◆
セシリア・クラインフェルトという娘は決して愚鈍ではなかった。むしろ、その知性は同年代の貴族子女たちと比較すれば、遥かに高い水準にある。帝国魔術学院の入学試験──血統や家柄だけでは決して突破できぬその狭き門を潜り抜けたという事実が何よりの証左だ。
彼女の思考は論理的であり、物事の法則性を見抜く洞察力にも優れている。古代ルーン文字のような複雑怪奇な言語体系であっても本来ならば時間をかけ、正しい手順を踏んで学んでいけば、必ずやその深淵に到達できたはずであった。
しかし彼女は待てなかった。
イサク・サザーランドという、あの底知れぬ知性の怪物。一日でも一時間でも早く、彼の隣に立ちたい。彼が見ている景色を、自分もこの目で見たい。その純粋で切実な願いが焦燥感という名の毒となって彼女の理性を蝕んでいったのである。
目的のためなら手段を選ばない。それは聞こえは良いが往々にして破滅への最短経路でもある。
セシリアが頼ったのは学院の購買で半ば公然と、しかし決して推奨はされずに取引されている「思考の妙薬」の類だった。
特に彼女が頻繁に服用したのは『賢者の目覚め』と呼ばれる劇薬である。琥珀色の液体を小瓶から呷れば、一時的に脳の回転速度を引き上げ、厄介な睡眠欲を霧散させる効果がある。本来は国家試験前の最後の追い込みや、緊急を要する高度な術式解析の際にのみ、ごく少量の使用が許可される代物だ。常用すれば心身を蝕むことは火を見るよりも明らかであった。
だが恋という名の熱病に浮かされた乙女に、そんな冷静な理屈は通用しない。
寄宿舎の自室。ランプの灯りが揺らめく深夜。他の生徒たちがとうに寝静まった後もセシリアは机に向かい続けていた。
薬を呷り、目の前の世界が鮮明になる感覚に酔いしれる。昨日から続く鈍い頭痛が消え去り、意識の隅々までが覚醒していく。これまで何度読んでも理解できなかった難解な記述がまるで子供向けの絵本のようにすらすらと頭に入ってくるのだ。
──これなら、いける。追いつける!
万能感に突き動かされ、彼女は文字通り寝食を忘れて机にかじりついた。食事は乾パンをかじる程度。時折、薬の効果が切れて凄まじい倦怠感と吐き気に襲われると、また新たな薬を呷る。そんな破滅的な生活が何日も続いた。
その結果が今の彼女の姿である。
鏡に映る顔は日を追うごとに青白く、頬はこけ、目の下の隈はもはや化粧では隠せないほどに濃くなっていた。友人たちが心配して声をかけても虚ろな目で「大丈夫よ」と繰り返すだけ。その痛々しい姿はもはや学問への情熱というよりは何かに取り憑かれた妄執の様相を呈している。
彼女は自らの行為を愛する人のための尊い自己犠牲だと信じて疑わなかったが、それは単なる無謀な暴走に過ぎない。若さゆえの根拠なき万能感が己の肉体的な限界を致命的に見誤らせていたのだ。
そして当然の帰結として、限界は唐突に訪れた。
◆
その日の午後の講義は上級魔術理論。広々とした階段教室には上級生を中心に百名近い学生が集まっていた。
担当教官はアガサ・メーベル。学院で三十年以上にわたり教鞭を執り、その厳格さと比類なき知識量で知られる老齢の魔術師である。
皺が深く刻まれた顔立ち、寸分の隙もない立ち居振る舞い、そして長年の研究生活で培われた確固たる自信と、硝子のように繊細で高いプライド。彼女はイサクが入学以来、密かに狙いを定めている獲物の一人でもある。まさにイサク好みの熟れきって芳醇な香りを放つ、極上の果実だ。もっともアガサ本人は自分がそんな歪んだ視線で見定められているとは夢にも思っていないだろうが。
セシリアは最前列の席に座り、アガサの一挙手一投足を見逃すまいと集中していた。黒板に描かれていくのは多重詠唱における魔力干渉の抑制に関する複雑な術式。
「……故に、第三階梯の補助術式を主たる詠唱に組み込む際には魔力の波長を意図的にずらす必要があります。これは共振による暴走を防ぐため。この僅かな差異が術の成否、ひいては術者の生死を分かつことになるのです」
アガサのしわがれた、しかし張りのある声がやけに遠くで響いているようにセシリアには感じられた。
視界がぐらり、と大きく揺れる。黒板に整然と並んでいたはずの魔術文字が滲み、二重三重になって像を結ばない。耳鳴りがひどい。まるで頭蓋の中で警鐘が乱打されているかのようだ。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。脂汗が額から滲み、背中を冷たく濡らしていく。
──だめ、ここで意識を失うわけには……
必死に意識を繋ぎ止めようと、太腿を強くつねる。だが魔法薬で無理やり酷使され続けた肉体はとうの昔に限界を超えていた。
アガサがセシリアの異変に気づき、訝しげに眉をひそめて彼女の方へ視線を向けた、その瞬間。
セシリアの体は操り糸がぷつりと切れた人形のように、音もなく椅子から滑り落ちた。床に倒れ込む彼女の体からは完全に力が抜けている。
教室に、蜂の巣をつついたような、どよめきが広がった。
「クラインフェルト嬢! どうしました!」
アガサが珍しく狼狽の色を浮かべ、教壇から駆け下りようとする。周囲の学生たちは突然の事態に何が起こったのか分からず、ただおろおろと立ち尽くすばかりだ。
その喧騒と混乱の中、ただ一人、全く動じない者がいた。
