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──風俗か。
その単語が脳裏をよぎった瞬間、イサクの意識は今生(アルバラ帝国)の絢爛たる貴族社会から、遠く霞んだ前世(日本)の記憶──それも、決して上等とは言えない、むしろ安っぽく湿り気を帯びた記憶の断片へと引き戻されていた。
イサクがまだ、言語学という金にならない学問の迷宮を這いずり回る、うだつの上がらない「虻川伊作」であった頃の話である。彼にも、まあ、そういう時期はあったのだ。
あれは確か、大学二年の夏だったか。東京の片隅、鶯谷。駅を出ればすぐさまラブホテルが林立し、昼夜を問わず欲望が渦巻く、あの独特の街。
いや、正確には風俗店に足を運んだわけではない。伊作が利用したのはデリバリーヘルス、通称デリヘルというサービスだった。指定した場所──大抵はホテルか自宅──に女性を呼び、
意外に思われるかもしれないが伊作は店についてのリサーチを一切しなかった。するべきだとは理解していた。彼はこれでいて現実的な男であり、何事も計画的に進める質(たち)だ。だが若かった。初めての異性との交渉にあたって、どこか運命論的なものにすがりたいという、青臭い感傷があったのかもしれない。
行き当たりばったりでラブホテルにチェックインした伊作は備え付けのパソコンでデリヘルのポータルサイトを開いた。無数の店舗情報が猥雑な光と共に点滅している。その中から彼が選んだのは七十分で一万円という、この界隈ではいささか危険な匂いのする格安店だった。理由は単純。金がなかったからである。
そして、待機中の女性リストをスクロールする。彼の指が止まったのはリストの最下段、最も年嵩と思しき女性の写真だった。
──これだ。
伊作の嗜好は当時から一貫していた。若い娘の持つ無垢さや瑞々しさには微塵も興味が湧かない。彼が求めるのは人生の酸いも甘いも噛み分けた末の、熟しきった果実。プライドや諦念、隠された欲望が内側で発酵し、独特の芳香を放つ女体こそが彼の心を捉える。
写真に写るその女性はどうにも冴えない顔立ちをしていた。照明の当て方が悪いのか、あるいは加工技術が稚拙なのか、五十代に手が届くのではないかと思えるほどに老けて見える。ほうれい線がくっきりと刻まれ、目元には疲労の色が濃い。
──悪くない。
伊作は満足げに頷き、指名ボタンを押した。心臓が早鐘を打つ。これから始まる未知の体験への期待とかすかな恐怖。部屋の安っぽい芳香剤の匂いがやけに鼻についた。
四十分後。インターホンが鳴った。
そして、扉を開けた瞬間、伊作は我が目を疑うこととなる。
「お待たせしましたぁ、ミカでぇす」
そこに立っていたのは写真とは似ても似つかぬ、思いのほか若い女だった。年の頃はせいぜい三十代前半といったところか。確かに成熟はしているが伊作が期待していたような、枯れかけた熟女のそれではない。化粧は濃いが肌にはまだ張りがあり、声にも妙な若々しさがある。
──話が違う。
伊作は内心で深く、深く落胆した。これは詐欺画像もいいところである。普通ならば、写真よりも実物が若くて美しいことを喜ぶ場面だろう。だが伊作にとっては逆だった。彼は五十路の女を求めていたのだ。三十路の女など、彼にとってはまだ青い果実に過ぎない。
「あの……写真と随分違いますね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「えー? そうですかぁ? あ、もしかして、もっと若い子の方が良かったですか?」
女は的外れなことを言いながら、伊作の反応を窺うように小首を傾げる。その仕草がまた、伊作の神経を逆なでした。
「いえ……そうではなく」
まさか「もっと年寄りが良かった」などと言えるはずもない。伊作は曖昧に言葉を濁すととにかく女を部屋の中へと招き入れた。金はすでに払ってしまったのだ。今更キャンセルするわけにもいかない。
そこから先の七十分間は伊作にとって苦行以外の何物でもなかった。
女はプロとして、それなりに懸命にサービスをこなそうとしていた。型通りの手順で伊作の体を洗い、ベッドへと誘導する。そして、その技術を駆使して伊作の欲望を昂らせようとする。
