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領地に本格的な夏が訪れた。
むせ返るような緑の匂いと、うんざりするほど鳴き続けるセミの声が世界を満たす季節。
それは同時に、グレイルの息子であるイサクが長い学院の寄宿舎生活から解放される時期でもあった。
その日、グレイルは朝から妙に落ち着きがなかった。
書斎と玄関ホールを意味もなく往復し、窓の外を何度も確かめている。
偉大な魔術師の姿はそこになく、ただ息子の帰りを待ちわびる平凡な父親の顔があった。
人間という生き物はその社会的地位や能力に関わらず、特定の対象の前では驚くほど単純な貌を晒すものである。
エリナはそんな義父の様子を遠巻きに眺めていた。
彼女にとって、義兄であるイサクという存在は未知そのものだ。
グレイルがことあるごとに彼の話をするため、その人物像についてはある程度聞き及んでいる。
魔術の才に優れていること。
探求心が旺盛なこと。
そして、父親を深く敬愛していること。
それらの情報から導き出されるのは、イサクがこのサザーランド侯爵家において、次期当主として絶対的な地位を確立しているという事実だった。
だからこそエリナは不安だった。
──もし、義兄に嫌われてしまったら
ただでさえ針の筵であるこの家での立場が、さらに悪化するのではないか。
そんな憂鬱な想像が夏の高い空とは裏腹に、エリナの心に暗い影を落としていた。
昼下がり、一台の豪奢な馬車が屋敷の前に到着した。
グレイルが少年のような足取りで玄関ポーチを駆け下りていく。
馬車の扉が開き中から一人の青年が姿を現した。
ずんぐりとした、お世辞にも引き締まっているとは言えない体躯。
父親譲りの平凡な顔立ち。
それがエリナが初めて目にする義兄、イサク・サザーランドの姿だった。
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ドロテアはイサクの姿を一瞥した瞬間、目の奥に微かな嫌悪の色を宿した。
まるで出来の悪い豚か何かを見るような、そんな侮蔑の色。
しかしその感情はすぐに完璧な貴婦人の微笑みの下に隠された。
「まあ、あなたがイサクね」
猫なで声とは、まさにこのことだろう。
「お初にお目にかかります、お義母様。父がお世話になっております」
イサクは年に似合わぬ落ち着いた口調で応じた。
そしてグレイルに促されるまま、エリナの方へと視線を向ける。
エリナは心臓が跳ねるのを感じながら、精一杯の淑女の礼をとった。
「エリナです。よろしくお願いいたします、お義兄様」
「こちらこそ。ここへ滞在するのは夏の間だけですが、その間仲良くできればうれしく思います」
イサクの視線に、エリナは無関心の乾いた匂いを感じ取った。
だが少なくとも、初対面で嫌われたわけではなさそうだ──そう安堵するエリナだったが。
問題はその次だった。
イサクの視線はエリナを通り過ぎ、その背後に立つドロテアへと向けられた。
それはエリナに向けられたものとは全く質の異なる、奇妙な視線だった。
ねっとりとした、品定めをするような眼差し。
熟れきった果実の糖度を確かめるかのように、じっくりと、そして執拗に。
彼はドロテアの齢を重ねたからこその円熟した肢体や、手入れはされているものの隠しきれない首筋の皺、そしてその傲慢な性格を映し出すかのような強い光を宿した瞳を、まるで希少な美術品でも鑑定するかのように眺めていた。
ドロテアはその不躾な視線に気づき、眉をひそめる。
子供のくせになんと気色の悪い目をしていることか。
だがグレイルの手前、不快感を露わにすることもできず、ただ引きつった笑みを浮かべ続けるしかなかった。
その夜の食卓は、どこか奇妙な緊張感に包まれていた。
主役はもちろんイサクだ。
グレイルは上機嫌でワインを呷りながら、イサクに学院での様子を根掘り葉掘り尋ねている。
話題の中心は、当然ながら魔術のことだ。
「……父上。実は古代ルーンの解読学におきまして先日、ちょっとした発見があったのです」
イサクは、少し誇らしげに父に報告する。
「ほう、それは面白い。詳しく聞かせてみなさい」
父子の会話は熱を帯び、他の者が入り込む隙を与えない。
エリナはただ黙って料理を口に運んでいた。
そんな彼女の耳に、ふとイサクの声が届く。
「お義母様はお美しいですね」
それはあまりに唐突な言葉だった。
会話の流れとは全く関係のない、脈絡のない賛辞。
一瞬、食卓の空気が凍る。
「……まあ、お上手ですこと」
ドロテアは硬い笑顔で応じたが、その目は笑っていなかった。
「いえ、お世辞などではございません。その……年輪を重ねた者だけが持つ、深みのある美しさと言いますか。若い娘には到底出せない、芳醇な魅力に溢れていらっしゃる」
イサクはうっとりとした表情でドロテアを見つめながら言った。
グレイルはといえば、我が子が新しい母親に社交辞令を述べた程度にしか思っていないのか、「はっはっは、イサクも隅に置けないな」と笑っているだけだ。
だがエリナにはわかった。
義兄が母に向けている視線は単なる好奇心や儀礼的なものではない。
もっと別の、得体の知れない何かだと。