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まるで魂を素手で掴まれ、氷の床に叩きつけられるような感覚だった。
アガサ・メーベルは学院ラウンジの喧騒の中でただ一人、時が止まったかのように立ち尽くしていた。否、止まったのは時間だけではない。の呼吸が、血流が、そして思考そのものが全て凍結したかのようだった。
手の中にあるのは帝国で最も権威ある学術雑誌『魔術と論理』の最新号──その巻頭を飾る論文のタイトルが、まるで呪詛のように彼女の網膜に焼き付いて離れない。
『魔術行使における不確定要素、すなわち"揺らぎ"の構造的必然性について』
著者はルドルフ・フォン・ベルンシュタイン。学院の同僚であり、そして長年にわたり、アガサの存在を学術の世界から排除しようと画策してきた男。
馬鹿な。そんなはずはない。
震える指先でページをめくる。一語一句、その内容を追うたびに全身から血の気が引いていくのがわかった。
──これはわたくしの理論だ。
そこに記されていたのは紛れもなく彼女自身の血と汗の結晶だった。細かな表現こそ巧妙に変えられているが、その論理の骨格、結論に至るまでの緻密な道筋、そして何より、その根底に流れる思想。イサクとの対話の中で得た着想を元に彼女が心血を注いで構築した、あの失われたはずの草稿の内容そのものだったのである。
盗まれた。奪われた。またしても。
彼女の人生は常に簒奪の連続であった。女であるという理由だけで奪われた学問の機会。夫という名の他人に奪われた尊厳と自由。そして今、研究者としての集大成であるはずの理論までもが、いともたやすく奪い去られた。
あの夜、研究室から忽然と消え失せた草稿の束。施錠されたはずの扉。外部からの侵入の形跡がないという不可解な状況。その全ての点と点が、今、一つの醜悪な線となって結ばれたのだ。
ふつふつと、心の奥底から暗い感情が湧き上がってくる。それは怒りというよりも、もっと冷たく、粘着質な憎悪に近い。
アガサは雑誌を掴むと、よろめくようにラウンジを後にした。そしてまるで何かに引き寄せられるかのように一直線にルドルフの研究室へと向かっていく。
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ルドルフの研究室は彼の内面をそのまま映し出したかのような、虚飾と傲慢に満ちた空間だった。壁には高価な絵画が飾られ、空気中には上等な葉巻の匂いが漂っている。そのどれもが彼の研究者としての実力ではなく、血筋と政治力がもたらした富の象徴に他ならない。
アガサはノックもせず、乱暴に扉を開け放った。
「ベルンシュタイン教授。お話があります」
部屋の主は上等な革張りの椅子に深く身を沈め、満足げな表情で葉巻を燻らせていた。彼はアガサの突然の来訪にも驚く様子はなく、ゆっくりと顔を上げると、その薄い唇に嘲るような笑みを浮かべた。彼は全てを予期していたのだ。
「これはこれはメーベル先生。随分と鬼気迫る表情だが何か?」
アガサは無言で手にしていた雑誌を彼の机の上に叩きつけた。
「これはいったい、どういうことですか!」
「どういうこと、とは? ああ、私の論文のことですかな。いや、お恥ずかしい。長年の研究がようやく実を結びましてな」
「とぼけないでください! これはわたくしの理論です! 貴方が、わたくしの研究室から草稿を盗み出したのではありませんか!」
アガサの糾弾は怒りに震えていた。だがルドルフは動じない。ただ困ったような、そしてどこか憐れむような表情を浮かべるだけだ。
「盗んだ? 人聞きの悪い。これは私のオリジナルな研究成果だ。君も『揺らぎ』について研究していたことは知っているが、学問の世界ではよくあることだ。たまたま、同じ時期に同じ結論に達した。それだけのことだろう」
「偶然、ですって? この論理構成、この結論に至るまでの道筋。全てが、わたくしの草稿と一致しているのですよ!」
「ほう。それは君の思い込みというものだ」
ルドルフは冷ややかに笑うと、ゆっくりと立ち上がり、アガサに顔を近づけた。その瞳には爬虫類のような冷たい光が宿っている。
「証拠はあるのですかな?」
その言葉が、アガサの心臓を貫いた。
「私が貴女の研究室に侵入し、その草稿とやらを盗み出したという、客観的な証拠です。まさか、理論が似ているという、ただそれだけの理由で私を糾弾しているわけではありますまい」
確かに彼が侵入したという物理的な証拠はない。あの夜、研究室は完璧な密室だった。
「それに」と、ルドルフは言葉を続けた。その声は蛇のようにねっとりと、アガサの耳に絡みつく。
「メーベル君。君は少し、ヒステリックになっているのではないかね。長年の研究が実を結ばず、焦っているのだろう。その気持ちはわからなくもないが、他人の功績を妬み、根拠のない誹謗中傷を繰り返すのは見苦しいだけだぞ」
