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「お誘い痛み入ります。タウラス先生」
イサクは読んでいた『古代北方鉱山人の言語における動詞活用について』をゆっくりと閉じると、感情の読めない、いつもの無表情でタウラスを見上げた。その声は恭しく、貴族の子弟として完璧な礼節を保っている。もちろんガワだけに過ぎないのだが。
「僕を評価していただけたこと、光栄に思います。ですが」
イサクはそこで言葉を切ると、わずかに首を傾げた。
「残念ながら軍用魔術という分野は僕の研究テーマとはいささか方向性が異なるようです」
イサクは自らの専門分野を盾に、タウラスの提案を巧みにかわした。この手の誘いを断る際、最も効果的なのは相手の土俵に上がらないことだ。
タウラスはイサクの答えを聞くと、わずかに眉を上げた。彼もまた、この若き天才がそう簡単に頷くとは思っていなかったのだろう。だがその拒絶を以てイサクを責めたりするほどではない。
「……そうか。それは残念だ」
タウラスはあっさりと引き下がった。彼は軍人だ。無駄な押し問答が何の利益も生まないことを知っている。だが、ただ引き下がるだけではなかった。
「だが、覚えておけ、サザーランド。この帝国の平和も決して盤石ではない」
タウラスの声が、わずかに低くなる。
「昨今の情勢はきな臭い。東方諸国連合の動きも活発化していると聞く。国境付近では小競り合いが絶えず、いつ大規模な紛争に発展してもおかしくない状況だ。有事の際に、書物の中の知識だけでは己の身一つ守れんぞ」
それは忠告とも、あるいは予言とも取れる言葉だった。タウラスは軍部ともコネがある。彼なりになにかしらの情報を掴んでいるのだろう──イサクはそう見た。
「ご忠告、感謝します」
そういって、慇懃に頭を下げる。
「だが、気が変わったらいつでも私の研究室を訪ねてくるといい。君のような才能がただ書物の中で眠っているのは帝国にとって大きな損失だからな」
そう言い残し、タウラスは踵を返した。
タウラスが立ち去った後、イサクは小さくため息をつくと、先ほど閉じたばかりの本を再び開いた。だが、その意識はもはや古代の動詞活用には向いていない。
──軍用魔術、か。
戦争──それはイサクが最も忌み嫌うものの一つだ。非効率的で、野蛮で、そして何より、面倒くさい。彼の望む人生は静かな書斎で研究に没頭し、そして夜ごと熟れた女の体を味わうこと。ただそれだけだ。国家間の争いなど、知的好奇心を微塵も刺激しない。
彼の辞書に国家への忠誠などという言葉は載っていないのだ。だが、タウラスの言葉は彼にある人物を想起させた。
父、グレイル・サザーランドである。
能天気で政治には疎いが、魔術師としては規格外の存在──そんな彼はイサクとは違い、従軍経験がある。
二十年前の東方諸国連合との国境紛争。その戦場で、グレイルが天空から星を呼び墜としたという逸話はイサクも知っていた。灼熱の隕石群が敵軍の頭上に降り注ぎ、一個師団を地図上から消し去ったらしい。そんな真似は当然イサクにもできない。息子である彼からしてもグレイルは恐るべき魔術師であった。まあ何より恐ろしいのは、それほどの業を以てしても侯爵家の財政を傾けかねないほどの経営センスの無さではあるのだが。
──父上はタウラス先生の提案について、どう思われるだろうか。
ふと、そんな疑問が湧いた。
──次の長期休暇にでもゆっくり話を聞いてみよう
そう考えると、自然と屋敷に残してきた者たちの顔が浮かんできた。
ドロテア。あの義母は今頃どうしているだろうか、とイサクは考える。彼の不在に耐えきれず、夜な夜な張り型を弄んでいる姿が目に浮かぶ。あの傲慢な女が、今や自分の与える快楽なしでは生きられない雌豚と成り果てた。帰ったら、たっぷりと躾直してやらねばならない。その豊満な肉体に自分の所有物であるという証を、さらに深く刻み込んでやる。そう想像するだけで、下腹部に熱が集まってくる。
そしてエリナ。
