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屋敷というものは単なる木と石と漆喰で構成された構造物ではない。
それは巨大な臓器である。
あるいは一種の結界によって外界から切り離された、閉鎖的な
其処には独自の時間が流れ、独自の空気が澱(よど)み、独自の理が支配している。
住まう者たちの情念、記憶、吐き出された言葉の残滓、そして隠蔽された秘密──それらが長い時間をかけて堆積し、発酵し、やがては屋敷そのものの「気」となって、住人に跳ね返ってくる。
人は屋敷を作り、屋敷は人を作る。
その相互干渉の円環の中で、サザーランド侯爵邸という名の堅牢な石造りの伽藍は今、奇妙な病に冒されているように見えた。
病名は静寂──あるいは機能不全と言ってもいい。
かつて、この箱庭の中は騒々しかった。
ドロテア・サザーランドという名の、ヒステリーを動力源とする永久機関が休むことなく不協和音を奏で続けていたからだ。
金切り声。
陶磁器が壁に叩きつけられて砕ける破砕音。
使用人たちの悲鳴。
幼い義理の娘に向けられる理不尽な罵倒。
それらは確かに不快であり、恐怖であり、避けるべき災厄であったことは間違いない。その場に居合わせる者にとっては地獄以外の何物でもなかったろう。
だがそこには確かな「熱」があった。
負の感情とはいえ、エネルギーが循環し、衝突し、スパークしていたのである。毒であれ薬であれ、そこには生きている人間が発する生々しい体温が存在していた。
然(しか)し。
今のこの屋敷はどうだ。
死んでいる。
物理的に死滅したわけではない。心臓は動き、血液は流れ、呼吸も繰り返されている。使用人たちは影のように音もなく動き回り、日々の業務を滞りなく遂行している。埃一つ落ちてはおらず、銀食器は曇りなく磨き上げられ、庭の植栽は幾何学的な美しさを保っている。
秩序はある。
静謐もある。
清潔ですらある。
だがそこには「生」の実感が欠落していた。
まるで精巧に作られた舞台装置の中に、魂を抜かれた演者たちが配置されているかのような、そんな空々しい違和感。
空気が凪いでいるのではない。
澱んでいるのだ。
換気の不全ではない。人の情念という目に見えぬ粒子が出口を失って室内を浮遊し、壁紙の繊維の隙間に染み込み、時間をかけて腐臭を放つようになっている。
その腐臭は鼻粘膜ではなく、脳髄を直接刺激する類のものだ。
エリナ・サザーランドはその腐臭の只中にいた。
彼女はこの屋敷の養女である。
かつては虐げられ、存在を否定され、塵芥のように扱われてきた薄幸の少女。
だが今は違う。清潔な衣服を纏い、温かな食事を与えられ、書物という知恵の泉に触れることを許されている。
それは義兄であるイサク・サザーランドのおかげだ。
彼がエリナを救い上げた。
彼がエリナに価値を与えた。
彼がエリナに「努力の才能がある」と告げた。
幸福、であるはずだ。
この上ない救済の物語であるはずだ。
誰がどう見ても、エリナは幸せになった少女の典型として映るだろう。
しかし。
エリナの胸の奥底、心臓の少し下、胃の腑のあたりで、ぐつり、ぐつりと煮え滾る、このどす黒いタールの如き感情は一体何なのだ。
──違和感。
そう、違和感である。
エリナは食堂の長いマホガニーのテーブルの端で、音もなくスープを啜(すす)る。
視線の先には義母ドロテアがいる。
かつてのドロテアは感情のままに叫び、暴れ、周囲を焼き尽くす烈火の如き激情の持ち主であった。エリナにとって彼女は恐怖の象徴であり、避け難い災厄そのものだった。
だが今のドロテアは違う。
静かだ。
不気味なほどに、静謐だ。
まるで魂の半分をどこかに置き忘れてきたかのように、あるいは何者かによって「去勢」されたかのように、彼女は大人しい。
伏し目がちに食事を摂り、時折、何もない虚空を見つめては頬を赤らめ、身を震わせる。
「……お母様、お加減でも悪いのですか?」
エリナが恐る恐る声をかけると、ドロテアはビクリと肩を震わせ、焦点の定まらない瞳をゆっくりとこちらに向けた。
「……いいえ。いいえ、エリナ。わたくしは……とても、気分が良いのよ」
その声は細く、掠(かす)れている。
