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講義終了を告げる鐘が鳴り終わるや否や、教室は解放感と喧騒に包まれた。やれやれといった顔で教科書を閉じる者、次の講義へと足早に向かう者。いつも通りの光景である。
だがセシリア・クラインフェルトの心は晴れない。それどころか、むむむ、と柳眉の間にくっきりと皺を寄せ、特定の一点を睨みつけていた。
ここ最近、セシリアには大きな、それはもう、彼女にとってはそれこそ帝国の存亡に関わるほど大きな気がかりがあった。
その原因は教室の後方にある。
彼女が敬愛してやまないイサク・サザーランド様。そしてその隣に我が物顔で陣取っている男──アルフォンス・ド・ロンドブル。
金髪碧眼、完璧な彫像。だがセシリアに言わせれば、家柄と容姿だけが取り柄の中身空っぽなハリボテ男である。
そんな男がなぜイサクの隣にいるのか。
現に今もそうだ。講義が終わったというのに、二人は席を立たずに何やら話し込んでいる。アルフォンスが熱心に語りかけ、イサクはいつものように感情の読めない表情でそれを聞いている。
一見すれば、アルフォンスからイサクへの一方通行の関係に見えるかもしれない。傍目にはイサクが迷惑しているようにすら映るだろう。
だがそうではない。そうではないのだ。
「どうしたの、セシリア様。そんな怖い顔をして」
隣から、のんびりとした声がかかる。友人のカナッペ子爵令嬢だ。セシリアと同じく地味めの令嬢で、この学院では数少ない気のおけない友人である。
「……あれをご覧くださいまし。お二人、ずいぶんと親しそうにしていませんか?」
セシリアは唇を尖らせ、視線でイサクたちを示す。カナッペ子爵令嬢は言われた通りに二人を見たが特に変わった様子はないように思えたらしい。小首を傾げる。
「ええ~? そうかしら……。まあどちらかというと、イサク様は話す事自体があまりお好きではない様に見えますわね」
客観的に見れば、その指摘は正しい。イサクはアルフォンスを友人と思ったことは一度もなく、単なる情報源か、あるいは奇妙な生態を持つ生物として観察しているに過ぎない。だが恋する乙女の目は現実を都合よく捻じ曲げるものだ。
「いいえ!」
セシリアは友人の言葉をきっぱりと否定した。
「わたくしには
「楽しんで? あの無表情で?」
「アルフォンス様との会話に知的な刺激を受けていらっしゃるのです。よりにもよって、あの顔だけの男と……!」
セシリアは悔しそうに唇を噛み締めた。
「そうかしら……」
カナッペ子爵令嬢は相変わらず懐疑的。あの無表情のどこをどう見れば「楽しんでいる」と解釈できるのか、常人には理解しがたい。
セシリアはもどかしさに身を捩った。このままでは埒が明かない。ならば。
「話を聞いてみればわかる事ですわ!」
セシリアは意を決したように立ち上がった。
「もう少し近づいてみましょう。いまならお二人とも話に夢中なはずですから、周囲への注意はおろそかになっているはずですわ」
「ええっ!?」
カナッペ子爵令嬢は目を丸くした。
「そんな、はしたないですわよ、セシリア様。盗み聞きだなんて」
「人聞きが悪いですわね。これは情報収集ですわ。イサク様をお守りするための、正当な諜報活動ですのよ」
都合の良い解釈である。セシリアは友人の手を強引に引くと、出口に向かうふりをしながら、ゆっくりとイサクたちのいる後方の席へと近づいていった。その姿は真剣そのもの。健気というより、少々必死すぎる感は否めないが。
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二人はイサクたちの死角、ちょうど柱の陰に隠れるように位置取った。息を殺して耳を澄ます。アルフォンスの、やけに張りのある声が聞こえてきた。
「──というわけさ。やはり男同士、こういう話は盛り上がるな」
どうやらセシリアが想像していたような高度で学術的な議論ではなかったらしい。アルフォンスはいつもよりテンションが高く、どこか下世話な響きがある。
「この前、屋敷に戻った際、新しく入った下女を味見してみたのだ」
──味見?
