◆◆◆
戦争とは何か。
その問いに対する答えは立場によって千差万別であろう。
兵士にとってそれは泥と血と恐怖に塗れた地獄であり、将軍にとっては盤上の駒を動かす知的遊戯であり、商人にとっては莫大な利潤を生む黄金の機会であり、そして為政者にとっては──国家という名の巨大な獣を養い、肥え太らせるための、必要不可欠な餌に他ならない。
アルバラ帝国と東方諸国連合。
この二つの勢力が鍔迫り合いを続けて、既に百年以上の歳月が流れていた。
百年。
その間にどれほどの血が流れたか。どれほどの骸が大地を肥やしたか。正確な数字を知る者は誰もいない。歴史家は推計を重ね、詩人は悲嘆を歌い、為政者は勝利を誇る。だが死んだ者たちは何も語らない。彼らはただ、土の下で静かに朽ちていくのみである。
両勢力は何故、これほど長きにわたって両者は争い続けてきたのか。
その答えを知るには百年前に遡らねばならない。
◆
アルバラ帝国。
大陸の北西部を支配するこの国は建国以来三百年余りの歴史を持つ。初代皇帝アルバラ一世が辺境の小都市国家から身を起こし、武力と策謀を以て周辺の諸侯を呑み込み、やがて大国の礎を築いた。以来、帝国は休むことなく膨張を続けてきた。
領土拡張。
それは帝国の存在意義そのものであった。
帝国の国是は明快である。曰く、文明を知らぬ蛮族に秩序と繁栄をもたらす。曰く、帝国の庇護の下でこそ人は真の幸福を得られる。曰く、これは侵略ではなく統一である。
美辞麗句で飾り立てられてはいるが要するに「お前たちが持っているものを寄越せ、さもなくば殺す」という野盗の論理に他ならない。ただ、その野盗が国家の体裁を整え、法と官僚機構によって殺戮を組織化しているというだけの話だ。
対する東方諸国連合。
その名が示す通り、大陸東部に点在する複数の国家による同盟である。
単一の支配者を持たず、複数の王国、公国、都市国家が緩やかな連携を保ちながら、西から迫り来る帝国の脅威に対抗している。文化も言語も宗教も多様であり、統一性という点では帝国に遠く及ばない。だがそれ故に、帝国が最も苦手とする「予測不能性」という武器を持っていた。
両者の本格的な衝突が始まったのは今から百十七年前のことである。
当時の皇帝──史書に「烈火帝」と記されるアルバラ七世──は東方への大規模な遠征を断行した。名目は「辺境の反乱鎮圧」であったがその実態は明らかな侵略戦争であった。
烈火帝は自ら陣頭に立ち、その圧倒的な魔術の力で敵城門を溶解させたという。彼の焦熱の炎は要塞を灰燼に帰し、軍勢を薙ぎ払い、抵抗する者すべてを焼き尽くした。兵士たちはその姿に熱狂し、死を恐れずに突撃を繰り返した。
英雄的な戦争であった。
少なくとも、帝国側の史書にはそう記されている。
だが英雄譚の裏には常に無数の屍が積み上げられている。
烈火帝の遠征によって、東方の肥沃な平原地帯は帝国の版図に組み込まれた。だがそれは同時に、東方諸国に「帝国への恐怖」という共通の敵を与えることにもなった。
恐怖は人を結束させる。
それまで互いに争い合っていた東方の諸国家は初めて一つの旗の下に集結した。東方諸国連合の誕生である。
以来、両者は国境線を挟んで睨み合い、時に大規模な戦争を、時に小競り合いを繰り返してきた。百年以上の間、どちらも決定的な勝利を収めることなく、ただ膨大な血と金を消費し続けてきたのである。
◆
では今次の戦争はどのようにして始まったのか。
直接の引き金は東方諸国連合側の先制攻撃であった。
シグルド要塞。帝国の東方防衛線の要となる大要塞が陥落したのはわずか二週間前のことである。
