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イサク・サザーランドという男の内側には、決して癒えることのない古傷がある。
それは今生で負ったものではない。遥か彼方──異世界と呼ぶべき場所で、虻川伊作として生きていた頃に刻まれた、魂の傷痕だ。
鹿児島の灰色の空。カビと安酒の臭いが染みついた狭い家。そして、息子を無価値な存在として定義し続けた母──虻川美恵子。
彼女の言葉は呪いだった。
「あんたさえ生まれてこなければ」「その目で私を見るな」──幼い伊作の心を抉り、その存在の根幹を否定し続けた刃。物理的な傷はやがて癒える。だが言葉という呪術は、精神の奥底に楔のように打ち込まれ、決して抜けることはなかった。
伊作は母を憎んだ。
だが同時に、どうしようもなく渇望していた。
一度でいい、認められたい。価値ある存在として見つめられたい。愛されたい。
その矛盾した感情が長い歳月をかけて発酵し、歪んだ欲望へと変容していった。
彼が惹かれるのは、若い女性の持つ無垢さや瑞々しさではない。
人生の酸いも甘いも噛み分け、確固たるプライドを鎧のようにまとった年嵩の女性。
それは彼を支配し、否定し続けた母の姿そのものだった。
彼女たちの高いプライドを、自らの手で徹底的に解体し、粉々に砕く。その尊厳が崩れ落ち、懇願と屈辱に濡れた瞳で自分を見上げる時──伊作は初めて、母という呪いから解放されるのではないか。
支配とは、彼にとって最も歪んだ愛情表現であり、そして復讐だった。
転生してなお、その業は消えていない。
イサクは伊作であった頃の母のことを、もはや意識的に思い出すことはない。灰色の鹿児島の日々も、彼女から投げつけられた呪いの言葉も、今は遠い昔の物語の一節に過ぎなかった。
だが彼の深層心理には、虻川美恵子という存在が決して消えることのない澱となってこびりついている。
その澱が、イサクの欲望の形を規定していた。
ゆえに──ヴァリーラ・ド・オルレアンは、彼の射程外にいた。
十代後半の令嬢。確かに整った顔立ちをしている。金色の髪は陽光を受ければ眩しく輝き、碧眼は宝石のように澄んでいる。世間一般の基準でいえば、文句なしの美少女だろう。
だがイサクの目には、それは「青い」としか映らなかった。
熟す前の果実。人生の苦味も深みも知らない、まだ殻を被ったままの雛鳥。
彼女には「母」の影がない。
プライドはある。傲慢さもある。だがそれは若さゆえの虚勢であって、長い人生を生き抜いた末に醸し出される、あの複雑で芳醇な「深み」とは根本的に異なるものだった。
もし彼女が四十路を過ぎていたなら。その高慢な瞳に諦念の影が差し、傲岸な態度の裏に孤独と疲弊が透けて見えるような、そんな「熟れた」女であったなら──イサクはとっくにその果実を手折っていただろう。
だが現実の彼女は、踏み躙る価値すら感じさせない。
手を出す気にならない。
それがイサクの偽らざる本音だった。
ゆえに、彼の態度には他意がなかった。
姿勢を直そうとしたのは純粋に魔力制御の効率を考えてのこと。肩に触れようとしたのは、緊張で強張った筋肉をほぐすための、ただの実務的な行為。
そこに下心など欠片も存在しない。
彼にとってヴァリーラは「共同研究者」であり、「データ提供源」であり、せいぜいが「多少は見込みのある後輩」程度の存在でしかなかった。
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だが、ヴァリーラの側はそうではなかった。
彼女の中で、イサク・サザーランドという男の像は、日を追うごとに微妙な変化を遂げていた。
最初は恐怖だった。
あの決闘で見せつけられた圧倒的な実力差。そして、父の執務室でのあの屈辱的な夜。その二つの記憶が絡み合い、イサクという存在を「怪物」として彼女の心に刻み込んでいた。
近づきたくない。目を合わせたくない。できることなら、二度と顔を見たくない。
そんな忌避感が彼女を支配していた。
だが、共同研究が始まってからというもの──その感情は少しずつ、別のものに侵食されつつあった。
イサクは、何もしてこなかった。
いや、正確には「何も」ではない。彼は約束通り、ヴァリーラの研究を手伝い、的確な助言を与え、そして成果が出れば淡々と認めた。それだけだ。
下卑た視線で身体を舐め回すこともない。
権力を盾に無理難題を押し付けることもない。
あの夜のことを匂わせて脅迫することもない。
ただ、ひたすらに、誠実だった。
その誠実さが、ヴァリーラには不気味でならなかった。
何かの罠ではないか。油断させておいて、いずれ牙を剥くつもりではないか。
そんな疑念が常に頭の片隅にあった。
だが、日が経つにつれ、その疑念は徐々に説得力を失っていった。
先ほどの一件がそうだ。
ヴァリーラが過剰反応を起こし、ヒステリックに叫んでしまった時。イサクは怒らなかった。嘲笑もしなかった。
ただ静かに距離を取り、紅茶を淹れ、そして何事もなかったかのように研究の続きを促した。
その態度が、ヴァリーラの心を奇妙にざわつかせた。
──この男は、わたくしを支配したいわけではないの?
