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むせ返るような緑の匂いが満ちていたサザーランド侯爵領の夏は過ぎ去り、帝都は秋の気配を色濃くしていた。
長かった夏休みを終え、イサクは再び帝国魔術学院の寄宿舎へと戻ってきた。屋敷で繰り広げられた背徳的な日々の記憶は、分厚い専門書の間に挟んだ栞のように、彼の意識の片隅へと静かに仕舞い込まれている。
学院におけるイサク・サザーランドの評価は、ある種奇妙なものであった。
彼の学業成績は常に学年首席。特に古代語と思考魔術の分野においては、教鞭を執る教授陣すら舌を巻くほどの深い知見を示し、そのレポートはしばしば他の学生たちの模範として回覧されるほどだ。
しかし、その卓越した頭脳とは裏腹に、彼を慕う者は驚くほど少なかった。
ずんぐりとした肥満体の容姿もさることながら、彼の常に冷静で感情の起伏を見せない態度は、同年代の若者たちにとって近寄りがたい壁のように感じられる。彼は誰かを見下すことはないが、同時に誰かに深く関わることもしない。常に一歩引いた場所から、まるで観察対象でも見るかのように周囲を眺めている。
そんな彼の在り方は、優等生に対するやっかみと相まって、彼をクラスの中で浮いた存在にしていた。無論、イサク自身はそんな周囲の評価を気にしたことなど一度もなかったが。
だが、万人が彼を敬遠していたわけではない。
彼の内面に宿る知性の輝きに、密かな憧憬の念を抱く者も、ごく少数ながら存在した。
セシリア・クラインフェルト伯爵令嬢。彼女もまた、そんな数少ない一人である。
そばかすの散った顔に、三つ編みにした地味な栗色の髪。貴族の子女が集う華やかな学院の中では、まるで森の中に咲く目立たない野花のような少女だ。
彼女は、他の女子生徒たちが色めき立つような眉目秀麗な貴公子たちには目もくれず、講義中に教授の理論の矛盾点を的確に指摘するイサクの横顔を、熱の籠もった瞳で見つめていることがよくあった。
イサクは当然その視線に気づいている。
彼女が図書室で自分と同じ古代文献を手に取ろうとしては、ためらい、結局別の本を選ぶ姿を何度も目にしていた。
──面倒なことにならなければいいが。
それがイサクの正直な感想である。彼にとってセシリアは、まだ熟す前の青い果実。何の興味もそそられない対象だった。故に彼は、礼を失さない範囲で当たり障りのない対応に終始していた。
そんなある日の午後。イサクが次の講義で使う資料を探しに図書室へ向かっていると、廊下のステンドグラスの前で足を止めることになった。
聞き覚えのある声。そして、不快な声。
「いいじゃないか、セシリア嬢。少し付き合ってくれても。僕のサロンで、とっておきの紅茶を用意させているんだ」
「……申し訳ありません、アルフォンス様。わたくし、この後用事がございますので」
セシリアが、上級生の男子生徒に絡まれている。
その男の名は、アルフォンス・ド・ロンドブル。帝国でも屈指の名門であるロンドブル公爵家の嫡男だ。絹のような金髪に彫りの深い顔立ち、長身痩躯の恵まれた容姿。学業成績も中々良い。まさに絵に描いたような貴公子である。
ただ、その完璧な外面とは裏腹に、彼の内面は煮詰まった自尊心と選民思想で満ち溢れていた。
「用事だと? この僕の誘いよりも優先すべき用事が君にあるとでも言うのかい」
アルフォンスは芝居がかった仕草で肩をすくめると、セシリアの細い腕を乱暴に掴んだ。
「さあ、行こう。光栄に思うといい」
「や……っ、離してくださいませ!」
セシリアは必死に抵抗するが、体格差は明らか。彼女の体は赤子の手をひねるように、いともたやすくアルフォンスの方へと引き寄せられていく。
その時だった。
無理やり連れて行かれようとするセシリアの瞳が、廊下の向こうに立つイサクの姿を捉えたのは。
一瞬、彼女の目に助けを求める色が浮かぶ。だがそれも束の間、セシリアはぐっと唇を噛み締めると、自らその視線を逸らしてしまった。
──迷惑はかけられない。
その硬質な光を宿した瞳が、雄弁にそう語っていた。
イサクは、その光景をただ無感動に眺めていた。
当初は、関わるつもりなど毛頭なかった。つまらない痴話喧嘩に首を突っ込むのは時間の無駄だ。それに、彼が最も嫌うのは面倒事である。
しかし。
セシリアが助けを求めず、自らの矜持で状況を乗り越えようとした、その一瞬の煌めき。それが、イサクの心に奇妙な波紋を広げた。
──ほう。
青い果実だと思っていたが、なかなかどうして、しっかりとした芯を持っているらしい。
イサクは“力”に対し、簡単には屈せず反発する者が好きだ。反発し、反発し、ついには屈する者のほうがもっと好きではあるが。その辺はかつての人生での経験が影響してるのかもしれない。イサクもまたアカデミーで苦労した口であるからだ。