セシリアは眉をひそめた。
「田舎から出てきたばかりでね。最初は怯えていたが少し脅してやったらすぐに股を開いたぞ。まったく、身分の低い女というのは単純でいい」
アルフォンスは自慢げに語り続ける。その内容はセシリアの想像を遥かに超えて下品だった。
「あの細い腰を掴んで、後ろから突き上げてやった時の、あの悲鳴のような喘ぎ声。あれは癖になる。そうは思わないか?」
柱の陰で、セシリアとカナッペ子爵令嬢は顔を見合わせた。
((……最低ですわね))
声に出さず、唇の動きだけで意見が一致する。
──本当に下品な方! 顔が良くても中身があれなら意味はありませんわね
セシリアは憤慨した。だが問題はイサクだ。彼がこの下劣な話にどう応じるのか。
「……そうですか」
イサクの声。いつも通りの、淡々とした相槌だ。
「まあ、恨まれない程度に」
その素っ気ない返事に、セシリアはほっと胸を撫で下ろした。
──よかった。さすがはイサク様。あんな低俗な話には興味を示されないのね。きっと、人間観察の一環として聞いていらっしゃるだけだわ。
アルフォンスはイサクの反応が薄いことに少し物足りなさを感じたようだが、それを照れ隠しか何かと解釈したらしい。めげずに話を続ける。やがて話が一区切りついた時。彼はふと、イサクの方に向き直った。その目には好奇心が宿っている。
「ところで、サザーランド君」
アルフォンスはニヤリと笑った。
「君はその……経験は?」
空気が止まった。
セシリアの心臓がドクリと大きく跳ねる。
(け、経験……!?)
それはつまり、そういう事だ。女性との交わりの経験。
──やめて! 聞きたくない! でも知りたい!
セシリアの心は千々に乱れた。イサク様は清廉潔白なお方に違いない。そうに決まっている。もし、もしも経験があったら? どこの誰とも知れない女と、あんなことやこんなことを……。
固唾を呑んで、イサクの答えを待つ。
イサクは少しの間、沈黙した。そしていつもの感情の読めない声で、短く答えた。
「……ええ、まあ。それなりには」
──!!!!
その瞬間、セシリアの世界が音を立てて崩れ落ちた。
ある。あるのだ。イサク様に経験が。それも、「それなりに」。
「ほう! それは意外だな!」
アルフォンスが愉快そうに声を上げる。彼にとってはこの朴念仁が自分と同じ「男」であったことが嬉しいらしい。
「相手はどんな女性だ? 差し支えなければ聞かせてもらえないか」
「……それについてはお答えしかねます。相手のこともあるので」
イサクはぴしゃりと言い放った。その声にはこれ以上の詮索を許さない響きがある。
「む……そうか。それは残念だ」
アルフォンスはあっさりと引き下がる。
「では僕はこれで」
イサクはそう言うと、さっさと席を立ち、教室を出て行ってしまった。
後に残されたのは柱の陰で呆然と立ち尽くす二人の令嬢だけだった。
「…………」
沈黙。重苦しい沈黙。
先に口を開いたのはセシリアだった。その声は震えている。
「……聞きましたか」
「え、ええ。聞きましたわ」
「イサク様に……経験が……それなりに……」
セシリアの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「そ、そんな……」
「ま、まあそこまで落ち込む事では……。やはりご嫡男ですから、指南などを受けて経験を積む場合もありますし」
カナッペ子爵令嬢が言うが、セシリアはおよよと泣き崩れてしまう。
「お互い、初めて同士がよかったのに……!」
それはあまりにも切実な、そしてあまりにも身勝手な乙女の嘆きだった。イサクと結ばれるその日、二人で初々しく愛を確かめ合う。そんな夢のような光景が今、無残にも崩れ去ったのだ。
カナッペ子爵令嬢は涙ながらに訴える友人を見つめながら、きょとんとした表情を浮かべた。そして極めて冷静に首を傾げる。
「お互い……? いや、それはまあわかりますけれども、イサク様とセシリア様はただのご友人のはずでは……。い、いえ、今のところはという意味ですが……」
セシリアの頭の中ではイサクと結ばれる事はすでに規定路線らしい。だがイサクが筋金入りの熟女好きとしった時、彼女は何を思うだろうか。