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ヴァリーラ・ド・オルレアンの世界はあの日を境にすっかり色褪せてしまった。いや、色褪せたというよりは一色に塗りつぶされたと言うべきか。
その色はもちろん灰色だ。
あのイサク・サザーランドという、ずんぐりとした青年の瞳の色である。
学院の廊下を歩いていてもヴァリーラの神経は常に研ぎ澄まされていた。全方位に向けられたレーダーのように、彼の気配を探知しようとする。そして曲がり角の向こうからイサクが姿を現そうものなら──心臓がまるで氷水に浸されたかのように、きゅっと縮み上がるのだ。
ヴァリーラ・ド・オルレアンはイサク・サザーランドが怖かった。
決闘での圧倒的なまでの実力差。あれはもう、彼女が誇りとしてきた魔術の全てがまるで子供の火遊びのように、イサクの前では無力だったのだ。
だが恐怖の根源はそれだけではない。
あの夜、父であるオルレアン公爵リシャールの執務室で起こった出来事。
父の非情な命令。床に這いつくばり、謝罪させられた屈辱。
そして何より──イサクに、乙女として最も秘すべき場所をじっとりと検分された事実。
(もし、あいつが……)
ヴァリーラは食堂でパンをちぎりながら、ふと暗い想像に囚われる。
(もし、あいつが「あの夜の続きを」などと言い出したら?)
父はあの男に、イサクに私を「差し出した」のだ。奴がその気になれば、私に拒否権などない。学院の裏庭に呼び出され、「ここで服を脱げ」と命令されたら? あるいは人払いの魔術が施された空き教室で、あの夜のように、無様な姿を晒せと──?
そこまで考えて、ヴァリーラは慌ててかぶりを振った。パンの欠片がテーブルに飛び散る。
いけない。想像しただけで、顔に血が上る。
だが現実はヴァリーラのそんな乙女(?)の悩みを嘲笑うかのように、淡々と過ぎていく。
イサク・サザーランドはヴァリーラ・ド・オルレアンに何の要求もしてこなかった。
それどころか、まるで道端の石ころでも見るかのように、彼女のことなど一切意に介していないのである。
それは良い事なのかもしれない。だがそれはそれで、ヴァリーラのプライドを別の形で深く傷つけた。あの執務室での出来事はイサクにとっては検分する価値すらない、どうでもいい作業に過ぎなかったというのか。
オルレアン公爵家の令嬢をここまでコケにしておいて、この無関心。
──あの豚、覚えてなさいよ。
恐怖と屈辱と、そしてほんのわずかな安堵。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合った感情を抱えながら、ヴァリーラはきつく唇を噛み締めるしかなかった。
夜、寄宿舎の自室。豪奢な天蓋付きのベッドの上で、ヴァリーラは眠れずにいた。
先ほど食堂ですれ違ったイサクの、あの無感動な瞳が脳裏に蘇る。そしてその視線はいつしか、あの夜の執務室の、じっとりとした視線へと変わっていく。
(見られた……)
父の命令とはいえ、イサクにあそこまで見られてしまった。
カッと、顔が熱くなる。
ヴァリーラは勢いよくベッドから起き上がると、鏡台の前に立った。
そこに映っているのは美しい金髪と、気高い瞳を持つ、完璧な公爵令嬢。
(でもわたくしはあの男に見られた)
そう思うと、鏡に映る自分自身がひどく汚らわしいものに思えてくる。ヴァリーラは鏡の中の自分を睨みつけながら、ただただ頬を赤らめることしかできなかった。
◆
イサクとの一件以来、ヴァリーラ・ド・オルレアンの学院生活も様変わりした。
