◆
女の──いや、雌の勘というべきか。
ヴァリーラの鼻を一瞬、何かが突いた。
実際に匂いがしたわけではない。だが確かに香ったのだ、目の前に立つイサク・サザーランドから。しいて言葉にするならば、生臭さ。獣じみた、原始的な何かの残滓。
背筋を這い上がる不快感に、ヴァリーラは眉根を寄せた。
「……今まで、どこにいたのかしら」
ぽつりと口をついて出たのは問いかけというより独り言に近かった。
だがイサクは答える。
「ちょっとそこの書架で調べものをしていました」
しれっとした声だった。
その無表情な顔を、ヴァリーラは睨むように見上げる。ずんぐりとした体躯。脂の乗った頬。灰色の、感情を映さない瞳。どこからどう見ても、冴えない男──それが世間一般の評価だろう。
だが今の彼女にはそんな外見の印象など塵芥に等しかった。
あの決闘以来、イサク・サザーランドという人間は彼女の中で別の生き物として再定義されている。
怖い。
率直に言えば、そういうことだった。
あの日、ヴァリーラは思い知らされた。自分が誇りとしてきた魔術の全てがこの男の前では児戯にも等しいということを。圧倒的な実力差。それは彼女のプライドを粉々に砕くには十分すぎる体験だった。
そしてあの夜。父の執務室で──。
記憶が蘇りかけて、慌てて振り払う。思い出すな。考えるな。あの屈辱的な光景を。
だというのに、体は勝手に反応してしまう。
心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなる。逃げ出したい衝動と、目を離してはならないという本能的な警戒心が綱引きをしている。
「書架で調べもの、ですって」
声が硬くなるのを自覚しながら、ヴァリーラは言葉を継いだ。
「わたくし、先ほどからあの辺りを歩いていたのだけれど。あなたの姿など見かけませんでしたわ」
嘘ではない。
彼女はこの図書館に来た時から、妙な違和感を覚えていた。
最奥部の書架に近づこうとすると、なぜか足が別の方向へ向いてしまう。何度か試みたがそのたびに「そういえば別の資料を確認しなければ」という考えが頭をよぎり、気づけば来た道を戻っていた。
不自然だ。あまりにも。
だから意識して、強引に足を踏み出したのだ。理性で本能を押さえつけ、違和感の根源へと向かおうとした。
結果は──空振りだった。
奥の書架には誰もおらず、ただ古い本の匂いが漂うばかり。
狐につままれたような心地で立ち尽くしていたところへ、背後からこの男が声をかけてきた。
「人払いの結界でも張っていたのではなくて」
半ば当てずっぽうに、ヴァリーラは言い放った。
イサクの表情が動かない。
「さて。何のことでしょう」
白々しい。
だが証拠がない。
魔術的な残滓を探ろうにも、彼女の感覚はすでに何も捉えていなかった。もし本当に結界が張られていたとしても、痕跡を完璧に消し去っているということになる。
それはそれで末恐ろしい話だ。
「……ふん」
ヴァリーラは鼻を鳴らし、視線を逸らした。
追及しても無駄だろう。この男は嘘をつくにしても、決してボロを出さない。口で言い負かそうなどと考えるだけ時間の無駄だ──それは以前、サロンでの一件で学んでいる。
だが、だからこそ。
別の感覚が訴えかけてくる。
先ほど一瞬だけ嗅ぎ取った、あの生臭い気配。汗とも違う。血とも違う。もっと本能的で、原始的な──。
まさか。
ヴァリーラの頬に血が上った。
考えすぎだ。そうに決まっている。だいたい、この図書館の奥で、いったい誰と何を──馬鹿馬鹿しい。
だが一度浮かんだ疑念はなかなか消えてくれない。
むしろ考えれば考えるほど、あの違和感の正体に思い当たってしまう。人払いの結界。他者の接近を拒む術式。そんなものをわざわざ張る理由など、限られている。
「……どうかしましたか、オルレアン嬢。顔が赤いようですが」
イサクが淡々と言った。
「なっ……! べ、別に何でもありませんわ!」
反射的に声を荒げてしまい、自己嫌悪に陥る。
落ち着け。冷静になれ。この男の前で取り乱すな。
