◆
翌日、学院の講義を終えたイサクは帝都の東区画へと向かった。貴族が住まう中央区画の壮麗な石畳は次第に姿を消し、代わりに現れるのは実用本位で飾り気のない、しかし整然と区画整理された平民たちの居住区だ。
空気が変わる。貴族街の薔薇や香油の香りとは異なる、石鹸と煮込み料理、そして人々の営みが発酵したような、地に足の着いた生活の匂いが肺を満たす。
(昔を思い出す──)
その匂いは遠い前世の記憶──あの灰色の鹿児島で過ごした幼少期の閉塞感を思い起こさせる、忌まわしくも馴染み深い匂いであった。
指定された住所の前で馬車を降りる。マージの家は石造りのごくごく普通の住居だ。学院が職員に提供している住居であり、決して豪奢ではないが、清潔に保たれている。扉を開けるとカビや汚物の臭いではなく、薬草の苦い匂いがイサクの鼻を衝いた。
「こちらです、サザーランド様……」
マージの案内に従って進んでいく部屋の奥、簡素なベッドの上に一人の壮年の男が横たわっている。年の頃は三十を少し過ぎたあたりだろうか。騎士団に所属しているというだけあって、その体躯は本来、鍛え上げられていたはずだ。だが今は病によってその筋肉は削げ落ち、生命の灯火が今にも消え入りそうな頼りなさであった。呼吸は浅く、不規則で、顔色は土気色に沈んでいる。
「レオ……! しっかりおし、レオ!」
マージが駆け寄り、その骨張った手を握りしめる。男──レオは虚ろな目で母親を見上げたが、返事をする気力もないようだった。
イサクは静かにベッドの傍らに立つと、その光景を無感動な瞳で見下ろした。彼の目に映るのは死に瀕した哀れな騎士ではない。複雑なエラーによって機能を停止しつつある、一つの生命現象。ただそれだけだ。
「……診させていただきます」
そう告げると、イサクはレオの額にそっと右手をかざした。そして、目を閉じる。
彼の意識は深く、深く、男の体内へと沈潜していく。掌から放たれるのは極めて微弱で、しかし精密に制御された魔力。それは治療のための力ではない。情報を読み取るための、繊細なプローブである。
その行為は、闇の中へ投じた小石が立てる音の反響を聞き分ける作業に似ていた。イサクが放った魔力という小石はレオの体内という水面に波紋を広げ、その内壁にぶつかって返ってくる。健康な体であればその反響は規則正しく、澄んだ音色を奏でるはずだ。
だが今イサクの感覚に返ってくるのは不協和音にも似た乱れた反響。その歪みや濁りこそが、彼の生命という「文章」が崩壊している何よりの証拠だった。
そう、生命とは一つの言語体系なのであるとイサクは考えていた。肉体を構成する細胞の一つ一つが発する微弱な魔力の流れは、言葉の最小単位である「音韻」。それらが組み合わさり、器官として機能するのが「単語」。そしてそれらが連関し、生命活動という複雑な現象を織りなすのが「文法」だ。
イサクが今聞いている不協和音はその言語体系が根本から崩壊し、文法も単語も意味を失った文章の断末魔に他ならなかった。健康な肉体とは正しい文法で記述された、美しく論理的な文章のようなもの。だが今のレオの体は、その対極にある存在だった。
──これはひどい。
彼の生命言語は完全に破綻している。まるでデタラメな文字を書き連ねたかのように魔力の流れは乱れ、衝突し、特定の箇所で異常なまでに燃焼していた。特に肺と心臓周辺の記述が酷い。誤った文法構造が生命維持に必要なリソースを無意味に消費し尽くし、結果として強靭なはずの肉体を急速に衰弱させている。
これは単なる病ではない。もっと構造的な欠陥。例えるなら、根本的な設計ミスを抱えたまま稼働し続けるプログラム。あるいは──
「これは……呪い、に近い現象ですね」
イサクは目を開けると、静かに呟いた。
「え……? 呪い、ですって?」
マージが恐怖に顔を引きつらせる。「呪い」という言葉はこの世界において単なる迷信ではない。それは明確な悪意をもって他者の生命を脅かす、禁断の魔術体系の一つなのだ。
「断定はできませんが、その可能性が高い。彼の体内にある魔力の流れは自然発生的な疾病とは明らかにパターンが異なります。何者かが意図的にあるいは無意識的に彼の生命力を阻害するような『記述』を組み込んでいる」