連合軍は従来の魔術体系とは全く異なる術理を操る術士を投入し、帝国軍を混乱に陥れた。八卦と呼ばれる東方の秘術。天と地の対立項を軸に万象を操るその術は帝国の魔術師たちには理解不能の代物であった。
結果、帝国軍は一方的に蹂躙された。
だがその危機は既に去っている。
皇帝シェラハザードの命により召喚されたグレイル・サザーランド侯爵──帝国が誇る最強にして最狂の魔術師が敵味方の区別なく戦場ごと消滅させるという荒業で、東方の術士を葬り去ったのである。
今、戦況は膠着していた。
連合軍は前線を維持する力を失い、帝国軍もまた追撃する余力を持たない。両軍ともに疲弊し、次の一手を模索している状態であった。
そして帝都では今後の方針を巡って激しい議論が交わされていた。
◆
皇城「暁の宮殿」。
その最奥、皇帝の私室は静謐に満ちていた。
分厚い絨毯が足音を吸い込み、天井から吊り下げられたシャンデリアが淡い光を放っている。壁には歴代皇帝の肖像画が並び、その視線は玉座に座る現皇帝を見守るように注がれていた。
シェラハザード・バーラカーラ・シャマル・アルバラ。
即位して二十年。帝国を鉄の規律で統べる女帝である。
白銀の髪を優雅に結い上げ、アメジストの瞳は窓の外──帝都の街並みを見下ろしていた。薄いシルクのガウンを纏ったその姿は戦時の皇帝というよりは退屈を持て余す貴婦人のようにも見える。
だがその外見に騙されてはならない。
この女は冷酷だ。
人の命を数字としてのみ認識し、感情を一切排して勝利という結果のみを追求する。「冷血帝」──周辺国の人間が畏怖と憎悪を込めて呼ぶその渾名は決して誇張ではなかった。
「──陛下」
控えていた宰相ベルンハルトが声をかける。
「軍議の時間でございます」
「分かっておる」
シェラハザードは振り返ることなく応じた。
「どうせまた、あの男が騒ぎ立てるのであろう?」
「ヴァレンシュタイン公爵のことでございますか」
「他に誰がおる」
皇帝の声に、微かな苛立ちが混じる。
ヴァレンシュタイン公爵家。
帝国の軍部を支える柱石の一つであり、代々、東方戦線の総司令官を輩出してきた名門である。現当主カール・フォン・ヴァレンシュタイン公爵は先帝の時代から軍務に携わってきた歴戦の将軍であった。
そして彼はシェラハザードとは全く異なる考えを持っていた。
「妾は今次の戦争を早期に終結させたいと考えておる」
シェラハザードは静かに言った。
「東方から適切な賠償と領土割譲を得て、休戦協定を結ぶ。それが妾の方針じゃ」
「ヴァレンシュタイン公爵は反対しておりますな」
「反対どころか、好機到来と言わんばかりじゃろう。連合軍が弱体化している今こそ、一気に攻め込んで東方全域を制圧すべきだ、と」
シェラハザードは鼻で笑った。
「愚かな。戦争に勝つことと、領土を維持することは全く別の話じゃ」
彼女は窓辺を離れ、ゆっくりと部屋の中央へと歩み寄った。
「仮に東方全域を制圧したとして、それを維持するのにどれだけの兵力が必要になると思う? どれだけの金がどれだけの時間が? 異なる文化を持つ民を支配下に置くことの困難さを、あの男は理解しておらぬのか」
「公爵は軍人でございますからな。勝利以外のことは考えられぬのでしょう」
「勝利の後に何が来るかを考えぬ者は愚か者と呼ばれて当然じゃ」
シェラハザードの声は冷ややかだった。
「妾が欲しいのは征服ではない。安定じゃ。帝国が末永く繁栄し続けるための、持続可能な秩序じゃ。そのためには敵を完全に滅ぼすよりも、適度に弱体化させつつ存続させる方が都合が良い」
それは冷徹な計算であった。
