◆
今朝のオルレアン公爵家の空気はひたすら重い。
理由は単純、当主であるリシャールの機嫌が最悪だからだ。
ヴァリーラ・ド・オルレアンはその重苦しい沈黙の中で、細く切ったオムレツを口へと運んだ。味はしなかった。舌の上でとろけるはずの上質な卵料理も、この空気の中では砂を噛むようなものだ。
向かいの席、遥か彼方に鎮座する父リシャールの顔色は窓の外に広がる帝都の曇り空よりも悪い。眉間に刻まれた深い皺。手にした新聞を握りしめる指の白く浮き上がった関節。
張り詰めた苛立ちが目に見えぬ棘となって空間を埋め尽くしている。
カチャンとがコーヒーカップをソーサーに戻す硬質な音が響いた。ヴァリーラの肩がほんの数ミリだけ跳ねる。
「……愚かだ」
リシャールが呟いた。それは独り言というには大きく、会話というには拒絶的だった。
「戦費の増大。物資の供出。そして今度は領民からの徴兵だと? 陛下もついにご乱心なされたか」
リシャールは新聞をテーブルに叩きつけた。バサリ、と広がった紙面には勇ましい言葉で飾られた戦況報告が躍っている。だがその行間から滲み出ているのは「敗走」の二文字だ。
ヴァリーラはナプキンで口元を拭い、恐る恐る声をかけた。
「お父様。……やはり、東方の情勢は芳しくないのですか?」
知らぬ存ぜぬを通すには帝都の空気はあまりにも張り詰めすぎていた。市場の物価は上がり、夜会での話題はきな臭いものばかり。オルレアン家の令嬢として、無関心を装うことは許されない段階に来ている。
リシャールは充血した瞳で娘を見た。
「芳しくない、だと? そんな生温かい言葉で片付くなら世話はない」
リシャールは吐き捨てるように言った。
「シグルドが落ちた」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。シグルドといえば東方国境線にそびえる帝国の守護神である。歴代皇帝が巨額の予算を投じ、幾重もの魔術障壁で固めた鉄壁の要塞。それが落ちた?
「……嘘、ですわよね?」
ヴァリーラは思わず身を乗り出した。公爵令嬢らしからぬ狼狽ぶりだったが父は咎めなかった。彼自身、その事実をまだ消化しきれていないのだ。
「事実だ。昨夜、宮殿から極秘の使者が来た。公式発表はまだだが時間の問題だろう」
リシャールは苦々しげに顔を歪めた。
「第五魔導師団は壊滅。生き残った兵たちは蜘蛛の子を散らすように敗走中だそうだ。……無様なものだ」
「で、ではすぐに奪還部隊を……!」
「いや」
リシャールは冷たく遮った。
「陛下は放棄を決断された」
「放棄!?」
ヴァリーラは絶句した。帝国の要をみすみす敵に明け渡すというのか。
「全軍を後退させ、バルデで迎え撃つおつもりだ。……正気の沙汰ではない。自国の領土を敵の餌場にするなど」
バルデは軍事拠点ではない。街道が交差する商業都市だ。そこまで敵を引き込むということはその間の広大な土地とそこに住む民を見捨てることを意味する。
「そのための防衛線構築だ。周辺の村を潰し、畑を焼き、焦土にして敵を待ち受ける。……莫大な金がかかる」
リシャールの怒りの本質はそこにあった。領土の喪失や民の犠牲よりも、オルレアン家の金庫が脅かされることへの憤り。今回の要請は過去のどんな増税よりも過酷なものになるだろう。リシャールにとって戦争とは帳簿の上での災厄でしかなかった。
収支と損得。その冷徹な天秤の上で人の命も領土も等しく計られるのだ。
「あの女狐め……。我々を財布か何かだと思っているに違いない」
リシャールが吐いた呪詛は重く、湿った空気となって部屋に澱んだ。
ヴァリーラは胸が塞がる思いだった。戦争。遠い世界の出来事だと思っていた火の粉がこの絢爛豪華な屋敷のすぐそばまで舞い落ちてきている。
──怖い。
本能的な恐怖が背筋を這い上がった。