──あの子はちゃんと勉強しているだろうか。いや、愚問だな。彼女には
イサクはエリナには
彼にとって「努力」とは明確な定義を持つ行為で、それができるかどうかは本人の資質──要は才もかなり関係があるとイサクは考えていた。
彼にとっての努力とは、第一に「主体的」であること。他者からの命令や強制、あるいは「そうあるべきだ」という社会通念によって受動的に行うものではない。自らの明確な意志で「何を達成するか」を決定することから始まる。
第二に「目的的」であること。「なんとなく頑張る」といった情緒的なものではなく、「いつまでに、どのレベルまで」という具体的かつ測定可能なゴールが設定されていなければならない。
この二つを欠いた行為は、どれほど肉体的な苦痛や時間を費やそうとも、彼にとっては「努力」ではなく、単なる「労働」あるいは「作業」に過ぎない。例えば仕事──生きるためにただあくせくと身を粉にする行為は、そこに主体的な目的性が欠如している限り、イサクにとっては評価に値しなかった。
その考えが正しいかどうかはさておき、イサク──虻川伊作とはそういう男なのだ。
だからこそイサクは義理の妹であるエリナを好意的に見ている。彼女が利発だからではなく、彼女に努力する才があるからだ。
ちなみに何かとセシリアに構うのも、セシリアが努力家であるからだったりする。
──ともあれ
イサクは思考を戻す。
──戦争は厭だな。
改めてそんな事を考えるイサクだが、必要とあらばそれを厭わない冷徹さも持ち合わせている。ヴァリーラとの決闘の一件がその証左だ。彼は自らの領域を侵す者に対しては容赦しない。
そして彼は理解していた。このアルバラ帝国が魔術師たちを育成するのは、国力の増強のためであり、その力を戦争に使うことも目的の一つであることを。帝国魔術学院はそのための人材を供給する機関でもあるのだ。
ならばこの先、イサクの感情とは関係なく戦争に巻き込まれる可能性もある。タウラスの言い方は如何にも匂わせるようなものがあった。
──だとすれば。
イサクの思考は、一つの結論へと収束していく。
自身がそういう「人殺しの手段」としての魔術を学ぶ必要もあるのではないか。
国のためでも名誉のためでもなく、ただ自らの平穏な日常を守るために。万が一の事態に備えて、その牙を研いでおく必要があるのではないか。知識は力だ。そして、その力がどのような形で発揮されるかは状況によって変化する。
──軍用魔術の知識が僕の生存確率を高めることに繋がるかもしれないなら、話くらいは聞いておく価値はあるのだろうな
そんな事を思うイサク。
結局のところ、面倒事を避けるためには、より大きな面倒事に対処できる力が必要になるということだ。
イサクは再び、深くため息をついた。
本心としてはこのアルバラ帝国にはこの先もずっと平穏無事でいてほしい。戦争などまっぴらごめんだった。彼の望む戦場は汗と体液に塗れたベッドの上だけなのだから。
脳裏に浮かぶのは、彼が手懐けた女たちの姿。
まずは義母ドロテア。イサクはその白い肌に鞭の痕を刻みつけ、その口から漏れる甘い喘ぎ声を聞くのが大好きだった。
次に清掃婦のマージ。あのくたびれた中年女が、彼の前でだけ見せる淫らな表情。息子の命を救われた恩義を言い訳にしているが、彼女自身も楽しんでいるのではないか? 壁に手をつき、尻の穴まで丸見えのみっともない体勢で、一体どんな表情を浮かべているのか。きっとマージ自身にも自覚はできていないだろう。いずれはその自身の爛れた欲望を突きつけてやるのも面白いかもしれない──イサクはそう思う。
そして、アガサ・メーベル。あの厳格で気高い老魔術師。そんな彼女が自らの手で秘部を開き、その中を見せた時のあの表情。それらを思い出すだけで、再び昂りが疼き始める。
そう、これこそが彼の望む戦場だ。血と硝煙の匂いではなく、甘く、むせ返るような雌の匂いが満ちた、二人だけの密室。そこで繰り広げられる遊戯。それこそが彼の人生における至上の喜びであった。