ヴァリーラは深呼吸をして、乱れた心を鎮めようとした。
考えてみれば、イサク・サザーランドが何をしていようと、自分には関係のない話だ。彼が書架の影で調べものをしていたのか、それとも別の何かをしていたのか──知ったところで、何になる。
それより。
ヴァリーラは目の前の男を改めて見据えた。
今、自分がこの男に用があるのは事実だった。むしろ、ここで出くわしたのは好都合と言えるかもしれない。
父、リシャール・ド・オルレアンの言葉が脳裏に蘇る。
──サザーランドの若造に頭を下げろ。お前の研究を手伝ってもらえ。
屈辱的な命令だった。
あの決闘で完膚なきまでに叩きのめされた相手に、今度は教えを請えというのだ。オルレアン公爵家の令嬢であるこの身が侯爵家の庶子ごときに。
だが父の言い分にも一理はあった。
──あの男の能力は本物だ。敵に回すには危険すぎる。ならば利用しろ。奴の知見を吸い上げ、お前自身の糧とするのだ。
父は娘の成長よりも、家の利益を優先している。それはわかっていた。イサクとの関係を構築することで、オルレアン家にとって都合の良い状況を作り出したいのだろう。
だがヴァリーラ自身にも思うところはあった。
復讐──などという大仰なものではない。
ただ、知りたかった。
この男の強さの根源を。あの圧倒的な魔術の力がどこから来るのかを。そしていつか自分もその高みに──少なくとも、一方的に蹂躙されるだけの存在ではなくなりたかった。
そのためには敵を知らねばならない。
いや、敵から学ばねばならない。
「サザーランド」
ヴァリーラは意を決して口を開いた。
「少し、話があるのだけれど」
「僕に?」
イサクが怪訝そうに──いや、その無表情からは何も読み取れないが声の響きにわずかな疑問の色があった。
「ええ。あなたに」
ヴァリーラは顎を上げ、できるだけ毅然とした態度を装った。
本心を言えば、この男と二人きりで話すなど気が進まない。胃の奥がきりきりと痛む。だがここで尻込みしては何も始まらない。
「……場所を変えましょう。ここでは人目がありますわ」
「人目、ですか」
イサクが周囲を見回す。閲覧席にはちらほらと学生の姿があった。熱心に本を読んでいる者、居眠りをしている者。誰もこちらを気にしてはいないようだが確かにこんな場所で込み入った話をするわけにはいかない。
「いいでしょう。ではどこへ」
「中庭に出ましょう。この時期、あそこは人が少ないはずですわ」
ヴァリーラは踵を返し、歩き出した。
背後からイサクの足音がついてくる。その気配を背中に感じながら、彼女は内心で自分を叱咤した。
怯えるな。この男に、これ以上の弱みを見せるな。
だが心臓は相変わらず五月蠅く騒いでいる。
◆
中庭は予想通り、人の姿がなかった。
冬の名残を引きずる冷たい風が吹き抜け、枯れ枝がかさかさと音を立てている。春の芽吹きはまだ先のようだ。石造りのベンチには薄く霜が降りており、座る気にはなれなかった。
ヴァリーラは噴水の縁に立ち、イサクと向かい合った。
沈黙が落ちる。
言い出したのは自分だ。自分から切り出さねばならない。
わかっている。わかっているのだが言葉が出てこない。
どう切り出せばいい。「わたくしの研究を手伝ってほしい」とでも言えばいいのか。それとも「あなたの知見を貸してほしい」か。どちらにしても、屈辱的であることに変わりはない。
あの決闘で負けた相手に、頭を下げる。
プライドが邪魔をする。
オルレアン公爵家の令嬢として培われてきた矜持が喉元まで出かかった言葉を押し戻す。
「……話があると言ったのは貴女でしょう」
イサクが静かに言った。急かすような響きはない。ただ事実を述べているだけの、淡々とした口調。
「待っていますよ。いつまでも」
その言葉に、ヴァリーラは奥歯を噛みしめた。
待っている、だと。
まるで余裕綽々ではないか。
自分がこうして葛藤している間も、この男は涼しい顔をしている。焦りも、苛立ちも、好奇心すらも見せない。ただそこに立っているだけ。
その態度がかえってヴァリーラの神経を逆なでした。
