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天が哭いているのではない。
地が呻いているのでもない。
ただ、其処にある理が耐えきれずに軋みを上げているのだ。
帝都より遥か東方。国境の要衝たるバルデ平原。
彼地は今や、戦場という名の秩序ある闘争の場としての機能を喪失していた。泥と鉄と、かつて人であった肉塊が無慈悲な重力に従って大地にへばりつき、境界を喪失して混じり合う、巨大な汚物処理場と化していたのである。
降り注ぐ雨は冷たく、鉄錆の臭いを孕んで降り注ぐ。
その雨粒の一つ一つが死した者たちの無念を宿しているかのように重く、生者の肌を打つ。
痛い。
痛い。
世界が痛がっている。
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アルバラ帝国軍、東方派遣師団。
彼らは強大であったはずだ。皇帝シェラハザードによって構築された軍事機構は個の感情を削ぎ落とし、ただ敵を粉砕するためだけの精密な歯車として完成されていた。
規格化された長杖。統率された詠唱。一糸乱れぬ隊列はさながら鋼鉄の城壁が移動しているかのような威圧感を放っていた。個としての顔を持たぬ兵士たちはただ命令に従い、魔術を行使する生きた砲台として機能する。其処には恐怖も躊躇いもなく、ただ効率的な殺戮の連鎖があるのみであった。
だが今、その城壁は脆くも崩れ去ろうとしている。
たった一つの、異物によって。
たった一つの、理外の存在によって。
戦線の中央、泥濘の中に一人の男が立っていた。東方の装束。襤褸のような道衣を纏い、顔には奇妙な面をつけている。手には武器を持たず、ただ中空に奇妙な幾何学模様を描くだけの脆弱な存在に見えた。
名を、周という。
東方諸国連合が雇い入れた傭兵であり、古の術理を操る怪人である。
現象は理不尽に顕現する。
「──乾は天、坤は地」
男が指先で空を斬る。
ただそれだけの動作で、帝国軍の誇る重装歩兵の一小隊が見えざる巨大な圧力によって圧壊した。甲冑がひしゃげ、中の肉体が破裂する不快な音が雨音に混じって響く。防御結界など意味を成さない。それは魔術的な攻撃ではなく、空間そのものの定義が書き換えられた結果であるからだ。
上にあるべきものが下へ、下にあるべきものが上へ。
天地が逆転し、重力が狂い、存在の座標が乱される。
人はそのような環境では生存できない。
「──巽は風、入るなり」
男が袖を払えば、不可視の刃が戦場を薙ぎ払う。
首が飛ぶ。
腕が舞う。
血飛沫が赤い花のように咲き乱れ、瞬く間に泥の色と同化していく。
風ではない。
それは風の形をした切断という概念そのものだ。故に、鎧も肉も骨も、等しく無価値な障害物として両断される。
八卦──東方の深奥に伝わる、万象を八つの相に分類し、その組み合わせによって事象を改変する古の術理。帝国の魔術が魔力を燃料として物理法則に干渉する技術であるならば、この男の操る術は世界の記述そのものを書き換える儀式に近い。
相性が悪すぎた。
物理法則を前提とする帝国の魔術師たちは、法則そのものを歪められるこの術の前では手足を縛られた赤子も同然であった。
帝国兵たちは恐慌を来たしていた。
理解できないのだ。
彼らの知る魔術の理屈が通用しない。
炎を放てば水に変わり、雷を撃てば地に吸われる。彼らの攻撃は全て無効化され、あるいは倍の威力となって跳ね返ってくる。
未知への恐怖が鉄の規律を誇る帝国軍を内部から腐らせていく。
「退くな! 撃て! 撃ち続けろ!」
指揮官が喚く。だがその声も震えている。
