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静寂──その部屋には時が止まったかのような静寂があった。
サザーランド侯爵邸の書斎。
壁一面を埋め尽くす書架には古今東西の魔導書がぎっしりと詰め込まれ、床には羊皮紙の束が小山を築いている。インクと古紙の匂いが染み付いた知の迷宮である。
その中心で、一人の男が本を読んでいた。
グレイル・サザーランド──帝国の至宝にして、最大の厄災と謳われる魔術師。
彼は外界の一切に関心を持たない。
妻が何をしていようと、娘が何を考えていようと、そんなことは彼の意識の表層にすら上らない──まあ、息子であるイサクの事を除いては。
基本的にはインドア気質極まる魔術オタクなのだが、そんな彼の耳元で鈴の音がした。
物理的に鳴ったのではない。脳髄の奥底に直接響いたのだ。
神経を逆撫でするような不快な音に、グレイルは「……む」と顔をしかめた。
眉間に深い皺が刻まれる。
不快だ。
極めて不快だ。
今、彼は古代レムリア文明における水利魔術の術式構造について、実に画期的な仮説を構築している最中であった。思考の海に深く潜り、真理の真珠を掴みかけようとしていたその刹那に無粋な雑音が水を差したのだ。
「陛下か……。また面倒事を」
無視しようかとも思った。だがこの鈴の音はしつこい。一度鳴り始めれば、応じるまで彼の精神を蝕み続ける呪いのようなものだ。かつての契約。若き日の過ち。
そう、彼と皇帝シェラハザードとの間には言葉にはできぬ腐れ縁がある。
それに、あの女帝がこの鈴を使うときは大概において退屈ではない何かが起きているときだ。
グレイルは嘆息し、重い腰を上げた。
本を閉じることはしない。片手で持ったまま、もう片方の手で虚空を掴むような動作をする。
空間をつまむ。
布を手繰り寄せるように。
すると──空間が歪んだ。
書斎の風景が水面に映る影のように揺らぎ、裂け目が生じる。
裂け目の向こうには戦場の喧騒と、不敵な笑みを浮かべるシェラハザードの顔があった。
◆
「御前に罷り越しました。……して陛下、此度は如何なる御用でございましょう」
言葉こそ臣下の礼を取っているがその態度は尊大ですらある。
背中を丸め、面倒くさそうに首を傾げるその姿は皇帝に対する敬意というよりは古馴染みに対する気安さに近い。
シェラハザードは意に介さない。この男が礼儀作法などという概念を持ち合わせていないことはとうの昔に承知している。
「つれないのう、グレイル。国の一大事じゃぞ? 少しは愛国心というものを見せたらどうじゃ」
「愛国心、ですか。そのような情緒的な概念は魔術の式には組み込めませぬな。国が滅びようと、知が残ればそれで良いというのが私の持論でして」
グレイルは平然と言い放った。
彼にとって、国家とは研究のためのスポンサーであり、それ以上の価値はない。
スポンサーが倒産すれば困るが別のスポンサーを探せば済む話だ。
「そう言うな。……面白いものが見れるぞ?」
シェラハザードは顎で戦場の一角をしゃくった。
グレイルは億劫そうに視線を向ける。
どうせいつもの泥臭い殺し合いだろう、といわんばかりである。実際、グレイルにとってそんなものを見るくらいなら、カビの生えた魔導書のページをめくっている方が余程有意義であった──が。
「……ほう」
グレイルの双眸が僅かに収縮した。
彼が見たのは東方の術士が放つ術の輝きではない。
その術が引き起こしている、事象の歪みであった。
通常の魔術師には見えぬものが彼には見える。
魔力の流れ。
因果の糸。
世界の構造そのものの軋み。
「魔力の回路が見当たらぬ。術を組む階梯も欠落しておる。だというのに、現象だけが確定的に発生しているとは……因果の先食いか? いや、環境そのものを演算の苗床として利用しているのか?」
ブツブツと呟き始める。
彼の脳内で、目の前の光景が数式へと変換され、高速で解析されていく。
未知。
不可解。
論理的整合性の欠如。
それらは全て、グレイルにとって極上の餌であった。
パズルだ。しかも、見たこともない形式のパズル。
解きたい。
中身を暴きたい。
「興味が湧いたか?」
「……ええ。少々、解剖してみたくなりましたな」
「許可する。存分にやれ」
「は。感謝致します」
グレイルは魔導書を懐にねじ込み、再び空間に裂け目を作ってその中へと消えていった。
◆
戦場に異様な静寂が落ちた。
雨音は続いている。悲鳴も止んでいない。
だがその場の質が変わったのだ。
それまで支配的だった死の気配が、より巨大な何かによって上書きされた。
東方の術士、周は八卦の印を結ぼうとしていた手を止めた。