「……単刀直入に言うわ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
もう迷っている場合ではない。このままでは日が暮れてしまう。
「あなたに、わたくしの研究を手伝ってほしいの」
言った。
言ってしまった。
冷たい風が頬を撫でる。
イサクは無言だった。
その沈黙が永遠のように長く感じられる。
「手伝う、ですか」
やがて、イサクが口を開いた。
「それはまた、唐突な話ですね」
「唐突なのはわかっているわ」
ヴァリーラは顔を上げ、真っ直ぐにイサクを見据えた。
ここまで来たら、もう引き返せない。
「あなたと、わたくしの間に何があったか。忘れてはいないでしょう」
「ええ、覚えていますよ」
イサクの声に抑揚はない。
「だからこそ、不思議に思うのです。なぜ僕に」
「……あなたが優秀だからよ」
認めるのは屈辱だった。だが事実だ。
「あの決闘で、わたくしは思い知らされた。自分の魔術がいかに未熟か、ということを」
拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。
「今、わたくしは多重詠唱の簡略化を研究テーマにしているの。複数の魔術を同時に行使する技術──その効率化と実用化」
イサクの灰色の瞳がわずかに動いた。興味を引いたのかもしれない。
「あの決闘であなたが見せた無詠唱の魔術。あれを見て確信したわ。従来の理論では限界がある、と」
あの日、イサクは杖も詠唱も用いずに重力魔術を行使した。
ヴァリーラが誇りにしていた火炎と風の複合詠唱を、いとも簡単に無力化した。
その衝撃は今も鮮明に覚えている。
「杖に頼らず、詠唱を省略し、なおかつ複数の術式を同時に走らせる。それがわたくしの目指すところよ」
決闘の後、ヴァリーラは密かに鍛錬を重ねてきた。杖なしで魔術を行使する訓練。その成果は先日、マリアンを無力化した時に示した。
だがそれはまだ入り口に過ぎない。
単発の魔術を杖なしで放つことと、複数の魔術を同時に、しかも簡略化された手順で行使することは次元の異なる難題だった。
「でも、行き詰まっているの。独力では限界があるわ」
ヴァリーラは唇を引き結んだ。
次の言葉を口にするのに、全身の力が必要だった。
「あなたは古代語の専門家でしょう。そしてメーベル教授の特別講義でアシスタントを務めていると聞いたわ。『魔術の構造的解釈』──あれは多重詠唱の理論とも深く関わっているはず」
イサクが黙っている。
その沈黙が肯定なのか否定なのか、判断がつかない。
「……だからあなたの力を借りたいの。わたくしに、助言をほしい」
頭を下げることはできなかった。
それだけはどうしても。
だが声に懇願の色が滲んでいることは自分でもわかっていた。
イサクは依然として無表情だった。
だがその灰色の瞳がわずかに細められたように見えた。
「……興味深い申し出ですね」
その声に、ヴァリーラは緊張で息が詰まる。
承諾か、拒絶か。
どちらとも取れる、曖昧な響き。
「多重詠唱の簡略化、ですか」
イサクが顎に手を当てる。
「確かに、それは魔術理論における重要なテーマの一つです。メーベル先生も先日の講義で触れていた。『術式の構築においては単なる効率性だけでなく、その揺らぎを許容する遊びが必要となる』と」
ヴァリーラは目を見開いた。
あの講義は聴講していた。だがその言葉の真意までは理解できていなかった。
「揺らぎを許容する遊び──それは複数の術式を同時に走らせる際の干渉を吸収するための緩衝領域のことです」
イサクが淡々と説明を始める。
「従来の多重詠唱理論は術式間の干渉を完全に排除しようとする。だから複雑になり、詠唱が長くなり、実用性に欠ける」
「……そうよ。だからわたくしは行き詰まっているの」
「発想を逆転させるのです」
イサクの声がわずかに熱を帯びた──ように、ヴァリーラには感じられた。
「干渉を排除するのではなく、干渉を前提として術式を設計する。むしろ干渉を利用して、術式を相互に補完させる。そうすれば、従来の半分以下の詠唱で同等以上の効果を得られる可能性がある」