「……仕方ありませんね」
イサクは小さくため息をつくと、重い腰を上げた。踵を返し、二人が消えていったサロンの方へとそのずんぐりとした体をゆっくりと向かわせる。
◆
学院のサロンは、放課後の生徒たちの社交場として、常に華やかな雰囲気に満ちている。
アルフォンスは意気揚々とセシリアを窓際の席へと引きずっていくと、尊大な態度で椅子に座るよう促した。周囲の生徒たちは、公爵家の嫡男の横暴に気づいていながらも、見て見ぬふりを決め込んでいる。
まさにその時、サロンの重厚な扉が静かに開かれた。
「ああ、ここにいらっしゃいましたか、セシリア嬢」
穏やかだが、よく通る声。
その場にいた全員の視線が、入り口に立つ凡庸な肥満児へと注がれる。
イサクは周囲の視線など意にも介さず、まっすぐにセシリアの元へと歩み寄った。
「探しましたよ。古代ルーン文字の解読について、議論の続きをする約束でしたでしょう」
もちろん、そんな約束は存在しない。完全なる捏造である。
突然の救いの手に、セシリアの瞳が驚きに見開かれた。
「イサク、様……」
「なんだ君は。サザーランド侯爵家の……」
アルフォンスが、不快感を隠そうともせずにイサクを睨みつける。
「僕たちが話しているのが見えなかったのかね。無粋な真似はよしたまえ」
「これは失礼いたしました、アルフォンス殿。ですが、我々には先約がございまして。彼女をお借りしても?」
イサクは完璧な貴族の礼をとりながら、しかし一歩も引かなかった。その落ち着き払った態度が、アルフォンスの苛立ちをさらに煽る。
「先約だと? 笑わせるな。セシリア嬢は僕と紅茶を飲むんだ。君のような芋臭い男との約束など、反故にして当然だろう」
アルフォンスはイサクの家柄と容姿を、あからさまに嘲笑した。
だがイサクの表情は変わらない。彼はただ、静かに問いを返す。
「それはセシリア嬢の意思だと、そうお考えですか?」
「無論だ。彼女も僕と過ごす方が有意義だと理解しているはずだ。そうだろ、セシリア嬢?」
同意を求めるように、アルフォンスがセシリアの肩に手を置く。セシリアは怯えたように身を縮こませるだけだ。
イサクはその様子を冷静に観察すると、ゆっくりと言葉を続けた。
「なるほど。では、先ほどあなたが彼女の腕を掴み、抵抗する彼女を無理やりこちらへ連れてこられた行為は、彼女の意思を尊重した結果であると?」
その言葉に、サロンの空気が凍った。
周囲で聞き耳を立てていた生徒たちの間に、さざ波のような動揺が広がる。
アルフォンスの顔が、みるみるうちに朱に染まっていく。
「なっ……! 何を言い出すかと思えば! あれは、彼女が恥ずかしがっているだけだ! 君のような朴念仁に、男女の機微がわかるとは思えんがね!」
「機微、ですか。面白い表現ですね」
イサクは、まるで珍しい昆虫でも見るかのように、わずかに首を傾げた。
「言語学的に考察しますと、『機微』とは、表面的な言葉や態度だけでは察しがたい、人間の心の微細な動きや物事の複雑な趣を指します。しかし、明確な拒絶の意思表示と物理的な抵抗を『機微』の一言で片付けてしまうのは、些か乱暴な拡大解釈ではないでしょうか。それはもはや、相手の意思を無視した、一方的な『願望』の押し付けに他ならないのでは?」
立て板に水、という表現がこれほど似合うことがあるだろうか。
イサクの口から紡がれるのは、一切の感情を排した、冷徹なまでの正論。それは鋭利なメスのように、アルフォンスの虚飾に満ちた言い訳を切り刻んでいく。
「ぐ……詭弁を弄するな!」
「詭弁ではありません。論理です」
イサクは淡々と返す。
「そもそも、あなたが本当に彼女の意思を尊重しているのであれば、今ここで、彼女自身に選択を委ねるべきではありませんか? 公爵家の権威を盾に、他者の自由意思を束縛する。その行為が、ロンドブル家の家風であると公言なさるのであれば、話は別ですが」
それは、痛烈な皮肉だった。
アルフォンスのプライドを根底から揺さぶる、悪魔的な一言。
周囲からは、もはや隠そうともしない失笑が漏れ始めていた。アルフォンスは屈辱に顔を歪め、わなわなと拳を震わせる。しかし、もはや彼に反論の言葉は残されていなかった。
彼はイサクを殺さんばかりの形相で睨みつけると、苦々しく吐き捨てた。
「……覚えていろよ、豚が」
その捨て台詞を残し、アルフォンスは足早にサロンを去っていく。
嵐が過ぎ去った後の静寂の中、イサクは何事もなかったかのようにセシリアに向き直った。
「さて、行きましょうか、セシリア嬢。議論の続きが待っています」
彼はそう言って、ぽっちゃりとした手を彼女に差し出した。
セシリアは目の前で起こった鮮やかな逆転劇に呆然としながらも、恐る恐るその手を取る。
その瞬間、彼女の心に芽生えたのは感謝だけではなかった。