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医務室での一件以来、セシリア・クラインフェルトの胸に宿った恋という名の炎は鎮火するどころか、むしろ勢いを増して燃え盛っていた。もはやその熱量はさながら夏の終わりの野焼きである。
彼女のイサクに対するアプローチはこれまでとは明らかに質を異にするものへと変貌を遂げた。以前の、遠巻きに彼の知性を称えるような控えめな態度は影を潜め、その行動は驚くほど直接的かつ大胆になっていく。
その変化の裏にはどうやら彼女がどこからか入手した一冊の古びた恋愛指南書の影響が色濃くあったらしい。曰く、『男心を射めるための淑女の心得十七箇条』。その内容は推して知るべし。
曰く、第一条『偶然を装い、彼の身体に触れるべし』。
セシリアはこの教えを実に忠実に実行した。廊下ですれ違い様、絶妙なタイミングで足を縺れさせ、よろめくふりをしてイサクの逞しい──というよりは分厚い胸板に飛び込んでみたり、図書室で同じ書架に手を伸ばし、その指先を彼の骨太な指にそっと重ねてみたり。
「きゃっ、ごめんなさい、イサク様!」
「……足元にはお気をつけください、クラインフェルト嬢」
イサクの反応は常に変わらない。体温も表情も、まるで極北の氷河のようだ。彼女の小さな身体を受け止めるその動作に一切のよどみはないがそこに男女間のときめきといった類の感情は微塵も含まれていない。それは単に、目の前で倒れそうになっている物体を物理的に支えるという、極めて合理的な判断の結果に過ぎなかった。
無論、周囲の者たちの目には全く違う光景として映っている。
セシリアのあからさまな行動と、それに対するイサクの塩対応。そのちぐはぐなコントラストは学院の生徒たちの間で格好の噂の種となっていた。
「見たかい、昨日のセシリア様。またサザーランドの豚に抱きついていたぞ」
「伯爵令嬢ともあろう方があんな庶子に……嘆かわしいことだ」
嫉妬と侮蔑が入り混じった囁きがそこかしこで交わされる。しかし、中には好意的に見守る者もいないではなかった。
「でも、なんだか微笑ましいじゃないか。懸命なセシリア様と、それに全く動じない朴念仁。物語の登場人物みたいだ」
当のイサク本人はそんな周囲の喧騒などまるで意に介していない。彼はセシリアの行動パターンを、前世で培った言語学者の目で冷静に分析していた。
──『偶然』の多用。接触時間の極端な短さ。接触後の過剰な謝罪。なるほど、彼女の行動原理はあの手の三文小説に典型的な『純情な乙女』の類型か。実に非効率的だ。
恋は盲目とはよく言ったものである。セシリアの健気な努力はイサクにとっては観察と分析の対象でしかなく、その心には一ミリの漣すら立てることはなかった。
そんな奇妙な日常が続いていたある日の昼下がり。
イサクがいつものように図書室へと向かっていると、中庭に面した渡り廊下で、見慣れた人影が数人の取り巻きに囲まれているのが目に入った。
セシリアだ。そして、彼女と対峙しているのはアルフォンスの一件以来、何かとイサクに敵意を向けてくる公爵令嬢、ヴァリーラ・ド・オルレアンその人であった。
ヴァリーラは扇子で口元を隠しながらも、その瞳は明確な侮蔑の色を浮かべてセシリアを見下している。アルフォンスの時とは状況が違う。今回は女同士の、より陰湿で粘着質な空気がその場を支配していた。
──面倒事の匂いがする。
イサクは即座にそう判断し、関わり合いになる前にその場を通り過ぎようとした。しかし、運命の女神というのは時として悪趣味な悪戯を好むものである。
「あら、ちょうど良いところへ。少しお待ちあそばせ、サザーランド様」
甲高く、神経に障る声がイサクの背中に突き刺さった。
彼は内心で深くため息をつきながらも、ゆっくりと足を止め、振り返る。その顔には完璧な無表情が張り付いていた。
「何か御用でしょうか、オルレアン嬢」
「ええ、少し。伺いたいことがありましてよ」