だが伊作の心は冷え切っていた。
女の肌から漂うのは安物の香水と若さ特有の甘ったるい体臭。彼が求めていた、人生の年輪が刻み込んだ複雑で芳醇な匂いではない。
──違う。こんなものではない。
女が伊作の体に触れるたび、その滑らかな肌の感触が彼を現実に引き戻す。彼が望んでいたのはもっとたるんだ、皺の刻まれた、それでいて確かな存在感を持つ肉体だった。
「……気持ち、良くないですか?」
伊作の反応の鈍さに女が不安げな表情を浮かべる。
「いえ……大丈夫です」
伊作は感情のこもらない声で応じると目を閉じ、必死に想像力を働かせた。
目の前にいるのは五十を過ぎた、くたびれた女。その白い肌には無数の皺が刻まれ、その瞳には深い諦念が宿っている。彼女の高いプライドを自らの力で踏み躙り、屈服させる──そんな倒錯的な妄想を燃料にして、ようやく彼は自らの役目を果たすことができた。
全てが終わった後、女はそそくさと身支度を整え、部屋を出て行った。後に残されたのは虚しさと自己嫌悪とそして安っぽい香水の残り香だけだった。
初めての性体験はこうして苦い記憶として伊作の心に刻まれたのである。
以来、彼は二度と風俗を利用することはなかった。金がなかったというのもあるがそれ以上に自分の歪んだ嗜好を満たすことがいかに困難であるかを思い知らされたからだ。
◆
──まあ、過ぎたことだ。
イサクは思考を現在へと引き戻す。窓の外には帝都の夜が広がっていた。ガス灯の淡い光が石畳を照らし、夜霧が街並みを幻想的に霞ませている。
待ち合わせ場所である帝都中央広場の「勝利の女神像」の前にイサクは約束の時間より十分ほど早く到着した。こういう時に相手を待たせるのは主義に反する。
今夜のイサクは学院の堅苦しい制服ではなく、上質なウールで仕立てられた濃紺のコートを纏っていた。とはいえ、そのずんぐりとした体躯を隠すことはできず、華やかな帝都の夜景の中ではいささか場違いな印象は否めない。
やがて、広場の向こうから、一人の男が颯爽と歩いてくるのが見えた。
「やあ、イサク! 待たせたかな」
アルフォンス・ド・ロンドブル。相変わらず、絵に描いたような貴公子ぶりである。月明かりを弾く絹糸のような金髪、彫像のような顔立ち。その身に纏うのは最新の流行を取り入れた、しかし決して華美すぎない、洗練されたデザインの燕尾服。彼がそこに立つだけで、周囲の空気が華やぐ。
この男はイサクとの間に強固な友情が成立したと信じて疑っていないらしい。その思い込みの強さにはもはや感心を通り越して呆れるほどだ。
「いえ。僕も今来たところです、ロンドブル殿」
イサクは完璧な貴族の礼を取りながら、感情の読めない声で応じた。あくまで「殿」と呼ぶことで、一定の距離を保つことを忘れない。だがそんな些細な抵抗も、アルフォンスの鋼のメンタルの前では無意味だった。
「堅苦しいな、イサク。僕たちの仲じゃないか。さあ、行こう。今夜は君に本物の大人の社交場というものを教えてやる」
アルフォンスはそう言って、慣れた様子でイサクの肩を軽く叩いた。その動作には親愛の情が込められているつもりなのだろうがイサクにとっては不快な接触以外の何物でもない。
二人は連れ立って、広場から伸びる大通りを歩き始めた。目指すは帝都の東地区、通称「夜の宝石箱」と呼ばれる一帯。高級貴族や大商人を相手にした、格式高い娼館や会員制クラブが軒を連ねるエリアである。
通りを進むにつれ、街の雰囲気は徐々に変化していく。石造りの重厚な建物が増え、道行く人々の服装も目に見えて上等なものになっていく。どこからともなく甘い香水の匂いや、楽器の音色が漂ってくる。
「どうだ、イサク。君もこういう場所は初めてではないだろうが今夜行くところは格が違うぞ」
アルフォンスは得意げに語り始めた。彼は自分がイサクよりも遥かに経験豊富で、洗練された大人であると信じて疑わない。その優越感が彼の言葉の端々に滲み出ていた。
「店の名は『黄昏亭』。表向きは高級料亭だがその実態は帝国でも指折りの高級娼館だ。客層は厳選されており、僕のような公爵家の者か、あるいはそれに準ずる者しか入店を許されない」
