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冬の終わりが近づいていた。
窓硝子の向こうに見える景色は未だ白く凍てついているものの、陽射しには確かな春の予感が混じり始めている。凍土を覆う雪のその下では新たな季節に向けて命が息を潜めている頃合いである。
帝国魔術学院の資料室。
積み上げられた古文献の隙間から差し込む午後の光が二つの人影を斜めに照らしていた。
ヴァリーラ・ド・オルレアンは机上に広げた羊皮紙の術式図を食い入るように見つめていた。指先が微かに震えている。それは寒さのせいではない。
長い。
あまりにも長い道程であった。
並列詠唱における術式干渉の最小化──その理論的完成を、彼女は今まさに目の当たりにしていたのである。
二つの異なる系統の魔術を同時に行使する。それは人間の脳が本来持ち得ない機能を、術式の工夫によって擬似的に実現するという、極めて野心的な試みであった。従来の魔術理論では不可能とされていた壁。彼女はその壁の前で幾度となく膝を折り、挫折を味わい、そして這い上がってきた。
だがそれを可能にしたのは彼女一人の力ではない。
視線を上げれば、そこにはいつものように分厚い魔導書を読み耽る男の姿がある。
イサク・サザーランド。
ずんぐりとした体躯に、灰色の瞳。お世辞にも美男子とは呼べぬその男が彼女の研究を完成に導いた立役者であった。
「……サザーランド」
ヴァリーラの唇から、名を呼ぶ声が零れる。
イサクは視線を書物から離さぬまま応じた。
「何ですか」
「できましたわ」
その言葉を聞いて、イサクはようやく顔を上げた。灰色の瞳がヴァリーラを捉え、次いで机上の術式図へと移る。
「ほう」
彼は椅子から立ち上がり、ヴァリーラの隣へと歩み寄った。羊皮紙に描かれた複雑な魔法陣を、しばし無言で観察する。その横顔からは何の感情も読み取れない。
沈黙が流れる。
ヴァリーラは己の心臓が早鐘を打つのを感じていた。何を緊張しているのだ、自分は──そう自嘲しながらも、目の前の男の反応が気になって仕方がない。
「術式の対称性が美しい。干渉点の処理も申し分ない」
イサクは静かに言った。
「これならば実用に耐え得るでしょう。完成ですよ、オルレアン嬢」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァリーラの胸の奥で、何かが弾けた。
安堵。
達成感。
そして──それだけでは説明のつかない、奇妙な温かさ。
「あなたのおかげですわ」
気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
自分でも驚くほど素直な声音。
かつてならば決して口にしなかったであろう謝辞がするりと喉を滑り落ちていく。
「あなたの助言がなければ、わたくしは未だあの壁の前で立ち竦んでいたことでしょう。……感謝いたしますわ、サザーランド」
イサクは僅かに目を細めた。
それは驚きなのか、あるいは別の何かなのか。ヴァリーラには判別がつかない。
「感謝される謂れはありませんよ。僕は単に、貴女が既に持っていた能力を引き出す手伝いをしたに過ぎません。この研究を完成させたのは他ならぬ貴女自身の力です」
淡々とした声。
だがそこには嘘も皮肉も含まれていない。ただ事実を述べているだけの、飾り気のない言葉。
ヴァリーラは不意に、視界が滲むのを感じた。
泣きそうになっている。
馬鹿馬鹿しい。何を泣くことがある。研究が完成したのだ。喜ぶべきことではないか。
彼女は慌てて顔を背け、目元を拭う素振りを見せた。
「……少し、休憩いたしましょうか。紅茶でも淹れてまいりますわ」
そう言い残し、ヴァリーラは逃げるように資料室を後にした。
◆
