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大陸北西部に位置する大国──アルバラ帝国。その歴史は一言で言えば「膨張」の歴史である。
建国より三百余年。初代皇帝が辺境の一都市国家から身を起こして以来、この国は休むことなく周囲を喰らい続けてきた。肥沃な平原も、資源豊かな鉱山も、そして独自の文化を持つ小国たちも。全ては帝国の胃袋へと収まり、咀嚼され、血肉へと変換されていく。
周辺諸国にとって、アルバラとは恐怖の代名詞に他ならない。彼らは帝国をこう呼ぶ。「貪る獣」あるいは「悪の枢軸」と。
だが帝国の民は胸を張ってこう反論するだろう。
「これは侵略ではない。無知蒙昧な蛮族に文明の光をもたらす、聖なる統一事業(グランド・ユニオン)である」──と。
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季節は冬。帝国の東方国境線。鉛色の空から、霙(みぞれ)交じりの雨が容赦なく降り注いでいる。地面は文字通り泥沼と化し、兵士たちのブーツを重く引きずり込んでいた。
東方諸国連合、第五防衛軍司令部。天幕の中で、司令官であるアレクセイ・“ファング”・ボロディン将軍は目の前の地図を睨みつけていた。いや、睨みつけるというよりは親の仇を見るような目で呪詛を吐きかけていると言った方が正しい。
「……第三防衛ラインが突破されただと?」
伝令の報告を聞き、アレクセイは拳を机に叩きつけた。インク瓶が跳ね、地図の上に黒い染みを作る。それはまるで、戦況の悪化を暗示する不吉な影のようだった。
「はい。帝国の魔導兵団による飽和攻撃です。奴ら、まるで湯水のように魔術を……」
「ええい、言い訳はいい!」
アレクセイは怒鳴った。だがその怒りの矛先は目の前の部下ではなく、遥か西の彼方にある帝都へと向けられている。
アルバラ帝国の軍事力、特にその魔術運用は異常だ。個々の魔術師の質が高いだけではない。奴らは魔術を兵器として完全にシステム化している。規格化された杖、簡易化された詠唱、そして徹底的な集団戦法。
かつての戦争にはまだロマンがあった。英雄的な魔術師が一騎当千の活躍を見せ、戦況を覆す。そんな物語が存在した。だが今の帝国軍にはそんなものはない。あるのは圧倒的な物量と冷徹な効率性だけだ。個の英雄ではなく、システムという名の巨人がただ淡々と敵を押し潰していく。
それを指揮しているのが今の皇帝だ。
「あの女狐め……!」
アレクセイは憎々しげに吐き捨てた。
アルバラ帝国皇帝、シェラハザード・バーラカーラ・シャマル・アルバラ。即位して二十年。先代皇帝の急死に伴い、帝冠を戴いた女帝である。彼女が即位してからというもの、帝国の領土拡張政策は加速の一途を辿った。反対派の貴族は粛清され、軍部は再編され、国家の全機能が「戦争」という一つの目的のために最適化された。
慈悲などない。彼女が下す決断は常に合理的で、そして身の毛もよだつほど冷酷だ。降伏した都市の住民を反乱の芽として一掃したこともある。捕虜を魔術実験の材料として使い潰したという噂も絶えない。
周辺国の人間は畏怖と憎悪を込めて彼女をこう呼ぶ。“冷血帝”と。
「人の血が通っているとは思えん。あの魔女の腹の中は氷と毒で満たされているに違いない」
アレクセイは震える手で酒瓶を煽った。酒でも飲まなければ、やっていられない。祖国が文化が誇りが。泥と鉄の塊に蹂躙されていく。神よ、なぜあの様な怪物をこの世に解き放たれたのか。
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その頃。憎悪と恐怖の中心地、帝都アルバラ。皇城「暁の宮殿」の最奥、皇帝の私室。
豪奢な調度品に囲まれたその部屋は戦場の泥臭さとは無縁の、芳醇な香りに満ちていた。シェラハザードはゆったりとしたガウンを纏い、長椅子に身を横たえていた。手元には東方戦線からの報告書。彼女はそれを一瞥すると心底退屈そうに放り投げた。
「……つまらぬ」
ぽつりと漏れた声はしかし鈴を転がすように美しい。白銀の髪、アメジストの瞳。年齢を感じさせない、というよりは年齢という概念を超越したかのような妖艶な美貌。
「陛下。戦況は順調のようですな」
陰から一人の男が現れた。宰相のベルンハルトである。初老の陰気な男だ。
「順調? 当たり前じゃ。あれだけの物量を投じておるのじゃぞ。勝てぬ方がおかしかろう」
