※この作品はR-18です。

侯爵家の影の支配者は熟女が大好き   作:埴輪庭

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アガサ・メーベル②

 ◆

 

 そうだ。不愉快なのだ。

 

 アガサ・メーベルは目の前の青年の、その底知れぬ知性の輝きを認めながらも、心の奥底で煮えたぎるような不快感を抑えきれずにいた。

 

 ──『魔術とは感情で制御するものではない。論理と、冷徹な計算によって構築されるべきものです』

 

 イサクの言葉は正しい。理論としては完璧だ。アガサにもそれはわかっている。この青年が提示する魔術の在り方は神秘主義という名の曖昧な霧を払い、術式そのものの構造を純粋に追求する、学究の徒としてあるべき姿そのものなのだろう。

 

 だがその揺るぎない正しさが、アガサの人生をこれまで積み上げてきた全てを足元から否定するように響くのだ。

 

 紅茶の香りがやけに鼻についた。いつもなら心を落ち着かせてくれるはずのベルガモットの香りが、今はひどく神経を逆なでする。カップを持つ指先に知らず知らずのうちに力が入っていた。

 

 目の前の青年、イサク・サザーランド。ずんぐりとした凡庸な容姿に宿る、規格外の才能。この若さでアガサが何十年もの歳月と血の滲むような努力の果てにようやく端緒を掴んだ領域を、まるで当然の権利のように闊歩している。

 

 嫉妬。そう、それは紛れもない嫉妬であった。教育者として、先達として恥ずべき感情であるとアガサは自覚している。だがこの感情は単に研究者としての矜持から生まれるものではなかった。もっと深く、暗い、アガサの半生そのものに根差した(おり)のような感情だった。

 

 イサクの傲慢なまでの自信。一切の迷いのない断定的な口調。それがかつてアガサの前に立ちはだかり、その可能性をことごとく摘み取ってきた()()の姿と、嫌になるほど重なって見えた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 思い出すのは帝国の片田舎にあった生家のことだ。しがない男爵家の三女。貴族の子女──聞こえは良くても、実態は持参金次第でどこへでも売られていく商品と大差ない。

 

 幼い頃からアガサは他の姉妹とは違っていた。アガサが興味を示したのはドレスや宝石ではなく、父の書斎に埃をかぶって並ぶ古びた魔術書。誰に教わるでもなくその難解な記述を読み解き、魔力という目に見えない力を操る術を独学で身につけていった。

 

 七歳の誕生日。父の前で詠唱もなしに掌から小さな火の玉を生み出してみせた時、父が浮かべたのは驚愕と、そして深い困惑の表情だった。

 

「……なんという才能だ。これがもし、男であったなら」

 

 その言葉がアガサの運命を決定づけたのだ。

 

 当時の帝国で魔術の才能は貴族の、それも「男」にとって最も重要な資質。女に求められるのは美貌と従順さ、そして優秀な子を産むための健康な肉体だけ。過ぎた力を持つ女は秩序を乱す不穏な要素として忌避される。アガサの才能は生家にとって誇りであると同時に、持て余す厄介な代物でしかなかった。

 

 学問を続けたいと、帝都の魔術学院へ進学したいと願った。だがその願いは父の言葉によって無残に打ち砕かれた。

 

「女が学院など前例がない。お前の力は嫁ぎ先で良き跡継ぎを産むために使え」

 

 代わりに与えられたのは花嫁修業という名の、退屈で無意味な日々の繰り返し。社交界では「女の慰み事」「男勝りの奇行」と嘲笑われ、陰口が容赦なくアガサの耳に届いた。

 

 ──『あそこの娘さんは火遊びがお好きだそうよ』

 

 ──『気味が悪いわね』

 

 アガサは唇を噛み締め、その全てを無視した。内に宿る才能だけが真実だと信じ、理不尽な世界への静かな怒りを募らせるしかなかった。

 

 そして十八歳の時、政略結婚という形で運命が動く。相手は格上の伯爵家の次男、アルドリック。魔術の才に恵まれず放蕩三昧の男。その縁談の裏にある思惑は当時のアガサにも明白だった。相手の家が欲したのはアガサ自身ではない。アガサが産むであろう子供に受け継がれる才能。アガサは優秀な種馬をあてがわれる繁殖用の牝馬に過ぎなかった。