ヒステリック。妬み。それは彼ら男たちが、自分たちに都合の悪い女を黙らせるために使い古してきた常套句だ。
「……あなたは最低です」
アガサは歯を食いしばり、ルドルフを睨みつけた。これ以上、この男と議論を続けても無駄だ。彼は自らの罪を認めるつもりなど、毛頭ない。
アガサは踵を返し、研究室を後にした。背後でルドルフの高笑いが響き渡る。その声は彼女の敗北を告げる鐘の音のようにいつまでも耳の奥にこびりついて離れなかった。
◆
次に向かったのは学院長の執務室だった。一縷の望みを託し、アガサはこの不正を組織のトップに直訴することにした。それがどれほど無謀な試みであるか彼女自身痛いほどに理解していたが、それでもなお、黙って引き下がるわけにはいかなかった。
だがその期待もまた、無残に裏切られることになる。
学院長、アルバス・グレイブスはアガサの話を終始、苦虫を噛み潰したような表情で聞いていた。その顔に浮かんでいるのは同情でも怒りでもなく、厄介事を持ち込まれたことに対する、あからさまな迷惑の色だった。
「……つまり、君はベルンシュタイン先生が君の研究を盗用したと、そう言いたいのかね」
グレイブスの声は低く、抑揚がなかった。
「はい。間違いありません。状況から見て明らかなのです!」
「感情的になってはいけない、メーベル先生」
グレイブスはぴしゃりと言い放った。
「我々は学者だ。物事は常に客観的な事実に基づいて判断しなければならない。君の主張は単なる憶測の域を出ていない。証拠となる草稿もないのだろう?」
「しかし……!」
「それにだ」
グレイブスはアガサの言葉を遮るように語気を強めた。
「ベルンシュタイン先生は本学院の次期学院長候補と目されている重要な人物だ。彼の名誉に傷をつけるようなことがあれば、学院全体の信用に関わる問題となる。そのことを君は理解しているのかね」
その言葉にアガサは愕然とした。結局、彼が守ろうとしているのは真実でも正義でもなく、学院の体面と、自らの地位だけなのだ。この組織は根底から腐りきっている。
「君は少し疲れているのだよ」
グレイブスは諭すような口調で続けた。その言葉の裏には冷たい軽蔑が透けて見える。
「ベルンシュタイン教授の才能に嫉妬し、彼が自分の研究を盗んだという妄想に取り憑かれているのではないかね」
嫉妬。妄想。またしても、その言葉。
「他人の足を引っ張る暇があるのなら、自らの研究に専念したまえ。君がもっと早く論文を完成させていれば、このような事態にはならなかったはずだろう。違うかね?」
それはあまりにも理不尽な叱責だった。被害者であるはずの自分が、なぜ加害者であるかのように責められなければならないのか。
「君には失望したよ。下がりたまえ」
それは最後通告だった。組織の論理の前に個人の正義など無力だという、冷徹な現実。
アガサはもはや反論する気力も失せていた。彼女はただ、そこに立ち尽くし、目の前で突きつけられた現実に呆然とするしかなかった。
◆
研究室に戻ったアガサは力なく椅子に座り込んだ。窓の外はすでに夕闇に包まれている。部屋の中は彼女の心を映し出すかのように暗く、冷え切っていた。
絶望。その一言では言い表せないほどの、深く、暗い感情が、彼女の全身を支配している
──何のためにこれまで生きてきたのだろう。
女としての幸せを捨て、貴族としての体面も捨て、ただひたすらに魔術の真理を追い求めてきた。その結果が、これか。
才能を妬まれ、功績を奪われ、そして最後には狂人として扱われる。これが、この世界の現実なのか。
──『ただ知ること、それ以外に僕らが学ぶ理由があるのでしょうか』
イサク・サザーランドの言葉が、脳裏に蘇る。
あの時、彼女は一瞬、救われたような気がしたのだ。自らが忘れかけていた学問への原初の情熱を彼が思い出させてくれた。
だがそれもまた、幻想に過ぎなかった。
イサクのような恵まれた才能と立場を持つ者だからこそ、そんな綺麗事を口にできるのだ。
──彼にはわからないでしょうね。持たざる者が、この世界で何かを成し遂げることが、どれほど困難であるかなんて。
アガサは大きくため息をついた。身も心も疲れ果てていた。もう、闘う気力も残っていない。 アガサはゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に広がるのは深い、深い闇。その闇の中に身を委ねてしまえば、どれほど楽だろうか。絶望の淵で彼女はただ、静かに時が過ぎるのを待つしかなかった。
◆
数日が経った。アガサは抜け殻のようになって日々を過ごしていた。講義には出るが、その声には覇気がなく、研究室に籠もってもただぼんやりと宙を見つめているだけだった。
そんなアガサ・メーベルの異変にイサクが気付かないはずがない。イサクはアガサを
