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サザーランド侯爵邸に流れる空気は大分変った。
エリナがこの屋敷に引き取られてからというもの、常に空気を支配していた張り詰めた緊張感は今や跡形もない。使用人たちは女主人のヒステリックな怒声に怯えることなく、それぞれの職務を淡々とこなしている。そして何より、エリナ自身が義母ドロテアの理不尽な暴力や心無い言葉に晒されることはなくなった。
それは歓迎すべき変化のはずだった。清潔なドレスを着て、温かい食事を摂り、学ぶことができる。数ヶ月前のエリナには想像すらできなかった夢のような生活だ。
だがこの平穏な日常の中に、エリナは拭い去ることのできない違和感を覚えていた。まるで精巧に作られた舞台装置の上に立っているような、そんな居心地の悪さ。
その違和感の根源は他ならぬドロテアにあった。
朝食の席。エリナが席に着くと、ドロテアはいつも決まって穏やかな、しかしどこかぎこちない笑みを浮かべる。
「おはよう、エリナ。昨夜はよく眠れた?」
「……はい、お母様」
エリナは戸惑いながら答える。
あれほどエリナを憎み、その存在を否定し続けてきた女が、今ではまるで別人のように穏やかだ。
──気味が悪い。
エリナはそう思わずにはいられなかった。ドロテアの瞳は決してエリナを映していない。その視線は常にどこか虚空を彷徨い、時折、せわしなく動いている。まるで、中身がすっかり入れ替わってしまった人形のようだ。
一方、父であるグレイルは相変わらずだった。彼の関心はもっぱら自らの研究と、そして息子イサクの輝かしい未来にのみ向けられているようだ。
グレイルは決して冷たい人間ではない。ドロテアよりはずっと優しい。だが、彼が自分にあまり関心がないことも、エリナには分かっていた。
だが最近になって、そのグレイルの態度にもわずかな変化が見え始めていた。きっかけはエリナが帝国魔術学院への進学を希望したことだ。それ以来、グレイルは時折、エリナの学業の進捗状況を尋ねるようになった。それは彼なりの、不器用な父親としての関心の示し方なのかもしれない。
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エリナが通う貴族子女のための学院は帝都でも有数の名門校だ。だが、そこでの生活はエリナにとって退屈極まりないものだった。
授業の内容はそのほとんどがすでにイサクから教わったことばかり。イサクの指導は学院のそれとは比較にならないほど高度で、本質的だった。同年代の生徒たちが四苦八苦している基礎理論や古代語の初歩など、エリナにとってはすでに通り過ぎた道でしかない。
(お義兄様の授業の方が、ずっと面白かった)
エリナは教室の窓から外を眺め、小さくため息をつく。早く、もっと先のことを学びたい。そんな焦燥感が、彼女の心をくすぐった。
そんなある日の夕食後。エリナは意を決して、グレイルの執務室を訪ねた。
「お父様。少しよろしいでしょうか」
「なんだ、エリナ」
グレイルは山積みの書類から顔を上げ、エリナを見た。
「その……学院の授業なのですが、少し物足りなく感じておりまして。すでに学んだことばかりで……」
エリナは正直に打ち明けた。グレイルはエリナの言葉を黙って聞いていたが、やがて愉快そうに笑った。
「はっはっは! それは頼もしいことだ。さすがはイサクが教えただけのことはある」
彼は満足げに頷くと、すぐに真剣な表情に戻った。
「だが、慢心してはいけないぞ、エリナ。学問において、予習と復習は最も重要なことだ。すでに知っていることでも、繰り返し学ぶことで、理解はより深まり、新たな発見がある」
グレイルは椅子から立ち上がると、書架から一冊の古びた本を取り出した。
「これはイサクが学院時代に使っていた教科書だ」
そう言って、グレイルはその本をエリナに手渡した。エリナは驚いて目を見張る。そこにはびっしりと細かい文字で注釈が書き込まれていた。ページの余白はイサクの思考の痕跡で埋め尽くされている。
「イサクも、お前と同じように感じていたかもしれん。だが決して基本を疎かにはしなかった。常に先を見据えて予習し、そして学んだことをさらに深く掘り下げていったのだ。その積み重ねが今のあの子の力となっている」
グレイルの言葉が、エリナの心に深く突き刺さった。
──傲慢。
確かにそうだ。自分は少しばかり知識があるからといって、学問そのものを軽んじていたのかもしれない。イサクはあれほどの才能を持ちながら、決して努力を怠らなかったのだ。
「……わかりました、お父様。わたくし、考え違いをしておりました」
エリナは深く頭を下げた。
◆
その夜はやけに冷え込んだ。
エリナはふと、尿意を覚えて目を覚ました。
ベッドから抜け出し、音を立てないようにそっと部屋を出る。深夜の廊下は静まり返り、床板の軋む音だけがやけに大きく響いた。
そうして用を済ませ、自室へ戻ろうとした時だった。
ドロテアの寝室の前を通りかかった時、エリナの足がぴたりと止まる。
「……ん……ぁ……」
かすかな、うめき声のようなものが聞こえたのだ。
(お母様……?)
