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春の訪れは戦争の気配を薄めるものではなかった。むしろ雪解けと共に、新たな火種が芽吹き始めているようにすら感じられる。
シェラハザードは執務室の窓辺に立ち、庭園の桜を眺めていた。
淡い桃色の花弁が風に舞い、絨毯のように地面を覆っている。美しい光景だ。だがその美しさに心を動かされるほど彼女は甘い人間ではなかった。
花の寿命は短い。咲き誇ったかと思えば、あっという間に散っていく。人の命もまた然り。戦場で散っていく兵士たちの命はこの花弁よりも儚い。
だがそれを嘆いたところで何になる。
為政者とはそうした儚さを踏み越えて前に進む存在だ。感傷に浸る暇があれば、一つでも多くの政策を練り、一人でも多くの敵を出し抜く算段を立てねばならぬ。
「陛下」
背後から宰相ベルンハルトの声がした。
「帝国魔術学院より、報告書が届いております」
「ああ、あれか」
シェラハザードは振り返らぬまま応じた。
学院への投資。それは彼女が即位以来、地道に続けてきた政策の一つであった。
東方との戦争はいつ終わるとも知れぬ。講和を望んではいるが相手がどう出るかは予測できない。連合という寄り合い所帯の厄介なところは一枚岩でないがゆえに交渉の窓口すら定まらぬことにある。
今日講和が成立したとしても、明日には反故にされるかもしれぬ。
あるいは講和自体が成立しないかもしれぬ。
そうなれば、戦争は続く。
いや、むしろ激化する可能性すらある。
だからこそ備えが必要なのだ。
兵力の増強。それも、ただ頭数を揃えればよいというものではない。質的な向上が求められる。東方の術士が見せたような、従来の魔術体系では太刀打ちできぬ異質な力。それに対抗できるだけの、新しい術理の開発が急務であった。
グレイル・サザーランドのような規格外の存在に頼り続けるわけにはいかぬ。
あの男は確かに強い。だが味方も敵も区別なく焼き払うような人間を、組織的な軍事力の要とすることはできない。それは博打に等しい。
必要なのは再現可能な力だ。
才ある者を育て、新しい術式を開発し、それを軍に普及させる。地道な作業ではあるがそれこそが長期的な軍事力の基盤となる。
その土台作りとして、シェラハザードは学院に多額の資金を投入してきた。
研究設備の拡充。優秀な教授陣の招聘。奨学金制度の整備。そして何より、有望な研究に対する惜しみない支援。
その成果がようやく形になりつつある。
「報告書をここへ」
シェラハザードは執務机に着き、ベルンハルトから羊皮紙の束を受け取った。
表紙には「帝国魔術学院 年次研究報告 推薦論文目録」と記されている。
学院では毎年、優秀な研究成果を選抜し、皇帝に報告することになっていた。単なる形式的な儀式ではない。シェラハザード自身がその報告書に目を通し、有望な研究や人材を見極めるための重要な機会であった。
ページをめくる。
今年の推薦論文は三本。
一本目。
『並列詠唱における術式干渉の最小化と、関係代名詞的構造による統合』
著者:ヴァリーラ・ド・オルレアン
シェラハザードの眉がわずかに上がった。
オルレアン公爵家の令嬢か。
オルレアン家と言えば、帝国有数の経済力を誇る名門である。領地からの収入に加え、商業への投資によって莫大な富を築いている。その財力は軍部の予算にも影響を与えるほどで、政治的にも無視できぬ存在であった。
当主のリシャール・ド・オルレアンは狡猾な男だ。表向きは皇帝に恭順を示しているが裏では常に家の利益を優先している。
そんな男の娘の出してきた代物は──
並列詠唱。複数の魔術を同時に行使する技術。それ自体は古くから研究されてきたテーマだが術式間の干渉という問題が常に立ちはだかっていた。
この論文はその問題に対して異なるアプローチで解を与えようとしている。
術式を並列に接続するのではなく、従属構造として組み込む。
なるほど、と思った。
発想の転換だ。
二つの現象を「同時に」起こそうとするから干渉が生じる。ならば、一つの現象の「属性」としてもう一つを定義すればよい。実用化されれば、戦場での魔術師の戦闘力は飛躍的に向上するだろう。
二本目。
『質量弾投射魔術の実践的運用に関する考察』
著者:アルフォンス・ド・ロンドブル
ロンドブル公爵家。
こちらは武門の名門である。
代々、帝国軍に優秀な将校を輩出してきた家系だ。現当主も軍部に大きな影響力を持ち、ヴァレンシュタイン公爵とは古くからの盟友関係にある。
その嫡男が軍用魔術の研究に取り組んでいるのは家の伝統からすれば当然の帰結と言えた。論文の内容は魔術によって生成した土塊を高速で射出し、敵を物理的に粉砕するという、極めて実践的な攻撃魔術に関するものだった。
