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イサクが屋敷に滞在するようになってから、エリナの生活は奇妙な形で変化した。
それは決して悪い方向ではなく、むしろ良い方向への変化と言えた。
あれほど執拗だったドロテアの嫌がらせが目に見えて減ったのである。
例えば朝の食卓。
ドロテアがエリナの些細な作法をあげつらい、いつものように嫌味を口にしようとした瞬間。
「そういえば義母上、昨夜の月は実に見事でしたね」
イサクが全く関係のない話題を絶妙なタイミングで割り込ませる。
ドロテアとしても当主が溺愛する息子の言葉を無下にはできない。
渋々ながらイサクの話題に付き合わされているうちに、エリナを
またある時はドロテアがエリナに大量の雑用を言いつけようとした時。
「エリナ、申し訳ありませんが少し魔術の実験を手伝っていただけませんか。一人では難しい術式でして」
そう言ってイサクはエリナを自分の部屋へと連れて行ってしまう。
もちろん彼の部屋で実際に行われるのは難しい術式の実験などではない。
彼はただエリナを椅子に座らせ、自分は分厚い魔導書を読みふけるだけだった。
エリナはその静寂の時間がひどく気まずかったが、それでもドロテアの監視下にいるよりは遥かにましだった。
イサクの行動は、一見するとエリナを庇っているかのようだった。
一方、ドロテアのストレスは限界に達しつつあった。
彼女にとってエリナを虐げることは、この退屈な生活における数少ない娯楽であり、鬱憤を晴らすための必要不可欠な行為だった。
それをどこからともなく現れた肥満児の義理の息子にことごとく邪魔される。
その屈辱は彼女の高いプライドをひどく傷つけた。
しかもその小僧は事あるごとに、あの気色の悪い視線を自分に向けてくる。
まるで品定めでもするかのような、不躾で、いやらしい視線。
グレイルの前ではその不満を口にすることもできない。
行き場のない苛立ちはマグマのように彼女の内側で煮えたぎり、噴出の時を今か今かと待っていた。
そして、その日は唐突に訪れた。
◆
きっかけは本当に些細なことだった。
エリナがドロテアの私室に紅茶を運んだ際、盆を持つ手がわずかに滑り、数滴の紅茶が絨毯に染みを作ってしまったのだ。
「申し訳ございません、お母様! すぐに拭き取ります!」
蒼白になって謝罪するエリナ。
その姿を見た瞬間、ドロテアの中で何かが切れた。
ぷつり、と。
「この役立たずが!」
ドロテアの甲高い声が部屋に響く。
彼女の右手がエリナの白い頬めがけて、鋭く振り上げられた。
その時だった。
パシン、という乾いた音が響くことはなかった。
ドロテアの腕が宙空でぴたりと停止していたのだ。
違う、腕だけではない。
指一本、瞬き一つ、呼吸さえも。
体が全く動かない。
まるで琥珀の中に閉じ込められた虫のように、彼女の時間は完全に停止していた。
何が起きたのか理解できず、恐怖に目を見開くドロテア。
「おやめなさい、義母上。見苦しいですよ」
そんな声が響くと同時に、ドロテアの体を縛り付けていた見えない枷がふっと消え去った。
自由を取り戻したドロテアは、わなわなと震える指でイサクを指差した。
「……あなた、今、私に何をしたの!」
いつのまにかイサクがドロテアの私室の入口に立っている。
「見ての通りです。魔術で少し動きを止めさせていただきました」
悪びれる様子もなくイサクは淡々と答えた。
その態度がドロテアの怒りにさらに油を注いだ。
「よくも……! この私に対して、よくもこんな真似を! 無礼にもほどがあるでしょう!」
ドロテアは完全に我を忘れ、金切り声をあげてイサクに詰め寄った。
しかし、イサクは全く動じない。
それどころか。
空気が、変わった。
何かの魔術も行使されたわけではない。
ただイサクの体から濃密な魔力が放射されただけだ。
しかしそれはエリナとドロテアに凄まじいまでの圧力を与えた。
空気が鉛のように重くなり、呼吸が苦しくなる。
肌がピリピリと痺れ、立っていることすらままならない。
エリナは本能的な恐怖に抗えず、その場にへたり込んでしまった。
ドロテアもまた膝が笑い、立っているのがやっとだった。
夫であるグレイルの魔力とは全く違う。
グレイルのそれはどこか学究的で、制御された理性の奔流だ。
だが目の前の少年から放たれる魔力はもっと生々しく獰猛で、底が知れない。
まるで深淵そのものが形をとって目の前に現れたかのようだった。
「義母上」
イサクの声は先ほどまでとは比べ物にならないほど冷たい。
「僕はサザーランド侯爵家の次期当主です。その立場をお忘れなきよう」
ゆっくりと一歩ずつドロテアに近づくイサク。
「父上は貴女に甘い。その理由は僕の知るところではありません。ですが、僕は違う」
もう一歩。
「そして立場以上に、貴女と僕には決定的な“差”がある。おわかりになりますか?」
ぽす、と。
ドロテアの肩にイサクの手が乗せられた。
ぽちゃりとした分厚い手。
その手が触れた瞬間、ドロテアは悲鳴を上げそうになった。
それは人間の手ではなかった。
冷たくぬめりとした巨大な魔獣の触腕が、その肩に絡みついているかのような、おぞましい錯覚。
「一個の生命体として、僕と貴女には絶対的な格差があるのです。僕が上、そして貴女が下です。ご理解いただけますね?」
イサクが尋ねる。
しかし応えはない。
「ご理解いただけますね?」
再度放たれる問い。同時に、ドロテアに掛かる圧力が倍増した。もはや息もできない。
「え、ええ……わ、わかりまし、た」
ついにドロテアは屈した。イサクがグレイルの息子だから? 違う。
次期当主だから? それも違う。
殺されたくなかったからだ。