ヴァリーラは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、イサクとセシリアを交互に見比べた。
「あなた、こちらのセシリアさんと、随分と仲が良いそうですわね」
「この学院で学ぶ者同士として、最低限の交流があるだけですよ。それ以上でも、それ以下でもありません」
イサクの返答はどこまでも事実に基づいた、簡潔なものだった。その言葉に、隣で俯いていたセシリアの肩がびくりと小さく震える。
「そう? でも、わたくしが先ほど、なぜアルフォンス様に恥をかかせてまで、彼のような冴えない庶子にこだわるのかと尋ねましたら、セシリアさんは随分とご立腹でしたけれど」
ヴァリーラの言葉は棘を含んだ蜜のようにねっとりとしている。
イサクはわずかに視線を動かし、セシリアの横顔を観察した。彼女は唇を固く結び、その瞳には悔しさと怒りの色が浮かんでいる。
「彼女なりの理由があるのでしょう。僕の知るところではありませんし、関心もありませんよ」
そう言って、イサクは今度こそその場を去ろうとヴァリーラに背を向けた。これ以上、この不毛な会話に付き合うつもりはなかった。
だがヴァリーラはそれを許さなかった。彼女はイサクの最も触れられたくない部分を的確に狙いすまし、最後の言葉の刃を投げつけたのだ。
「ええ、そうでしょうとも! 魔術の腕は一流でも、領地経営の一つもまともにできず、金に困って年増の未亡人を後妻に迎えるような甲斐性なしの父親を持つあなたには、高貴な者の矜持など、到底理解できないのでしょうね」
その言葉が放たれた瞬間。
渡り廊下の空気が変わった。
それまで秋の穏やかな陽光に満ちていた空間がまるで深海の底にでも突き落とされたかのように、ずしりと重く、冷たくなる。ヴァリーラの取り巻きたちが誰からともなく息を呑んだ。セシリアは本能的な恐怖に顔を青ざめさせている。
イサクはゆっくりと、本当にゆっくりと振り返った。
その顔に怒りの色はなかった。
それどころか、その口元には慈悲にも似た、静かな笑みさえ浮かんでいる。
「……なるほど」
イサクの声は氷の結晶が砕けるように、静かで硬質だった。
「オルレアン嬢。あなたのその言葉、実に興味深い。あなたの知性と品性、そして『オルレアン公爵家』というものがいかなるものかを実に雄弁に物語っている」
「な、なんですって……?」
「あなたは今、僕の父を侮辱することで自らの優位性を示したつもりでしょう。ですがその行為そのものがあなたの精神がどれほど貧しく、卑しいかを証明しているのですよ。他者の出自を貶めることでしか自らの価値を確認できない。それはまるで、物乞いが自分よりみすぼらしい者を見つけて安堵するのと何ら変わりはありませんな」
一歩、イサクがヴァリーラへと歩み寄る。その動きには一切の殺気はない。だがヴァリーラはまるで巨大な肉食獣に睨まれたかのように、後ずさった。
「あなたはその高価なドレスや宝飾品で外面を着飾ってはいらっしゃるが、その内側から滲み出る下劣な悪臭は隠しようがない。あなたのその浅薄な思考、根拠なき選民思想、そして何より、議論の体を成さない感情的な罵詈雑言。それら全てがあなたという人間の価値を雄弁に物語っている。あなたに流れる高貴な血とやらがさぞ嘆いていることでしょう」
「き、貴様……っ!」
「お黙りなさい。汚らわしい」
イサクの言葉は鞭のようにヴァリーラのプライドを打ち据えた。
「僕は今、あなたという存在を分析している。結論から言いましょう。あなたは『公爵令嬢』という記号を剥ぎ取れば、何も残らない。空っぽの器だ。知性も、品性も、他者への敬意もない。ただ、生まれ持った特権という名の鎧に寄りかかり、その内側で肥大した自尊心を守っているに過ぎない。あなたのような存在が帝国貴族の代表であるかのように振る舞うこと自体が国家に対する冒涜です」
それはもはや単なる言い争いではなかった。イサクによる、ヴァリーラという存在そのものに対する冷徹で、徹底的な価値の否定である。