だからすぐに学院内に張り巡らせた情報網──マージのような清掃婦や、弱みを握った事務員たちを使い、事の顛末を知った。
ルドルフ・フォン・ベルンシュタインによる論文盗用。そして、学院によるその黙認。
──なるほど。愚かしいことだ。
端的に言えば、イサクは怒った。それはイサクとしての怒りではなく、虻川伊作としての怒りである。イサクが正義の人というわけではない。むしろ悪だ。あらゆる圧をかけることを厭わず、“ターゲット”を凌辱して悪びれないのだから。
だがかつては自身──虻川伊作もまた、ポスドクという不安定な身分であった頃、その理不尽さを骨の髄まで味わってきた。自らが徹夜でまとめたデータを、指導教官がさも自分の手柄のように学会で発表する。画期的なアイデアを口にすれば、次の週には先輩の研究テーマとして横取りされている。共同研究の末に論文が完成しても、自分の名前は謝辞の片隅に小さく記されるだけ。
そんな経験が彼の心に深い傷と、権力構造そのものへの冷たい憎悪を刻み込んでいた。
故にイサクは怒っていた。
それは正義感などという綺麗な感情ではない。アガサ・メーベルという女に同情したわけでもない。ただ、不愉快なのだ。自らの知性を磨く努力を怠り、他人の功績を盗むことでしか自己を顕示できないルドルフのような寄生虫の存在が。そして、その不正を見て見ぬふりをする腐りきった組織の在り方が。
イサクはアガサの研究室へと向かった。本棟の最上階。その扉は固く閉ざされていた。
ノックをする。返事はない。だが、中から微かな魔力の流れが感じられる。彼女は中にいる。
「……誰です」
中から聞こえてきたのはしわがれた、力のない声。
「イサク・サザーランドです。メーベル先生、少しお話があります」
「……帰りなさい。わたくしは今、誰とも話したくありません」
その声は明らかな拒絶の色を帯びていた。だが、イサクは動じない。彼は扉に手をかざすと、短く「解錠(アペリオ)」と唱えた。
カチリ、と。内側から音がする。イサクはゆっくりと扉を開けた。
◆
部屋の中は暗かった。アガサはといえば椅子に座り込み、机に突っ伏している。
「……勝手に入らないでください」
アガサは顔を上げることなく、掠れた声で言った。その声には怒りよりも、深い疲労と諦念が滲んでいる。
「失礼します」
イサクは悪びれる様子もなく、部屋の中へと足を踏み入れた。そして、壁のランプに魔術で火を灯す。
突然の光にアガサは眩しそうに目を細めた。その顔は驚くほど憔悴していた。目の下には深い隈が刻まれ、その肌は血の気を失っている。かつての威厳は消え失せ、そこにはただ、打ちひしがれた老女の姿があった。
「……何の用です。わたくしを嘲笑いに来たのですか」
アガサは力なく笑いながら言う。
「君のような、恵まれた才能を持つ若者にはわからないでしょうね。持たざる者がこの世界で何かを成し遂げることが、どれほど困難であるか」
その言葉はイサクに対する、そして自分自身に対する痛烈な皮肉だった。
だがイサクは彼女の言葉を否定しなかった。
「ええ、僕にはわかりません」
その声はいつもと変わらず平坦だった。
「ですが、僕は知っています。貴女がどれほどの努力を積み重ねてきたか」
イサクは部屋の中を見回した。壁一面を埋め尽くす書架。机の上に積まれた研究資料。その全てが、彼女の研鑽の歴史を物語っている。
「貴女の研究は常に独創的で、示唆に富んでいる。その知見の深さ、論理の緻密さ。それは僕がこれまで見てきたどの魔術師よりも、遥かに優れている──まあ、父上を除いて、ですが」
イサクは口の端の笑みを浮かべながら言う。
「僕は貴女を尊敬しています、メーベル先生」
イサクの声にかすかな熱が籠もった。
「何か、僕に手助けできることはありませんか」
「……君に何ができるというのです。証拠もない今、わたくしにできることは何もありません」
「証拠がないのであれば、見つければよいだけのことです」
イサクはこともなげに言った。
「見つける……?」
「ええ。貴女の主張を裏付ける、客観的で、反論の余地のない証拠を」
イサクはアガサの目を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥に宿る、底知れぬ知性の光。それはアガサがかつて抱いていた、純粋な探求心の輝きそのものだった。
その光に射抜かれ、アガサの心の中で何かが音を立てて崩れていく。長年彼女の心を覆っていた諦念と絶望の壁。そこにかすかな亀裂が入った。
「……わたくしを」
アガサは掠れた声で言った。
「わたくしを、助けてくれますか」
イサクにアガサを助けるメリットなど一つもない。落ち目の副教授など肩入れしたところで損をするだけだ。アガサにもそれくらいは分かっている。だが──
「ええ、もちろん」
イサクは間髪入れずに是と返した。