◆
春の陽気が分厚い石壁に阻まれて息絶えている。
帝国魔術学院、特別研究棟の第三資料室。
カビと古紙、そしてインクの鋭い匂いが沈殿するこの密室は、華やかな学園生活とは無縁の薄暗い知識の墓場だ。
窓の外では学生たちが芝生の上で笑い合っているというのに、この部屋には重苦しい沈黙と、カリカリというペン先が紙を引っ掻く音だけが響いている。
ヴァリーラ・ド・オルレアンは豪奢な金髪をかき上げることも忘れ、眉間に深い皺を刻んでいた。目の前には修正液と朱色のインクで汚された羊皮紙の山。
多重詠唱の簡略化──
口で言うのは簡単だが、実際に形にするのは砂漠で針を探すような途方もない作業だった。
火と風。
異なる二つの属性を、一つの文脈で同時に定義する。
理論上は可能だ。だが現代の
「……また、失敗」
ヴァリーラは呻き、万年筆を放り投げそうになるのを堪えた。
ふと顔を上げてみれば、カリカリと向かいの席から、規則的な音が聞こえてくる。
イサク・サザーランド──ずんぐりとした体躯を椅子に沈め、感情の読めない顔で作業を続けている男。彼はヴァリーラの苦悩など意に介さず、淡々と、まるで事務処理でもするかのように膨大な資料を読み解いていた。
──なんなの、この男は。
ヴァリーラは唇を噛んだ。
共同研究が始まってから、十日。
その間、イサクの態度は驚くほど真面目だった。
いや、真面目すぎる。
挨拶は最小限。世間話は一切なし。顔を合わせるなり研究の進捗を確認し、ヴァリーラが構築した術式の欠陥を指摘する。そこに情熱や友情といったウェットな感情は微塵も介在しない。
不気味だった。
いっそのこと、下卑た視線で身体を舐め回された方がマシかもしれない。それなら「軽蔑」という鎧で自分を守れる。だが今の彼はヴァリーラという「人間」には興味を示さず、ただ彼女の頭の中にある「術式」だけを見ている。あるいは解剖すべき蛙でも見るような目で。
「……ここですね」
不意に、平坦な声が落ちてきた。
びくり、とヴァリーラの肩が跳ねる。
「……何がよ」
努めて冷静を装い、顔を上げる。
イサクは羊皮紙の一点を指先で突きながら、つまらなそうに言った。
「第三節の接続構造です。オルレアン嬢、貴女はここで『炎』と『風』の術式を等位接続詞(et)で繋いでいます。『炎あり、かつ風あり』と。だから魔力供給が二等分され、回路がボトルネックを起こしている」
指摘された箇所はヴァリーラが昨晩、寝る間も惜しんで調整した自信作だった。
「それが何か? 複合魔術の基本でしょう。二つの現象を同時に励起させるのだから」
「それは凡人のセオリーです」
イサクは切り捨てた。
カチン、と頭の奥で何かが鳴る。
だが彼はヴァリーラの反論を待たずに続けた。
「同時並列処理は術者の脳にかかる負荷が大きすぎる。貴女が目指しているのは無詠唱、かつ高速展開でしょう? ならば、文法構造そのものを変える必要があります」
彼は赤インクを含ませたペンで、ヴァリーラの美しい術式を躊躇なく線で消した。
まるで、子供の落書きを塗りつぶすかのように。
「接続詞を捨てなさい。代わりに関係代名詞を用いるのです。『炎と風』ではなく、『風を孕む炎』として定義する。主節を『炎』に置き、風の術式を従属節として組み込む。そうすれば、脳が処理すべき命令は一つで済む」
さらさらと、余白に書き込まれていく修正案。
ヴァリーラはそれを食い入るように見つめた。
最初は粗を探してやろうと思っていた。この生意気な庶子の鼻を明かしてやるために。
けれど。
──美しい。
悔しいけれど、そう思うしかなかった。
イサクの提示した術式は無駄な贅肉が極限まで削ぎ落とされ、機能美すら感じさせるほど洗練されていた。複雑に絡み合っていた二つの魔力回路が一本の太い奔流となって統合されている。言語学的なアプローチによる、魔術の再構築。
それはヴァリーラが教科書で学んだどんな理論よりも鮮やかで、そして残酷なまでに合理的だった。
「……試してみるわ」
ヴァリーラは掠れた声で言った。
イサクは表情を変えず、ただ「どうぞ」と短く促した。
目を閉じる。
意識を内側へ。