ヴァリーラは息を呑んだ。
それは彼女が漠然と感じていた方向性を、明確な言葉で示したものだった。
「あなた、それをどこで──」
「古代文献の解読ですよ。オルレアン嬢が行き詰まっているのはおそらく術式そのものではなく、その背景にある魔術哲学の部分でしょう」
図星だった。
術式の構造は追える。だがなぜそのような構造になっているのか、その「なぜ」が理解できなかった。
「古代の魔術師たちは現代とは全く異なるアプローチで多重詠唱を実現していた。その知見を再発見し、現代の理論と融合させることができれば──」
イサクはそこで言葉を切った。
ヴァリーラは食い入るように彼を見つめている。
「……手伝ってくれるの」
「条件があります」
イサクが言った。
「条件?」
「ええ。僕も暇ではない。貴女に時間を割くなら、それに見合う対価が必要です」
当然の要求だった。
ヴァリーラは身構えた。この男が何を求めてくるか、予想がつかない。
「……何が望みなの」
「貴女の研究成果を、僕にも共有してください」
その言葉に、ヴァリーラの表情が強張った。
「多重詠唱の簡略化に関する実験データ。それを僕にも閲覧させてほしい。僕自身の研究にも、参考になる部分があるかもしれない」
研究成果の共有。
一見すると、真っ当な要求に聞こえる。学術的な協力関係としてはむしろ自然な条件と言えるかもしれない。
だが──。
ヴァリーラの胸中に、黒い疑念が鎌首をもたげた。
この男は信用できるのか。
研究データを渡すということは自分の知見を相手に明け渡すということだ。もしイサクがその情報を利用して、先に論文を発表したら? あるいはオルレアン家の研究成果を自らのものとして横取りしようとしたら?
学術の世界において、研究の優先権は何よりも重い。
同じテーマを扱う者が二人いれば、先に成果を発表した方が全ての栄誉を手にする。後発者はたとえ独自に同じ結論に達していたとしても、単なる追随者として扱われる。
オルレアン公爵家の令嬢として、サザーランド侯爵家の庶子ごときに出し抜かれる──そんな屈辱は耐えられない。
だがそれ以上に恐ろしいのは父の反応だった。
もし研究を乗っ取られれば、リシャールはどう思うか。「だから言っただろう、あの男を信用するなと」──いや、違う。父はイサクに近づけと命じたのだ。つまり、失敗すれば全ての責任はヴァリーラ自身に帰せられる。
家名に傷をつけた愚かな娘。
そんな烙印を押されることになる。
「……それは」
言い淀む。
どう答えればいい。拒否すれば、イサクの協力は得られない。だが安易に承諾すれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。
沈黙が流れる。
冷たい風が二人の間を吹き抜けた。
「……警戒していますね」
イサクが静かに言った。
ヴァリーラは息を呑んだ。見透かされている。
「研究を乗っ取られるのではないか、と」
「……っ」
図星だった。
否定しようとして、言葉が出てこない。
「当然の懸念です」
イサクの声に非難の色はなかった。ただ事実を述べているだけの、淡々とした口調。
「学術の世界において、知的財産の保護は最優先事項の一つ。自らの研究成果を他者に明け渡すことへの警戒心はむしろ健全な反応と言えるでしょう」
ヴァリーラは黙ったまま、イサクを見つめた。
この男は何を言おうとしているのか。
「ですから、こうしましょう」
イサクはポケットに手を入れる仕草をした──実際には何も取り出さなかったが。
「貴女が有するいかなる権利も侵害しないことを、文書に起こしてサザーランド侯爵家の印章を押しても構いません」
ヴァリーラは目を見開いた。
侯爵家の印章を押す──それには大きな意味がある。
貴族の家印が押された文書は単なる個人間の約束ではない。家名そのものを賭けた誓約となる。もしそれを破れば、当人だけでなく一族全体の名誉が地に落ちる。社交界からの追放、他の貴族家との取引停止、最悪の場合は爵位の剥奪すらありうる。
