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帝国魔術学院、第二講義棟。退屈極まりない帝国史の講義がようやく終わりを告げた。窓の外に広がる晩秋の空は高く、くすんだ灰色をしている。吹き抜ける風は日ごとに冷たさを増し、本格的な冬の到来を予感させた。
担当教授の覇気のない声から解放され、教室はようやく活気を取り戻す。学生たちが我先にと出口へ向かう中、イサクはゆっくりと肺腑の奥から息を吐き出す。基本的にどの講義も真面目に受けるイサクなのだが、帝国史の講義はこの男をして退屈極まりなかった。
とはいえ、受けないわけにもいかない。素晴らしきアルバラ王国の歴史を学ぶ事は義務と言ってよいからだ。
それにしても、である。
──まさか淡々と歴史の教科書を朗読するだけとは
そんな事を考えていた時だった。
「イサク様!」
鈴を転がすような、しかし少しばかり上擦った声。振り向くと、セシリア・クラインフェルトが小走りでこちらへ向かってくるところだった。栗色の髪が揺れ、そばかすの散った頬がわずかに紅潮している。
「ごきげんよう、クラインフェルト嬢」
イサクは感情の読めない、いつもの無表情で応じた。
「ごきげんよう、イサク様。今日の講義も、なかなか……その、興味深かったですわね」
苦し紛れの感想である。セシリアもまた、講義の大半をイサクの横顔を盗み見ることに費やしていたのだから。
「そうですか。それは何よりです」
イサクは淡々と返す。その温度差にひるむことなく、セシリアは会話を続けた。
「それにしても、最近はめっきり冷え込んできましたわね。帝都の冬はわたくしの領地よりもずっと厳しいと聞いておりますわ」
「ええ。特にこの学院の寄宿舎は夜になると底冷えがしますから」
「やはりそうですのね……。あの、イサク様は何か防寒のために工夫などをなさっているのですか?」
セシリアが小首を傾げて尋ねる。純粋な好奇心と、彼のプライベートな一面を少しでも知りたいという下心がないまぜになった問いだ。
帝国魔術学院の寄宿舎は見かけは立派だが住み心地はよろしくない。魔術を使えば一時的に暖を取ることは可能だがそれはあくまで対症療法。一晩中、室温を維持するために魔力を消費し続けるなど、非効率極まりない話である。
かといって、各部屋に暖炉があるわけでもない。理由は火災防止。それだけではない。魔術師が集うこの場所には揮発性の高い触媒や、引火すれば大惨事を引き起こしかねない危険な研究素材がそこかしこに存在する。火事は魔術的な二次災害を引き起こすトリガーになりかねないのだ。極めて合理的だが学生にとっては死活問題である。
イサクはセシリアの問いに対し、自分のずんぐりとした体を見下ろすと、ほんのわずかに口角を上げた。それは笑みと呼ぶにはあまりに微かな、しかし確かな変化だった。
「工夫、ですか。そうですね……僕はほら、ご覧の通りの体型ですから」
イサクは自らの豊かな腹回りをぽん、と軽く叩いてみせた。
「多少寒くても、へいちゃらなんです。天然の防寒着を纏っているようなものですから」
それは彼なりの、ささやかなジョークだった。イサクという男は常に仏頂面をしているわけではない。時折、こうした自虐的な冗談を口にすることもある。
だがその意図はセシリアには伝わらなかった。
「……えっ」
セシリアは一瞬で凍りついた。ぱちぱちと、しきりに瞬きを繰り返す。彼女の頭の中では今の発言が「イサク様がご自身の体型を気にしていらっしゃる」という事実に変換されてしまったのだ。
──まぁ、なんてこと! わたくし、なんて無神経な質問をしてしまったのかしら!