派手だ。
そしてわかりやすい。
戦場での有用性は一目瞭然である。遠距離から敵陣を攻撃し、防御結界を物理的に突破する。従来の火炎や雷撃による攻撃魔術とは異なるアプローチであり、敵の対策を困難にする効果も期待できる。
軍部が喜びそうな研究だ、とシェラハザードは思った。
そして三本目。
『古代語における多重意味構造の解析──及び、その魔術的応用について』
著者:イサク・サザーランド
シェラハザードの手が止まった。
サザーランド。
その名には複雑な感情が伴う。
グレイル・サザーランド。帝国最強にして最狂の魔術師。彼女が即位する遥か以前から、その名は帝国中に轟いていた。そして即位後も、何度となくその力を借りてきた。
最近では東方の術士を葬り去ったのも彼だ。味方ごと、という余計な被害を出しながらではあったが。
その息子、イサク・サザーランド。
庶子でありながら嫡男として認められているという話は聞いていた。父親譲りの才能があるのだろうと、漠然と考えていた。
だがこの論文は──
シェラハザードは眉をひそめた。
派手な攻撃魔術の理論も、革新的な兵器の設計図も、そこには書かれていなかった。
ただ淡々と、古代語の文法構造についての解析が記されているだけだ。
多重意味構造。
一つの単語が文脈によって複数の意味を持つという、言語学的な現象についての考察。それがどのように魔術に応用できるのかについてはいくつかの示唆が述べられてはいるものの、具体的な術式や実験結果は示されていない。
地味だ。
あまりにも、地味だ。
——学術的な価値はあるのかもしれぬが、軍事的な有用性は不明瞭だ。
なぜこれが推薦されてきたのか──シェラハザードは報告書を閉じ、しばし考え込んだ。
忖度か。
その可能性が頭をよぎった。
グレイル・サザーランドは帝国の至宝だ。その息子の論文となれば、学院の審査員たちが下駄を履かせた可能性はある。
だが──
「学院には忖度を禁じておるはずじゃな」
シェラハザードは独り言のように呟いた。
「はい、陛下のご命令により、推薦基準は厳格に運用されております」
ベルンハルトが答えた。
「審査は匿名で行われ、著者の出自は伏せられた状態で評価されます。サザーランド侯爵の御子息であることは審査の段階では知られておりません」
「うむ」
まさにその通りであった。で、あるならば純粋に内容が評価されたということになる。この一見地味な言語学の論文が軍用魔術の研究と並んで推薦に値すると判断されたということだ。
シェラハザードは再び報告書を開き、イサクの論文を読み返した。
今度はより注意深く。
文体は簡潔で無駄がない。論理の展開は緻密で、飛躍がない。そして何より、着眼点が独特だ。
古代語の多重意味構造。
それは単なる言語学的な興味の対象ではない。魔術の詠唱において、一つの言葉が複数の効果を同時に発動させるための鍵となりうる。
従来の魔術は一つの詠唱に一つの効果が対応するという前提で設計されていた。だが古代の魔術師たちは言葉の多義性を利用して、より少ない詠唱でより複雑な効果を発動させていたという。
その技術は失われて久しい。
だがもしそれを復活させることができれば──
「面白い」
シェラハザードは呟いた。
この青年は魔術の根本を再定義しようとしている。
派手さはない。即座に戦場で使える技術でもない。だが長期的に見れば、帝国の魔術体系全体に影響を与える可能性を秘めている。
オルレアン嬢の論文も、実はこの視点と通じるところがある。彼女が用いた発想は
もしかすると——この二人の研究には何らかの繋がりがあるのかもしれぬ。
シェラハザードは報告書を閉じ、窓の外を見つめた。
花弁が舞い続けている。
「ベルンハルト」
「はい」
「この三人に会ってみたい」
宰相の表情が微かに動いた。
「三人、でございますか」
「そうじゃ。オルレアン嬢、ロンドブル卿、そしてサザーランド卿の息子。学院に伝えよ。皇帝が直々に彼らと面談したいと」
「かしこまりました。日程の調整をいたします」
ベルンハルトが退出しようとした時、シェラハザードは付け加えた。
「それぞれ別々にじゃ。一人ずつ、じっくりと話を聞きたい」
「御意」
宰相が去った後、シェラハザードは再び報告書を手に取った。
三本の論文。
三人の若き魔術師。
彼らがどのような人物なのか。その目で見て、その声で聞いて、見極めねばならぬ。
将来の帝国を支える人材となりうるか。あるいは警戒すべき存在となりうるか。
特に気になるのはサザーランドの息子だ。
あのグレイルの血を引く者。規格外の才能を持つ可能性がある。同時に、規格外の危険性も秘めているかもしれぬ。