まず、あれほど煩わしく付きまとっていた取り巻きたちが一人もいなくなった。決闘で無様に敗北し、オルレアン公爵家の威光に陰りが見えた途端、彼女たちは潮が引くように去っていったのである。実にわかりやすい。
だがヴァリーラは別に気にしなかった。
元々、取り巻きなど、自分の美しさを引き立てるための背景か、退屈しのぎの玩具程度にしか思っていなかったのだから。
むしろ、一人になったことで清々したとさえ思っていた。無駄なお喋りに付き合う時間がなくなり、その分、別のことに時間を使えるようになったのだ。
そう、彼女の関心はただ一点にのみ集中していた。
どうすれば、イサクを出し抜けるか。
だが世の中というのは一人が静かになったからといって、全体が平和になるわけではないらしい。
ヴァリーラという虎(あるいは猫)がいなくなった学院という森で、今度は別の獣が牙を剥き始めた。
ケライノー公爵家の令嬢、マリアン・ド・ケライノー。
彼女もまたヴァリーラに劣らぬ美貌と、それなりの魔力を持つ女だった。そして昔からヴァリーラのことが大嫌いだった。常に自分の一歩先を行き、全ての注目をかっさらっていくこの金髪の女が。
だがケライノー公爵家も大きな力を持つが、オルレアン公爵家はそれ以上だ。
これまではヴァリーラの傲慢さとオルレアン家の権威の前にマリアンは爪を隠すしかなかった。だが今は違う。
あのイサク・サザーランドとの決闘で、ヴァリーラは公衆の面前で無様に敗れた。オルレアン公爵家も、あの庶子に「貸し」を作ってしまったという噂だ。
今こそ、長年の鬱憤を晴らす絶好の機会。
そんなある日の放課後。マリアンはヴァリーラを、学生たちの社交場であるサロンへと呼び出した。
サロンの窓際、一番目立つ席。マリアンは数人の取り巻きを侍らせ、女王様気取りでそこに座っている。ヴァリーラが一人で現れると、マリアンは待ってましたとばかりに、扇子で口元を隠しながら、甲高い声を上げた。
「あら、ごきげんよう、ヴァリーラ様。お一人だなんて、珍しいですわね。あの子たちはどうしたのかしら?」
「……何の御用ですの、マリアン」
ヴァリーラは無表情に、そして無駄な挨拶を一切省いて本題に入った。
その態度がマリアンの神経を逆なでしたらしい。
「相変わらず、可愛げのない方。でも、それも今日までですわ」
マリアンは立ち上がると、ヴァリーラの前に仁王立ちになった。サロン中の視線が一斉に二人に集まる。
「ヴァリーラ・ド・オルレアン。これまで、あなたがわたくしたちにしてきた数々の無礼、今ここで詫びなさい。あなた、わたくしやわたくしのお友達にどういう態度を取ってきたか覚えているかしら?」
謝罪要求である。
「もし、あなたが土下座して、わたくしの靴を舐めるというのなら、考えて差し上げてもよろしくてよ?」
マリアンの取り巻きたちが下卑た笑い声を上げる。周囲の学生たちも、面白い見世物を見つけたといった様子で遠巻きに眺めているだけ。
ヴァリーラはふう、と小さく息を吐いた。
「お断りしますわ」
「……なんですって?」
「時間の無駄ですの。わたくしがあなた方に無礼な態度を取ってきたというなら、わたくしが礼儀を尽くすに値しなかった愚物であったというだけの話ですわね」
そう言ってヴァリーラが踵を返そうとした、その時だった。
「お待ちなさい!」
マリアンの甲高い声と共に、彼女の右手に白銀の杖が握られた。魔力がびりびりと大気を震わせる。
「この場でわたくしに恥をかかせるつもりですのね! いいでしょう、ならば力ずくで思い知らせて差し上げますわ!」
マリアンの取り巻きたちも、次々と杖を構える。四対一。どう見ても、ヴァリーラに勝ち目はない。
「誰もあなたを守ってくれないわよ、ヴァリーラ!」
マリアンが勝利を確信した笑みを浮かべる。