あの夜、父の命令でヴァリーラの身体を検分したのは事実だ。だがその後、イサクは何も要求してこなかった。オルレアン家の「貸し」を盾に、ヴァリーラを手篭めにすることなど容易かったはずだ。それなのに、彼はその権利を行使しない。
なぜ?
ヴァリーラには理解できなかった。
権力を持つ者は、それを振りかざすものだ。少なくとも、彼女が知る貴族社会とはそういうものだった。強い者が弱い者を踏みにじり、自らの欲望を満たす。それが世の習いだと、物心ついた頃から教えられてきた。
だがイサクは違った。
彼は確かに強い。魔術の腕前も、政治的な立ち回りも、そしておそらくは精神的な強さも。にもかかわらず、その力を濫用しようとしない。
あるいは──濫用する価値すら、ヴァリーラにはないということなのだろうか。
その可能性に思い至った時、彼女の胸に妙な痛みが走った。
屈辱とも、安堵とも、そして別の何かともつかない、名状しがたい感情。
◆
研究は順調に進んでいた。
イサクの助言を取り入れることで、ヴァリーラの多重詠唱術式は日に日に洗練されていった。
かつては二十秒かかっていた複合魔術の発動が、今では五秒を切る。詠唱もほぼ不要になりつつあった。
成果が出るにつれ、ヴァリーラの態度も少しずつ軟化していった。
最初は必要最低限の会話しかしなかった二人だが、今では研究の合間にぽつりぽつりと言葉を交わすようになっている。
その日も、夕暮れ時の資料室で、二人は向かい合って作業をしていた。
ふと、ヴァリーラが顔を上げた。
イサクは相変わらず無表情で文献を読み込んでいる。
その横顔を見つめながら、彼女は口を開いた。
「サザーランド」
「何ですか」
イサクは視線を上げずに応じた。
「一つ、聞いてもいいかしら」
「内容によります」
素っ気ない返答。だがヴァリーラは構わず続けた。
「あなたは、わたくしのことをどう思っているの」
その問いに、イサクの手が止まった。灰色の瞳がゆっくりとヴァリーラを捉える。
「どう、とは」
「そのままの意味よ。あなたにとって、わたくしは何なの。共同研究者? それとも、利用価値のある駒? あるいは──」
言いかけて、口を噤む。「あるいは」の先に続く言葉を、彼女自身がまだ整理できていなかった。
イサクは数秒の沈黙の後、静かに答えた。
「優秀な魔術師の卵、ですかね」
その答えは、ヴァリーラの予想を裏切るものだった。
「……卵?」
「ええ。貴女は今、殻を破ろうとしている。その過程に立ち会えることは、僕にとっても興味深い」
彼は再び視線を文献に落とした。
「それ以上でも以下でもありません。貴女が望む答えかどうかは分かりませんが」
ヴァリーラは黙り込んだ。
期待していたわけではない。だが、なぜか胸の奥がほんのりと温かくなる感覚があった。
「優秀な魔術師の卵」──その言葉には、侮蔑も、欲望も、打算も含まれていない。純粋な評価。それだけだった。
ヴァリーラは自分の頬が微かに熱を持つのを感じた。
──わたくしは、この男に認められたいと思っているのかしら。
その考えに気づいた瞬間、慌てて否定する。馬鹿馬鹿しい。あの決闘で負けた相手に、なぜそんな感情を抱かねばならない。
だが、否定しきれない何かが、胸の奥でくすぶり続けていた。
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資料室を出る頃には、すっかり夜になっていた。
回廊を歩きながら、ヴァリーラは少し前を行くイサクの背中を見つめていた。
ずんぐりとした体躯。決して美しいとは言えない輪郭。だが、その歩みには迷いがない。どこへ向かうべきか、何をすべきか、すべて分かっているかのような、揺るぎない足取り。
──この男は、もしかしたら悪い男ではないのかもしれない。
そんな思いがふと、彼女の心をよぎった。
すぐに打ち消そうとする。まだ信用してはいけない。まだ心を許してはいけない。
抵抗はある。恐怖も消えてはいない。
だが──。
足音が二つ、静かな回廊に響く。
その音を聞きながら、ヴァリーラは小さく息を吐いた。
彼女自身もまだ気づいていなかった。
恐怖と警戒という名の氷が、少しずつ、ゆっくりと、溶け始めていることに。
そしてイサクもまた、気づいていなかった。
彼が「青い果実」と見做して興味を示さないその態度こそが、皮肉にも、ヴァリーラの心を最も効果的に揺さぶっているということに。
欲望の対象として見られないこと。それは彼女にとって初めての経験だった。
オルレアン公爵家の令嬢として、常に男たちの欲望の視線に晒されてきた。その視線を嫌悪しながらも、どこかでそれを当然のものとして受け入れていた。
だがイサクの瞳には、そうした熱がない。
彼女を見る目は、あくまで「魔術師の卵」を観察する学者のそれだった。
それが──不思議なことに、ヴァリーラの心を掻き乱すのだ。
なぜ、自分を見ないのか。
なぜ、他の男たちのように欲しがらないのか。
自分は、そこまで魅力がないのか。
──いや、違う。そんなことを気にする必要などないはず。
ヴァリーラは頭を振った。
何を考えているのだ、自分は。
だが一度芽生えた疑問は、そう簡単には消えてくれなかった。