完全に敵を滅ぼせば、帝国軍部の存在意義が薄れる。軍人たちは新たな敵を求めて内政に干渉し始めるだろう。外に敵がいなければ、内に敵を作る。それが武人という生き物の性だ。
だが適度な脅威が存在する限り、軍部は外敵との戦いに専念する。皇帝の権威は軍事力によって支えられ、同時に軍部は皇帝によって制御される。絶妙な均衡。
それがシェラハザードの描く帝国の姿であった。
「しかし公爵を抑えることができますかな」
ベルンハルトが懸念を示す。
「ヴァレンシュタイン家は軍部に絶大な影響力を持っております。下手に刺激すれば、軍の統制に支障をきたす恐れが」
「分かっておる」
シェラハザードは不機嫌そうに眉を寄せた。
「だからこそ、慎重に事を運ばねばならぬ。妾の意向を通しつつ、公爵の顔も立てる。面倒なことじゃが政治とはそういうものであろう」
彼女は侍従に合図を送った。
「行くぞ。軍議の席で、あの男がどんな顔をするか見届けてやろう」
◆
大会議室。
円卓を囲むようにして、帝国の重臣たちが着席していた。
軍務大臣、宰相、財務卿、法務卿──そして各軍の司令官たち。
その中で一際存在感を放っているのがカール・フォン・ヴァレンシュタイン公爵であった。
年の頃は六十に近いだろうか。白髪を短く刈り込み、顔には深い皺が刻まれている。だがその体躯は若者にも負けぬほど逞しく、背筋はぴんと伸びていた。軍服に身を包んだその姿はまさに武人の鑑と呼ぶに相応しい。
彼の家系は帝国建国以来、常に戦場の最前線に立ってきた。
初代ヴァレンシュタイン伯爵は初代皇帝アルバラ一世の右腕として数々の戦役で功を立て、その功績により公爵の爵位を賜った。以来、ヴァレンシュタイン家は代々、帝国軍の中枢を担ってきた。
東方戦線の総司令官という地位は彼の曾祖父の代から続く家業のようなものであった。
「皆の者、揃ったな」
シェラハザードが玉座に着くと、部屋の空気が張り詰めた。
「では軍議を始めよう。まずは現在の戦況を報告せよ」
軍務大臣が立ち上がり、地図を広げて説明を始めた。
シグルド要塞の陥落。バルデへの後退。グレイルによる敵術士の撃破。そしてその際に発生した味方の巻き添え被害。
報告が進むにつれて、ヴァレンシュタイン公爵の表情が険しくなっていく。
「──以上が現時点での戦況でございます」
軍務大臣が報告を終えると、束の間の沈黙が流れた。
最初に口を開いたのは予想通りヴァレンシュタイン公爵であった。
「陛下」
低く、しかし威厳に満ちた声が会議室に響く。
「今こそ反撃の好機かと存じます」
「ほう。続けよ」
シェラハザードは表情を変えない。
「連合軍はあの術士に戦略の大部分を依存しておりました。それが失われた今、彼らの戦闘能力は大幅に低下しております。加えて、シグルドを攻め落とすために消耗した兵力は未だ補充されておりません」
公爵は立ち上がり、地図を指し示した。
「今、帝国軍が全力で反撃に転じれば、シグルドの奪還はおろか、連合の中枢部にまで一気に攻め入ることが可能です。この機を逃せば、敵に態勢を立て直す時間を与えてしまいます」
「具体的にはどの程度の戦力を想定しておるのじゃ」
「現有戦力に加え、後方の予備兵力を動員すれば、およそ十五個師団。これだけあれば、連合の主要都市を制圧するには十分かと」
十五個師団。
それは帝国軍の総兵力の半分以上に相当する大軍である。
「そして」
公爵の声に、微かな熱が宿った。
「この戦いを完遂すれば、帝国は東方全域を支配下に置くことができます。百年以上続いた東方問題に、終止符を打つことができるのです」
その言葉に、会議室のそこかしこで賛同の声が上がる。