「あなたとこうして言葉を交わしているだけで、僕の知性が汚染されるようだ。実に不愉快だ。……ああ、そうか。あなたは僕を不愉快にさせるために、わざとそのような愚かな猿芝居を演じていらっしゃるのですな? だとしたら大成功ですよ。心から軽蔑申し上げる」
イサクは心底つまらなそうに、そして憐れむように、そう言い放った。
ヴァリーラの顔は怒りと屈辱で真っ赤に染まり、わなわなと震えている。彼女の人生において、これほどの侮辱を受けたことは一度もなかった。論理で、言葉で、存在そのものをここまで完膚なきまでに否定された経験などあるはずもなかった。
彼女の脳裏で、何かがぷつりと切れる音がした。
「……っ、この、無礼者ぉおおおっ!」
金切り声と共に、ヴァリーラは自らの右手の白いレースの手袋を乱暴に引き抜き、それをイサクの顔めがけて、叩きつけるように投げつけた。
ぱさり、と。
レースの手袋は力なくイサクの足元に落ちた。
アルバラ帝国法において、手袋を投げつける行為は「決闘」の申し込みを意味する極めて重い儀式である。とはいえ、多くの決闘はどちらかが戦闘不能になるか降参の意思を示した時点で決着し、死者が出ることは稀だ。しかしその過程で相手の命を奪ったとしても、それは名誉ある戦いの結果と見なされ、勝者が法的な罪に問われることは決してない。つまりヴァリーラの行動は後戻りのできない、命のやり取りさえも許容される舞台の幕を開けたに等しかった。
渡り廊下の空気が完全に凍りつく。事の重大性を理解した取り巻きたちは恐怖に顔を引きつらせ、セシリアは血の気が引いていくのを感じた。
「おやめください、イサク様!」
沈黙を破ったのはセシリアの悲鳴にも似た声だった。彼女はイサクの腕にすがりつき、必死に訴えかける。
「ヴァリーラ様の挑発に乗ってはいけませんわ! 決闘なんて、あまりにも……!」
しかしイサクはそんな彼女の制止に耳を貸さなかった。
彼はゆっくりと屈むと、床に落ちたレースの手袋を汚らわしいものをつまむかのように指先で拾い上げた。そして立ち上がると、ヴァリーラに向かって静かに告げる。
「よろしいでしょう。そのくだらない挑戦、受けて差し上げます。あなたと、あなたの家門が誇るその『矜持』とやらがどれほどのものか。僕が直々に解体して差し上げましょう」
イサクはそこで言葉を切ると、ヴァリーラの目を真っ直ぐに見据え、慈悲深い医者が患者に語りかけるような穏やかな口調で続けた。
「オルレアン嬢。一つ、忠告を差し上げましょう。代理人を立ててもかまいません。あなたと僕では格が違う。しかし、代理人を立てるのであれば死んでも惜しくない者を立てることをお勧めしますよ。なに、万が一ということもありますからな」
「イサク様!」
セシリアが再び叫ぶ。その瞳には涙さえ浮かんでいた。
その必死の形相を認めると、イサクは初めて彼女の方へと向き直った。そしてそのぽっちゃりとした、しかし骨張った右手をゆっくりと持ち上げると、セシリアの冷えた頬にそっと触れた。
ひやりとした、それでいて生々しい熱を持つ感触。
セシリアの心臓が大きく跳ねた。
「心配してくださってありがとうございます、クラインフェルト嬢」
間近で響く、低く、穏やかな声。先ほどの殺意に満ちた男と同一人物とは思えない。
「しかし、あなたには僕を心配するのではなく、僕が仕方なく決闘を受けた今の状況をその目にしっかりと記憶してもらいたいのです」
イサクの親指が彼女の頬を優しく撫でる。その小さな愛撫に、セシリアの思考は完全に停止した。頭が真っ白になり、頬に触れる手の感触と、目の前のイサクの静かな瞳しか、もう彼女の世界には存在しない。
「……はい」
かろうじて、蚊の鳴くような声で頷くのがやっとだった。
満足げにイサクは彼女から手を離す。そして手にした手袋をヴァリーラに投げ返すでもなく、まるでハンカチでもしまうかのように、無造作に自らの懐へと収めた。
「代理人や形式についての詳細は後ほど使いをやりましょう。……それではごきげんよう」
一方的にそう告げると、イサクは呆然と立ち尽くすセシリアの肩を軽く抱き、図書室の方へと促していった。