父親のように、味方も敵も区別なく焼き払うような存在になるのか。あるいは父親とは異なる道を歩むのか。
シェラハザードは窓辺に立ち、春の空を見上げた。
戦争の行方はまだ見えぬ。
だが未来を担う芽は確実に育ちつつある。
それが花開くのか、それとも枯れるのか——見届けるのもまた、為政者の務めであろう。
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学院に皇帝からの召喚状が届いたのはその三日後のことであった。
午後の講義が終わり、学生たちがざわめく廊下を、一人の男が歩いていた。
タウラス・ヴォルフスタイン教授。
軍用魔術の権威にして、学院の古参教授である。
彼の手には皇城から届いた封書が握られていた。蝋で押された皇帝の紋章がその重要性を物語っている。
陛下が学生に会いたいと仰せである。
それも、三人同時にではなく、一人ずつ。
タウラスは封書を見つめながら、複雑な思いを抱いていた。
アルフォンス・ド・ロンドブルの研究が認められたことは喜ばしい。彼は自分の弟子であり、軍用魔術の正統な後継者だ。皇帝の目に留まったということは将来の出世が約束されたも同然である。
だが残りの二人──
ヴァリーラ・ド・オルレアン。
彼女の研究は確かに優れている。だがその方向性はタウラスの考える「正しい魔術」とは異なっていた。理論偏重にすぎる、とタウラスは思う。実践の場で役に立つのかという疑問。
そしてイサク・サザーランド。
父親のグレイルとは違うタイプの異常さを、タウラスは嗅ぎ取っていた。
あの決闘以来、実のところタウラスはイサクを警戒していた。才能は評価している。しかし表面上は穏やかな学生を装っていても、その内側には何か得体の知れぬものが潜んでいる──タウラスの軍人としての勘がそう告げていた。
──だが皇帝の召喚を拒むわけにはいかぬ。
タウラスは深く息を吐き、学院長室へと足を向けた。
◆
その頃、イサクは図書館の片隅で古文献を読み耽っていた。
春の陽光が窓から差し込み、埃の粒子を金色に輝かせている。穏やかな午後だ。戦争の喧騒も、政治の駆け引きもここには届かない。
彼が読んでいるのは古代レムリア文明の魔術書の写本であった。
原本はとうに失われている。だがいくつかの断片が後世に伝えられ、学院の書庫に収められていた。
イサクはその断片から、古代の魔術師たちの思考回路を読み解こうとしていた。
彼らは言葉をどのように扱っていたのか。
一つの詠唱で複数の効果を発動させるために、どのような工夫を凝らしていたのか。
それを理解できれば──
「イサク様」
聞き慣れた声に、イサクは顔を上げた。
セシリア・クラインフェルトがおずおずと近づいてくる。
彼女の手には分厚い書籍が抱えられていた。自分の研究資料だろう。相変わらず勤勉な娘だ。
「どうしました、セシリア」
「その、お邪魔ではないかと思ったのですが」
「邪魔などではありませんよ。どうぞ」
イサクが向かいの席を示すと、セシリアは嬉しそうに腰を下ろした。
しばらく、二人は黙って読書を続けた。
図書館の静寂の中で、ページをめくる音だけが響く。
やがて、セシリアが口を開いた。
「あの、イサク様」
「はい」
「噂を聞いたのですが」
「噂?」
「陛下が学院の学生を召喚なさるとか」
イサクの手が止まった。
「それはまた、大袈裟な話ですね」
「イサク様も、その中に含まれているとか」
セシリアの声には微かな不安が滲んでいた。
彼女なりに、イサクのことを心配しているのだろう。皇帝に召喚されるということは栄誉であると同時に、危険でもある。何か不興を買えば、その場で首を刎ねられる可能性もある。なにせ相手は“冷血帝”なのだから。
「まだ正式な通知は受けていませんよ」
イサクは穏やかに言った。
「噂は噂です。気にすることはありません」
「でも」
「仮に召喚されたとしても、別に恐れることはありません。僕は何も悪いことはしていない。研究の成果を報告すればよいだけの話です」
イサクの声は淡々としていた。
だがその内心では別の計算が働いていた。
皇帝シェラハザード。帝国を統べる絶対的な権力者がなぜ自分を召喚しようとしているのか。
研究に興味を持ったから? それだけとは思えなかった。
あるいは父親のことを探ろうとしているのか。
いずれにせよ油断はできない。
しかしそんな想いをおくびにもださず、イサクは「大丈夫ですよ、セシリア」と微笑んだ。
◆
翌日、正式な召喚状がイサクの元に届いた。
差出人は皇城。宛名はイサク・サザーランド。
内容は簡潔だった。
──三日後、皇城にて皇帝陛下との面談を賜る。正装にて参内せよ、か