イサクの分析は冷徹だ。だが問題はその原因を特定することの困難さにあった。レオの体に刻まれた「誤った記述」はあまりにも複雑で、巧妙に隠蔽されている。まるで何重にも暗号化されたテキストのようにその全容を解読することは容易ではない。
「そんな……誰が、一体誰がレオにこんな酷いことを……!」
マージは泣き崩れる。
「犯人探しは後です。今はこの誤った記述をどう修正するか、だ」
イサクは再びレオの体に手をかざした。今度は先ほどよりも強い魔力を流し込む。それは呪いの構造を解析し、その一部を強制的に停止させる試み。いわば、バグのあるコードに対する、強引なデバッグ作業である。
「がっ……! ぐ、ぅ……!」
瞬間、レオの体が弓なりに反り返り、激しい痙攣を起こした。鍛え上げられた筋肉が意思に反して収縮し、ベッドの枠が軋む。
「レオ! レオ! サザーランド様、一体何を!」
「……やはり、単純な介入は拒絶されるか」
イサクは冷静に魔力の供給を止めた。レオの痙攣は収まったが、その呼吸は先ほどよりもさらに弱々しくなっている。
失敗。誤ったプログラムを無理に修正しようとすれば、システム全体がクラッシュする。それと同じことが今、レオの体内で起こったのだ。複雑に絡み合った生命の糸を力任せに解こうとすれば、その糸は容易く断ち切れてしまう。
生命という言語は彼がこれまで扱ってきたどの言語体系よりも遥かに難解で、繊細だった。その事実はイサクの絶対的な自信にわずかな亀裂を入れる。
──万能感などというものは無知が生み出す幻想に過ぎない。
彼は自らの慢心を戒めるように小さく息を吐いた。
「……今はこれ以上の介入は危険です。情報を集める必要があります」
イサクはマージに向き直ると、淡々と告げた。
「彼の容態が急変する可能性は低いでしょう。ですが、時間もあまり残されてはいない。早急に手を打たねばなりません」
そう言い残し、イサクは踵を返した。
◆
学院に戻ったイサクが最初に向かったのは大図書館の最奥部だった。学院でもトップクラスの成績を修める者にしか開かれていない区画だ。そこには外に持ち出す事を禁じられている数々の書物が収められている。彼が求めたのは医学書や薬学書ではない。そんなものは対症療法の手引きに過ぎず、今の彼には何の役にも立たない。
彼が探しているのは生命そのものの原理に迫る書物。古代の呪術、生命倫理に抵触するような魔術理論、そして神官たちが秘匿する奇跡の構造に関する文献。それらの断片的な知識の中に、あの複雑怪奇な呪いを解読するための鍵が隠されているはずだった。
数日間にわたり、イサクは文字通り寝食を忘れて研究に没頭した。だが決定的な答えは得られない。既存の理論はどれも生命という現象を神秘のベールで覆い隠すばかりで、彼が求めるような構造的で論理的な解釈には程遠い。
──もっと、別の視点が必要だ。
焦燥感が募る中、イサクは一つの決断を下した。自らの殻に閉じこもっていてはこの難問は解けない。他者の知見、それも自分とは異なるアプローチで世界を認識している者の視点を取り入れる必要がある。
彼が最初に選んだのはアガサ・メーベルだった。あの厳格で、経験豊富な老魔術師。彼女ならば、何かヒントを持っているかもしれない。
イサクはアガサの研究室の扉を叩いた。
「失礼します、メーベル先生。先日の議論の続きをさせていただきたく」
アガサはイサクの姿を認めると、わずかに眉を上げた。その瞳にはこの若き天才に対する警戒と、抑えきれない知的好奇心が同居している。
「……よろしい。掛けなさい」
いつものように淹れられた紅茶の香りが部屋に満ちる。イサクはソファに腰を下ろすと、単刀直入に本題に入った。もちろん、レオのことはおくびにも出さない。あくまで抽象的な魔術理論として、彼は問いを投げかける。
「先生は以前、魔術における感情の昂りを『術式の精密な制御を阻害する要因』であると指摘されました。僕も同意見です。ですが、もしその感情の昂り──すなわち魔力の『揺らぎ』こそが、術式を安定させるために不可欠な要素であるとしたら、どうでしょうか」
