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イサクのぽっちゃりとして肉厚な、しかし意外にも骨張った指先の感触がセシリアの手のひらに生々しく残っていた。
サロンから図書室へと続く長い廊下をただ無言で歩き続ける。広い肩幅、というよりは全体的に丸みを帯びたその背中は、セシリアがこれまで見てきたどんな男たちのものよりも大きく、そして頼もしく感じられた。
──ああ、なんてこと
ステンドグラスから差し込む秋の陽光が、イサクの豊かな黒髪を鈍く照らす。その光景がなぜだかひどく官能的にセシリアの目に映った。無論錯覚である。
図書室の重厚な扉の前でイサクは静かに足を止めた。そして何事もなかったかのようにセシリアの手を離すと、くるりと彼女の方へ向き直る。
「では、私はこれで失礼します」
あまりにもあっさりとしたその態度に、セシリアの心臓がきゅっと縮こまった。このまま彼を行かせてはならない。そんな強迫観念にも似た衝動が、彼女の背中を押す。
「あ、あの、イサク様!」
思わず引き留めるように声を張り上げていた。
「先ほどは……その、助けていただき、本当にありがとうございました」
頬を染め、俯きながら絞り出した感謝の言葉。セシリアは地味な娘だがしかし、恋の炎で炙られた彼女は相応の芳香を放っている。しかしイサクの反応は彼女の期待とはかけ離れたものだった。
「当然のことをしたまでです。貴族たる者、不当な暴力を見過ごすことはできませんので」
その声には何の感情も乗っていない。まるで天気の話でもするかのような平坦な響き。
そういってイサクは軽く会釈を残し、分厚い専門書が並ぶ書架の迷宮へとそのずんぐりとした体を消していく。
後に残されたのは、セシリア一人。
胸の高鳴りは一向に収まる気配がなかった。イサクの冷静な態度、知性から滲み出る落ち着き、そしてアルフォンスの権威に一歩も引かなかったあの胆力。その全てがセシリアの心に深く、深く刻み込まれていた。
今、彼女の胸の内には感謝という言葉だけでは到底表現しきれない、熱く、そして甘い何かが渦巻いている。それはセシリア・クラインフェルトがその人生で初めて経験する、あまりにも強烈な感情の奔流だった。
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その夜、セシリアは自室の豪奢な天蓋付きベッドの上で、羊の数を数える代わりに、イサク・サザーランドという男の姿を繰り返し思い浮かべていた。
──なぜなのかしら。アルフォンス様のような、物語に出てくる王子様そのものといった容姿の方にはこれまで少しの興味も惹かれなかったというのに。イサク様の、あの、その……豊かと表現すべきか、福々しいと申すべきか……とにかく、その豊かな体躯に、得も言われぬ安心感を覚えてしまうなんて
セシリアは自分の心に芽生えた不可解な感情に、ただただ戸惑うばかりだった。
アルフォンスの腕を振り払えなかった自分の非力さ。それをいともたやすく、言葉という刃だけで退けてみせたイサクの圧倒的な力。
その対比はあまりにも鮮烈だった。
彼女は無意識のうちに、力強い雄に守られたいと願うか弱き雌の本能を刺激されていたのかもしれない。
まあ当のイサクからすれば迷惑なのだろうが。いかんせん、彼は筋金入りの熟女趣味を持つ男だ。
──これが、恋……!
その事実を自覚した瞬間、セシリアの全身を雷に打たれたような衝撃が駆け巡った。
そうか、これが。姉が結婚する前に「胸が張り裂けそうになるの」と語っていた、あの感情の正体。
セシリアは勢いよくベッドから起き上がると、窓辺に駆け寄り、月明かりに照らされた自分の顔を鏡に映した。
そばかすの散った平凡な顔。栗色の三つ編み。貴族令嬢としての華やかさには程遠い。
だが、その瞳は爛々と輝いていた。
──決めたわ。わたくし、イサク様の心を射止めてみせる
恋に落ちた乙女の決意は、時としていかなる魔術よりも強力な力を発揮するものである。
◆
翌日からセシリアの健気で、そして少々見当違いなアプローチが開始された。
講義室へ向かう廊下でイサクの姿を見つければ、淑女の嗜みなどかなぐり捨てて駆け寄り、満面の笑みで挨拶を投げかける。
「ごきげんよう、イサク様! 今日は良いお天気ですわね!」
「ええ、ごきげんよう、クラインフェルト嬢。ですが廊下は走らない方がよろしいかと」
イサクはそう言って軽く会釈だけすると、表情一つ変えずに通り過ぎていく。その背中からは「面倒だ」というオーラが滲み出ているような気さえした。
昼食時。広大な食堂で分厚い本を片手に食事をするイサクの姿を捉えれば、セシリアはさりげなさを装って、すぐ近くのテーブルに腰を下ろす。そして、彼に聞こえるか聞こえないかの絶妙な声量で、友人との会話の中にイサクの興味を引きそうな話題を織り交ぜてみたりした。
「ねえ、昨日の古代魔術史の講義、とても興味深かったわよね? 特に、第七王朝期におけるゴーレム生成術式の言語的変遷について、もっと深く知りたいものだわ」
しかし、イサクは彼女の存在などまるで意に介していないかのように、黙々とシチューを口に運び、時折ページをめくるだけ。その視線は、セシリアのいる方向を一瞥だにしない。
セシリアの心は彼の塩対応にちくりと痛んだ。
普通の令嬢であればここでプライドを傷つけられ、諦めてしまうところだろう。
だがセシリアは違った。
──なんてこと! なんて難攻不落なのかしら!