セシリアは蒼白になり、慌ててフォローの言葉を探す。
「そ、そんなことはございませんわ! イサク様はその、とても……とても、頼りがいのある、素敵な体躯でいらっしゃいます! わたくし、その、福々しいと申しますか、安心感があると申しますか……!」
言えば言うほど墓穴を掘っている。しどろもどろになりながら、必死にイサクを慰めようとするその姿。滑稽でさえあった。福々しい、とは。語彙の選択が絶妙にずれている。
──なるほど。彼女は僕の言葉を額面通りに受け取ったのか。
イサクは内心で小さく苦笑した。この娘は真面目すぎる。そして自分に対する好意がその判断力を曇らせている。
「ふっ」
思わず、かすかな笑い声が漏れた。
「冗談ですよ、クラインフェルト嬢。そう真剣になさらないでください」
「え……あ、ああ! じょ、冗談、でしたのね! まぁ、イサク様ったら、お人が悪いですわ!」
セシリアは安堵と羞恥で顔を真っ赤にしながら、イサクの胸元を軽く叩く真似をした。もちろん、実際に触れる勇気はない。
「まあ、防寒対策といっても、温石を使うくらいですよ」
温石(おんじゃく)。それは簡単にいえば熱した石を耐熱性のある布でくるみ、それを熱源として寒さをしのぐというブツである。熱源としてのピークは短めで、長くても数時間もつかどうかという代物だ。イサク、いや、虻川伊作の世界にもあるものだが、この世界の温石はもう少し長くもつ。この辺は石の素材の違いであった。
「そうですの。わたくしも、今年は少し大きめの温石を用意しようかしら」
ようやく会話が通常の軌道に戻り、セシリアはほっと胸を撫で下ろした。
しばしの沈黙。今度はイサクの方から、静かに口を開いた。
「ところで、クラインフェルト嬢。研究の方は順調ですか」
突然の問いかけに、セシリアの心臓が跳ねる。イサクが自発的に彼女の研究について尋ねてくるなど、初めてのことだった。
「ははい! おかげさまで。今は古代ルーン文字の地域的変遷について調べておりますの」
「ほう。それは興味深いテーマですね」
「ですが少しばかり難解な部分もありまして……。その、もし、もしも躓くところがあれば、イサク様に助言を求めてもよろしいでしょうか?」
セシリアは上目遣いに、控えめに尋ねた。頬は再び熱を帯びている。
イサクは少しの間、思考するように顎に手を当てたがやがて静かに頷いた。
「ええ、構いませんよ。その辺はお互い様ですから」
「お互い様……?」
「僕も以前、クラインフェルト嬢に助言を求めたことがあります。覚えていませんか?」
「わたくしがイサク様に……?」
セシリアは目を丸くした。
「ええ。ある難解な文章を修正しようとしていた時、貴女は言いました。『全体の意図を読み解くべきだ』と」
それは数週間前、イサクが清掃婦マージの息子、レオの病について調べていた時のことだ。彼女にとっては些細な一言だったかもしれないがイサクにとっては決定的な示唆であった。
「あ、あれは……」
「あの言葉のおかげで、僕は正しい道筋を見つけることができました。感謝しています」
イサクは淡々とそう告げた。彼は他者の功績を正当に評価することに躊躇いがない。それがたとえ、彼が興味を持たない「青い果実」からのものであったとしても。
だがその言葉がセシリアの心に温かい光を灯す。
それを機としたか、今しかないとセシリアは思った。
もう一歩、距離を縮めたい──そんな思いで勇気をだして切り出してみる。
「あ、あの、イサク様」
「何でしょう」
「その……もし、ご迷惑でなければなのですが……」
セシリアは一度深く息を吸い込むと、イサクの目を真っ直ぐに見据えて言った。
「わたくしのこと、クラインフェルト嬢ではなく、セシリアと、呼んではいただけませんか?」
イサクは一瞬、困惑したかのように眉をひそめた。そして極めて事務的な口調で問い返す。
「……僕たちはそこまで親しい間柄でしたでしょうか?」
そんな身も蓋もない反応にセシリアは一瞬固まってしまう。
「えっ……」
──違う、そんなつもりでは!
狼狽え、慌てて言葉を紡ぐセシリア。
「え、そ、そんな! その、わたくしたち、お、お友達ではございませんか!」
必死の形相である。その瞳にはかすかに涙さえ浮かんでいた。
その勢いに若干押されたか、イサクはやや訝し気にセシリアを見つめ──
うん、と一つ頷いていった。
「……確かに。そうかもしれませんね。わかりました。ではこれからはセシリアと呼ばせていただきます」
「……! はい!」
その言葉を聞いた瞬間、セシリアの顔がぱっと花が咲いたように輝いた。先ほどまでの涙はどこへやら、満面の笑みを浮かべている。
こうして、二人の関係はわずかに変化した。セシリアにとっては大きな一歩。だがイサクにとっては単なる呼称の変更に過ぎない。
彼がセシリアを「友人」として認識したのは事実だ。だがそこに男女間の感情が入り込む余地は相変わらず微塵も存在しない。彼のストライクゾーンは遥か上空、成熟しきった果実のある領域に固定されているのだから。
そんな事実にセシリアが気づく日は果たして来るのだろうか。まあ、来ない方が幸せなのかもしれないが。