それは彼自身の理論をあえて否定するかのような問いだった。
アガサは訝しげな表情を浮かべる。
「揺らぎが安定をもたらす? 矛盾していませんか、サザーランド君。精密な制御こそが魔術の基本であるはず。君もそう言っていたはずです」
「ええ、その通りです。ですが、それはあくまで無機物や単純な物理現象を対象とした場合の話です。例えば、生命活動のような、常に変化し続ける複雑な現象を制御しようとする場合、どうでしょうか」
イサクは言葉を選びながら、慎重に議論を進める。
「完璧に固定された術式は外部からの予期せぬ干渉に対して非常に脆い。まるで硬い氷が衝撃で砕け散るように。ですが、そこにわずかな『揺らぎ』、すなわち柔軟性を持たせることができれば、その術式はより強固なものとなるのではないか。僕はそう考えたのです」
アガサは黙ってイサクの言葉を聞いていた。その脳裏には自らが歩んできた長い研究生活の記憶が去来する。完璧を目指し、しかし常に何かが足りないと苦悩し続けた日々。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。その声には長年の経験に裏打ちされた重みがある。
「……君の言う『揺らぎ』とはつまり『遊び』のことですね」
「遊び、ですか」
「ええ。例えば、馬車の車輪。あれは完璧な円形ではありません。そして、車軸との接合部にもわずかな隙間がある。その『遊び』があるからこそ、馬車は様々な地形に対応し、衝撃を吸収することができるのです。もし全てが完璧に固定されていたら、馬車はあっという間に壊れてしまうでしょう」
アガサは紅茶を一口含むと、遠い目をして続けた。
「魔術も同じです。特に生命に関わるような高度な術式においては。術者の意図と、対象となる生命が持つ本来のリズム。その二つの波長が完全に一致することなどあり得ない。その差異を吸収し、調和させるための緩衝材。それこそが、君の言う『揺らぎ』の正体です。それはノイズではない。むしろ、生命を生命たらしめている、不可欠な柔軟性なのです」
その言葉はイサクの仮説を完璧に補強するものだった。彼の目に再び確信の光が宿る。
──そうか。欠けていたのはその視点か。
レオの体を蝕む呪いはその「遊び」を許さない。彼の生命活動を硬直させ、がんじがらめに縛り付けている。だからこそ、外部からの介入を拒絶し、自壊へと向かっているのだ。
「大変参考になりました、メーベル先生」
イサクは深く頭を下げた。その態度は真摯なものだったが、彼の思考はすでに次の段階へと移行している。
理論的な裏付けは得られた。だがそれを実践に移すにはまだ情報が足りない。
イサクは次に父であるグレイルに書簡を送った。遠回しな表現を使いながら、生命力の流れを制御する古代の術式や、失われた治癒魔術に関する文献の所在を尋ねる内容だ。サザーランド侯爵家には建国以来蓄積された膨大な蔵書がある。その中には一般には知られていない稀覯本や禁書も含まれているはずだった。
数日後、グレイルから返信が届いた。そこにはいくつかの文献のタイトルと共に彼なりのアドバイスが記されていた。
『生命の流れを制御しようとする試みは古来より数多くなされてきた。だがその多くは失敗に終わっている。なぜなら、生命とは常に流動的であり、固定されたものではないからだ。川の流れを無理に変えようとすれば、必ず氾濫が起こる。大切なのはその流れを理解し、自然な形で導くこと。そのためには術者自身の「認識」が重要となるだろう』
認識。父の言葉は抽象的だが本質を突いていた。アガサの言う「遊び」とも通じるものがある。固定化された論理ではなく、柔軟な認識こそが生命という複雑な現象を扱う鍵となる。
◆
理論は徐々に固まりつつあった。だがイサクはまだ満足していなかった。彼はより多角的な視点を求め、思わぬ人物たちからも情報を引き出そうと試みる。
ある日の午後、イサクは図書室の閲覧スペースで、セシリア・クラインフェルトの姿を見つけた。彼女は相変わらず分厚い専門書と格闘している。その姿は以前のような悲壮感はなく、むしろ知的な探求心に満ちているように見えた。
「ごきげんよう、クラインフェルト嬢。学習は順調ですか」
