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翌日の朝食の席は奇妙な静寂に包まれていた。
さながら嵐が過ぎ去った後の凪いだ海。だがその水面下では得体の知れない海流が渦巻いている。そんな息苦しいほどの静けさだった。
グレイルは上機嫌だった。最愛の息子が隣にいる。ただそれだけで、彼の世界は輝きに満ちていた。
「イサク、夏休みの間はずっとこちらにいるのだろう?」
「はい、父上。学院の課題もありますので、こちらの書斎をしばらくお借りしたく」
「うむ、好きに使うといい。お前のために用意したようなものだ」
親子がにこやかに言葉を交わす。
その会話がドロテアの耳に届いた瞬間、彼女の顔色からすっと血の気が引いた。白い陶器のように、表情が抜け落ちる。
夏休みの間、ずっと。
その言葉が意味するのはこの忌まわしい化け物がこの屋敷に滞在し続けるという事実。
地獄の日々がまだ延々と続くという宣告に他ならなかった。
スプーンを持つ手が、カタカタと微かに震える。その音に気づいたイサクがちらりとドロテアに視線を向けた。ただそれだけで、ドロテアの体は氷漬けにされたように硬直した。
昨夜の記憶が辱めと恐怖の感触が生々しく蘇る。肌を焼いた鞭の痛み。支配された体の無力感。そして屈辱の果てに与えられた、抗いがたい快感。
思い出しただけで、体の奥が疼き、足が震えそうになる。ドロテアは必死にそれを堪え、俯いて食事を続けた。もはや味など分からなかった。
そんな二人の様子を、エリナは戸惑いながら見つめていた。
食事が終わる頃、イサクがふとエリナに声をかけた。
「エリナはどのような学問を?」
「え? わ、わたくしは……」
突然話を振られ、エリナは狼狽えた。
ドロテアの方針で、エリナには家庭教師らしい家庭教師はつけられていない。
読み書き計算と、貴族の令嬢として最低限の作法を侍女から教わった程度だ。
「……大したことは、学んでおりません」
消え入りそうな声で答えると、イサクはこともなげに言った。
「では、僕が教えましょう。幸い、時間はいくらでもあります。古代語の初歩などは思考の訓練にもなってよろしいかと」
「え、でも……」
エリナが助けを求めるようにドロテアを見たが、当のドロテアは青ざめた顔で俯いているだけで、何の反応も示さない。
「遠慮は無用です。父上もその方がよろしいでしょう?」
「おお、そうか! それはいい考えだ、イサク。エリナもお前のような優秀な師に教われば、きっと見違えるようになるだろう」
グレイルが無邪気に笑う。こうして、エリナがイサクから勉強を教わることは、有無を言わさぬ決定事項となった。
食後、グレイルは早速書斎へと向かい、ドロテアはまるで何かに追われるように自室へと逃げ込んだ。重い扉を閉め、鍵をかける音がやけに大きくホールに響き渡る。
その日以来、ドロテアが食事以外の時間に部屋から出てくることはほとんどなくなった。まるで陽の光を避ける夜の生き物のように、彼女は自らの殻に閉じこもってしまったのである。
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イサクとエリナの授業は、屋敷の二階にある陽当たりの良い図書室で行われた。
エリナも帝都にある貴族子女向けの学院に通ってはいるが、そこで教わるのは歴史学や礼法、芸術といった、いわば「良き妻」となるための教養が中心だ。魔術に繋がるような専門的で難解な学問に触れるのはこれが初めてだった。
最初はエリナの方がひどく緊張していた。目の前に座る義兄はあの恐ろしい母をいとも容易く屈服させた絶対的な強者だ。学院での成績は悪くない方だが、彼の前で無様な姿を見せれば何をされるか分からない。
そんな彼女の心を見透かしたように、イサクは静かに口を開いた。