背筋を這い上がる悪寒。目の前に、何かがいる──警戒する周の前に現れたのは、痩身の中年男であった。風情からして魔術師であろう。だがその瞳。灰色の瞳だけが底知れぬ深淵のように暗く、静かに周を見つめていた。
アルバラ帝国最大にして最強の魔術師、グレイル・サザーランド侯爵その人である。
「……何者だ」
周の声は仮面の下で強張っていた。
蟻が巨象を見上げたときに感じるような、本能的な恐怖を覚える。
だがグレイルは周のことなど見ていなかった。 彼が見ているのは周の周囲に展開された八卦の陣、そしてその背後に渦巻く気の流れであった。
「なるほど。天と地──その対立項を軸に、万象を六十四の相に分類し、再構築しているわけか。……帝国の硬直した術式とは対極にある、柔軟で、かつ混沌とした理だ」
独り言のように呟く。その態度は戦場における戦士のそれではない。博物館で珍しい標本を眺める老学者のそれだ。敵意はない。あるのは純粋な、そして残酷なまでの探究心のみ。
「貴様……帝国軍の魔術師か」
周は警戒心を露わにし、印を結んだ。
この男は危険だ。本能がそう告げている。
先手必勝。
「──離は火なり! 焼き尽くせ!」
紅蓮の炎が噴き上がる。
数千度の熱量がグレイルを呑み込んだ。
岩をも溶かす業火。逃げ場などない。
空間そのものを焼き焦がすような熱波が周囲の雨粒を一瞬で蒸発させる。
だが。
炎が晴れた後、そこには煤一つついていないグレイルの姿があった。
火傷一つない。ローブの端すら焦げていない。
「……熱量のみに頼るとはいささか芸がない。だが発生の道筋は美しい」
彼は何事もなかったかのように言い放った。
防御結界を展開した形跡はない。
彼はただ、炎が存在する座標から自分の身体が存在する座標をほんの数ミリだけ位相的にずらしたのだ。同じ空間にありながら、決して交わらない並行世界のように。
次元のポケットに身を隠したとも言える。
炎は彼の残像を焼いただけだ。
「な、なんだと……!?」
周が後ずさる。
自分の術が通用しない。理屈がわからない。
「次は私の番だな」
グレイルは道端に落ちていた手頃な木の枝を拾い上げた。
泥にまみれた、ただの枯れ枝だ。
だが彼が持つと、それは神の杖の如き威厳を帯びる。
それを指揮棒のように振る。
パチン。
乾いた音が響くと同時、周の周囲の空間が見えざる手によって握りつぶされたように歪んだ。
「──ぐッ!?」
周はとっさに防御の印を結ぶ。
「艮は山なり!」
不動の気が彼を守る。空間の圧搾に耐える。
見えない壁がグレイルの圧力を押し返す。
だがその顔には脂汗が滲んでいた。
「ほう。空間への干渉を防ぐか。……面白い」
グレイルの目が少年のように輝いた。
実験動物が予想外の反応を示したときの喜び。
そこから始まったのは人知を超えた攻防だった。
周が風を操り、雷を呼び、地を割る。
八卦の理を駆使した森羅万象の波状攻撃。
対するグレイルはそれらをことごとく無効化し、あるいは解析しながら、淡々と反撃を繰り出す。
一歩も動かない。
片手で枯れ枝を振るうだけ。
それだけで、天変地異が相殺されていく。
だが徐々にグレイルの表情に、僅かな違和感が混じり始めた。
「……解せぬな」
彼は呟いた。
周の放つ術は威力も規模も桁外れだ。
それをこれほどの頻度で連発すれば、通常の魔術師なら数分で魔力枯渇を起こして死ぬはずだ。人の身に許された魔蔵容量など、たかが知れている。
だが周の魔力は衰えない。
いや、むしろ時を経るごとに増大しているようにさえ見える。
「お主の魔力、底なしかね?」
「ハッ! 今頃気づいたか! 我に限界などない! この天地がある限り、我は無敵だ!」
周が勝ち誇ったように叫ぶ。
彼は両手を広げ、最大級の術式を展開した。
大気が悲鳴を上げる。
風が集まる。いや、風という概念そのものが凝縮され、鋭利な刃となって形成されていく。
「──巽は風、絶!」
不可視の暴風が一点に収束し、巨大な刃となってグレイルを襲い──鮮血が舞った。
グレイルの左腕が肘から先で綺麗に切断され、泥の中に落ちる。
「──取った!」
周が歓喜する。自身の術は十分に通じる──そう確信した。
だがグレイルは悲鳴一つ上げなかった。
腕の切断面を、興味深そうに観察している。血が吹き出しているというのに、まるで他人の傷を見ているかのように冷静だ。
「……なるほど。風の刃に概念的な切断の属性を付与しているのか。物理的な防壁だけでは防ぎきれぬわけだ」
感心したように頷くと、地面に落ちた自分の腕に向かって、くい、と指を動かした。
千切れた左腕が重力を無視して浮き上がる。そして、まるで時間の巻き戻しを見ているかのように腕は切断面へと吸い寄せられ、ピタリと接合する。
血管が繋がり、神経が結ばれ、皮膚が閉じる。
数秒後、グレイルは何事もなかったかのように指を動かしていた。
「……な、な……」