イサクが声をかけると、セシリアは弾かれたように顔を上げた。その頬が瞬時に林檎のように赤く染まる。
「イ、イサク様! ごきげんよう! ははい、おかげさまで……!」
そのあからさまな反応にイサクは内心で小さくため息をつく。セシリアの好意はイサクにも分かってはいるが、それを受け取るつもりは毛頭なかった。セシリアの人格や外見云々ではなく、単に年齢というストライクゾーンから外れているためである。だが今は少しでも他の視点が必要だった。
「少し、貴女の意見を聞かせていただきたい」
「わたくしの、意見、ですか?」
セシリアは目を丸くする。あのイサクが自分に意見を求めるなど、夢にも思わなかったのだろう。
「ええ。仮定の話です」
イサクはセシリアの隣に腰を下ろすと、目の前の羊皮紙にペンを走らせた。そこに記されたのは複雑で、しかし明らかに誤りのある古代語の文章。
「もし、この間違って書かれた文章を、正しい形に修正するとしたら、貴女ならどこから手をつけますか」
それはレオの体に刻まれた呪いを比喩的に表現した問いだった。
セシリアはその問いの真意など知る由もない。彼女は羊皮紙に記された文章を真剣な眼差しで読み解き始めた。その集中力は恋する乙女のものではなく、一人の学徒としてのそれだ。
「……これはひどい文章ですわね。文法も単語の使い方も、滅茶苦茶です」
ここ最近、イサクの歓心を買うために昼夜勉学に励む彼女は一目で文章の破綻を理解する。
「ええ。ですが、これを修正しなければならないとしたら?」
セシリアはしばらく考え込んだ後、ゆっくりと、しかし確信を持った口調で答えた。
「わたくしなら、まずはこの文章が本来、何を伝えようとしていたのか。その全体の『意図』を読み解こうと試みますわ」
「意図、ですか」
「はい。個々の単語の誤りや文法の乱れを一つ一つ修正していっても、全体の意味が通じなければ、それは正しい文章とは言えません。根底にある『意図』を理解して初めて、その文章はあるべき姿を取り戻すことができるのではないでしょうか」
その言葉が、イサクの脳裏に稲妻のように閃いた。
──全体の意図。あるべき姿。
そうだ。それが欠けていた視点だった。
イサクはこれまで、レオの体を蝕む呪いを「誤った記述」として捉え、それを論理的に修正することばかりに意識を向けていた。だがそれだけでは足りない。必要なのはレオという生命体が本来持っている「生きたい」という根源的な意志。その「意図」を術式に組み込み、彼の生命活動を正しい方向へと導くこと。
部分的な修正ではなく、全体最適化。生命というプログラムのリファクタリングである。
セシリアの何気ない一言が、イサクに決定的な示唆を与えた。
さらにイサクはもう一人の人物にも接触を試みた。ヴァリーラ・ド・オルレアンである。決闘以来、彼女はイサクを露骨に避けていたが、イサクは学院の廊下で彼女を待ち伏せ、半ば強引に話しかけた。
「オルレアン嬢。少しよろしいですか」
「……何の用ですの」
ヴァリーラは怯えと反抗心が入り混じった複雑な表情でイサクを睨みつける。
「貴女の家に高位の神官とのコネクションがあると伺いました。彼らの治癒魔術の理論について、少し知りたいことがあるのです」
イサクの要求はヴァリーラのプライドを逆なでするものだった。だが彼女はイサクに逆らうことができなかった。あの圧倒的な力の差と、執務室での屈辱が、彼女の心に深い恐怖を刻み込んでいたからだ。
「……わかりましたわ。ですが、これは貸しですわよ」
ヴァリーラは苦々しく言い放つと、数日後、神官たちが用いる祝詞や祈祷文の写しをイサクに渡した。
イサクはその文書を分析し、神官魔術の構造を解き明かしていく。彼らの用いる言葉は一見すると神への賛美や祈りに満ちているが、その本質は対象者の精神に強く働きかけ、その自己認識を変化させるための、極めて高度な心理操作技術だった。これもまた、言葉による「定義」の一種である。
全てのピースが揃った。アガサの経験則(遊びと揺らぎ)、グレイルの助言(認識と流れ)、セシリアの示唆(全体の意図)、そしてヴァリーラがもたらした神官魔術の理論(自己認識の操作)。それら全てが、イサクの中で一つの完成された術式として結実する。
