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ここしばらく、エリナ・サザーランドは平穏極まる日々を過ごしていた。清潔なドレス、温かい食事、学ぶ機会。数ヶ月前には想像すらできなかった夢のような生活である。だがその甘美な日常の底で、拭い去ることのできない違和感が澱のように溜まっている事を自覚してもいた。
違和感の根源は義母ドロテアだ。あれほどエリナを憎悪し、その存在価値を塵芥(ちりあくた)の如く扱ってきた女がまるで人が違ってしまったかの様だ。
そして、あの夜。
深夜の廊下で偶然目撃してしまったドロテアの寝室での光景。月明かりの下で四つん這いになり、男根を模した張り型を自らの股間に宛がい、獣のように喘いでいた義母の姿。
エリナはその意味を理解できないほど幼くはなかった。貴族の令嬢としていささか早熟に過ぎるかもしれないがエリナには書物を通じて得た知識もあった。
──あれは確か……『償いの書』だったかしら
それはいわゆる告解の手引書である。ドロテアはエリナに対しての親としての義務はほぼ放棄していたものの、神学書に類する書物だけは与えていた。
現在ではその様な事はないがこのアルバラ帝国では数百年ほど前までは自慰行為は重大な罪とされていた時代がある。
神が創造したすべての物事には固有の「目的」や「自然の秩序」があるというのが帝国の国教──シェメシ光神教の教えであった。生殖にも「産み、地に満ちる」という目的があり、自慰行為はこの目的から逸脱した性的快楽の追求であり、神が定めた自然な秩序に対する違反──創造主の意図に反する行為であるため、重大な罪とされていたのだ。
まあ時が経つにつれてシェメシ光神教の世俗化が進み、人々の道徳観が宗教的な教義よりも、個人の幸福や権利に重きを置くようになってそのような見解が見直されるようになったのだが。
そういった経緯もあり、エリナは自慰行為というものが何かを知っていた。だが一目でそれとすぐわかったのはエリナ自身にも経験があった点が大きい。
それはまだ、ドロテアによる理不尽な暴力と罵倒の嵐が吹き荒れていた頃のこと。
昼間、些細なことで折檻され、冷たい床の上で蹲るしかなかった夜。空腹と惨めさに打ちひしがれていた時。そんな晩、エリナは古びた毛布の中でそっと自らの幼い股座へと手を伸ばした。
性欲の発露ではなく、救いに対する渇望がそうさせたのだ。神の教えを破ればきっと神が自分の存在に気づいてくれる。自慰に対する罰は与えられるかもしれないが今の状況からは脱する事ができる──そんな想いで、幼いエリナは自身の膣穴へと指を埋めていた。
指先で触れるまだ蕾のような秘部。そこを弄ればじわりと熱が集まり、やがて甘い痺れが全身を駆け巡る。その瞬間だけは痛みも、恐怖も、孤独も、全てが遠のいていく。現実から逃避するための唯一の手段──それがエリナにとっての自慰だった。そう、彼女の中で自慰行為とストレスからの解放は分かち難く結びついている。
だからこそ、思う。
(お母様も、何かに追い詰められている……?)