廊下を歩きながら、ヴァリーラは己の心の内を探っていた。
いつから変わったのだろう。
いつから、あの男に対する忌避感が薄れ始めたのだろう。
思い返せば、すべての始まりはあの中庭の一件であった。
セシリア・クラインフェルトをめぐる、愚かな口論。
彼女はイサクの父を侮辱した。年増の未亡人を後妻に迎える甲斐性なしと、そう吐き捨てたのである。
今にして思えば、なんと浅慮な発言であったことか。
相手の出自を貶めることでしか自らの優位を示せない。それはまるで物乞いが自分よりみすぼらしい者を見つけて安堵するのと変わりない──イサクはあの時、そう言った。
その言葉は鋭い刃となってヴァリーラの自尊心を切り裂いた。
だが同時に、その刃は腐肉を抉り取る外科医のメスでもあった。
──『公爵令嬢』という記号を剥ぎ取れば、何も残らない。空っぽの器だ。
あの言葉が今も脳裏にこびりついて離れない。
否定したかった。
違うと叫びたかった。
だから決闘を挑んだ。実力で証明しようとした。
そして無残に敗北した。
泥の中に這いつくばり、見下される屈辱を味わった。
あの時の自分はまさに「空っぽの器」そのものだった。
家名に寄りかかり、特権に胡坐をかき、他者を見下すことでしか自己を保てない、哀れな生き物。
──何もかもが自業自得でしたわね。
ヴァリーラは立ち止まり、窓の外を見つめた。
雪が積もっている。あの雪のように、自分も一度は真っ白に塗り潰されたのかもしれない。イサクという存在によって、それまでの自分が否定され、打ち砕かれ、そして新たな何かとして再構築されつつある。
それは屈辱ではなかった。
少なくとも今はそう思える。
父に言われ、渋々ながらイサクに教えを乞うた日のことを思い出す。
あの時の自分は針の筵の上を歩く心地であった。決闘で自分を打ち負かした相手に頭を下げるなど、死んでも御免だと思っていた。
だがイサクは──
彼は何も言わなかった。
勝者の余裕で見下すこともなければ、敗者を嘲笑うこともなかった。
ただ淡々と、研究に必要な知識を授けてくれた。
それが却って、ヴァリーラの心を掻き乱した。
なぜ、何も言わないのか。
なぜ、あの時の屈辱を蒸し返さないのか。
最初は警戒していた。いつか
だがその日は来なかった。
イサクは一貫して、ヴァリーラを「優秀な魔術師の卵」として扱い続けた。
それ以上でも、それ以下でもなく。
ヴァリーラはやや激情家ではある。感情に任せて愚かな行動を取ることもある。だが愚かな女ではない。むしろ賢いと言えるだろう。
その賢い頭で冷静に考えてみれば、イサクに対する敵意の大半は逆恨みに過ぎなかった。
先に侮辱したのは自分だ。
先に手袋を投げつけたのも自分だ。
イサクは売られた喧嘩を買っただけ。むしろ礼を逸した自分に対し、一時の感情で決闘を受けるのではなく、きちんと手続きを踏んで対応してくれた。
敗北後も、イサクは一度たりとも公の場でヴァリーラを辱めようとはしなかった。
それどころか、今こうして研究の手助けまでしてくれている。
──なんと器量の大きい男だろう。
ヴァリーラは溜息を吐いた。もはや認めざるを得ない。
実力主義のこのアルバラ帝国において、イサク・サザーランドは間違いなく優秀な人材である。
魔術の腕は折り紙付き。学院でも指折りの成績を収め、その知識の深さと広さは教授陣すら舌を巻くほどだという。
しかも彼は庶子でありながらサザーランド侯爵家の嫡男として認められている。
通常、庶子が嫡男の座に就くことは稀だ。正妻との間に子がないか、あるいは正妻の子が早世した場合に限られる。
サザーランド侯爵の場合、正妻であるドロテアとの間に子はない。
だがそれでも、庶子を後継者として公式に認めるには相応の理由が必要となる。