 

 結婚生活はまさしく地獄だった。

 

 夫は自らが持たざる才能を持つ妻に、歪んだ劣等感と憎悪を抱いていた。夫はアガサの知性を認めず、人格を尊重せず、ただ血筋に箔をつけるための道具、欲望のはけ口、そして優秀な男児を産むための母胎としてしかアガサを見ていなかった。

 

「所詮は田舎貴族の娘が。身の程をわきまえろ」

 

 昼間は使用人たちの前で罵倒され、夜、寝室の扉が閉ざされると、夫は獣と化した。そこに愛情はなく、ただ一方的で暴力的な支配欲だけが存在した。アガサは天蓋付きのベッドの上で嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶしかなかった。髪を掴まれ、肌に爪を立てられ、痛みと屈辱に涙が滲んでも、夫のサディズムに満ちた行為は終わらない。

 

 だがアガサにとって最も耐え難かったのは精神的な屈辱だった。

 

「早く孕め。この役立たずが。お前の価値はそれしかないのだぞ」

 

 行為の最中に繰り返される罵声はアガサが一個の人間ではなく、単なる生殖の道具であるという事実を深く心に刻みつけた。この力さえなければと魔力を憎み、しかし同時に、夫に隠れて続ける魔術の研究だけが、この地獄を生き抜くための唯一の祈りだった。

 

 その祈りが天に届くことはなかった。

 

 結婚して五年、アガサの腹は膨らむことなく、夫の暴力は激しさを増した。そしてついに決定的な日が訪れる。

 

「もう我慢の限界だ。この石女め。さっさと出て行け」

 

 離縁。女にとっての死刑宣告。地位も名誉も、わずかな希望さえも失い、アガサは着の身着のままで追い出された。実家にも戻れず、帝都の片隅で死すら考えた。そんなアガサをこの世に繋ぎ止めたのは皮肉にも魔術への渇望だった。まだ何も成し遂げていない。このまま朽ち果てるわけにはいかない。

 

 アガサは全てを捨てた。女としての幸せも、貴族としての体面も。ただ一人の魔術師として生きると決意した。それから茨の道を歩み続け、六十を過ぎてようやく帝国魔術学院の副教授という地位を手に入れた。心の奥底に決して癒えることのない傷と、世界に対する根深い怒りと諦念を渦巻かせたままに。

 

 ◆

 

 ──『精神論や神秘主義は物事の本質を覆い隠す霧のようなものです』

 

 イサクの言葉が、過去の記憶からアガサを現在に引き戻す。

 

 その通りだ、とアガサも同感だった。だがその「霧」の中でしか息ができなかった人間もいるのだ。その「霧」に縋らなければ、理不尽な現実に押し潰されてしまう者も。

 

 イサク・サザーランド。イサクは強い。圧倒的に。そして「男」だ。侯爵家の嫡男という恵まれた立場にあり、才能を阻むものは何もない。アガサが味わったような屈辱も絶望も、知らずに生きてきたのだろう。だからこそイサクはあんなにも傲慢でいられる。あんなにも冷徹に、世界の理を語ることができる。イサクの正しさは弱者の痛みを顧みない、強者の断罪に他ならない。

 

 アガサはゆっくりと息を吐き出した。研究室の空気がやけに重く感じられる。

 

「……先生は不思議に思ったことはありませんか? 魔術師は呪文を唱え、印を結ぶ。すると、現実に奇跡が起きる。まるで生まれながらに話せる言語のように、誰もが魔術を使っている。なぜ()()なるのかを本当の意味で知っている人はいるのでしょうか」

 

 イサクの瞳の奥に熱のようなものが宿るのをアガサは見た。それは狂信者の熱ではなく、純粋な探求者の輝きだった。

 

「僕はそれが知りたいのです。人々が神秘や奇跡、あるいは精神の発露と呼ぶものの裏に隠された、絶対的な法則。精緻で、どこまでも美しい論理体系。……それはこの世界のOSそのものだと僕は考えています」

 

 OS。意味は分からない。しかしその無機質な響きに、アガサは心臓を掴まれたような心地がした。

 