軍人たちにとって、完全勝利の誘惑は抗いがたいものであった。百年以上も戦い続けてきた宿敵を、今度こそ完膚なきまでに叩き潰す。その機会が目の前にあるのだ。
だがシェラハザードの表情は変わらない。
彼女はただ黙って公爵の言葉を聞き、そして静かに口を開いた。
「公爵の献策、確かに聞き届けた」
「では──」
「だが妾の考えは異なる」
その一言で、会議室の空気が凍りついた。
「東方全域の制圧。確かに魅力的な響きじゃ。だがその後のことを考えたことはあるか、公爵」
「その後、と申されますと」
「制圧した領土を維持するための兵力。統治するための官僚機構。異なる文化を持つ民を支配下に置くことで生じる摩擦。そして何より、そこから上がる収益が投入した費用を上回るまでにどれだけの時間がかかるか」
シェラハザードは淡々と列挙していった。
「戦争は勝てば終わりではない。勝った後こそが本番じゃ。そこを見誤れば、帝国は勝利によって滅ぶことになる」
「しかし陛下、今こそ百年の宿願を果たす好機──」
「百年の宿願?」
シェラハザードが遮った。
その声は穏やかだったがそこには有無を言わせぬ威圧が込められていた。
「東方を滅ぼすことが帝国の宿願じゃと? それは誰が決めたことじゃ。妾は知らぬな」
「それは……」
「帝国の宿願は繁栄じゃ。民が豊かに暮らし、国が末永く続くこと。それ以外にはない。東方を滅ぼすことはその手段の一つにはなり得るかもしれぬが目的そのものではない」
シェラハザードは玉座の肘掛けに頬杖をついた。
「妾の方針を言おう。今次の戦争は適切な条件で講和する。東方から領土の一部を割譲させ、賠償金を取り、そして休戦協定を結ぶ。それ以上は求めぬ」
「陛下っ」
ヴァレンシュタイン公爵が声を荒げかけたがシェラハザードは手を上げてそれを制した。
「妾の決定じゃ。異論は認めぬ」
絶対的な権威を持つ皇帝の言葉に、公爵は唇を噛みしめるしかなかった。
彼は深々と一礼し、席に着いた。
だがその目には隠しきれない不満の色が宿っていた。
◆
軍議が終わり、重臣たちが退出していく中、ヴァレンシュタイン公爵は足早に廊下を進んでいた。
その表情は険しく、眉間には深い皺が刻まれている。
「父上」
声をかけられ、公爵は足を止めた。
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
三十代半ばだろうか。父親譲りの精悍な顔立ちをしているがその目には若さゆえの野心の炎が燃えている。
レオポルト・フォン・ヴァレンシュタイン。公爵の嫡男にして、帝国軍第三師団の師団長を務める軍人である。
「軍議の結果は」
「見ての通りだ」
公爵は吐き捨てるように言った。
「陛下は講和を望んでおられる。東方全域の制圧という千載一遇の好機を、みすみす逃そうというのだ」
「それは……」
「女の考えよ」
公爵の声に、露骨な侮蔑が滲んだ。
「陛下は確かに聡明だ。内政においては見事な手腕を発揮しておられる。だがな、戦争というものを分かっておらぬ。敵を殺し、領土を奪う。それが戦争だ。妥協も調和もない。勝つか負けるか、それだけだ」
レオポルトは黙って父の言葉を聞いていた。
「百年だぞ! 百年──我がヴァレンシュタイン家は百年以上にわたって東方との戦いに命を捧げてきた。曽祖父も、祖父も、父も、皆あの戦場で血を流した。そしてわしもまた、若き日に東方の地で傷を負った」
公爵は自らの左腕を見下ろした。
そこには古い刀傷の跡が薄く残っている。
「その百年の犠牲が今こそ報われようとしている時に……講和だと? ふざけるな」
彼の声は低く、しかし激しい怒りを孕んでいた。