杖は使わない。イサクの修正案を脳裏に描き、体内の魔力回路をそれに合わせて組み替えていく。
今まで「AとB」として別々に制御していた力を、「BであるA」という一つの概念として認識する。
瞬間──ふわり、と。
ヴァリーラの掌の上に、赤い炎の球体が浮かび上がった。
だがそれはただの火球ではない。表面で激しい気流が渦を巻き、炎の熱量を内側に閉じ込めている。
圧縮されたエネルギー。
詠唱なしで、しかもこれほどの速度と精度で。
「……できた」
呆然とした呟きが漏れる。
あれほど苦戦していた遅延が嘘のように消え失せている。
歓喜。魔術師としての純粋な喜びが胸を満たす。
だがその直後に押し寄せてくるのは砂を噛むような敗北感だった。
──また、負けた。
知識で、発想で、この男に敵わない。オルレアン公爵家の令嬢として、英才教育を受けてきた自負が音を立てて崩れていく。
「悪くありませんね」
イサクがパチパチと気の抜けた拍手をした。
「出力制御も安定しています」
その言葉にヴァリーラは我に返る。
「……あなたのおかげ、とは言いたくないけれど。事実として認めるわ。助かったわ」
精一杯の虚勢であった。
顎を上げ、彼を見下ろすような視線を作る。そうでもしなければ、惨めさで押し潰されそうだったからだ。
イサクは肩をすくめた。
「礼には及びません。契約ですから。貴女が成果を出せば、それだけ僕が得られるデータも増える。ただの等価交換です」
ヴァリーラはイサクの姿をじっと見つめた。
奇妙な男だ。 あれほどの才能を持ちながら、それをひけらかすことをしない。
アルフォンス・ド・ロンドブルのように、自らの優秀さを周囲に誇示し、賞賛を浴びようとするのが貴族の、いや、人間の普通の欲求だろう。
だがイサクにはそれがない。
彼はただ、淡々とパズルを解くように、真理を探求しているだけに見える。
──本当に、そうなの?
ヴァリーラの中の警報が鳴る。
騙されてはいけない。
この男はそんな無害な学者ではない。
先日、図書館で感じたあの生臭い気配。
そしてあの夜の──。
「……オルレアン嬢?」
不意に、イサクが立ち上がった。
椅子が床を擦る音が静寂の中でやけに大きく響く。
「な、なによ」
身構える。
イサクは机を回り込み、ヴァリーラの側へと歩み寄ってきた。
その足取りはゆっくりとしているが巨体が近づいてくる圧迫感は相当なものだ。
「姿勢が崩れていますよ。魔力循環が悪くなる。ほら、掌の火球が消えかかっています。もう少しそのままでいて貰わないと困りますね」
イサクはヴァリーラの背後に立ち、静かに言った。
「右肩に力が入っている。無意識の緊張は繊細な魔力制御を阻害します」
言いながら、彼の手が伸びてくる。
ヴァリーラの右肩へ。
その瞬間。
ふわり、と。
彼から漂う匂いがヴァリーラの鼻腔をくすぐった。
清潔な石鹸の香り。インクの匂い。
そしてその奥に潜む、僅かな──獣のような、男の体臭。
ドクンと心臓が早鐘を打った。
時間が止まる。
視界が明滅し、現在の研究室の風景が過去の記憶によって塗り替えられていく。
──執務室の重厚な絨毯。
──見下ろす父の冷たい目。
──そして股を開かされた自分を検分する、じっとりとした灰色の視線。
この男は。
商品を確認するように、あるいは実験動物を観察するように、ヴァリーラの最も秘すべ き場所を覗き込んだのだ。
その時の視線の感触。
ネットリとした何かが太腿の内側を這い上がってくるような錯覚。
今、肩に触れようとしているその手が次の瞬間にはドレスを剥ぎ取り、あの時と同じように自分を辱めるのではないか。
ここは密室だ。
「っ……!」
ヴァリーラは弾かれたように立ち上がり、椅子を蹴倒した。
ガタンッ! と激しい音が部屋を揺らす。
「……触らないで!」
叫んでいた。
自分でも驚くほど、甲高く、怯えた声だった。
ドレスの胸元をかき抱き、後ずさる。背中が冷たい石壁にぶつかるまで、彼女は下がり続けた。
イサクの手が空中で止まっている。
彼は驚いた様子もなく、ただ静かにヴァリーラを見つめていた。
その瞳はやはり何も映していない。
恐怖に震えるヴァリーラの姿をただの現象として観察しているだけのような、冷ややかな色を湛えている。