兵士たちは半狂乱で杖を振るうがその瞳には既に敗北の色が濃く宿っていた。
死が歩いてくる。
仮面をつけた死が泥を踏みしめ、ゆっくりと歩いてくる。
◆
その凄惨な光景を、遥か後方、安全圏に設営された本営の天幕から見下ろす視線があった。
冷徹にしてどこか退屈げなアメジストの瞳の持ち主とは──いうまでもない、皇帝シェラハザードである。
彼女は豪奢な椅子に深々と身を沈め、手にしたグラスの中で揺れる赤葡萄酒を、飽きもせずに眺めていた。眼下で繰り広げられる虐殺劇など、彼女にとってはグラスの中の澱ほどの関心事でしかないかのように。
死んでいく兵士たち。
崩壊する戦線。
それらは全て、彼女にとっては盤上の駒の動きに過ぎない。駒が取られれば損であり、取れば得である。ただそれだけの話だ。そこに感傷が入り込む余地はない。
「……ふむ。あれが噂の東方術士か」
鈴を転がすような声。
だがその響きには慈悲も憐憫もない。あるのは純粋な損得勘定と微かな苛立ちのみ。
「陛下……第五大隊が壊滅状態です。このままでは戦線が維持できません」
傍らに控える宰相が蒼白な顔で進言する。
シェラハザードはふん、と鼻を鳴らした。
「騒ぐな。見苦しい」
彼女はグラスを傾け、血のような液体を喉に流し込む。
芳醇な香りが鼻腔を抜ける。戦場の鉄臭さとは無縁の、洗練された葡萄の香り。
「所詮は人の子。魔力には限りがある。一万の兵ですり潰せぬなら、二万を投じればよいだけの話よ」
冷酷な計算。
彼女にとって兵士とは帝国の繁栄という数式を成立させるための数字に過ぎない。消費されることこそが彼らの存在意義であり、その多寡に心を痛めるなど愚の骨頂である。
帝国には人が溢れている。
農村には次男坊、三男坊が余っている。
彼らに武器を持たせ、最前線へ送り込めばよい。一人の天才を殺すために、千の凡人を使い潰す。それは経済的にも理に適った交換だ。
だが──シェラハザードの美貌に、わずかな陰りが差す。
「……とはいえ、美しくないのう」
彼女は空になったグラスを卓上に置いた。カツン、と硬質な音が響く。
物量作戦は確実だ。だが時間がかかる。
そして何より、あの東方の術士──異質の理を操るあの男に対して、単なる数の暴力で対抗するのは知性の敗北のような気がした。
異物には異物を。
理不尽にはより強大な理不尽をぶつけるのが王者の余興というものではないか。
あの東方の術は帝国の魔術体系とは根本的に異なる。それを解析し、打ち破ることこそが真の勝利と言えるのではないか。
「毒を以て毒を制す、か。……あの男ならば、この異界の理をどう料理するか」
シェラハザードは懐に手を伸ばした。
取り出したのは一つの小さな鈴。
古びた真鍮製の、何の変哲もない鈴である。装飾はなく、ところどころ黒ずんでいる。路傍に落ちていれば誰もが見向きもしないような代物だ。
だが宰相はその鈴を見た瞬間、息を呑んで後ずさった。
知っているのだ。
その鈴が何を意味するのかを。
それは禁忌の鍵。
かつて帝国を救い、そして恐怖のどん底に叩き落としたとある怪物を呼び出すための呪具。飼い殺しにされている竜の首輪に繋がれた唯一の鎖である。
「出るか、出ぬか。気まぐれな男じゃからな」
シェラハザードは悪戯な笑みを浮かべ、その鈴を指先で弾いた。
チリリ……。
頼りない、風に吹けば消え入りそうな音が鳴る。
だがその音は物理的な空気の振動ではない。因果の糸を震わせ、空間の裂け目を渡り、特定の魂へと直接届く、召喚の合図であった。
距離も時間も関係ない。
契約という名の絶対的な楔が彼を──グレイル・サザーランド侯爵を呼び寄せる。