つまり、イサクは自らの家名を担保にして、ヴァリーラの研究を横取りしないと誓うと言っているのだ。
「研究成果の所有権は全てオルレアン嬢に帰属する。僕が得た知見を論文等で発表する際は必ず貴女の名前を筆頭著者として明記する。これらの条項を明文化し、両家の印章を以て締結する。そうすれば、貴女の懸念は払拭されるのではないですか」
ヴァリーラは言葉を失っていた。
予想外だった。
この男がここまで誠実な対応をするとは思っていなかった。
サザーランド侯爵家はオルレアン公爵家に比べれば格下だ。だが帝国の貴族社会において、その名には確かな重みがある。特にイサクの父グレイルは魔術師として規格外の存在だ。その家名を賭けた誓約を破ることはイサク自身の将来を台無しにすることを意味する。
それほどの担保を、たかが研究協力のために差し出す。
正直なところ、理解に苦しむ。
「……なぜ、そこまで」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「なぜ、そこまでするの。あなたにとって、わたくしの研究を手伝うことに、そこまでの価値があるとは思えないのだけれど」
イサクは一瞬、沈黙した。
その灰色の瞳がどこか遠くを見つめているようだった。
「……価値があるかどうかはやってみなければわかりません」
やがて、イサクは静かに口を開いた。
「ただ、多重詠唱の簡略化というテーマ自体には興味がある。それに──」
そこで言葉を切る。
「それに?」
「僕は約束を違えることが嫌いなのです」
淡々と、しかし確かな重みを持って、イサクは言った。
「協力すると言ったなら、最後まで協力する。その過程で得た知見を横取りするなど、僕の流儀に反する」
ヴァリーラは黙ってイサクを見つめた。
この男は本気で言っている。
その確信がなぜか胸の奥に染み込んでくる。
「学問とは本来、知の共有によって発展するものです」
イサクは続けた。
「貴女が得た知見を僕が活用し、僕が持つ知識を貴女に提供する。互いに益のある取引。それ以上でも以下でもない」
しばしの沈黙。
風が木の枝を揺らす音だけが聞こえる。
「……わかったわ」
ヴァリーラは深く息を吐いた。
「その条件、呑みましょう。文書の件も、お願いするわ」
認めるのは癪だったがこれ以上の条件は望めないだろう。
侯爵家の印章付きの契約書。それがあれば、少なくとも法的な保護は得られる。もしイサクが約束を破れば、オルレアン家はサザーランド家を相手取って訴訟を起こすことができる。
そこまでのリスクを冒してまで、イサクがヴァリーラの研究を奪おうとするとは考えにくい。
「では話は成立ですね」
イサクがわずかに頷く。
「契約書の草案は僕の方で用意します。内容に問題がなければ、両家の法務担当を通して正式に締結しましょう」
「……随分と手慣れているのね」
「父上の研究でも、時折こうした共同研究契約を結ぶことがありますから」
なるほど、とヴァリーラは内心で納得した。
グレイル・サザーランド。あの変人魔術師の息子であれば、こうした事務手続きにも通じているのだろう。
「詳しい打ち合わせはまた改めて。今日は時間がありませんので」
「ええ。……感謝するわ」
最後の言葉はほとんど囁くような声だった。
礼を言うのは癪だった。だが言わないわけにもいかなかった。
イサクは特に反応を見せず、踵を返した。
「ではまた」
そう言い残して、中庭を去っていく。
その背中を見送りながら、ヴァリーラは複雑な感情を抱えていた。
安堵。屈辱。そしてかすかな期待。
この男から学べることは多いだろう。それは認めざるを得ない。
だが同時に、警戒心も消えてはいなかった。
図書館で嗅いだ、あの生臭い匂い。人払いの結界。この男が隠している何か。
イサク・サザーランドという人間の底がまだ見えない。
──それでも。
ヴァリーラは自らの拳を見下ろした。
この手で、あの男に届く力を手に入れる。
そのためならば、プライドの一つや二つ、飲み込んでやる。
冷たい風が吹き抜け、金色の髪を揺らした。
春はもう少し先のようだった。