◆
その夜、イサクは再び帝都の東区画にいた。
マージの家の中は絶望的な空気に支配されている。レオの容態はさらに悪化し、もはや意識を保つことすら困難な状態だ。
「サザーランド様……! どうか、どうかレオを……!」
マージが縋るような目でイサクを見上げる。
「始めます。何が起ころうとも、決して僕の邪魔をしないように」
イサクは短く命じると、ベッドの傍らに立った。
彼は両手をレオの体にかざすと、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
次の瞬間。
イサクの口から、この世界のどの言語とも異なる、奇妙な音の羅列が紡ぎ出された。
それは詠唱ではない。祈りでもない。
それは生命という現象を定義し、その在り方を書き換えるための記述。イサクが独自に構築した、根源的な言語だった。これは魔力の振舞い方を指定したもので、言ってしまえばアセンブラ言語に近しい性質を持つ。
そうして制御された魔力がレオの体内へと注ぎ込まれ、彼を蝕む呪いの構造に同化していく。アガサの理論に基づき、イサクは自らの術式にあえて「揺らぎ」を持たせた。レオの生命活動が持つ本来のリズムを尊重し、それに寄り添うように慎重に介入を進める。
そしてイサクはレオの深層心理へとアクセスした。これは例えるならば読心の魔術のそれに近い。読心の魔術は実際に何を考えているかが分かるといったものではなく、相手の特定の感情が肯定的なのか否定的なのか、その色合いを探る程度のものである。だがイサクが行使すればそれはもう少し高度な振舞いを見せる。
そうしてイサクはセシリアの示唆に従い、彼の生命の「意図」を探っていった。そこにあったのは生きたいという純粋な渇望と、母親への深い愛情。
イサクはその「意図」を核として、崩壊した生命言語を再構築し始めた。グレイルの助言に従い、魔力の流れを無理に変えるのではなく、自然な形で導いていく。
さらに神官魔術の理論を応用し、レオの自己認識に働きかける。彼が自分自身を「病んだ存在」として定義しているその誤った認識を、正しい「言葉」で上書きしていくのだ。これは一種の洗脳の手法でもある。
とはいえ、呪いの抵抗は凄まじい。
「ぐっ……うおおっ!」
レオの体が再び激しく痙攣し始めた。鍛えられた騎士の肉体が、見えない力にねじ伏せられようともがいている。体温が急上昇し、苦悶の表情を浮かべた。
「レオ! ああ、神よ……!」
マージが半狂乱になって叫ぶ。だがイサクは動じない。彼の集中力は極限まで高まり、その意識は完全にレオの体内世界と一体化していた。
今が臨界点。ここで制御を失えば、全てが終わる。
イサクはさらに深く、その意識を集中させた。呪いで暴れ狂う魔力を自身のそれで覆い、レオに触れさせない様にする。それによりイサクの魔力が呪いに侵されていくが、そのたびに新たな魔力を注ぎ込み、還流させる。
常軌を逸した精密な魔力制御と、呪いに触れても動じない強固な精神力がなければ成しえない業だ。
そうして一時間ほどが経ち──レオの痙攣がぴたりと止まった。異常な高熱は引き、その呼吸は深く、規則正しいものへと変わっていく。
静寂が訪れる。
イサクはゆっくりと目を開けると、大きく息を吐き出した。全身が倦怠感に包まれ、立っているのがやっとだった。イサクをして、これほどまでに魔力と集中力を消耗したのは初めての経験であった。
「……終わりました」
その声はかすれていた。
「彼の体内の魔力の流れは正常化しました。もう大丈夫でしょう」
マージは信じられないという面持ちで、ベッドに横たわる息子を見つめる。レオの頬には赤みが戻り、その寝顔は驚くほど穏やかだった。
「あ……ああ……!」
マージは床に崩れ落ちると、声を上げて泣き始めた。それは安堵と、感謝と、そして言葉にならない畏怖がないまぜになった、原始的な感情の爆発だった。
「ありがとうございます……! ありがとうございます、サザーランド様……!」
彼女は床に額を擦り付け、何度も何度も礼を言う。その姿はまるで、奇跡を目の当たりにした信者が神に祈りを捧げるかのようだ。