「僕が知りたい法則──それは、誰かが作っているものでも、押し付けているものでもありません。最初からそこに在るものです。僕がしたいのはその世界の設計図を解き明かし、記述すること。信仰や経験則を再現可能な『理解』に置き換えること。ただ、それだけです」

 

 イサクの探求心の純粋さが、アガサには何よりも恐ろしかった。イサクの視界にはアガサがその半生で味わってきた苦悩や屈辱、そしてそれに抗うために拠り所としてきた祈りや精神の力さえ、解き明かされるべき「現象」の一つとしてしか映っていないのだろう。人の営みも、歴史も、その巨大な論理体系の前では些細なデータの一つに過ぎないのだろう。

 

 それはアガサにとって酷く冷たく感じる考えだが、同時に()()にも思える。イサクにとって男であるとか女であるとか、そういう事はどうでもいいことなのだろう。そんなイサクが見ている世界をアガサ自身も覗いてみたいと思った。その冷たくも美しい真理の世界で、アガサ・メーベルという人間の存在はどのように記述されるのだろうか──。

 

 その思考はアガサの口から自然と、次の問いを紡ぎ出させた。

 

「……その設計図を記述して、それで、どうするのですか」

 

 アガサはイサクを──この得体の知れない怪物を、どうにかして自分の理解できる範疇に引きずり下ろしたかった。これほどの力と知性を持ちながら、その先に何の目的も欲望もない人間などいるはずがない。アガサは心の内で、イサクの口から俗な答えが出てくるのを半ば願うように待っていた。富、あるいは歴史に名を刻むという陳腐な名誉欲。そのような言葉が出てくれば、目の前の天才もまたアガサが知る「男たち」と同じ、欲望に忠実な生き物でしかないと安心できる。

 

 それがどれほど醜い望みであるのか、アガサは痛いほどに自覚している。しかしそれでもなお、聞かずには居られなかった。

 

 イサクは少しの間沈黙した。その無表情の奥で何を考えているのか全く読み取れない。ややあってゆっくりと口を開き、答える。

 

「その知識を一体何に使うというのですか」

 

 その問いに、それまでよどみなく語っていたイサクが初めて虚を突かれたようにぽかん、と口を半開きにした。数度瞬きをし、アガサの顔を不思議そうに見つめる。まるで理解不能な言語を聞いたかのように。

 

「……それをアガサ先生が言うのですか?」

 

 問い返してきたイサクの声には先ほどの熱がすっと引き、純粋な驚きだけが乗っていた。

 

「僕は──いえ、僕らはなぜ学ぶのか。それは知りたいからです。ただ知ること、それ以外に僕らが学ぶ理由があるのでしょうか」

 

 イサクの言葉にアガサは虚を衝かれた想いがした。

 

 ──なぜ、学ぶのか。

 

 イサクの問いが、アガサの心に波紋を広げる。

 

 ──そうだ。わたくしはなぜ魔術の道を歩んできた? 

 

 ──いつからだろう。魔術が、何かを成すための「手段」になったのは。父を社会を夫を見返すための力として。この過酷な世界を生き抜くための鎧として。誰にも自分を侵害させないための、牙として。

 

 違う。始まりはそうではなかったはずだ。

 

 脳裏に蘇るのは遠い昔の光景。父の書斎に忍び込み、埃っぽい革装丁の本をこっそりと開いた。インクの匂い。指先でなぞった、見たこともない不可思議な文字の連なり。そこに記された世界の理が、ただただ面白くて、幼いアガサは夢中で読みふけった。

 

 初めて独学で術式を組み上げ、掌に小さな光が灯った時の心臓が跳ね上がるような歓喜。

 

 世界はこんなにも不思議な法則で満ちているのかという、純粋な驚きと喜び。

 

 ──そうだ。わたくしはただ……知りたかった。

 

 ただ、それだけだったのだ。

 

 イサクが口にしたのと同じ、たった一つの理由のためにこの道に足を踏み入れたのではなかったか。

 

 その原初の輝きをアガサはあまりにも長い間、忘れていた。

 

「僕が何を見ているか、見ようとしているか知りたいと思うのなら、先生の事も教えて欲しい──僕はそう思っています」

 