だが一体何が彼女をそこまで追い詰めているというのか。一つの可能性がエリナの脳裏を過った。
(まさか、お義兄様が……)
イサク・サザーランド。この屋敷の秩序を根底から覆した張本人。あのずんぐりとした、しかし底知れない力を持つ義兄。彼がドロテアに対して何か強い圧力をかけているのではないか。あの夜、ドロテアがイサクの名を呼びながら腰を振っていた事実がその疑念を補強する。
(お義兄様がお母様を虐げている……)
もしそうだったとしたら。
普通ならば、尊敬する義兄への幻滅や、あるいは恐怖を覚える場面かもしれない。だがエリナの心に湧き上がってきたのは奇妙なほどの静けさだった。
幻滅など、微塵もない。
イサクはエリナを救ってくれたのだ。あの地獄のような日々から、この平穏な日常へと引き上げてくれた。彼が何をしようと誰を虐げようとエリナにとってイサクは絶対的な庇護者であり、恩人である。その事実は揺るがない。
それにとエリナは思う。
ドロテアのあの言葉。
『もっと……わたくしを辱めて……くださいませ……っ』
あの熱に浮かされたような、甘く、切ない喘ぎ。あれは果たして、虐げられている者の声だっただろうか。むしろ、自ら進んでその屈辱を受け入れているかのような、奇妙な恍惚感が滲んでいなかったか。
(お母様は強い罪悪感を抱いているのでしょうか)
エリナはそう結論付けた。ドロテアはこれまで自分がエリナにしてきた数々の非道な仕打ちに対して、ようやく罪の意識に目覚めたのだ。そして、その罪悪感から逃れるためにあるいは自らを罰するためにイサクによる「辱め」を求めているのではないか。
だがそれはそれで、と冷ややかな感情が鎌首をもたげる。
(だとしたら……)
もっと早く、その罪悪感を抱いてほしかった──エリナはそう思う。今更、何をしても遅いのだ。エリナの心に刻まれた傷は決して癒えることはない。
エリナは自室の、豪奢な姿見の前に立った。そこに映るのは栗色の髪と利発そうな瞳を持つ一人の少女。数ヶ月前とは見違えるほど血色が良く、その肌には艶がある。
おもむろに服を脱ぎ始めるエリナ。
上質な生地のワンピースが音もなく床に落ちる。次にシルクのシュミーズ。そして、最後にドロワーズ。
糸一本纏わぬ完全な裸体が鏡面に映し出される。
窓から差し込む硬質な冬の光がその白い肌を照らし出す。まだ少女のあどけなさを残しつつも、その身体は着実に女性へと変わりつつあった。乳房はささやかながらも確かな存在感を主張し、腰のラインは滑らかな曲線を描いている。大人と少女の境目に立つ者特有の清純さと淫靡さが同居した肉体。
エリナはゆっくりと鏡に背を向けた。そして身体を捻り、自らの臀部を鏡に映し出す。
白く瑞々しい二つの丘の片方に
赤黒く引き攣れた、醜い痕──火傷の跡だ。
かつてドロテアが暖炉で焼けた鉄棒をエリナに押し付けた痕。あれから何年経っても、その痕は消えることなく、エリナの肌に刻み込まれていた。
エリナは無表情のまま、その痕をじっと見つめた。
痛みはない。だがその痕を見るたびに胸の奥底で何かがじくりと疼く。
怒り。憎悪。そして、復讐心──そのどれにも似た、しかしどれとも異なる感情であった。
鏡像の少女が瞳に冷たく暗い炎をめらりと燃やしエリナを見つめ返している。
◆◆◆
一方、サザーランド侯爵家当主であるグレイルだが。
この男の精神構造は実にシンプルだ。魔術の研究と最愛の息子イサク。この二つの要素で彼の世界は完結しており、それ以外の事象はノイズに過ぎない。
例えば妻であるドロテアが別人のように萎縮していること。義理の娘エリナがかつての陰鬱さを脱ぎ捨て、知的な輝きを増していること。そういった家庭内の変化は彼の意識にはあまり上らない。
まあエリナについては最近学業に励み、帝国魔術学院への進学も視野に入れているということで多少は視界に入っているが、それでも彼の関心の中心からは遠く離れている。ドロテアに至ってはもはや侯爵家の財政を安定させるための装置以上の意味を見出していない。せいぜいが『ここ最近は静かで助かるな』くらいのものだ。