かつての威圧感は微塵もない。それどころか、その瞳の奥にはエリナに対して媚(こ)びるような、卑屈な光さえ宿っているように見えた。
平和だ。
誰もがそう言うだろう。
家庭内暴力の嵐は去り、平穏な日常が訪れたのだと。ドロテア様は改心されたのだと。
否。
断じて否である。
あれは「改心」などという、生易しいものではない。
もっと、根源的な変質。
中身をくり抜かれ、別の何かを充填されたかのような。
毒を抜かれ、牙を折られ、代わりに甘い蜜と、従順という名の鎖を埋め込まれたかのような。
例えば、野生の獣が徹底的な調教によって牙を抜かれ、爪を剥がされ、首輪を嵌められ、飼い主に傅(かしず)くだけの存在に成り果てたような──そんな、痛々しくも背徳的な「従順」の匂いがするのだ。
そしてその首輪の鎖を握っているのは誰か。
考えるまでもない。
イサク・サザーランド──エリナの敬愛する、義理の兄である。
エリナはスプーンを置いた。カチャリ、と硬質な音が静寂に波紋を広げる。
──イサクお義兄様。
その名を心の中で反芻(はんすう)するだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。
彼はエリナの救世主だった。
絶望の淵にいたエリナに手を差し伸べ、知識を与え、生きる意味を教えてくれた人。ずんぐりとした体躯に、灰色の瞳。お世辞にも美男子とは言えないその風貌がエリナにとってはどんな王子様よりも輝いて見えた。
聡明で、理知的で、そして何よりも強い。
エリナは彼を尊敬している。憧れている。
もっと近づきたい。もっと彼を知りたい。彼の見ている景色を、自分も共有したい。
だからこそ、エリナは必死に勉強した。父グレイルが驚くほどの速度で知識を吸収し、学院への進学を目指したのも、すべてはイサクの背中を追うためだ。彼が歩く道の、ほんの少し後ろをついていけるだけでいい。
そう思っていた。
だが最近になって、その純粋な思慕の中に、黒い染みのような感情が混じり始めているのを、エリナは自覚していた。
イサクとエリナの間には厳然たる壁が存在する。
イサクは優しい。エリナに対して、常に穏やかに接してくれる。質問すれば丁寧に答えてくれるし、時には頭を撫でてくれることもある。
──エリナ、よく頑張りましたね
──君の成長を見るのが僕の楽しみでもあります。
その言葉に嘘はない。
けれど、それだけなのだ。
彼の瞳はエリナを映してはいるが決して深奥までは招き入れてくれない。
──「ここまでですよ」
そんな無言の境界線が引かれている気がするのだ。
「妹」としての慈しみ。「庇護対象」としての配慮。「優秀な生徒」への期待。
それ以上の感情、彼という人間の本質に触れるような熱情はそこには一切ない。
子供扱いされている、とも違う。もっと根本的な、種類の違い。彼はエリナを、同じ地平に立つ「個」として見ていないのではないか。ガラスケースの中に入った、綺麗な人形として扱われているような、そんな隔絶感がある。
──わたくしは守られている。
それは幸福なことだ。
だが同時に、疎外されているということでもある。
安全圏に置かれるということは当事者にはなれないということだ。
翻(ひるがえ)って、ドロテアはどうか。
エリナの視線が再びドロテアを射抜く。
今、ドロテアはフォークを口に運びながら、うっとりと目を細めた。
その瞳の奥には明らかに誰かの姿が映っている。
ここにいない誰か。
彼女を支配し、彼女を変貌させた、絶対的な主人の姿が。
ドロテアとイサクの間には壁がない──そうエリナは直感していた。
イサクがドロテアに向ける視線はエリナに向けるそれとは違うはずだ。
もっと冷たく、もっと残酷で、そして何よりも──もっと「深い」。
憎しみかもしれない。侮蔑かもしれない。
だがそこには強烈な感情のパスが通っている。
イサクはドロテアの内側に踏み込み、彼女の心を破壊し、作り変えた。
それは魂の接触だ。
肉体の交わり以上に濃密な、支配と被支配の関係。
──なぜ。
エリナの胸中で、黒い泥が跳ねる。
──なぜ、お母様が。
理不尽だ。到底納得できるものではない。
エリナは清く正しくあろうとした。イサクに相応しい妹であろうとした。
