量に含んだ唾液だった。
そこまで暴れることを許してもなお、食い込むように押し付けたスタンロッドの端をまったくオードリーの腹部から離さないまま、フロンタルは静かに告げた。
「電流による強烈なテタニーが見られる。誤って舌を噛ませてしまわないように、何かを咥えさせた方が良かったな。次は君が気をつけてやるといい、バナージ君」
「あ、あ……?」
オードリーの激しい苦痛を前に、バナージは完全に思考を手放していた。
おれのせいだ。
おれが立ったから。おれが逆らったから。おれが機嫌を損ねたから。
おれのせいで、オードリーが、死んでしまう。
あんなに気高くて美しかったオードリーが、喉が破れて、舌がちぎれて、もだえて、死んでしまう——
バナージは気がつけば、フロンタルの足下に這いつくばっていた。
その靴先にぬかづいて、ただ震える声で訴えるしかなかった。
「ごめん、なさい……おれが、悪かったです」
「お願いだから、それ、やめてください……」
「オードリーに、ひどいこと、しないで……」
眠っていく。
怒りが。痛みが。希望が。誇りが。
全てを眠らせて、バナージは顔を上げる。
絶対の支配者に向けた、媚びる笑みを、間違いなく見てもらうために。