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あの日を境にサザーランド侯爵家の空気は一変した。
変化の震源はそのイサクだ。
ドロテアはイサクがカトラリーを置くかすかな音にさえ、びくりと肩を震わせるようになった。
彼が水を飲もうとグラスに手を伸ばせば、その動きを目で追い、息を殺す。
イサクの視線が少しでも自分の方に向いたと感じれば、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
その怯えようは滑稽ですらあった。
絶対的な強者の前で、かつての傲慢さが綺麗さっぱりと剥がれ落ちた人間の姿というのは、なるほどこうも惨めなものか。
主従関係が逆転した際に動物が見せる典型的な服従行動と、何ら変わりはない。
エリナはそんな義母の姿を複雑な思いで見ていた。
あれほど憎んだ相手だ。
もっと胸がすくような思いがするのではないかと、心のどこかで期待していた。
だが実際に目の当たりにしたのは、ただただ萎縮しきった哀れな中年女性の姿だけである。
今のドロテアは、エリナにとって憎む対象ですらなくなりつつあった。
それよりもエリナの心を占めていたのは、義兄であるイサクに対する畏怖と感謝がない混ぜになったような感情だった。
あの日、部屋で見た光景が脳裏に焼き付いて離れない。
あの圧倒的なまでの魔力。
深淵をそのまま切り取ってきたかのような、底知れないプレッシャー。
あれは、父であるグレイル侯爵の魔力とは全く異質のものだ。
イサクを怒らせればどうなるか。
その想像はエリナの背筋を凍らせるのに十分だった。
しかし事実として、自分はそのおかげで救われたのだ。
理由はどうあれ、イサクがドロテアを屈服させたことでエリナの地獄のような日々は終わりを告げた。
(お礼をしなきゃ)
そう思うのに、足がすくむ。
数日もの間、エリナは屋敷の廊下でイサクとすれ違うたびに言葉をかけようとしては、結局何も言えずに俯いてしまうということを繰り返した。
そんな自分に嫌気が差したある日の午後、エリナは意を決してイサクの部屋の扉を叩いた。
ノックをする。心臓が自分のものとは思えないほど大きく鳴っている。
「……どうぞ」
中から、くぐもった声が聞こえた。
エリナは震える手でドアノブを回し、部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中は古い紙とインクの匂いで満ちていた。
壁という壁は天井まで届く本棚で埋め尽くされ、床にも読みかけの本が無造作に積み上げられている。
その本の山の中心で、大きな革張りの椅子に深く身を沈め、イサクは静かに書物を読んでいた。
「……何か用ですか、エリナ」
イサクは本から目を離さないまま、静かに尋ねた。
その声には何の感情も含まれていない。
「あの……その、先日は」
エリナはかろうじて声を絞り出した。
「お礼を、申し上げたくて」
その言葉に、イサクはようやく本から顔を上げた。
相変わらず表情の読めない静かな瞳だった。
「義母上のことでしたら、気にする必要はありません」
「でも、わたくしを助けてくださったではありませんか」
「助けたつもりはありませんよ」
イサクは淡々と言った。
「在るべき秩序を取り戻しただけです」
突き放すような響き。
しかしエリナには不思議と冷たいとは感じなかった。
そこには嘘や建前が一切なく、ただ純粋な事実だけが述べられている。
エリナはそのことに気づいていた。
「……それでも、です。それでも、わたしは救われました。本当に、ありがとうございます」
エリナは深く、深く頭を下げた。
絹のようなプラチナブロンドの髪が、さらりと床に流れ落ちる。
しばらくの沈黙。
やがて、小さなため息が聞こえた。
「……そうですか。どういたしまして」
イサクはそれだけ言うと、再び視線を本へと落とした。
もうエリナには興味がない、と全身で語っている。
エリナはゆっくりと顔を上げると、静かに一礼して部屋を辞した。
扉を閉め、廊下を歩きながらエリナは考えていた。