だが清らかであればあるほど、イサクは彼女を「聖域」に置く。
手を出してはいけない場所。汚してはいけない場所。
対してドロテアは汚れている。
だからこそ、イサクは彼女を蹂躙(じゅうりん)したのではないか。
土足で踏み入り、その尊厳を剥ぎ取り、泥にまみれさせたのではないか。
──だとすれば。
イサクに触れてもらうためには清らかであってはいけないというのか。
聖女ではなく、娼婦のごとく地に堕ちねば、彼の本当の瞳には映らないというのか。
──ずるい。
子供じみた、しかし純粋な嫉妬がエリナの理性を黒く塗りつぶしていく。
食事を終えたドロテアがふらりと席を立った。
その足取りは心なしか覚束(おぼつか)ない。
どこか熱に浮かれたような、夢遊病者のような足取りで、彼女は廊下へと消えていく。
エリナは無言でその背中を見送った。
あんな女。
中身が空っぽの、ただの肉袋。
お義兄様も、あんな女のどこが良いというの。
──いや。
違う。
イサクお義兄様はあんな女が良いと言っているのではない。
あんな女「だから」良いのだ。
壊しやすいから。
支配しやすいから。
あるいはその浅ましさこそが彼の嗜虐心をくすぐるから。
エリナの思考は螺旋階段を降りるように、暗い方へ、暗い方へと沈んでいく。
わたくしには知性がある。
わたくしには理性がある。
だからお義兄様はわたくしを壊さない。
壊す必要がないからだ。話せばわかるからだ。
だが話してもわからない獣には鞭(むち)が必要だ。
そして鞭打たれる獣は飼い主に懐(なつ)く。
痛みによって刻まれた絆は言葉による絆よりも深く、強いのではないか。
エリナは自分の膝の上で、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。
──この痛み。これがお義兄様から与えられたものなら、どんなに甘美だろう。
エリナの中に眠っていた怪物が片目を開けた瞬間であった。
◆
サザーランド侯爵邸の広大な敷地を、夜闇がひたりと包み込んでいる。庭木の影は生きた魔物のように蠢き、風が吹けば窓枠が軋む。古びた屋敷特有の吐息のような音が静寂の底で微かに木霊している。
エリナは自室のベッドの中で目を開けた。
草木も眠る、魔の刻だ。
眠れない。
瞼(まぶた)を閉じれば、闇が迫る。目を開ければ、天井の染みが人の顔に見える。神経が研ぎ澄まされすぎているのだ。
喉が渇いた。
いや、渇いているのは喉ではないのかもしれない。もっと身体の奥、魂の根源的な部分が何かを求めて干上がっている。
水を飲もう──そう自分に言い訳をして、エリナはベッドから抜け出した。
ガウンを羽織り、裸足で廊下に出る。
床板の冷たさが足の裏から這い上がってくる。
廊下は暗い。
角にある燭台の残り火が頼りなく揺れているだけだ。
エリナは音を立てないように、忍び足で進む。
この屋敷に染み付いた習慣だ。かつては足音を立てればドロテアに見つかり、折檻(せっかん)される恐怖があった。
だが今は違う。
今、エリナが恐れているのは見つかることではない。
「見てしまう」ことだ。
廊下の先。西棟の奥にある、主寝室──ドロテアの部屋。
最近、夜ごと聞こえてくるのだ。
かすかな、しかし耳にこびりついて離れない、あの声が。
近づくにつれて、空気が変わる。
湿度が上がる。
甘く、生臭い、獣の檻のような匂いが漂ってくる。
それは物理的な臭気ではない。エリナの研ぎ澄まされた感覚が幻視する、情念の匂いだ。
そして音が聞こえてくる。
「……ぁ……っ、ぁ……ん……ッ」
衣擦れの音。
シーツが擦れる音。
そして粘着質な水音。
エリナは扉の前で足を止めた。
心臓が早鐘を打っている。
見てはいけない。これ以上進んではいけない。理性が警鐘を鳴らす。
だがその警告音よりも遥かに大きな音で、好奇心と嫉妬心が叫んでいた。
──見届けなさい。
──あの女がお義兄様とどう繋がっているのかを。
──その目で見て、絶望しなさい。
扉はわずかに開いていた。
数ミリの隙間。
それは
ドロテアの無用心さゆえか、あるいは誰かに見られたいという露出癖の発露か。
エリナは息を殺し、その隙間に瞳を寄せた。
視界が開ける。
そこには地獄があった。
あるいは極楽があった。