周は言葉を失った。
再生は出来ないはずであった。治癒は出来ないはずであった。
単なる再生ならば、周の術によって切断され続けてしまうのだから。
「変なものを仕込んでいる様だったからな。悪いが
周は見るからに狼狽している。無理もなかった。グレイルがした事は因果への直接干渉である。
「さて。お主の術の種明かしといこうか」
グレイルは木の枝で地面を指した。
「お主の魔力。それはお主自身のものではないな」
周の身体が強張る。
「お主はただの受け皿だ。お主の力の源泉はこの足元……大地深層を流れる力の奔流にある」
「……貴様、まさか」
「東方では龍脈と呼ぶのであったか。お主は陣を介してその巨大な流れに寄生し、そこから魔力をくすねているに過ぎない。だから尽きぬ。だから疲れぬ」
図星を突かれ、周は後ずさる。
八卦の極意は自然との合一。己を虚ろにし、大地の力を通す媒体となること。
それは無尽蔵の力を得る秘儀であるが同時に術者自身がただの管になり下がることを意味する。
「見事な機構だ。個の限界を環境を利用することで突破している。……だがそれは致命的な弱点も孕んでいる」
グレイルは右手を高く掲げた。
膨大な魔力がその掌に収束していく。
天が震える。
地が悶える。
「水を堰き止められぬなら、水路ごと破壊すれば良い。単純な理屈だ」
「や、やめろッ! 貴様、何を──!」
グレイルの手が地面に叩きつけられた。
瞬間──世界が悲鳴を上げた。
大地が波打つ。硬い岩盤が飴細工のように捻れ、亀裂が走り、土砂が噴き上がる。
局地的な大地震である。
だがそれは自然現象ではない。グレイルが地脈の流れそのものをねじ切り、逆流させ、暴走させた結果の崩壊であった。星の血管を無理やり引きちぎったに等しい。
「ぐ、ぎゃあああああああッ!!」
周が絶叫する。力の供給源を断たれただけではない。暴走した力が接続されていた彼の体内へ逆流し、内側から彼を焼き尽くしたのだ。
許容量を超えたエネルギーが細胞の一つ一つを破裂させる。
肉体が弾け、魔力の残滓となって霧散する。
八卦の術は解けた。
敵は消滅した。
だがグレイルの起こした災害は止まらない。
大地は敵味方を区別しない。
裂けた地面は東方兵のみならず、周囲に展開していた帝国兵たちをも飲み込んでいく。
「た、助けてくれェッ!」
「地面が! 地面が割れるッ!」
「サザーランド卿! 味方です! 味方がいますッ!」
帝国兵の悲痛な叫びが響く。
だがグレイルは一瞥もしない。
彼にとって、この現象はあくまで地脈干渉の実験であり、その結果として周囲の有機物が損壊することは実験に伴う誤差の範囲内であった。
蟻の巣に熱湯を注ぐ際、その蟻が敵か味方かを区別する子供がいないように。
彼に見えているのは数値とデータだけだ。
やがて、揺れが収まる頃には戦場は更地と化していた。
八卦使いの姿はない。魔力の逆流により死んだ。
生存者はいない。敵も、味方も。
ただ一人、グレイルだけが破壊された大地の中心に無傷で立っていた。
懐から手帳を取り出し、サラサラと何事かを書き留めている。
数千の死体が埋まる大地の墓標の上で、彼はただ一人の研究者として佇んでいた。
命の重さを知らぬ怪物──あるいは知りすぎて麻痺してしまった賢者、それがグレイル・サザーランド侯爵という怪物である。
「さて、帰るとするか。イサクへの手紙も書かねばならんしな」
彼は再び空間を折りたたみ、その場から消失した。
風だけが何もなくなった荒野を吹き抜けていった。
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バルデの本営。
その光景を眺めていたシェラハザードは深々と溜息をついた。
敵は壊滅した。
脅威は去った。
だがその代償として、自軍の前衛部隊もまた、消滅した。
報告によれば、第五師団は全滅。生存者なし。
「……相変わらずじゃのう、あの男は」
彼女の脳裏に、二十年前の記憶が蘇る。
東方戦線。流星雨の悪夢。
あの時もそうだった。敵を滅ぼすために、味方ごと大地を焼き払った。
空から降る星々の雨。
敵も味方もなくすべてを灰燼に帰したあの美しい地獄絵図。
グレイルには悪意がない。
ただあまりにも純粋に、魔術という理に忠実なだけなのだ。人の命の重さなど、宇宙の真理の前では塵に等しいと考えている狂人。
「勝てば官軍とは言うが……これでは後始末が思いやられるわ。まあ仕方あるまい。あの東方魔術師も中々の使い手じゃったからな……だが、やはり滅多な事ではグレイルを使うべきではないな」
シェラハザードは空になったグラスを置いた。
カツン、と音が響く。
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