義兄であるイサクという少年について。
彼は決して、エリナのために行動したわけではないのだろう。
彼の言葉通り、ただ彼の信じる「秩序」に従っただけ。
そこに見返りを求める気持ちなど、微塵も存在しない。
けれど、だからこそ。
エリナの胸の中に小さな温かい光が灯るような感覚があった。
(お義兄様は怒らせたらきっと怖い)
あの日の光景を思えば、それは間違いない事実だ。
でも彼は決して理不尽な理由でその力を行使したりはしない。
極めて公平で、そしてどこまでも合理的。
そういう人なのだ。
その日の晩、この家に来て初めてエリナは安心して眠れた。
◆
エリナとの一件以来、イサクはサザーランド侯爵家の影の支配者として君臨していた。
表向きは何も変わらない。グレイルは魔術の研究に没頭し、エリナは穏やかな日々を取り戻し、そしてドロテアは不満そうに日々を過ごしている。
そう、不満なのだ。
ドロテアは不満でいっぱいだった。
イサクの存在そのものが、彼女のプライドを締め上げる枷だった。
イサクの視線、彼の発するかすかな物音、そのすべてが彼女の神経を逆なでする。
しかし逆らえない──恐ろしいから。
あの日の鉛のように重い魔力の圧力が、今も皮膚の下にこびりついているようだった。
そんなある日の夜更け。
自室で休もうとしていたドロテアの耳に控えめなノックの音が届いた。
侍女だろうか。いらえを返すより早く、音もなく扉が開かれる。
そこに立っていたのは寝間着姿のイサクだった。
「……このような時間に、何か御用でしょうか」
平静を装い、努めて穏やかな声を出す。
だが心臓は嫌な音を立てて脈打っていた。
イサクは答えず、ぬるりとした足取りで部屋に入り、内側から鍵をかけた。
カチャリ、という無機質な金属音がドロテアの逃げ道を完全に塞ぐ。
「義母上。少し、貴女に教えておかなければならないことがあります」
イサクの声が夜の静寂に溶ける。
「立場、というものについてです。貴女はまだ、本当の意味で理解していない」
「……理解しているつもりですわ。あなたは次期当主。私はその父の妻。分を弁えております」
震えを悟られまいと、ドロテアは背筋を伸ばす。
だが所詮は虚勢だった。
「いいえ。全く理解していない。弁えていたならば、あのような反抗的な眼で僕を見ないでしょう」
イサクは一歩踏み出し、そのぽっちゃりとした指先でドロテアの頬に触れた。
ひやりとした感触に、ドロテアの体が強張る。
「僕と貴女の、生命体としての絶対的な序列。僕が捕食者で、貴女が被食者であるという覆しようのない事実をしっかりと教え込みます」
その言葉と同時に、イサクの手がドロテアの顎を乱暴に掴む。同時に、イサクの瞳が妖しい光を放った。
すると──
「えっ……」
ドロテアの体が本人の意思とは無関係に動き始めたではないか。見えない糸に引かれる操り人形のように、手足が勝手に動き──
床で四つん這いの姿勢を取った。
「な……にを……!」
ドロテアの声が怒りと恐怖に声が震える。だが、体はぴくりとも動かない。
魔力の枷が、筋肉の繊維一本一本に至るまでを完璧に支配していた。
「声を出してもいいですよ。もっともこの部屋で発されるあらゆる音は外に漏れないようにしていますが」
イサクはドロテアの後ろに立つと、その上等な絹のネグリジェをまるで汚物でも扱うかのように指先でつまみ上げ、ビリビリと背中から引き裂いた。
冷たい夜気が露わになった肌を撫でる。背中のみならず、熟れた尻が無防備に晒されたのだ。
「ひっ……!」
羞恥にドロテアの体が粟立つ。
「今夜はこれを使います」
イサクの手に黒い靄のようなものが集まり、みるみるうちに一本の細い鞭の形を取った。魔力で物質を具現化させる高等技術だ。
ヒュッ、と空気を切り裂く音。
直後、ドロテアの背中に、焼けるような痛みが走った。
「あああっ!」
思わず絶叫が漏れる。魔術で拘束されていなければ、痛みでのたうち回っていただろう。鞭が当たった箇所が、みみず腫れのように赤く盛り上がるのが自分でもわかった。
「いい声です」
ヒュッ、パシンッ!