シェラハザードは鼻で笑った。彼女にとって戦争とは単なる数字のパズルに過ぎない。兵站、魔力供給量、損耗率。それらを盤上で動かすだけの、退屈な作業。そこに人が死ぬとか、国が滅ぶとか、そういった感傷が入り込む余地はない。非情なのではない。彼女の視座があまりにも高すぎるのだ。人間という種を俯瞰し、群れとして管理する。それは羊飼いが羊の一頭一頭の名前を覚えないのと同じ理屈である。
「東方の蛮族どもも、これで少しは大人しくなるでしょう」
「だと良いがな。……いや、少しは抵抗してくれねば面白くない」
シェラハザードは嗜虐的に嗤った。世界中の人間が彼女を冷酷な独裁者だと罵ろうとも、彼女にとっては痛くも痒くもないのだ。
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さて、一方のイサク・サザーランドである。
彼は翌朝、学院の自室で目を覚ました。窓の外は快晴。小鳥がさえずり、平和な朝の光が差し込んでいる。昨夜の出来事はまるで夢のようだった。高級娼館『黄昏亭』。そこで出会った謎の女、シェラハ。
「……良い女だった」
イサクはベッドの上で伸びをしながら、独りごちた。あの圧倒的な存在感。円熟した肉体。そして何より、あの傲慢な態度が快楽の波に溺れて崩れ落ちていく様。思い出すだけで、朝から下半身が元気になる。
自身の下腹部で屹立したそれをみたイサクは──
「やはり僕にはこれだな」
などとつぶやく。
イサクは呑気に欠伸をすると身支度を整え始めた。今日の講義は午後からで、時間にはまだ余裕がある。ただ──昨晩の余韻がまだ抜けきっていない。
一瞬悩んだイサクは──
「この時間、マージは休憩中だったかな」
そんな事をいって部屋を出て行った。言うまでもなく、マージにしゃぶらせるためだ。
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帝国魔術学院もまた、冬の装いに包まれていた。生徒たちは厚手のローブに身を包み、足早に校舎を行き来する。中庭の噴水は氷の彫刻と化し、誰も近づこうとはしない。
そんな寒空の下、イサク・サザーランドはいつものように図書室にいた。
ここ最近のマージはずっとそんな感じである。当初はイサクの命令にも嫌悪感や抵抗感が見え隠れしていたのだが、彼女の息子の命を救ってからというもの、マージはイサクに一種の忠誠心のようなものを抱いた様で、イサクが命じればそれこそ何でもする始末だ。
男にとっては話が早く済んで良いだろう──と思う向きもあるかもしれない。しかし実のところ、イサクは内心で
イサクはふと、行きつけのラーメン屋で店主が毎回メンマをサービスしてきたことを思い出した。イサク──虻川 伊作はメンマがそこまで好きではない。嫌いではないが、ないほうがいいかなといった所である。しかしわざわざ入れてくれているので断るのもどうかな、と毎回仕方なく食べていた。
(アレとは少し違うかもしれないが──)
イサクはふうと息をつき、講義が始まる時間まで読書に勤しもうと本棚を眺める。
(さて、今日はどの文献を漁るか)
お、これなんかいいな──と思って手を伸ばしたその瞬間。
「おい、イサク!」
聞き慣れた、そして最近では少々聞き飽きた声が飛んできた。アルフォンス・ド・ロンドブルである。
彼は今日も完璧だった。白い息さえ演出の一部のようだ。仕立ての良い冬用のコートを颯爽と着こなし、こちらへ歩いてくる。
「やあ、ロンドブル殿」
イサクは足を止め、礼儀正しく、しかし事務的に応じた。
「君ならここにいると思っていたよ。ちょっと話があるんだが良いかな?」
「ええ、まあ」
「次の休みに狩りに行こうと誘おうと思っているんだ。勿論この誘いを断ったりはしないだろう?」
狩り。貴族の嗜みである。イサクは一瞬、顔をしかめそうになるのを堪えた。寒い中、森を歩き回り、罪のない獣を追いかけ回す。何が楽しいのかさっぱりわからない。肉が食べたければ市場へ行けばいい。
「……あいにくですが研究が立て込んでおりまして」
便利な断り文句である。
「そう言うなよ。今回は特別なんだ。父上の伝手で、皇室御用達の狩場に入れることになった」
アルフォンスは声を潜め、勿体ぶって言った。
「運が良ければ、陛下のお姿を拝見できるかもしれんぞ」
このアルバラ帝国で陛下といえば、当然“冷血帝”シェラハザードを指す。イサクの眉がぴくりと動いた。彼の中でその名は「歴史上の人物」あるいは「雲の上の存在」という認識だ。
(皇帝か……)
興味がないわけではない。この国を支配し、周辺国を恐怖のどん底に叩き落としている絶対権力者。どんな顔をしているのか。だがそれ以上に面倒くさいという感情もある。皇帝の御前ともなれば礼儀作法は煩雑を極めるだろうし、警備も厳重だろう。何より、寒い。
(さて、どうするか)
皇帝を見てみたい気持ちもあるが、面倒くさくもある。