「……失礼しました。不快でしたか」
淡々とした謝罪が余計にヴァリーラを惨めな気持ちにさせた。
過剰反応だ。わかっている──ヴァリーラはそう自分に言い聞かせた。
勝手に過去の記憶に怯え、ヒステリーを起こしている。
──これではまるで、わたくしが彼を意識しているみたいじゃないの。
「ち、違うの……ただ、急に……」
言い訳をしようとして、言葉がつかえる。
顔が熱い。羞恥で涙が出そうになる。
心臓がうるさい。呼吸が浅い。
自分がこんなにも脆い存在だったなんて、認めたくなかった。ヴァリーラはぐっと歯を食いしばる。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか──イサクはゆっくりと手を下ろし、倒れた椅子を起こした。
「構いませんよ。デリケートな問題ですから」
何がデリケートなのか。
そう、分かっているのだ。彼女が何を思い出したのかを──その上で、あえて触れないでいる。
それが優しさなのか、それとも、飼い主が怯えるペットの機嫌を損ねないように扱っているだけなのか。
──こいつ、やっぱりムカつくわ
ヴァリーラが内心憤っているのをよそに、当のイサクは何事もなかったかのように自分の席に戻ってポットに手を伸ばした。
「少し休憩にしましょう。根を詰めすぎると、思考が硬直します」
コポコポと、カップに紅茶が注がれる音が響く。
イサクがカップを差し出す。ヴァリーラは警戒しつつもおずおずとそれを受け取った。
指先が震えて、ソーサーがカチャカチャと音を立てる。
「……ありがとう」
温かい紅茶を一口啜ると、茶葉の香りが鼻腔に広がり、張り詰めていた神経を少しだけ和らげてくれた。
イサクも自分のカップを手に取り、窓の外へ視線を向けた。
夕暮れ時の空は血のように赤く、そしてゆっくりと群青色に染まろうとしている。
「……オルレアン嬢」
彼が窓の外を見たまま口を開いた。
「貴女の才能は努力の方向性さえ間違えなければ、必ず開花します」
唐突な言葉だった。
ヴァリーラが顔を上げると、彼は独り言のように続けていた。
「多くの者は才能にあぐらをかき、基礎をおろそかにする。あるいは権威に盲従し、自ら考えることを放棄する。ですが貴女は違う」
イサクはゆっくりと視線をヴァリーラに戻した。
灰色の瞳が夕陽を受けて微かに色づいている。
「貴女は屈辱を糧にできる。それは魔術師として得難い資質です」
ドクン、と心臓が跳ねた。
それは褒め言葉なのか。
それとも、あの敗北を忘れるなという、残酷な皮肉なのか。
イサクの表情からは真意は読み取れない。
だがその言葉はヴァリーラの心の奥底にある澱のような感情を掬い上げたような気がした。
屈辱を糧にする。
──そう、わたくしは忘れない。あの日の敗北も、あの夜の恥辱も。すべてを飲み込み、力に変えてみせる。
悔しいけれど、とヴァリーラはカップを強く握りしめた。
──わたくしはこの男から学ばなければならない。
恐怖はある。嫌悪感も消えない。
けれど、それ以上に「知りたい」という欲求がそして「強くなりたい」という渇望が彼女を突き動かしている。
「……買いかぶりすぎよ」
ヴァリーラは顔を背け、冷めた紅茶を一気に飲み干した。
苦味が喉を焼くが、その苦味こそが今の彼女に必要なものだった。
「さあ休憩は終わり。続きをやるわよ、サザーランド」
空になったカップを置き、ヴァリーラは椅子に座り直した。
背筋を伸ばし、公爵令嬢としての仮面を被り直す。
その瞳には強烈な対抗心が燃えていた。
イサクはそれを見て、やはり無表情のまま、しかしほんのわずかに──本当に微かに、口角を上げて応えたように見えた。
「ええ。望むところです」
研究室に再びペンの走る音が響き始める。
カリカリ、カリカリと。
それは二人の若き魔術師がそれぞれの思惑を秘めながら、真理という名の巨大な壁を削り取る音。そして獲物と捕食者が互いの喉元を狙いながらワルツを踊る、静かなステップの音でもあった。
外は夜。
窓ガラスには自分の弱さと向き合う少女と、それを静かに見つめる怪物の姿がぼんやりと映し出されていた。