エリナは息を呑んだ。もしかして、具合が悪いのだろうか。最近、様子がおかしかったのはそのせいなのかもしれない。
心配になり、声をかけようと思った。だがもし、ただの寝言だったら? こんな夜中に起こしてしまったら、また叱られるかもしれない。そんな思いがエリナの行動を躊躇わせる。
だがその時、エリナはあることに気づいた。
ドロテアの寝室の扉が、わずかに開いている。いつもは固く閉ざされているはずの扉が。
(……だから、声が聞こえたのね)
エリナは納得した。そして抑えきれない好奇心と、かすかな恐怖に駆られ、そっと、その隙間から中を覗き込んだ。
月明かりが差し込む部屋の中。その光景にエリナは目を見開いた。
ドロテアがベッドの上にいた。だが、その姿はエリナが知っている義母のものではなかった。
彼女は四つん這いになり、薄いネグリジェは腰まで捲し上げられている。そしてその豊満な尻が、月明かりの中でいやらしく光っていた。
そして、彼女は何かを自らの股間に宛がい、それを激しく抜き挿ししていたのだ。
それは黒く、硬質な、男根を模した張り型だった。
「あ、あぁ……もっと……もっと、深く……!」
ドロテアの口から漏れるのは熱に浮かされたような、甘く、切ない喘ぎ。ずちゅ、ぐちゅ、と湿った水音が静かな寝室に響き渡る。
エリナは息を呑んだ。何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。だが、書物を通じて得た知識が目の前の光景の意味を、容赦なく彼女に理解させた。
──自慰。
ドロテアは一人で、自分の体を慰めているのだ。
エリナの心臓が狂ったように高鳴り始めた。見てはいけないものを見ている。しかし目が離せない。
まるで金縛りにでもあったかの様に、エリナはドロテアの痴態を凝視した。見ていて楽しいものではない。だのに目を逸らせないのはなぜか、エリナ自身にも分からない。
そうした折、ドロテアの口から信じられない言葉が漏れた。
「あぁ……イサク……イサク様……!」
エリナは耳を疑った。
イサク。それは彼女が尊敬する義兄の名前だ。
ドロテアは恍惚の表情を浮かべ、汗に濡れた体をくねらせている。
「もっと……わたくしを、辱めて……くださいませ……っ」
その姿はもはや侯爵夫人としての威厳など微塵もない。ただ欲望のままに身をよじる、一体の雌でしかなかった。
エリナは狼狽えながらもそっと扉を閉め、逃げるようにその場を離れる。
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(あれは……)
自室に戻り、ベッドに潜り込んでもさっき見た光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。ドロテアの白い肌、張り型の冷たい光沢、そして、あの獣のような喘ぎ声。
だがエリナの心を最も大きく占めていたのは一つの疑問だった。
「なぜ、お母様がお義兄様の名前を──」