 そんな言葉でアガサはハッと我に帰ってイサクを見る。

 

 いやにギラついた目の光に、かつての「夫」を思い出したアガサは一瞬ぞわりとした感覚を覚えるがしかし。

 

 ──違う。

 

 アガサの夫、アルドリックの眼の光は泥沼のように濁っていた。才能を持つ女を己の所有物とし、その腹から自らの血を引く優れた駒を産ませようとする粘つくような独占欲の光。

 

 ──あの男は私を見ていなかった。でも

 

 アガサの魔術の才能を、その知性を見ていたわけでは決してない。ただ、優れた子を産むための『母胎』という価値だけを見ていた。その瞳はアガサという人間をどこまでも矮小化し、道具へと貶めるレンズであった。

 

 ──でも、彼は違う。

 

 イサクの瞳は驚くほどに透明だ。イサク・サザーランドはアガサを見ていない。アルドリックとは全く別の意味でアガサを見てはいない──そうアガサは感じた。

 

 イサクが見ているのはアガサという女でも、貴族でも、副教授という地位でもない。その全てを通り越し、その奥にある『魔術を探求する知性』、ただ一点だけを真っ直ぐに見据えている。それはまるで、遠い星を捉える天文学者の眼差しであり、人体の神秘を解き明かす外科医の眼差しだ。そこにあるのは支配欲ではなく、ただ純粋な知性への信頼であった。

 

 その事実に気づいた瞬間、アガサの心の奥底で何十年も凍りついていた何かが小さく軋む音を立てた。

 

「……私の、何を知りたいのですか?」

 

 アガサの言葉を聞いた時、イサクは()()()()と思ったものの、しかし。

 

 ──まだ、早いか。それに、彼女は聡明だ。論を交すのも悪くはない。

 

 やがてイサクは口を開いた。

 

「アガサ・メーベルという稀有な魔術師がどのように世界を認識し、術式という名の言語を紡ぎ出すのか。その思考のプロセス、経験によって培われた無意識の公理、そして感情の揺らぎが術式に与える僅かなノイズ。それら全てが僕の研究対象であり、知りたいことです」

 

 理路整然と語られる言葉はどこまでも学術的で、真摯でさえあった。イサクの知性がアガサ・メーベルという魔術師の業績と才能に深い敬意を払っていることは疑いようもない。同じ「学ぶ者」として、これ以上ない賛辞とも言える。

 

 だが、イサクの思考はそこで留まってはいなかった。

 

 ──この厳格なドレスの下にある肉体は、長年の研究と禁欲によってどのように変質しているのだろうか

 

 イサクの思考は、音もなくアガサの身体を撫でる。六十を過ぎた肌の張り、血の巡り。骨格を覆う筋肉の硬直度。その全てがアガサ・メーベルという術師を構成する重要なパラメータに他ならない。

 

 この知性的な唇に、無理やりこちらのそれを押し付けたなら、どのような抵抗を見せるのか。その首筋に歯を立てれば、その声は悲鳴になるのか、それとも喘ぎに変わるのか。痛みと快楽、屈辱と恍惚、その境界線はどこにあるのか。どのような愛撫が、あるいは凌辱が、この鉄の仮面を内側から破壊し、生の反応を引き出すのか──そんな悍ましい欲望の滾りを、イサクは鋼鉄の精神力で抑え込み、アガサに悟らせない。

 

 微笑むイサクの瞳に、アガサは己の全てが見透かされているような錯覚を覚えた。自分の知性をここまで真正面から評価されたことは、アガサの長い人生で一度もなかった。その事実はアガサの心の奥深く、凍てついていた氷壁に小さな、しかし確かな亀裂を入れるのに十分だった。

 

 ──彼は危険だ。

 

 アガサの本能が最大級の警報を鳴らしている。これ以上関われば、自分が自分でいられなくなってしまうような、そんな危惧。

 

 しかし同時に、イサクの瞳の危険な輝きから、アガサはどうしても目が逸らせなかった。

 

「……君は面白い人ですね、サザーランド君」

 

 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど穏やかに響いた。不快感の冷たい渦は依然として彼女の中で巻いている。だがその渦に仄かな熱が宿り始めていた。

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