「東方の蛮族どもを根絶やしにし、あの地を永遠に帝国の版図とする。それこそがヴァレンシュタイン家の、いや、帝国軍全ての悲願である」
「しかし父上、陛下のお考えにも一理が」
「黙れ」
公爵は息子を睨みつけた。
「お前もまた、あの女帝に毒されたか。戦場を知らぬ者に何が分かる。書物の上で計算ばかりしておる連中に、血の熱さが分かるものか」
レオポルトは口を噤んだ。
父の言葉に反論する気はなかった。ただ、彼自身の中にも複雑な思いがあった。
皇帝の判断は確かに合理的だ。戦争を続けることの負担、占領地を維持することの困難さ。それらを考慮すれば、適切な条件での講和は悪い選択ではない。
だが同時に、父の言葉にも真実が含まれている。
百年の戦い。無数の犠牲。それらを経て、ようやく決定的な勝利が手の届くところにある。それを目前で諦めることの無念は軍人ならば誰もが感じるところだろう。
「父上。ではどうなさるおつもりですか」
「どうもこうもない。陛下の命には従う。それが臣下の務めだ」
公爵はそう言ったがその目には別の光が宿っていた。
「だがな、レオポルト。戦場は生き物だ。計画通りにいくことなど、ほとんどない。状況は常に変化する。そしてその変化を利用できる者だけが勝利を手にするのだ」
その言葉の真意を、レオポルトは測りかねた。
父は何を考えているのか。
まさか皇帝の命に背くつもりなのか。
それとも、何か別の策があるのか。
「分からぬ顔をするな」
公爵は息子の肩を叩いた。
「お前はただ、わしの命令に従っておればよい。今はな」
そう言い残し、公爵は廊下の奥へと消えていった。
後に残されたレオポルトはしばし父の背中を見送っていた。
◆
皇城の一角、皇帝の私室。
シェラハザードは長椅子に身を横たえ、天井を見上げていた。
傍らには空になったワイングラス。戦時中であることを忘れさせるような、退廃的な空気が部屋を満たしている。
「……厄介なことになったのう」
独り言のように呟く。
ヴァレンシュタイン公爵の不満は明白だった。
軍議の席では一応従う姿勢を見せていたが腹の中では不満を煮えたぎらせているはずだ。そして彼は軍部に絶大な影響力を持っている。
下手に刺激すれば、面倒なことになりかねない。
かといって、彼の主張を受け入れるわけにもいかない。
東方全域の制圧など、帝国の国力を考えれば自殺行為に等しい。一時的には勝利できるかもしれないがその後の統治で国が疲弊し、やがては内部から崩壊する。歴史が何度も証明してきたことだ。
「過ぎたる勝利は身を滅ぼす、か」
シェラハザードは目を閉じた。
彼女が望むのは帝国の「永続」である。
一時的な栄光ではなく、何百年も続く繁栄。そのためには無理な膨張は禁物だ。適切な規模を維持し、内部を充実させる。それこそが真の強さだと、彼女は信じていた。
だがその考えは武勲を求める軍人たちには理解されにくい。
彼らにとって、戦わずに得られる平和には価値がない。戦い、勝ち、敵を打ち倒す。それこそが軍人の誉れだ。
その意味で、ヴァレンシュタイン公爵は典型的な軍人であった。
百年以上にわたって東方と戦い続けてきた家系。その誇りと執念は一介の女帝の理屈で覆せるものではない。
「宰相」
シェラハザードは目を開けずに呼んだ。
「はい、陛下」
影から、ベルンハルトが姿を現す。
「ヴァレンシュタイン公爵の動向を監視せよ。何か不穏な動きがあれば、直ちに報告するのじゃ」
「かしこまりました」
「それと、講和の準備を進めよ。東方に使者を送り、条件を提示する。妾が直接交渉に当たる必要があるやもしれぬな」
「陛下自らが? 危険では」
「危険?」
シェラハザードは薄く笑った。
