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冬の訪れを告げる冷たい風が帝都の街路樹を揺らす午後。アガサ・メーベルは家のキッチンで、柄にもなく浮き足立っていた。
学院が用意した家は彼女の地位に相応しく、広々として清潔だ。だが長年一人で暮らしてきたその空間はどこか殺風景で、生活感が希薄だった。
──こんな風に誰かのために料理の腕を振るうこと自体が初めてかもしれない。
鍋の中でコトコトと音を立てているのは彼女の数少ない得意料理である牛肉の赤ワイン煮込みだ。香味野菜と上等なワインを惜しみなく使い、半日前からじっくりと火を入れている。部屋には芳醇な香りが満ち、それがアガサの心をくすぐった。
テーブルの上にはすでに前菜の準備が整っている。スモークサーモンのテリーヌ、キノコのマリネ、そして焼きたてのライ麦パン。どれも派手さはないが素材の味を生かした、実直な料理ばかりだ。
あとはイサクが来るのを待つだけ。
約束の時間きっかりに、扉をノックする音が響いた。アガサは慌ててエプロンを外し、身なりを整えると、平静を装って扉を開けた。
「よく来てくれました、サザーランド君」
「お招きいただき光栄です、メーベル先生」
そこに立っていたのはいつもと変わらぬ学院の制服姿のイサクだった。そのずんぐりとした体躯が部屋に入ると妙な圧迫感をもたらす。彼は手にしていた上等なワインのボトルを差し出した。
「心ばかりですが」
「まあ、気を遣わなくてもよかったのに。さあ、入って」
アガサは彼をダイニングへと案内した。テーブルの上の料理を見たイサクはわずかに目を見張った。
「これは……素晴らしいご馳走ですね。先生がこれほどの腕前とは正直驚きました」
その言葉にはお世辞の色はない。純粋な感嘆だった。その反応に、アガサはかすかな満足感を覚える。
「大したものではありません。口に合えば良いのですが」
二人は席に着き、食事が始まった。イサクは完璧なテーブルマナーで、一つ一つの料理を丁寧に味わっていく。
「このテリーヌ、すごくおいしいですね。煮込みも肉がとても柔らかい。料理は苦手と仰っていましたがとんでもない。先生の料理は一種の魔術と言っても差支えないでしょう」
「そ、そこまで褒めちぎられるとさすがに恥ずかしいですが……」
イサクの感想はストレートで、媚びている響きはない。アガサにもそれは伝わり、彼女はこそばゆいような晴れがましいような、そんな気分になる。
食事が進むにつれ、二人の会話は自然と学問の話へと移っていった。論文盗用事件の顛末、今後の魔術界の動向、そしてイサクが提唱する新たな魔術理論について。
「君の言う、言語学的なアプローチによる魔術の再定義。あれは実に刺激的です。わたくしの研究にも、新たな視点を与えてくれました」
「先生のような経験豊富な方にそう言っていただけると、自信になります」
アガサはいつの間にか目の前の青年が学生であることを忘れ、対等な相手として話をしていた。一定の知性を持つ者にとって自らの見識を深める事は一種の快感ではあるが、自身の知性を肯定されることはそれ以上の快感なのだ。
イサクはアガサが
──彼と話すのは楽しい
アガサがそんな事を思っていると、イサクがふと、サイドボードの上に置かれた一本のワインボトルに目を留めた。
「このワインはどのようなものなのでしょう? 微量ですが魔力を放っていますね」
「ええ。昔、知人から譲り受けたものです。エルドリアの年代物だとか。わたくしはあまり酒には詳しくないのですがせっかくの機会ですから、開けてみましょうか」
アガサはそう言うと、慣れない手つきでコルクを抜いた。ポン、という小気味よい音と共に、熟成された果実の香りがふわりと広がる。
グラスに注がれたルビー色の液体を、イサクはゆっくりと味わった。
「……僕は余りお酒には詳しくないのですが、何というか凄いですね」
イサクは虻川伊作であった頃から酒にはそこまで詳しくない。だがそれでも、アガサが用意したワインは拙い舌を唸らせるものがあった。
「まるで、複雑な術式が舌の上で解けていくようです。最初はとっつきにくいのに、理解した瞬間、世界がぱっと開けるような……」
アガサは思わず、くすりと笑ってしまった。
「ワインを術式に例えるなんて、あなたらしいわね」
「すみません、変なことを言いました」
イサクは少し照れたように頬を掻いた。その年相応の仕草に、アガサは胸の奥が温かくなるのを感じる。
「先生も、ぜひ」
「わたくしは……」
アガサは躊躇した。彼女は普段、ほとんど酒を口にしない。それは自己を律するための、長年の習慣だった。だが今はどうだろう。この心地よい時間、そして目の前にいる信頼できる青年。少しくらい、気を緩めても良いのではないか。そんな思いが彼女の心をよぎった。
勧められるまま、アガサは恐るおそるグラスを口に運ぶ。芳醇な香りが鼻を抜け、深い味わいが舌に広がる。なるほど、と彼女は思った。確かにこれは、難解な術式を解き明かした時の喜びに少し似ているかもしれない。
「あら……」
どうやらアガサのお気に召した様で、それから二杯、三杯とグラスが進む。そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。気づけば、ワインボトルは半分ほど空いていた。アガサの頬はわずかに紅潮し、その瞳は熱を帯びて潤んでいる。
「……ふふ、少し、飲み過ぎてしまったようです」
アガサはこめかみを押さえながら、恥ずかしそうに笑った。