「目を覚ますのは早くても明日になるでしょうね、彼の体力も大分失われていますから。起きたら消化の良いものでも食べさせてあげてください」
「はいッ……はいッ……!」
イサクは淡々と告げた。だが彼は踵を返そうとはしなかった。ただ静かに床にひれ伏すマージを見下ろしている。
「ですが、貴女にはまだ支払うべき対価が残っています」
「……え?」
マージが顔を上げる。その涙に濡れた瞳には純粋な困惑が浮かんでいた。
「対価、と仰いますと……? ええと、お金……でしょうか……」
「金など必要ありません。僕が望むのは、貴女自身です」
「私、自身……? あ、それは……はい、勿論です。明日から──」
「明日から、ではなく、今、ここで」
イサクはマージに今ここで股を開け、といっているのだ。マージは蒼褪める。事ここに至っては、イサクと行為をすることには抵抗はない。しかしいまここでするというのはまた別の話だ。なにせ目の前には彼女の息子であるレオが眠っているのだから。
「……ですが、レオが、息子がすぐ隣で眠っていて……」
それは懇願とも最後の抵抗ともつかない、か細い声だった。せめて場所を変えたい。母親としての理性が彼女にそう懇願させる。
「だからこそ、です」
イサクはゆっくりとマージに近づくと、その震える肩を掴んだ。
「貴女は今この場で僕のものになるのです。息子への愛情と僕への屈従。その二つの間で引き裂かれる貴女の姿こそが、僕への最高の対価となる」
イサクは抵抗する間も与えず、マージを立たせると、彼女を壁に手をあてさせた。そして、まるで当然の権利を行使するかのように彼女の衣服を乱暴に捲し上げる。
「あっ……!」
すぐ横ではレオが穏やかな寝息を立てている。その事実はマージの羞恥心を極限まで煽った。
「ひ、ひィッ……! ど、どうか、どうかサザーランド様……ここでは、どうか、どうかここでは、お願いですからッ……!」
余りの羞恥でマージは涙すら浮かべるが、イサクは「駄目です」と聞き入れない。
そして──ずぶり、と。自らの昂りを彼女の最奥部へと突き入れた。
「ん゙っ……! あぁ、ぁあッ……!」
マージは歯を強く食いしばり、込み上げる声を必死に押し殺そうとした。愛撫もなにもない、乱暴な抽挿に苦悶の声が漏れる。しかしその痛みと苦しみもすぐに快楽の色を帯び始めてきた。
(ああ……レオ……ごめんなさい……!)
息子の前でこの様な事をしている事実に、マージは恥じ入る。自分はもうこの人には決して逆らえない、この先もずっと好きに犯されるのだ、という想いが彼女の心を支配している。だが不思議なことに、イサクへの憎しみや怒りといった負の感情は湧いてこなかった。
──この方は絶対者だ。
人知を超えた力を持ち、他者の生命を意のままに操る存在。そんな彼に支配され、犯されることへの恐怖が陶酔へと変わる。この絶対的な存在に“使われる”ことへの薄暗い悦びが、彼女の体の奥底から湧き上がり、その矛盾にマージは困惑するしかなかった。
もっと激しく犯されたい、凌辱されたい。自分の
「あ゙ッ……おぉ……さ、サザーランド様ぁ……」
只管激しいイサクの抽挿にマージは股間から蜜を垂れ流し、レオに対して心中で詫びながら喘ぎを押し殺そうとする。だがその努力は虚しく、部屋の中には卑猥な水音と彼女の甘い嬌声が響き渡る。
やがてイサクが低く唸り声を上げると、その熱い欲望がマージの体内に注ぎ込まれた。
「……はぁ……はぁ……」
行為が終わった後も、マージはしばらくの間、壁に凭れかかったまま動くことができなかった。全身が倦怠感と、満たされたような虚脱感に包まれている。
イサクは黙って衣服を整えると、何事もなかったかのように立ち上がった。
「これで契約は完了です」
イサクは感情の籠もらない声で告げた。
「貴女は今日から、完全に僕の所有物です。僕が求めればいつでもどこでもその身体を差し出しなさい。貴女に拒否権はありません」
「……はい、イサク様」
マージは虚ろな目で天井を見上げながら、掠れた声で答えた。
「よろしい。では僕は帰ります。レオの看病を怠らないように」
そう言い残し、イサクは部屋を後にした。