ふとリシャールの視線がヴァリーラに向けられた。先ほどまでの苛立ちとは違う、値踏みするような、爬虫類めいた冷たい光。
「ところで、ヴァリーラ」
「は、はい」
「お前の研究はどうなっている」
唐突な話題の転換。だがヴァリーラの心臓は早鐘を打った。父が娘の学業に関心を示す時、そこには必ず裏がある。
「ええ、その……順調に進んでおりますわ」
嘘だった。あるいは願望と言い換えてもいい。
「ほう。例の、『並列詠唱における術式干渉の最小化』か」
「はい。理論構築は……あらかた」
ヴァリーラは視線を逸らした。
要するに魔術の同時行使だ。攻撃と防御、移動と探知。異なる系統の魔術を同時に操ることは至難の業とされている。人間の脳は一度に一つの術式しか構築できない。それを二つ同時に行うとなれば脳にかかる負荷は計り知れない。ヴァリーラはそれを術式の工夫によって技法として確立し、誰でも扱える技術にしようとしていた。完成すれば画期的な発明となるはずだった。
だが現実は甘くない。
理論上は完璧でも実践の段階でどうしても「乱れ」が生じる。二つの術式が互いを侵し、魔力が反発し合い、霧散してしまうのだ。まるで水と油のようにどれほど混ぜ合わせようとも分離してしまう。ここ数ヶ月、彼女はその壁の前で立ち尽くしていた。
「……嘘をつくな」
リシャールの声は低く、鋭かった。ヴァリーラはびくりと肩を震わせた。
「行き詰まっているのだろう?」
「……申し訳、ございません」
「責めているわけではない。お前の才能は認めている」
リシャールはグラスの縁を指でなぞった。
「今回の戦争で、オルレアン家も相応の貢献を求められる。金だけではない。技術的な貢献もだ。もしお前の研究が完成すれば、いや、ある程度でもいい。形になれば、軍部に対して大きな発言力を持つことができる」
「はい……」
「だが時間がない。一刻も早く完成させる必要がある」
リシャールは身を乗り出した。その威圧感にヴァリーラは椅子に押し付けられるような錯覚を覚える。見えない巨大な掌が彼女の全身を圧し潰そうとしているかのようだった。
「そこでだ、ヴァリーラ。知恵を借りてはどうだ」
「知恵、ですか? 教授たちには既に……」
「違う。教授ではない」
父の目が怪しく光った。
「サザーランドの倅だ」
時が止まった。ヴァリーラの思考が真っ白に弾け飛ぶ。
「……誰のことでして?」
聞きたくなかった。だが父の口は残酷な名前を紡ぐ。
「イサク・サザーランドだ」
その名を聞いた瞬間、ヴァリーラの全身が総毛立った。胃の腑がねじ切れそうなほどの嫌悪感。脳裏に蘇る、あの屈辱的な光景。泥の味。見下ろす冷たい瞳。そして、父の執務室で受けた、家畜のような検分。あの日の悪夢が生々しい輪郭を伴って蘇ってくる。
「冗談……でしょう? お父様」
声が震えるのを止められなかった。
「あのような……あのような男にわたくしが頭を下げろとおっしゃるのですか?」
「下げろと言っている」
リシャールは冷淡に言い放った。
「先の決闘、私はこの目で見たがあれは単なる才能ではない。独自の、極めて合理的な体系を持っている。あれはな、ヴァリーラ。学ぶ者だよ。才に胡坐をかいていない。才の上に努力を積み重ねているのだ」
ヴァリーラが目指し、届かなかった場所にイサクは既に立っている。
「オルレアンの娘ならば、個人の感情よりも家の利益を優先しろ。あの男の知識を利用し、お前の研究を完成させろ。あるいは価値のある何かにしてみせろ。必要なら資金もだす」
ヴァリーラは唇を噛みしめたが──
「……わかりましたわ」
結局、屈服せざるを得なかった。
◆
翌日。
帝国魔術学院の大図書館へ続く回廊をヴァリーラは葬列に参列するような足取りで歩いていた。窓の外は素晴らしい晴天だというのに彼女の心の中は土砂降りである。