「ほう。それは興味深いですね」
イサクは適当に相槌を打つ。彼の関心は店の格式や客層などにはない。彼が知りたいのはそこにどのような「果実」が揃えられているか、ただそれだけだ。
「だろう? あそこの女たちは皆、一流の教養と美貌を兼ね備えている。ただ体を売るだけの娼婦とは訳が違う。彼女たちとの会話はどんな学術的な議論よりも刺激的だぞ」
アルフォンスの言葉には熱がこもる。彼が語る「一流の女」の定義がイサクのそれとは根本的に異なっていることなど、彼は知る由もない。
やがて、二人は目的の店の前に到着した。
『黄昏亭』。その外観はアルフォンスの前口上とは裏腹に驚くほど控えめなものだった。豪奢な装飾や派手な看板はなく、ただ重厚な黒檀の扉が静かに閉ざされているだけ。一見すると歴史ある貴族の屋敷のようにも見える。知らなければ、ここが帝都随一の高級娼館であるとは誰も気づかないだろう。
「見た目は地味だが中に入れば驚くぞ。内装はなかなか洒落ているんだ」
アルフォンスはそう言うと扉の横にある呼び鈴を鳴らした。
しばらくして、内側から鍵の外れる音が響き、ゆっくりと扉が開かれる。
中から現れたのは一人の老人だった。年の頃は六十代半ば。白髪を綺麗に撫で付け、皺の一つもない完璧な執事服を身に纏っている。その立ち居振る舞いは長年貴族に仕えてきた者特有の洗練されたものだった。
「ようこそお越しくださいました、アルフォンス様。お待ちしておりました」
老人は深く、しかし流れるような動作で一礼した。その声は穏やかだが不思議な威厳を帯びている。
「うむ。待たせたな、エドワルド」
アルフォンスもまた、いつもの尊大な態度を引っ込め、この老人に対しては敬意を払っているようだった。
「彼がエドワルド。この屋敷の支配人だ」
アルフォンスはイサクに紹介すると改めてエドワルドに向き直った。
「今夜は僕の友人を紹介したい。彼もまた、この店に相応しい人物だ」
そう言って、彼はイサクを示す。
エドワルドと呼ばれた男の鋭い、しかし穏やかな視線がイサクに向けられた。その目は単なる使用人のものではない。長年、この裏社会で数多の権力者たちを相手にしてきた者だけが持つ、相手の本質を見抜くような深い洞察力を宿していた。
イサクは表情を変えず、静かに一礼する。
「イサク・サザーランドと申します。以後、お見知りおきを」
「サザーランド侯爵家の……」
エドワルドは一瞬、何かを思案するように目を細めたがすぐに完璧な支配人の笑みを取り戻した。
「これはご丁寧に。ようこそお越しくださいました、イサク様。どうぞ、中へ」
エドワルドに導かれ、二人は屋敷の中へと足を踏み入れる。扉が閉まると同時に外の喧騒は完全に遮断された。
中は外観からは想像もつかないほど広く、そして豪華だった。磨き上げられた大理石の床、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア、壁には高名な画家の手による絵画が飾られている。アルフォンスの言う通り、実に洒落た内装だ。
だがイサクの興味を引いたのはその豪華さではなかった。彼が感じ取ったのはこの空間を満たす、濃密な「匂い」。上等な香木と高価な酒とそして何よりも、数多の女たちが放つ甘く、むせ返るような体臭が混じり合った、欲望の匂い。
悪くない、とイサクは思った。
エドワルドは二人を奥の応接間へと案内すると静かに口を開いた。
「アルフォンス様にはいつも通りのご準備をさせていただきますが……」
そして、彼はゆっくりとイサクの方へと向き直る。その瞳には客の要望を完璧に叶えようとするプロフェッショナルの光が宿っていた。
「イサク様。お客様はどのようなタイプの女性がお好みでしょうか」
無論、答えは決まっている。
「この店で、最も年を重ねた方を希望します」
その答えを聞いたエドワルドは一瞬目を見開き、そして口の端にわずかな笑みを浮かべて──
「かしこまりました」
とだけ答えた。
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後年、イサクは自身の人生のターニングポイントはこの日であったと述懐する事になる。