教室の後方、窓際の席で静かに講義を聞いていたイサク・サザーランドである。
彼は小さく、誰にも聞き取れないほどのため息をつくと、ゆっくりと腰を上げた。そのずんぐりとした、お世辞にも機敏とは言えない体躯がまるで氷上を滑るかのように静かに、しかし確かな足取りでセシリアの元へと向かう。
「どきたまえ」
イサクの静かだがよく通る声が響く。その声に含まれた有無を言わせぬ圧力に、人垣を作っていた学生たちはまるでモーセが海を割るかのように、思わず道を開けた。
イサクは床に倒れ伏すセシリアの傍らに膝をつくと、手早く彼女の脈と呼吸を確かめる。
「メーベル先生。彼女を医務室へ運びます」
「た、頼みます、サザーランド君。ですが君一人で? 誰か手を──」
「必要ありません」
アガサの言葉を遮るように言うと、イサクはセシリアの華奢な体にそっと右手をかざした。
短く、しかしこの上なく明瞭な発音で、古代語の呪文が紡がれる。
「浮揚(レヴィス)・緩衝(クッション)・固定(スタビリス)」
次の瞬間、セシリアの体がふわりと、まるで羽毛のように軽やかに宙に浮き上がった。床から六十センチほどの高さで、さながら透明な担架に乗せられているかのように、完璧に安定した状態で静止する。
そればかりか、一切のブレなくセシリアを移動させていくではないか。
その光景に教室中の誰もが息を呑んだ。
浮遊の魔術。それは魔術師を目指す者ならば、誰もが習得する初歩的な術式の一つである。
しかしイサクが今、こともなげに行ったそれは教科書に載っているような単純な「浮揚」とは根本的に次元が異なる。
物体をただ一点に留めて浮かせるだけならばさほど難しくはない。必要なのは対象の重量に見合った魔力を、一定量放出し続けることだけだ。
だがそれを安定させたまま「動かす」となると、話は全く別である。
なぜなら、それは単なる力の均衡ではなく、常に変化し続ける状況に対応した極めて精密な魔力の制御が要求されるからだ。
特に意識のない生身の人間を対象とする場合、その難易度は指数関数的に跳ね上がる。単に水平に移動させるだけでなく、対象の体勢を常に安定させ、移動に伴う急激な加減速が肉体に与える負荷を完全に防がなければならない。人体の重心は一定ではなく、わずかな振動でも姿勢が崩れやすい。さらに繊細な三半規管への影響を最小限に抑えるための高度な緩衝術式も必須となる。
それら複数の術式を同時に、かつ極めて精密に制御し続けるには膨大な魔力量はもとより、術者の鋼のような集中力と卓越した魔力操作技術が要求されるのだ。
それをこのまだ十八歳になったばかりの学生がわずか三節の短い詠唱で、完璧にやってのけたのである。
アガサ・メーベルはその一部始終を信じられないという思いで見つめていた。これほどまでに洗練され、完成された魔力制御を行う学生を見たのは初めてだった。いや、学生どころか、現役の魔術師を含めてもこれほどの使い手はそうはいない。
──なんという才能……わたくしがあの域に達したのは、三十代の半ば頃でしょう。これは単なる才能という言葉で片付けられるものではない。これは途方もない研鑽と、深い理論的理解の賜物……
彼女の厳格な表情に、研究者としての純粋な驚嘆と賞賛の色が浮かぶ。同時に、その才能が自分ではなく、この凡庸な容姿の少年に宿っているという事実にかすかな嫉妬にも似た感情を覚えるのだった。
周囲の学生たちも同様だった。これまでイサクのことを「成績だけは良いが陰気で芋臭い肥満児」程度にしか認識していなかった者たちがその圧倒的で、反論の余地のない実力を目の当たりにし、畏敬の念を込めて彼を見つめている。あの高慢なアルフォンス・ド・ロンドブルでさえ、サロンでの一件以来、イサクを激しく敵視していたが今この瞬間ばかりはその埋めがたい実力差を認めざるを得なかった。
イサクは自身に集まる無数の視線などまるで意に介していない。彼は宙に浮かぶセシリアに付き添うようにして、静かに教室の扉へと向かった。
「後のことはお任せしても?」
「え、ええ……くれぐれも慎重に」
アガサの、わずかに上擦った返事を聞き届けると、イサクは重厚な扉を開け、廊下へと出ていく。セシリアの体は彼の動きに完璧に追従し、まるで忠実な影のように滑らかに移動していく。その一連の流れるような動作には一切の無駄がなく、ある種の芸術的な美しささえ感じさせた。
──まったく、手のかかる
イサクは内心で小さく毒づく。彼にとって今回の出来事は貴重な時間を奪われた、予期せぬ面倒事に他ならない。しかもセシリアがここ最近相当無理をしていることは風の噂でイサクも聞き及んでいた。つまりセシリアが倒れたのは彼女自身の無計画な行動の結果であり、自業自得。同情の余地など微塵もない──イサクはそう冷徹に考えていた。
だが同時に、学問に対して倒れるほどまで取り組むガッツを称える気持ちもあった。イサク自身、伊作であったころには似たような真似を何度もしたことがある。
──青い果実にしては見上げた根性だ
その愚かしくもひたむきな情熱だけは評価に値するかもしれない。
イサクはそんなことを考えながら、秋の柔らかな陽光が差し込む長い廊下を静かに歩き続けた。そして、彼の背中に注がれる同級生たちの視線は以前とは明らかに質の異なる熱と畏怖を含んだものへと変化していた。