「大丈夫ですか、先生」
イサクが心配そうに声をかける。その声がやけに近くで響いた。
「ええ、少し、風に当たりたいですね」
アガサはそう言って、ふらりと立ち上がった。だがその足元は覚束ない。体がぐらり、と大きく傾いた。
「おっと」
イサクが素早く立ち上がり、その体を受け止めた。そのずんぐりとした腕の中に、アガサはすっぽりと収まってしまう。
「すみません……」
「いえ。こちらへ」
イサクはアガサの体を支えながら、ゆっくりとリビングのソファへと導いた。そして彼女を座らせると、自分もその隣に腰を下ろす。
距離が近い。イサクの体温が服越しに伝わってくる。その熱がアガサの酔いをさらに加速させた。
「少し、横になられた方がよろしいかと」
イサクはそう言うと、アガサの肩にそっと手を置いた。その手はぽっちゃりとしているが意外なほど力強かった。
「ええ……そうさせてもらいますわ」
アガサはイサクの手に導かれるまま、ソファに身を横たえた。天井がゆっくりと回っている。
イサクはアガサの乱れた銀髪を、優しく撫でた。その仕草はまるで子供をあやすかのようだ。
「……っ」
アガサは小さく息を呑んだ。異性の髪に触れる事が親密さの証であることくらいはアガサにも分かっている。だが嫌な感じはしない。少しくすぐったかったが、心地よかった。
だがその手は次第に違う場所へと移動していく。髪から首筋へ、そして鎖骨へと。その指先がアガサの肌を確かめるように、ゆっくりと滑る。
──これは。
アガサの心に、かすかな疑問が浮かぶ。介抱にしてはその手つきはあまりに──。
だが酔いの回った頭ではそれを深く考えることができない。
イサクの指はさらに下へと移動していく。そしてその豊満な胸の膨らみに触れた。
「……!」
アガサは目を見開いた。さすがに、これはおかしい。介抱の範疇を明らかに超えている。
「サザーランド君……」
アガサはイサクの手を掴み、制止しようとした。だがその手は驚くほど力強く、びくともしない。
「……っ、やめなさい。君も少し飲み過ぎたのではないですか?」
アガサは呆れたような口調で言った。怒りはないものの、さすがに悪酔いがすぎると思った。だがイサクは手を止めない。それどころか、その指先に力を込め、服の上から、その柔らかな肉を確かめるように、ゆっくりと捏ね始めた。
「んっ……」
甘い痺れが背筋を駆け下りる。
「僕は酔ってなどいませんよ、先生」
イサクの声は驚くほど冷静だった。瞳に宿る暗い熱。欲望という炎の輻射熱に、アガサは肌をじりじりと焼かれる様な思いだった。
「先生はとても美しい」
イサクが淡々という。
「その知性、その矜持。そしてその厳格なドレスの下に隠された、成熟した肉体。その全てが僕を魅了してやまない」
その言葉はアガサの心を激しく揺さぶった。美しい。この自分が? 六十を過ぎ、女としての盛りをとうに過ぎたこの肉体が?
「何を馬鹿なことを……」
「馬鹿なことではありません。事実です」
イサクはアガサの言葉を遮るように、その唇にそっと指を当てた。
「僕は貴女が欲しい。その心も、その体も、全て」
その告白はあまりにも唐突で、そして情熱的だった。アガサは混乱した。イサクが自分にそんな感情を抱いているなど、夢にも思わなかった。
だが冗談とも思えない。イサクのギラついた目の光は紛れもなく色欲のそれだ。しかしそれでいて、アガサに触れる手からは包みこむ様な優しさを感じる。
イサクに、求められている。その事実がアガサの心を甘く痺れさせた。長年、誰にも認められず、ただ一人で生きてきた彼女にとって、それは抗いがたい誘惑だった。
アガサはイサクを強く拒絶することができない。恩人であり、才能を認めてくれた相手。そのイサクに求められ、悪い気がしない自分がいる。その事実に戸惑い、そして流されていく。
まあ、そのイサクの態度は計算され尽くしたものであるのだが。彼は知っているのだ。アガサのようなプライドの高い女性を屈服させるには力ずくで支配するよりも、その自尊心を満たし、自ら心を開かせる方が遥かに
イサクはアガサの反応を確かめると、ゆっくりと、その顔を近づけた。そしてしわがれた唇に、自らのそれを重ねた。
「ん……っ」
舌がアガサの唇を割り開き、口内へと侵入してくる。驚くほど巧みな舌使いにアガサの体はたちまち熱を帯びる。酒精による体温の上昇ではない事はいうまでもないだろう。
アガサはアガサなりに抵抗しようとしたが、イサクの舌が彼女の舌を絡め取ると四肢に力が入らなくなった。そうして長い口付けの後、ようやく唇が解放される。糸を引く唾液が二人の口元を生々しく濡らしていた。
「……はぁ……はぁ……」
アガサは荒い呼吸を繰り返しながら、潤んだ瞳でイサクを見上げた。その顔には羞恥と、そして隠しきれない興奮の色が浮かんでいる。
「先生。我慢できません」
イサクはそう言うと、アガサの服の留め具に手をかける。
アガサの頭の中で、けたたましく警鐘が鳴り響いた。
──だめだ。やめさせなくては。
教師と生徒。常識。倫理。そんな単語が明滅する。しかし、体は石のように動かない。拒絶の言葉は、熱い吐息となって霧散した。
もし、ここで彼を突き放したら? この得難い関係は、ガラス細工のように砕けてしまうだろう。才能ある青年からの敬意も、心地よい知的な会話もすべて失われる。またあの殺風景な日常に戻る事は……
──怖い。
だが、恐怖だけではない。もっと根源的な何かがアガサの理性を麻痺させていた。
──彼なら
忘れかけていた