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アガサ・メーベルという人間を形成しているものはその大半が諦念と、そして燃え滓のような怒りでできていた。
六十年余りの歳月は彼女から多くのものを奪い去っていった。女としての幸福、貴族としての安寧、そしてかつて抱いていたはずの、世界に対する純粋な信頼。その代わりに彼女の内に堆積していったのは決して癒えることのない傷跡と、世界そのものに対する、深く、暗い不信感である。
イサクとの対話はアガサの心の奥底に沈殿していた澱を、否応なく掻き回した。
──『僕は知りたいのです。ただ知ること、それ以外に僕らが学ぶ理由があるのでしょうか』
その言葉は呪いのようにアガサの脳裏に反響し続ける。その純粋さが、その揺るぎない確信が、アガサがその半生をかけて築き上げてきた、脆く、しかし必要不可欠だったはずの鎧を内側から蝕んでいく。
そうだ、と彼女も思う。始まりはそうだったはずなのだ。
ただ、知りたかった。この世界を構成する精緻で、美しい法則の断片を、一つでも多くこの手で拾い集めたかった。それだけだったはずなのだ。
だが、世界はそれを許さなかった。アガサ・メーベルが女であるという、ただそれだけの理由で。
彼女の研究室は彼女自身の精神世界を具現化したかのような城塞だった。窓は常に固く閉ざされ、外界の喧騒を遮断している。壁一面を埋め尽くす書架は知識の鎧であり、同時に、他者を拒絶する防壁でもあった。部屋に満ちる古紙とインクの匂いは彼女が孤独の中で積み上げてきた、闘争の歴史の匂いだ。
その城塞の中心で、アガサは一つの論文と格闘していた。
テーマは「古代魔術における『揺らぎ』の機能的役割について」。それはイサクとの対話の中で得た着想を、彼女自身の長年の研究成果と融合させた、集大成ともいえる論文だった。
この論文を、帝国で最も権威あるとされる学術雑誌『魔術と論理』に掲載させること。それが、アガサが自らに課した、目下の目標である。それは単なる名誉欲からではない。彼女にとって、それは世界に対する復讐であり、自らの存在を証明するための、最後の闘争だった。
『魔術と論理』。その編集委員会は帝国魔術界の権威主義と男性中心社会を体現したかのような、老獪な男たちによって牛耳られている。彼らは女が魔術の深淵に触れることを、本能的に嫌悪している。アガサがこれまで提出してきた数々の論文はそのどれもが、些細な瑕疵をあげつらわれ、あるいは「独創性に欠ける」という曖昧な理由で、掲載を拒否され続けてきた。
「メーベル君。君の研究は確かに興味深い。だが、いささか繊細過ぎる。女性的に過ぎるというべきか。もっと大局的な視点が必要だ」
査読の席で、編集委員長であるバルザック公爵はそう言ってにやにやと笑った。その目に宿るのはアガサの知性に対する敬意ではなく、女という性に対する、根深い侮蔑の色。
──女性的、だと?
アガサは奥歯を強く噛み締める。彼らの言う「男性的」な視点とは結局のところ、既存の権威をなぞり、その枠の中で安穏とすることに他ならない。彼女のような既存の理論に疑問を呈し、新たな地平を切り開こうとする者は秩序を乱す異端として排除されるのだ。
学院の上層部も全員とは言わないが、彼女を煙たい存在として扱っている者が多い。伝統と格式を重んじる彼らにとって、アガサのような権威に媚びない、孤高の研究者は組織の和を乱す厄介者でしかない。
アガサ自身もそのことを痛いほどに理解していた。四面楚歌。それが、彼女の置かれた現状だ。だが、彼女は決して屈しなかった。
アガサ・メーベルの精神は鋼鉄でできている。
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さて、肝心の研究だが、今回の論文には手応えがあった。イサクとの対話によってもたらされた新たな視点は彼女の理論にこれまで欠けていた決定的なピースを嵌めてくれた。
──完璧だ。
アガサはそう思う
執筆は順調に進み、提出期限まであと一週間と迫っていた。厚さにして指二本分ほどの草稿の束は彼女の血と汗の結晶だ。あとは最終的な推敲と、引用文献の確認を残すのみ。
そして翌朝。アガサはいつものように研究室の扉を開け、そして凍りついた。
机の上があまりにも整然としていたのだ。
昨夜、あれほど乱雑に広げられていたはずの草稿の束が、どこにも見当たらない。
「……まさか」
血の気が、すっと引いていく。慌てて机の引き出し、書架の隙間、考えうる全ての場所を探し回った。だが、ない。どこにもない。まるで、初めからそこになかったかのように、綺麗さっぱりと消え失せていた。
部屋に、荒い息遣いだけが響く。窓は施錠されている。扉も、昨夜、自らが鍵をかけたはずだ。外部から侵入された形跡はない。
──ではなぜ。
思考が麻痺する。提出期限は明日。今から全てを書き直すことなど、物理的に不可能だ。
──盗まれた。
そこに考えが到ると、アガサは力なく椅子に崩れ落ちた。全身の力が抜け、指一本動かせない。視界が、ぐらりと歪む。
何十年もかけて築き上げてきたものが、音を立てて崩れていく。そんな絶望的な感覚が、彼女の全身を支配した。
結局、論文は提出できなかった。
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数週間が過ぎ、季節は冬の気配を色濃くしていた。アガサはあの日以来、抜け殻のようになって日々を過ごしていた。講義はこなすが、そこに以前のような熱はない。研究室に籠もってもペンを取る気力すら湧いてこなかった。
そんなある日のことだった。
学院のラウンジで、同僚の教授たちが何やら興奮した様子で一冊の雑誌を囲んでいるのが目に入った。それは最新号の『魔術と論理』。
アガサは吸い寄せられるように、その輪に近づいた。
「いや、見事なものだ。まさか、彼がこれほどの論文を書き上げるとは」
「ああ。魔術における『揺らぎ』の重要性か。全く新しい視点だ。これで、彼の次期学院長就任は確実だろうな」
その会話が、アガサの耳に突き刺さった。
彼女は同僚の手から、半ばひったくるようにして雑誌を受け取った。そしてそのページを開き──息を呑んだ。
そこに掲載されていたのは一人の男の論文。
タイトルは『魔術行使における不確定要素、すなわち"揺らぎ"の構造的必然性について』。
著者の名はルドルフ・フォン・ベルンシュタイン。アガサの同僚であり、そして長年にわたって彼女の研究を妨害し続けてきた、宿敵ともいえる男。
アガサは震える手で、その論文を読み進めた。一語一句、読み進めるたびに、心臓が氷の手に掴まれたかのように冷えていく。
そこに記されていたのは彼女が失ったはずの、彼女自身の理論だった。
細かな表現こそ変えられているが、その論理の骨格、結論に至るまでの道筋、そして何より、その根底に流れる思想──それはアガサが血を吐くような思いで紡ぎ出した、彼女自身の言葉に他ならなかった。