魔術が六割、イサクが四割。残りの有象無象は四捨五入すればゼロ。実にわかりやすい優先順位である。
そんな彼に一通の手紙が届いた。イサクからのものだ。
グレイルは執務机に向かい、イサクからの手紙を何度も読み返した。そこには近況報告と共にある相談が綴られている。軍用魔術の権威であるタウラス教授から、その研究への参加を打診されたというのだ。
「……軍用魔術、か」
グレイルは独りごち、椅子の背もたれに深く身を預けた。
その言葉が彼の脳裏に遠い過去の記憶を呼び覚ます。二十年前の東方国境紛争。血と泥とそして魔力の残滓が焦げ付いた匂い。天空から呼び寄せた灼熱の隕石群が敵軍の頭上に降り注ぎ、大地を抉り、一個師団を地図上から消し去ったあの光景。
グレイルは英雄と讃えられたが、彼にとってはただの実験である。本来なら高位魔術師複数名を必要とする
かくして実験は成功し、グレイルもそれなりに知的好奇心を満たす事が出来た。数千、いや一万を超える人命を奪った事実も彼の心に何の痛痒も覚えさせない。グレイルとはそういう男なのだ。
そして──皇帝シェラハザードの命によって貴族社会からある意味で抹殺された。理由は簡単である。シェラハザードをして、グレイルは手に余ると考えたからだ。重用する事で確かに帝国は勢力を大きく伸ばす事ができるだろう。しかしなにがしかの理由で制御を外れたならばどうする、という話である。
まあ当のグレイルはその扱いに不満を覚えるどころか、逆に皇帝に感謝をしているぐらいなのだが。
◆◆◆
一頻り手紙を読み終えたグレイルは満足げに頷く。
──さすがは我が息子だ。
親の欲目であることは明らかである。グレイルはイサクを愛している。それはもう、溺愛と言っていい。イサクが望むことなら何でも叶えてやりたいし、彼の輝かしい未来に少しでも影を落とすものがあるなら、全力で排除したいと思っている。
そんなイサクの相談であるならば、とグレイルは助言を書き記し始めた。
まず、軍用魔術を学ぶこと自体は決して悪いことではない、とグレイルは記す。
『お前の知的好奇心が向かう先を父が制限することはない。学びたいと思う魔術があるならば、好きなだけ学ぶが良い』
そして、魔術の本質について彼の持論を続けた。戦争のための技術体系。その本質は「効率性」と「実用性」の極限的な追求にある。
『物事を一面的に捉えてはならない。例えば、敵を焼き尽くすための高熱を生み出す術式はその制御方法を応用すれば、厳冬期に作物を育てるための温室の熱源となりうる。敵の動きを封じるための重力操作は巨大な岩石を運び、橋や城壁を築くための技術に転用できるのだ』
そこまで書くと、グレイルのペン先がやや鈍る。
『だが忘れてはならないことがある。強大な力は常に他者の欲望を刺激する。お前の才能が政争の具として、あるいは戦争の駒として利用される危険性があることに常に注意をしなさい』
グレイルがしょうもない魔術馬鹿であることは天の理、地の自明であるのだが、別に政治的な観点から物事を見る事そのものができないというわけではない。客観視だってできる。やろうと思えばやれるのだ。ただ、自身のことなるとどうでも良いと思ってしまうだけで。
『父として情けない話だが私は魔術のことなら何でも教えることができる。だが政治的な立ち回り方というものをお前に教えることはできない』
それが偽らざる自己認識だった。 だが対策がないわけではない。グレイルは自らが取れなかった選択肢を息子に示すことにした。
『私にはできなかったことだがお前にはできるはずだ。学院において、他の高位貴族の子息たちとの関係を深めること』
人脈。それはグレイルが最も苦手とする分野だった。だがそれこそが帝国社会という名の迷宮を生き抜くための、最も確実な盾となる。
『強固な人脈は時にどんな防御魔術よりも強固な盾となる。お前が軽々に政治利用されることを防ぐ、抑止力となるだろう』
書き終えた手紙を読み返し、グレイルは満足げに頷いた。
手紙を封筒に入れ、蝋で封をする。
作業を終えるとグレイルの意識は再び、机の上に広げられた難解な魔導書へと向かった──窓の外ではいつの間にか雪が降り始めている。