彼女の心の中では、むしろ逆の炎が燃え盛っていたのだ。
──少し話しかけられたくらいで鼻の下を伸ばすような殿方では、わたくしの心は動かせない。そうよ、イサク様はそうでなくては!
恋は盲目とはよく言ったものである。イサクの無関心という名の鉄壁は、セシリアにとって攻略しがいのある魅惑の城壁にしか見えていなかった。
数日間の空振りを経て、セシリアはついに気づいた。
このままでは埒が明かないと。小手先のアプローチでは、あの知性の塊のような男性の心には響かないのだ、と。
ある日の放課後、彼女は固く拳を握りしめ、決意を新たにする。
──そうよ、わたくとしたことが! イサク様の心は胃袋や甘い言葉で掴むものではないわ。彼の心を掴む鍵は、知的好奇心! わたくしも、彼と同じ土俵に立たなければならないのよ!
彼女の脳裏に、サロンでの一件でイサクが口にした言葉が蘇る。
──『古代ルーン文字の解読について、議論の続きをする約束でしたでしょう』
あれはアルフォンスを追い払うための口実に過ぎなかった。しかし今のセシリアにとっては、神の啓示にも等しい言葉だった。
彼女は踵を返し、一直線に図書室へと向かった。目指すはこれまで足を踏み入れたこともない、専門書の並ぶ最奥の書架である。
そこは一般の学生たちが談笑する閲覧スペースとは別世界の空気が流れていた。古紙とインクの匂いが濃密に漂い、静寂が支配する空間。
セシリアは背伸びをしながら、書架に並ぶ本の背表紙を追った。
『古代北方ドワーフ語における動詞活用と魔術詠唱の関係性について』
『中期エルフ語の音韻変遷が精霊魔術に与えた影響の考察』
『失われた竜言語の文法構造に関する一考察』
タイトルだけで眩暈がしそうな学術書の数々。その中から、最も入門書らしき『古代共通ルーン文字基礎文法』という一冊を抜き出し、震える手でページを開いた。
次の瞬間、セシリアは絶望の淵に突き落とされた。
そこに記されていたのはミミズが這ったような、あるいは鳥の足跡のような、不可解な記号の羅列。講義で習ったごく基本的な文字とは似ても似つかない複雑怪奇な文字が、彼女の理解力を嘲笑うかのように並んでいる。
──これが……これが、イサク様が日常的に触れている世界……!
講義で教わっていた内容が巨大な氷山のごくごく一角、それも海面に溶けかかった先端部分に過ぎなかったという事実を彼女は骨の髄まで思い知らされた。
あまりの衝撃にふらりとよろめき、書架に手をつく。
普通ならここで心が折れる。自分のいる世界とのあまりの隔絶に諦観の溜息をつくのが関の山だろう。
だが今のセシリアは普通ではなかった。
彼女は唇をぐっと噛み締めると、その本を力強く胸に抱きしめた。
──負けないわ
その瞳に宿るのは絶望の色ではない。むしろ、これから挑むべき巨大な山脈を見つけた登山家のような燃え盛る闘志の炎が燃えている。
セシリアはその本と関連する辞書を数冊借り出すと、足早に寄宿舎の自室へと戻った。
その日から彼女の孤独な戦いが始まった。
夜が更け、他の生徒たちが寝静まった後もセシリアの部屋のランプだけが煌々と灯り続ける。
分厚い辞書を片手に、ノートに謎の記号を書き写し、一つ一つの意味を調べていく。一つの単語を訳すのに一時間かかることもざらだった。
数日も経つと彼女の姿は見る影もなくなっていた。
いつもは綺麗に結われている栗色の髪は無造作に振り乱れ、目の下にはうっすらと、しかし確実に隈が刻まれている。時折、「うう……この格変化は何なの……」「なぜここで音位転換が起こるのよ!」などと、うわ言のような奇声が部屋から漏れ聞こえる始末。
その鬼気迫る姿は恋に悩む可憐な乙女というよりは、禁断の魔術に手を染めた狂気の研究者のそれに近かった。
しかし彼女の心は不思議な高揚感に満たされていた。
苦しい。難しい。だが、それ以上に、楽しい。
イサクの見ている世界をほんの少しでも覗き見ることができる。その事実が彼女にとって何よりの喜びだったのだ。
──待っていてください、イサク様
セシリアはインクで汚れた指先でページの隅をめくりながら、心の中で強く誓う。
──わたくし、必ずやあなたの隣に立って、対等に議論ができるほどの知性を身につけてみせますわ!
そのひたむきな情熱が彼女の心を焦がし続けていた。