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ヴァリーラ・ド・オルレアンとの決闘から数日が経過してもなお、帝国魔術学院の空気は微熱を帯びたままだった。水面に投げ込まれた小石が生んだ波紋は消えるどころかむしろ複雑に干渉し合い、より大きなうねりとなって学院全体を揺さぶっている。
話題の中心は常にイサク・サザーランド。あの不可解な敗北宣言の真意を巡って、学生たちの間では無数の憶測が飛び交っていた。
「やはりオルレアン公爵家からの圧力があったのだろう。サザーランド家も財政難だ。袖の下を掴まされたに違いない」
「いや、あれは彼なりの皮肉さ。圧倒的な実力差を見せつけた上で、あえて勝ちを譲る。ヴァリーラ様にとっては殺されるよりも屈辱的だろうよ」
あるいはもっと単純な見方をする者もいる。
「単に最後に魔力が尽きただけじゃないのか? 無詠唱魔術なんて、そうそう続けられるものじゃない」
好奇心と、ほんの少しの恐怖。それらが入り混じった視線が廊下を歩くイサクのずんぐりとした背中に絶えず注がれる。中には勇気があるのか、あるいは単に空気が読めないのか、直接彼に問い質そうとする者も現れた。
「サザーランド君。先日の決闘だがなぜ君はあそこで降参したんだ?」
問いかけに対し、イサクの反応は常に同じだった。彼は足を止め、相手の目をじっと見つめ返すと、感情の乗らない平坦な声で答える。
「僕が彼女より劣っていたからです」
それ以上でも、それ以下でもない。そのすげない態度は問いかけた者の自尊心を逆なでするか、あるいは底知れぬ不気味さを感じさせて黙らせるかの、どちらかの効果しかもたらさなかった。
いずれにせよ、この一件を経て、学院内におけるイサク・サザーランドという存在の認識は決定的に変化した。もはや彼を「成績だけは良いが陰気な肥満児」などと侮る者はいない。彼は今や、触れることすら躊躇われる得体の知れない怪物として認識されている。
だが当の本人はそんな周囲の喧騒などどこ吹く風。イサクは自らが定めた日課を淡々とこなし、マイペースに学院生活を謳歌していた。昼は講義と図書室での研鑽、そして夜は──まあ、彼なりの「ストレス解消」に勤しんでいる。その平穏な日常が乱されることなど、ありはしないはずだった。
そんなある日の午後。最後の講義を終え、いつものように図書室へ向かおうとしていたイサクの元に学院の事務員が息せき切って駆け寄ってきた。
「サザーランド君。メーベル副教授がお呼びです。至急、研究室へ来るようにとのこと」
アガサ・メーベル。学院の重鎮であり、イサクが密かに狙いを定めている極上の果実。
──ほう。向こうから接触してくるとは。
イサクは内心でわずかに口角を上げると、静かに頷いた。
「承知しました。すぐに向かいます」
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アガサ・メーベルの研究室は学院本棟の最上階、最も日当たりの良い一角に位置していた。重厚なオーク材の扉をノックすると、中からしわがれているが張りのある声が応じる。
「入りなさい」
部屋の中は外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。窓から差し込む秋の柔らかな光が床に敷かれたペルシャ絨毯の複雑な模様を浮かび上がらせている。壁一面を覆う書架には古今東西の魔術書が整然と並び、そのどれもが長年の使用感を漂わせていた。古紙とインク、そして上等な紅茶の香りが混じり合い、この部屋の主の厳格で知的な人柄を物語っているかのようだ。
部屋の中央、磨き上げられた執務机の向こうで、アガサは背筋を伸ばして座っていた。深く刻まれた皺、銀糸のような髪、そしてその奥で鋭く光る知性の瞳。彼女はイサクが入室したのを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。
「よく来てくれました、サザーランド君。まあ、そこに掛けなさい」
アガサは応接用のソファを示すと自らティーセットを手に取り、慣れた手つきで紅茶を淹れ始めた。カチャリ、と磁器が触れ合うかすかな音だけが二人の間の沈黙を埋めている。
イサクは勧められるままソファに腰を下ろし、その様子を冷静に観察していた。
やがて、湯気を立てるティーカップが目の前に置かれる。深く鮮やかな紅色。ベルガモットの爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「恐れ入ります」
イサクは完璧な貴族の作法でカップを手に取り、一口含む。悪くない味だ。
「さて」
アガサもまた、向かいのソファに腰を下ろすと、ゆっくりと口火を切った。
「突然呼び出して悪かったですね。他意はありません。ただ、少しばかり、君と話がしてみたかったのです」
「光栄です、メーベル先生。僕のような一学生に先生がどのようなご興味を?」
「謙遜はよろしい」
アガサはぴしゃりと言い放った。その声には長年教鞭を執ってきた者特有の厳しさが滲む。
「君の才能はもはや学生の域を遥かに超えている。先日の決闘での立ち回り……特にあの魔術の相殺と、無詠唱での重力操作。あれは並大抵の研鑽で到達できる境地ではありません」
アガサの瞳が探るようにイサクを射抜く。その視線には純粋な賞賛と共にかすかな嫉妬の色が浮かんでいた。
──この若さで、なぜ。わたくしが何十年もかけて築き上げてきた理論を、この青年はいともたやすく体現している。