イサクがその地位を得ているということはそれだけの実力と信頼を父親から勝ち取っているという証左に他ならない。
容姿は凡庸。背は低く、肥えている。
だがその外見の裏に秘められた能力と意志の強さは帝国貴族社会においても稀有なものだ。
──認めざるを得ない。
ヴァリーラは心の中で、そう結論づけた。
イサク・サザーランドは優れた男である、と。
◆
紅茶を淹れ、資料室へと戻る。
イサクは再び書物に没頭していた。その横顔を、ヴァリーラはしばし眺めた。
ずんぐりとした体躯。
凡庸な顔立ち。
だがその瞳の奥に宿る光は──
「僕の顔など見つめても何も出てきませんよ、オルレアン嬢」
イサクが視線を上げずに言った。
ヴァリーラは慌てて視線を逸らす。
「べ、別に見つめてなど……」
「紅茶をありがとうございます」
彼は書物を閉じ、カップを手に取った。
その仕草の一つ一つが妙に気になる。
指の動き。
喉の動き。
カップを置く音。
──何を意識しているのだ、わたくしは。
ヴァリーラは自分自身に苛立ちを覚えた。
だがその苛立ちの正体を、彼女はまだ正確に理解していなかった。
イサクは紅茶を一口啜ると、ふと窓の外に視線を向けた。
「冬休みも、もうじき終わりですね」
「……ええ」
「研究が一段落して良かった。学期が始まれば、互いに忙しくなりますから」
その言葉に、ヴァリーラの胸がチクリと痛んだ。
学期が始まれば、こうして二人で過ごす時間もなくなる。
当然のことだ。
彼らはただの共同研究者に過ぎない。いや、それですらない。恩を受けた者と恩を施した者。その関係は研究の完成をもって終わるのが道理である。
なぜ、それが少し寂しいと感じるのか。
ヴァリーラは己の感情を持て余していた。
「……サザーランド」
「はい」
「わたくしはあなたのことを誤解しておりましたわ」
イサクは僅かに首を傾げた。
「誤解、とは」
「あなたを──その、ただの成り上がりの庶子だと。そう、見くびっておりました」
言葉にしてみれば、なんと浅ましい偏見であったことか。
ヴァリーラは己の過去を恥じた。
「ですが今は違いますわ。あなたは……その、立派な方だと。そう、思っておりますの」
頬が熱い。
なぜこんな告白めいたことを口走っているのか、自分でもわからない。
イサクはしばし沈黙した後、小さく息を吐いた。
「それはどうも。ですが僕は別に立派でも何でもありませんよ。ただ、自分のやりたいことをやっているだけです」
「それが立派なのですわ」
ヴァリーラは真っ直ぐにイサクを見つめた。
「己の道を定め、それを貫く。それができる人間はそう多くはありません」
イサクの灰色の瞳がヴァリーラを映す。
その瞳の奥に何が見えているのか。
ヴァリーラにはわからない。
だが見つめ返されているというその事実だけで、心臓が跳ねるような感覚があった。
「……貴女もまた、そうなのではないですか」
イサクが静かに言った。
「並列詠唱の研究。あれは貴女自身が選んだ道だ。誰に強制されたわけでもない。己の意志で始め、己の力で完成させた。それは十分に『立派』だと、僕は思いますよ」
その言葉がヴァリーラの胸を温かく満たした。
──ああ。
彼に認められた。その事実がこれほどまでに嬉しいとは。
ヴァリーラは初めて気づいた。
目の前にいるこの男がいつの間にか自分にとって特別な存在になっていることに。
嫌悪していたはずの相手。
忌避していたはずの相手。
それがいつしか、認められたいと願う相手に変わっていた。
そして今、この瞬間──
ヴァリーラは初めて、イサク・サザーランドという存在を「雄」として認識した。
恋愛対象としての異性。
番としての雄。
その認識が彼女の内側で静かに芽吹いた。
窓の外ではまだ雪が降り続いている。
だがヴァリーラの心の中では確かに春が訪れ始めていた。