(なぜ、わたくしが。なぜ、あいつなんかに)
頭の中で、何度繰り返したかわからない呪詛を吐く。
イサク・サザーランド。この数ヶ月、ヴァリーラは彼を避けることに全力を注いできた。彼が食堂にいれば中庭へ。彼が東棟にいれば西棟へ。まるで穢れを避けるように徹底的に距離を置いてきたのだ。
だがその努力が皮肉な結果を生んでいた。避けるためには相手の居場所を知らなければならない。結果として、ヴァリーラは誰よりもイサクの行動の癖に詳しくなっていた。
イサクは放課後、必ず図書館にいる。それも人気の少ない最奥の領域──黴臭い古書に囲まれた、薄暗い一角がお気に入りということまでヴァリーラは知っている。
図書館の重厚な扉の前に立つと、ヴァリーラは深呼吸をして公爵令嬢の仮面を被り直した。毅然と。優雅に。たとえ相手が生理的嫌悪を催す豚のような男であっても臆してはならない──そう自分に言い聞かせる。
そうして扉を開けると、静謐な空気が流れ出してくる。広大な館内には学生たちの姿がまばらにあった。
ヴァリーラは視線を巡らせる、一番奥、窓際の死角にいるはずだ──が。
──いない。
そこには誰もいなかった。空っぽの机と椅子が鎮座しているだけだ。
(いない?)
拍子抜けした。同時に安堵感が胸に広がる。今日は帰ろう。いないものは仕方がない。父への言い訳も立つ──そんな言い訳が脳裏をよぎる。
念のため、近くの席で勉強していた女子生徒に声をかけた。地味な眼鏡をかけた下級生だ。
「ちょっとよろしくて?」
「ひっ! ははい! ヴァリーラ様!?」
声をかけられた生徒は飛び上がるようにして直立不動になった。まだ、怖がられているらしい。少しだけ気分が良くなる。
「イサク・サザーランドを見かけなくて? いつもこの辺りにいらっしゃるでしょう」
「あ、えと……サザーランド様ですか? い、いえ……今日はまだお見かけしておりませんが……」
生徒は怯えたように首を横に振る。
「そう。ありがとう」
ヴァリーラは短く礼を言い、背を向けた。いない。目撃情報もない。ならば、帰ろう。早足で出口へ向かおうとした。
その時だった。
ざわり、と背中の産毛が逆立った。何かが撫でた気がした。風ではない。物理的な接触でもない。もっと内側に直接触れてくるような、不快極まりない感覚。
ヴァリーラは足を止めた。
振り返るが誰もいない。静まり返った書架が並んでいるだけだ。
だが肌が覚えている。この感覚を。
忘れたくても忘れられないあの日の屈辱を。
──いる。
いや、正確には「いた」のだ。つい先ほどまで。この空間にイサクがいた。
匂いではない。魔力の残滓だ。それも、極めて特徴的な。
あの決闘の日。地面に這いつくばらされたヴァリーラの全身を蹂躙したあの魔力。重く、湿り気を帯びていてどこか油のような粘り気を感じさせる独特の質感。
それが漂っている。かすかに、しかし確実にこの図書館の空気にへばりついている。
(……気持ち悪い)
ヴァリーラは自分の腕をさすった。鳥肌が立っている。逃げ出したい。だが足は勝手に動いていた。まるで血の匂いを嗅ぎつけた猟犬のように、ヴァリーラはその「気配」を辿り始めていた。
不快な感覚が強くなる方へ。
ねっとりとした残滓が濃くなる方へ。
一般の学生が利用する閲覧席ではない。
もっと奥だ。
『帝国法・特別資料』の棚──埃っぽい空気が澱んでいる場所。
近づくにつれ息苦しさが増していく。まるで見えない蜘蛛の巣の中を進んでいるようだ。ヴァリーラは喉の奥が甘く痺れるような感覚をおぼえ、僅かに喘いだ。
だがなぜか、ここで引き返すわけにはいかない──そんな気になってしまっている。
ここだ。ここが発生源だ。
見る限りは誰もいない。だがそこからは妙な気配がする。
ヴァリーラは吸い寄せられるように書架の一点を見つめた。