その事実は老境に差し掛かった研究者としての彼女の自尊心を、ちくりと刺激する。それは醜い感情であり、教育者として恥ずべきことだ。アガサは自らの内に芽生えたその感情を自覚し、かすかな自己嫌悪を覚える。だが同時にその才能の根源を知りたいという、抑えがたい知的好奇心が彼女の心を捉えて離さない。
「わたくしが今日君を呼んだ理由は、あの決闘の場で君が口にした言葉について詳しく聞きたかったからです」
アガサはそこで言葉を切ると、記憶を辿るようにゆっくりとイサクの言葉を反芻した。
「『詠唱とは言葉です。そして言葉とは世界を定義し、固定するための記号に他ならない。我々魔術師は魔力という曖昧で流動的なエネルギーに言葉という名の楔を打ち込むことで、それを特定の現象として発現させている』……そう、言いましたね」
「はい。その通りです」
イサクは静かに頷いた。
「実に興味深い解釈です。ですがそれはアルバラ帝国の魔術界においては決して主流の考え方ではありません」
アガサの指摘は的を射ていた。この世界における魔術理論の主流は詠唱を「神々や精霊への祈り」あるいは「世界に働きかけるための鍵」として捉える、神秘主義的な側面が強い。魔力は世界に満ちる神聖な力であり、人間はその力を借り受ける存在である、と。
だがイサクの理論はそれを真っ向から否定する。彼は魔術を神秘のベールから引き剥がし、言語学という極めて論理的で構造的な視点から再定義しようとしているのだ。
「主流ではない、ということは異端である、と?」
イサクは挑発するでもなく、ただ純粋な問いとしてそれを口にした。
「いいえ。異端とは断じません。ただあまりにも即物的で、ロジカルに過ぎる」
アガサは紅茶を一口含むと、言葉を続けた。
「君の理論に従えば、魔術とは単なるエネルギーの変換効率の問題ということになります。そこに術者の精神性や、世界との調和といった要素が介在する余地はない。そうではありませんか?」
「その通りです」
イサクは迷いなく肯定した。
「精神論や神秘主義は物事の本質を覆い隠す霧のようなものです。僕はその霧を払い、魔術という現象の根底にある普遍的な法則性を解き明かしたい。それだけのことです」
その言葉にアガサは思わず息を呑んだ。あまりにも傲慢で、しかし、確信に満ちた言葉。それは若き日の自分が抱いていた、純粋な知への渇望を思い起こさせた。ちなみにイサクが言った事は嘘ではない。確かに欲深い男ではあるが、その欲望の矛先は何も女体のみに向かっているわけではないのだ。
「普遍的な法則性──」
「ええ。例えば、先日の『炎槍』の術式についてですが」
イサクはごく自然に議論の主導権を握った。彼はソファから身を乗り出すと、テーブルの上の空間に指先で複雑な魔術文字を描き始める。魔力が集束し、淡い光を放つ文字が宙に浮かび上がった。
「一般的にこの術式は火の精霊への呼びかけと、槍という形状の定義、そしてそれを射出するための指向性の付与、という三つの要素で構成されていると解釈されています。ですが言語学的な見地から分析すると、これは全く異なる構造が見えてくるのです」
イサクの指が流れるように動き、新たな文字が追加され、既存の文字が変形していく。
「この部分。精霊への呼びかけとされる音韻ですがこれは古代北方語においては『凝縮』を意味する動詞の派生形に過ぎません。そして、この形状定義とされる部分はむしろ『境界』を設定するための接尾辞として機能している。つまり、この術式は祈りなどではなく、『熱エネルギーを一点に凝縮し、その境界を槍の形に固定し、射出する』という、極めて物理的な現象を記述した命令文なのです」
立て板に水。イサクの口から紡がれるのは前世で培った言語学者としての膨大な知識と、この世界での魔術への深い洞察が融合した独自の理論体系である。
アガサはその解説に知らず知らずのうちに引き込まれていた。彼女の頭脳はイサクが提示する新たな解釈の妥当性を瞬時に検証し、その論理的な整合性に驚嘆する。
「……なるほど。その解釈は確かに筋が通っている。しかしそれならば、なぜ詠唱の際に感情を昂らせることで魔術の威力が増大するのか。その説明がつかない」
アガサは鋭く反論する。それは長年の経験則に基づいた重要な指摘だった。
「それも説明がつきます」
イサクはこともなげに応じた。
「感情の昂りは脳内の神経伝達物質の分泌を促進し、結果として魔力の放出量を一時的に増大させるブースターとして機能しているに過ぎません。ですがそれは同時に術式の精密な制御を阻害する要因にもなる。諸刃の剣です。先日の決闘でヴァリーラ嬢の魔術に無駄が多いと指摘したのはまさにその点です」
イサクはそこで言葉を切ると、アガサの目を真っ直ぐに見据えた。
「もし、感情の昂りに頼らずとも、常に最大量の魔力を完璧に制御することができたなら。魔術はより効率的で、より強力なものへと進化するでしょう。無詠唱魔術とはその進化の過程における一つの到達点に過ぎません」
その言葉はアガサの心に深く突き刺さった。それは彼女が長年研究し、しかし到達できなかった理想の魔術の姿そのものだったからだ。
──この青年は一体どこまで見えているというのか。
アガサは目の前の青年に言い知れぬ畏怖を覚えた。同時にその才能に対する嫉妬心が再び心の奥底で鎌首をもたげる。この若さで、これほどの知見と実力を持ち合わせている。その事実が自らの老いと限界を突きつけてくるようで、ひどく不愉快だった。