「戦場よりはましじゃろう。それに、あの公爵を牽制するには妾自身が動くのが一番早い」
彼女は身を起こし、窓の外を見つめた。
帝都の夜景が宝石のように煌めいている。
「百年の戦争を終わらせる。それが妾の仕事じゃ。たとえ軍部を敵に回すことになろうとも、な」
その声は静かだったがそこには揺るぎない決意が込められていた。
◆
同じ頃、ヴァレンシュタイン公爵邸。
書斎に籠もった公爵は一通の書状を認めていた。
宛先は帝国軍の各師団長。内容は──
「お父様」
ノックの音と共に、女の声が響いた。
公爵は羽ペンを置き、入室を許可した。
現れたのは美しい女性であった。黒髪を優雅に結い上げ、深い緑色のドレスを纏っている。年齢は二十代半ばといったところか。凛とした佇まいの中に、どこか陰りのある雰囲気を漂わせていた。
エリザベート・フォン・ヴァレンシュタイン。公爵の一人娘にして、社交界の華と謳われる令嬢である。
「何用だ、エリザベート」
「軍議のご様子を伺いに参りました」
エリザベートは父の前に立ち、真っ直ぐにその目を見つめた。
「噂では陛下と対立なさったとか」
「噂は早いな」
「宮廷の耳は長いものですわ。それで、お父様はどうなさるおつもり?」
「どうもこうもない。陛下の命には従う」
「嘘ですわ」
エリザベートの声に、鋭い響きが混じった。
「お父様がそう簡単に諦めるはずがありませんわ。今、何か書いておられたのでしょう? 各師団長への密書ではなくて?」
公爵は娘を見つめ返した。
この娘は聡い。母親に似て、人の心を見透かすような目を持っている。
「……お前に隠し事は無駄なようだな」
「お父様の娘ですもの」
エリザベートは微かに笑った。
「お気持ちは分かりますわ。百年の悲願を目前にして、諦めろと言われて納得できるはずがありません。ヴァレンシュタインの血が許さないでしょう」
「その通りだ」
「でも、お父様。皇帝陛下に逆らうことは謀反と同じですわ。たとえ成功しても、お父様の名誉は地に墜ちます」
「名誉?」
公爵は鼻で笑った。
「名誉など、勝者が後から塗り替えるものだ。重要なのは結果だけだ」
「お父様……」
「案ずるな、エリザベート。わしは謀反など企ててはおらぬ」
公爵は書状を畳み、封蝋を垂らした。
「ただ、状況を作り出すだけだ。陛下が講和を望んでおられるのは分かっておる。だが講和には相手の同意が必要だ。もし相手が講和を拒否したら? もし戦争を継続せざるを得ない状況になったら?」
その言葉の意味を、エリザベートは理解した。
「東方に……何かをなさるおつもりですの?」
「何もせぬよ。ただ、あちらが何かをしたくなるように、少々仕向けるだけだ」
公爵は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「戦争は生き物だ。一度始まれば、どちらかが完全に倒れるまで終わらぬ。それが戦争の本質だ。陛下はそれを分かっておられぬ」
「でも、もし失敗したら……」
「失敗はせぬ」
公爵は振り返り、娘を見つめた。
「わしは百年を背負っておる。曾祖父の、祖父の、父の、そしてわし自身の百年を。それを無駄にするわけにはいかぬ」
その目には狂気にも似た執念が宿っていた。
エリザベートは何も言えなかった。
ただ、胸の奥で不吉な予感が渦巻くのを感じていた。
◆
帝国と東方諸国連合。
百年を超える因縁を持つ二つの勢力が今また歴史の岐路に立っていた。
皇帝シェラハザードは講和を望み、戦争の終結を図ろうとしている。
だがヴァレンシュタイン公爵は完全勝利を求め、東方全域の制圧を企んでいる。
二人の思惑は完全に相反していた。