二撃目、三撃目が、立て続けに尻を打つ。肉が弾ける乾いた音と、遅れてやってくる灼熱の痛み。
「んんっ……! ぐ、うぅ……!」
ドロテアは必死に歯を食いしばり、悲鳴を堪えようとする。
イサクの前で無様に泣き叫ぶことだけは避けたかった。だがイサクは執拗に、同じ場所を何度も何度も打ち続けた。
そうされているうちに痛みの質が変わり始める。鋭い痛みの芯にじわりとした熱が宿り始めたのだ。
「打たれれば鋭く痛むでしょう、しかし」
再度の打擲。
熱が高まる。
(な、なんなのッ!?)
叩かれるたびに、体の奥がずくんと疼くのだ。下腹部に、覚えのある熱が集まってくる。その感覚に気づいた瞬間、ドロテアの心は絶望に染まった。
怒りや憎しみよりも強い、自己嫌悪と羞恥が彼女を襲う。
「貴女が感じているのは痛みだけですか? 違いますよね」
イサクは嘲笑う。鞭の先端がまるで生きているかの様にうねる
冷たい感覚が太腿の柔らかい内側を、ねぶるように滑ると思わず声が漏れた。
「ひぅっ!」
五十を過ぎた女があげるには、やや甲高い声だった。
その声が何を意味するかは他ならぬドロテア自身がよく知っている。
とろり、と内腿を伝うモノは間違いなく彼女の中心から分泌されていた。
「よがっているのですか? 淫売め」
イサクが嘲笑しながらかがみこむ。そして──ぬるり、と女陰を中指で撫でた。
「あ、ああッ!?」
指が、粘り気のある熱い液体の中で蠢いている。ドロテアの意思とは無関係に、そこは蜜で満ち、侵入者を喜んで迎え入れていた。
痛みと羞恥で絶叫したいのに、喉から漏れるのはくぐもった喘ぎだけだ。体の自由は完全に奪われ、快感という名の屈辱だけが神経を焼き尽くしていく。
「なんていやらしい体だ。叩かれ、辱められることを喜んでいる」
イサクの嘲るような低い声が耳元で響く。
その声に反応するように、ドロテアの体がびくんと大きく震えた。
ぬちゃり、くちゅり、と卑猥な水音が静かな部屋に響き渡る。イサクは一度指を引き抜くと、月明かりに照らされたそれをドロテアの目の前に突きつけた。
彼女自身の体から分泌された液体で、少年の指がぬらぬらと光っている。
その視覚情報がドロテアのなけなしの理性を粉々に打ち砕いた。
「ああ……あ……」
意味のある言葉にならない声が漏れる。
汗が額から流れ落ち、目に入って視界が滲んだ。
汗の匂いと、自分自身から発せられる甘くむせ返るような匂いが混じり合い、吐き気を催させる。
ヒュッ、と再び鞭が空を切る音がした。
身構えるドロテアだったが、痛みは来ない。その代わり、鞭の先端がみみず腫れになった背の隆起を愛撫するように優しくなぞった。
「ひぅっ……!」
焼けるような痛みの記憶と肌を粟立たせるような甘美な感触が混濁し、ドロテアの思考をぐちゃぐちゃにかき乱していく。
指先は絨毯を掻きむしり、力の入らない脚は小刻みに震え続けていた。
「もっと欲しいのでしょう? この、淫らな雌豚め」
イサクはドロテアの耳朶を甘噛みしながら囁いた。
その瞬間、熱い吐息が直接脳髄に注ぎ込まれたかのような錯覚に陥る。
もう限界だった。屈辱も、恐怖も、プライドも、すべてが快感の濁流に呑み込まれていく。
「あ、だめ……やめ……ッ、ぁ、ああああああッ!」
甲高い嬌声とともに、ドロテアの背中が弓なりに反った。
意識が白く染まり、体の芯が痙攣し、熱い奔流が内側から迸った。
全身の力が抜け、魔術の枷が解けると同時にぐったりと床に崩れ落ちる。
涙と鼻水と汗でぐしょ濡れになった顔を絨毯に押し付け、浅い呼吸を繰り返すことしかできない。
イサクはその無様な姿を冷たい目で見下ろすと、まるで汚れた玩具でも捨てるかのように背を向けた。
「今夜はここまでにしてあげますね、義母上。それではゆっくりおやすみなさい」
そうしてイサクは音もなく部屋を出て行った。
残されたのは、熟れすぎた果実が腐り落ちたような甘く不快な匂いだけだった。