ずちゅり、ぐちゅり、と生々しい音が室内に響いている。
薄暗い部屋で誰かが誰かを犯している様だ。
誰が誰を犯しているのだろうか?
一人はイサク。イサク・サザーランド侯爵令息である。
そしてもう一人は──事もあろうに、サザーランド侯爵夫人ドロテアその人であった。
二人の間に血のつながりはない。つまり、しかしそれでもドロテアはイサクの義母である。
親子関係にある二人が体を重ねる──それはあってはならない不義であった。
しかし畢竟、イサク・サザーランドという人間の在り方を考えればこうなる事は予定調和とも言えた。
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アルバラ帝国において、サザーランド侯爵家が持つ権威は決して小さくない。
その歴史は古く、建国史にすらその名が記されているほどだ。
ただ、歴史は古くとも懐は寒い。
これはもう、ここ数代にわたる悪癖のようなものだった。
当主であるグレイル・サザーランドは、帝国でも五指に入る優れた魔術師として知られていた。
彼の放つ魔術は、かつて国境紛争の際に敵軍の一旅団を丸ごと消滅させたという逸話を持つ──まあ多少は盛っているだろうが。
だが魔術師としては超一流。
それは間違いない。
しかし、領地経営や商売の才は壊滅的だった。
収入と支出の計算ができないわけではない。
単純に興味がなかったのである。
金銭とは魔術の研究に必要な触媒や文献を購うための手段に過ぎない。
グレイルにとって世界の心理とは術式の先にこそあれ、帳簿の上には存在しなかった。
結果、サザーランド侯爵家の財政は常に火の車であった。
そこで持ち上がったのが政略結婚という、貴族社会における最も安直かつ効果的な金策である。
相手はファーレス男爵家の未亡人、ドロテア。
サザーランド侯爵家には金がないが、血統と歴史という権威がある。
一方、ファーレス男爵家は新興の家門で歴史こそないが、海運業で財を成した金があった。
両家の利害はまるで出来の良いパズルのピースのように、ぴたりと一致した。
ただ、その相手であるドロテアというのが、少々……いや、かなり厄介な人物だった。
グレイルより大分年嵩に見える女だ。
若い頃はそれなりの美貌で鳴らしたらしいが、今となってはその面影もない。
長く狷介な性格のままに生きてきた人間の顔というのは、どうしてこうも険しくなるものか。
彼女の顔の皺の一つ一つが、その気難しい半生を物語っているようだった。
グレイルとの結婚によって男爵家は事実上、侯爵家に吸収される形となる。
ドロテアは夫であったファーレス男爵との間に子をなさなかった。
帝国法によれば直系の男子後継者がいない場合、その配偶者が爵位と財産を継承する権利を持つ。
もちろんそれはあくまで一時的なものであり、再婚すればその権利は新しい婚家に委ねられるのが通例だ。
ドロテアは自身に男爵家を運営する才覚がないことを正しく理解していた。
そしてサザーランド侯爵が結婚相手を探しているという情報を嗅ぎつけ、自らを売り込んだのだ。
したたかな女である。
だがこの結婚により、侯爵家の財政は驚くほど健全化した。
真の問題はそのドロテアが連れてきた一人の娘、エリナの存在だった。
エリナは病死したファーレス男爵の庶子である。
母親は男爵が囲っていた踊り子だったとか。
その出自はどうあれ、エリナの器量は素晴らしく良かった。
絹糸のようなプラチナブロンドの髪に、初夏の空を思わせる澄んだ青い瞳。
まだ十代半ばという年齢もあって、その美しさは瑞々しい果実のようだった。
しかしドロテアはこの美しい娘を事あるごとに虐げた。
それはもう、見ていて胸糞が悪くなるほどに執拗だった。
「エリナ、またそんなところに突っ立って。あなたがいるだけで空気が澱むわ」
「申し訳ございません、お母様」
「誰がお母様ですって? 気安く呼ばないでちょうだい、この娼婦の子が」
食事の席で、庭で、廊下ですれ違い様に。
ドロテアの口からは常にエリナを貶める言葉が吐き出された。
ちなみにこういう精神的な虐待は、物理的な暴力よりも質の悪い後遺症を残すことがアルバラ帝国の医学会でも近年ようやく認知されつつある。
もっとも、そんな小難しい理屈を抜きにしても単純に不愉快な光景だった。
特にグレイルにとっては。
グレイルはドロテアの所業が全く意味不明だったのだ。
なぜ血のつながりがないというだけで虐げるのかさっぱりわからない。
理屈ではまあ納得はできなくはないが、感覚的には完全に意味不明だった。
なぜなら、彼自身にも庶子がいるからである。
イサクという名の、今年で十八になる息子だ。
グレイルに似て魔術の才に恵まれ、その才能をさらに開花させるべく帝都にある全寮制の帝国魔術学院で学んでいる。
このイサク、見目形は決して良いとは言えない。
背は低く、そして肥えている。
顔立ちは凡庸で、お世辞にも美男子とは呼べなかった。
しかしグレイルはそんな息子の容姿を気にしたことなど一度もなかった。
むしろ、目に入れても痛くないほどに可愛がっている。
イサクもまた父親であるグレイルを心から慕っており、二人の親子仲は極めて良好だった。
週に一度は手紙のやり取りを欠かさない。
そこには学院での成績や友人とのこと、新しく覚えた魔術のことなどが綴られている。
グレイルはその手紙を読む時間を何よりも楽しみにしていた。
だからこそわからない。
庶子であるというただそれだけの理由で、どうして我が子を虐げることができるのか。
まあドロテアにとってエリナは、亡き夫の不貞の証であり、自らが子を成せなかった事実を突きつけてくる忌むべき存在なのかもしれない。
だがそんなものは親の身勝手な都合だ。
子供に何の関係があるというのか。
ある日の午後、グレイルは書斎で古い魔導書の解読に没頭していた。
コンコン、と控えめなノックの音。
「……入れ」
短く応じると音もなく扉が開き、エリナが紅茶のトレイを手に現れた。
「旦那様、あの、お母様が──」
彼女はいつも、グレイルのことを「お父様」とは呼ばず、「旦那様」と呼ぶ。
それはドロテアがそう仕向けたのか、あるいは彼女自身の遠慮なのか。
「ああ、後で行く」
グレイルは視線を書物から動かさずに言った。
しかしそれを聞いてもエリナすぐには退室せず、その場にたたずんでいた。
「……何か用か」
「あの……」
エリナは何かを言いかけて、やめた。
その躊躇いが、グレイルの集中をわずかに削ぐ。
「用がないなら下がりなさい。取り込み中だ」
少しばかり声が苛立ったものになった自覚はあった。
「申し訳、ございません」
エリナは小さく頭を下げると、静かに部屋を出て行った。
扉が閉まる音を聞きながら、グレイルは小さくため息をついた。
別にエリナに腹を立てていたわけではない。
ただ彼女のあの怯えたような、それでいて何かを訴えかけるような瞳が思考を乱すのだ。
庶子という境遇は同じでも、愛される息子と、虐げられる娘。
その対比があまりにも鮮やかで、どうしようもない不条理を感じさせる。
グレイルは魔術師だ。
世界の理を解き明かすことを生業としている。
しかし妻であるドロテアがエリナに向けるあの底なしの憎悪という感情だけは、どんな複雑な術式よりも難解なものに思えた。