天蓋付きの豪奢なベッドの上。
月光のスポットライトを浴びて、一匹の雌獣が蠢いていた。
ドロテア・サザーランド。
侯爵夫人としての威厳など、欠片もない。
身に纏っているのは薄いネグリジェのみ。それも無残に捲り上げられ、白い肢体が露わになっている。
彼女は四つん這いになり、枕に顔を埋め、臀部を高く突き出していた。
その姿は交尾を待つ家畜そのものだ。
そして彼女の手には黒く、太く、禍々しいほどの存在感を放つ、一物の模型が握られていた。
張り型である。
だがドロテアがそれを扱う手つきはまるで聖遺物を奉る信徒のように恭しく、そして狂おしいほどに愛おしげだった。
「ぁあ……ッ、イサク様……イサクさまぁ……ッ!」
エリナの鼓膜が震える。
やはり。
やはり、呼んだ。
夫であるグレイルの名ではない。
義理の息子である、イサクの名を。
ずちゅッ。ごちゅッ。
粘り気のある卑猥な水音が静寂を汚すように響き渡る。
ドロテアは自らの手で、その黒い異物を秘裂へとねじ込んでいた。
何度も。何度も。
激しく、乱暴に。
「ひグぅッ、あ゙ぁっ! おおきい、大きいですぅ、イサク様……ッ! こわして、ドロテアを壊してくださいましぃ……ッ!」
それは懇願だった。
破壊への渇望。
自己の喪失への憧れ。
ドロテアの顔は涙とよだれでぐしゃぐしゃに濡れている。
かつてエリナを見下し、冷酷に笑っていた美しい顔は今はただ快楽に溺れ、主人の愛を乞う痴女の仮面へと変わり果てていた。
白目を剥き、舌をだらしなく垂らし、喉の奥から獣のような咆哮を漏らす。
「いいっ、いいのッ! わたくしなんて、雌豚ですわッ! イサク様の便所ですわぁッ! 汚して、もっと中を、汚してぇッ!!」
汚濁。
そう、彼女は汚れることを望んでいる。
イサクという存在によって、徹底的に汚染されることを至上の喜びとしている。
エリナの視界が揺らいだ。
ドロテアが握っているその黒い棒。
それはただの物だ。イサクではない。
だがドロテアの幻覚の中ではそれは間違いなくイサクの肉体の一部なのだろう。
彼女は今この瞬間、イサクと交わっている。
霊的に、精神的に、そして肉体的な痛みを伴って。
──綺麗。
ふと、そんな言葉がエリナの脳裏をよぎった。
目の前の光景は客観的に見れば醜悪そのものだ。
中年女の自慰。義理の息子を妄想しての近親相姦的自涜。下品で、救いようがない。
──けれど。
己の全てをかなぐり捨て、ただ一心不乱に「個」を消滅させようとするその姿にはある種の凄みがあった。
プライドも、立場も、理性も、全てをイサクという祭壇に捧げている。
それは究極の信仰告白ではないか。
──それに引き換え、わたくしはどうだろう。
エリナは自問する。
わたくしはお義兄様のために、ここまで堕ちることができるだろうか。
獣のように鳴き、涎を垂らし、自らを便所と罵ることができるだろうか。
あの「壁」の向こう側へ行くにはこの「常識」という衣服を脱ぎ捨てねばならないのではないか。
ズプンッ、と一際重い音が響いた。
ドロテアが張り型を根元まで飲み込ませたのだ。
「オァァァァァァァッ!!」
絶叫。
空気がビリビリと震える。
ドロテアの身体が弓なりに反り、激しく痙攣する。
太腿の内側を、大量の愛液が伝い落ち、シーツに黒い染みを作っていく。
果てた後も、彼女は張り型を放そうとはしなかった。
赤子のようにそれを抱きしめ、頬ずりをし、愛おしそうに名前を呼び続けている。
「イサク様……あぁ……わたくしの……ご主人様……」
エリナはそっと扉から離れた。
膝が震えて、立っていられない。
廊下の壁に手をつき、荒い息を吐く。
汗が冷たい。
だが下腹部の奥底に、重く、熱い塊が居座っているのを感じる。
見てしまった。
イサクが作り出した「作品」の完成形を。
それは醜悪で、おぞましく、そして──どうしようもなく魅力的だった。
──ずるいわ、お母様。
エリナの瞳に昏い炎が灯る。
かつての無垢な少女の光はもうそこにはない。
あるのは禁断の果実をかじり、楽園を追放されることを選んだ女の強欲な光だ。
──わたくしだって
その先の言葉はあえて自身の心の奥底へと封じた。
エリナは闇の中、一人で微笑んだ。
その笑みはどこかドロテアの恍惚とした表情に似ていた。