だがヴァリーラは動じなかった。ゆっくりと振り返ると、マリアンを、そして彼女を取り巻く全てを睥睨する。
「その様ですわね」
ヴァリーラはあっさりとそれを認めた。
「でも」
彼女はまるで汚れたものでも払うかのように、自らの掌をマリアンに向けた。
「誰があなたを守ってくれるのかしら?」
「なっ……!」
次の瞬間。
「ぐっ……!? か、はっ……!」
マリアンの喉から、蛙が潰れたような声が漏れた。
見えない何かが彼女の首を締め上げている。マリアンは必死に首元を掻きむしるがそこには何もない。
「な、何を……!?」
取り巻きたちが狼狽える。何が起こったのかわかっていない。ヴァリーラは杖を抜いてはいないのだ。もちろん杖無しでも魔術は使えるが、ヴァリーラが無詠唱でここまで強力に干渉できる魔術が使えるとは思ってもいなかった。
「わざわざ杖を抜かなければ魔術が使えないなんて、素人も良いところですわね」
ヴァリーラは心の底から憐れむように、そう言い放った。
「ひっ……!」
マリアンの顔が酸素欠乏で紫色に変わっていく。白目を剥き、足がもつれ──
どさりと重い音を立てて、マリアンは床に崩れ落ちた。失神したのだ。
ヴァリーラは掌にかかっていた力をふっと解いた。
サロンは水を打ったように静まり返っている。誰もが目の前で起こった光景を信じられないといった様子で、ヴァリーラを見つめていた。
ヴァリーラはそんな傍観者たちを一人一人、冷たく睨みつけた。その視線に射抜かれた者たちは慌てて目を逸らす。
そしてヴァリーラは何も言わず、堂々とした足取りでサロンを後にした。
◆
自室に戻ったヴァリーラは荒い呼吸を繰り返していた。
(……危なかった)
実は彼女が杖なしで魔術を使ったのはこれが初めてだった。
あの決闘以来、ヴァリーラは毎夜、人知れず鍛錬を積んでいたのだ。
きっかけはもちろんイサク・サザーランドだ。
イサクは杖を使わなかった。詠唱すらほとんどしなかった。
魔術師にとって、杖とは何か。それは魔力の流れを増幅し、安定させるための補助器具だ。そして何より、それは魔術師としての「格」を示すための儀礼的な道具でもある。
例えるなら、食事の際に使う見事な彫刻が施された銀のフォークやナイフのようなもの。
だが食事は素手でもできる。マナーを知らないとそしられるかもしれないがその方が早く、効率的に食べられる場合もあるだろう。
イサク・サザーランドという男はまさにそれだった。
彼はフォークやナイフといった「マナー」など意にも介さず、ただ「喰らう」ことだけを目的として、素手で料理(ヴァリーラ)に掴みかかってきたのだ。
ヴァリーラは自らの敗因をそこに見出した。
自分はマナーにこだわりすぎていた。貴族の矜持、オルレアン家の名誉。そんなものに縛られていたからこそ、イサクのむき出しの実用性の前に、遅れを取ったのだ。
イサクがマナーを無視するなら、こちらもそうするまで。
ヴァリーラはそれまでの魔術理論を一度捨てた。杖に頼らず、自らの体内で魔力を練り上げ、直接、現象に干渉する術。それはイサクが無詠唱で重力魔術を行使した、あの光景を模倣することから始まった。
もちろん一朝一夕でできることではない。だが彼女にも公爵家の血が流れている。才能がないわけではないのだ。
そして今日、マリアンという絶好の実験台のおかげで、その成果を試すことができた。
(……まだまだね)
ヴァリーラは自らの震える掌を見下ろした。
マリアン一人を無力化するだけで、魔力を消耗しすぎた。イサクの、あの余裕綽綽とした態度には程遠い。
もし、また次があるならば──二度と無様な姿は見せない。
ヴァリーラの心は恐怖と屈辱によって、皮肉にも魔術師として新たな段階へと確実に進み始めていた。