「エリナ。なぜ貴族、特に高い地位を目指す者が古代語を学ぶかご存知ですか」
「え……? 古い文献を読む、ため、でしょうか」
「それもあります。ですが本質は違う。帝国の法律、外交儀礼、高位貴族が交わす格式張った書状。その全ての根源には、この古代語の論理と思想が深く根付いているのです。これを理解することは、社交の場において他者を圧倒する見識と、物事の裏を読む洞察力を貴女に与えるでしょう。楽器や刺繍の腕とは、比較にならない力です」
その言葉はエリナの心に灯をともした。これは罰や試練ではない。自分に与えられた、初めての「力」なのだと。
授業が始まると、エリナはその期待に応えるように驚異的な集中力を発揮した。
イサクの教え方は学院のどの教師よりも明快で、本質を突いていた。決して丸暗記を強要せず、言語の構造と背景思想から丁寧に紐解いていく。
エリナは乾いた砂が水を吸うようにその全てを吸収していった。
虐げられてきた日々で培われた鋭敏な観察眼は、未知の言語体系の法則性を見抜く上でも遺憾なく発揮される。
イサクが一度説明しただけの複雑な格変化を、エリナは次の瞬間には完璧に応用してみせた。
その様子を見ていたイサクの目に初めて感情らしい色が浮かんだ。それはほんのかすかな、しかし確かな驚嘆の色であった。
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イサクが義妹エリナの教育を始めてから、屋敷には奇妙な平穏が訪れていた。
イサクの教授法は帝国屈指の魔術学院で学ぶ者らしく、極めて体系的かつ効率的だった。
彼はエリナの知性の高さを早々に見抜き、彼女が持つ論理的思考力を刺激するような手法で古代語や歴史学の知識を授けていく。その物腰は常に穏やかで、礼儀正しく、年若い義妹に対する配慮に満ちていた。それは誰の目にも理想的な「良き兄」の姿として映った。
そう、この少年の振る舞いには二面性があった。
義妹に向ける理知的な顔と、義母であるドロテアを精神的、肉体的に屈服させた冷酷な顔。
そのどちらか一方が偽りというわけではない。
彼のドロテアに対する仕打ちは、若さゆえの過ちや、一時的な激情の発露といったものでは断じてなかった。
あれこそがイサク・サザーランドという人間の本質の一端なのである。
この青年には生まれついての悪癖があった。
一つは、その異様なまでの嗜好性である。
早熟な精神のせいか、イサクは年若い娘に一切の興味を示さなかった。
彼が惹かれるのは常に年嵩の女。それも一つや二つどころではない。ドロテアのように女としての盛りをとっくに過ぎ、人生の酸いも甘いも噛み分けた末に、熟しきって、なんなら少し腐りかけたくらいの女をこそ好んだ。
若い娘の持つ無垢さや瑞々しさは彼にとって退屈なだけだ。彼が求めるのは人生の年輪が刻み込んだ複雑な感情の襞である。プライド、嫉妬、諦観、そして隠された欲望。そういったものが内側で発酵し、独特の芳香を放つ女体にこそ、そそられるのだ。
そして、もう一つの悪癖。
彼は年に似合わず色を好んだ。
彼の欲望は単に女を抱くという原始的なものではない。彼が真に求めるのは支配と屈服の過程そのものにあった。高いプライドを持つ年嵩の女が自らの力の前で尊厳を砕かれ、理性をもぎ取られ、ただの雌として喘ぎ快楽に堕ちていく。その過程の全てを支配し、味わい尽くすことに至上の興奮を覚えるのだ。
あの、傲慢で、しかし脆いプライドを抱えた熟女──ドロテアは、まさに彼にとって極上の獲物だ。
イサクは完璧に理解している──自らの歪んだ本性を。
そしてそれを隠し、使い分ける術も。
父の前では孝行息子を、義妹の前では良き兄を演じる。
その仮面の下で、彼は熟れた獲物を品定めする捕食者の目を常に光らせているのである。