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帝都の春というのはどうしてこうも薄ら寒いのか。
華やかに咲き誇る花々の下には、冬の間に凍死した虫の死骸が埋まっている。宮殿もまた同じことだ。絢爛豪華な装飾、磨き上げられた大理石の床、それらの下には権力という魔物に食い殺された者たちの脂と血が染み込んでいる。
皇城「暁の宮殿」──その威容は人を圧倒するために設計された巨大な墓標のようであった。
石造りの胃袋と言い換えてもいい。無数の人間を飲み込み、咀嚼し、あるいは栄達という養分に変え、あるいは絶望という排泄物として吐き出す。その消化器官の奥底へ、三人の若き魔術師が今まさにのみ込まれようとしていた。
長い、あまりにも長い回廊を三人の若者が歩いている。
靴音が硬質な床を叩き、天井の高い空間に虚しく反響する。
先頭を行くのはアルフォンス・ド・ロンドブル。公爵家の嫡男としての矜持を全身から発散させ、その靴音さえもが高らかに「我は選ばれし者なり」と歌っているようだ。
この男は緊張などしていない。この召喚を自らの才能が正当に評価されるべき檜舞台だと信じて疑わないからだ。めでたい男であるが、その能天気さが彼の強みでもある。
その少し後ろをヴァリーラ・ド・オルレアンが歩く。
彼女の背筋は悲しいほどに伸びている。それは自信の表れというよりは恐怖や不安を押し殺すための張り詰めた糸のようなものだ。オルレアン家の名誉、父からの重圧、そして何より彼女自身のプライド。それらが彼女の華奢な肩にのしかかっている。そんな彼女は横目でちらりと、隣を歩く男を見た。
イサク・サザーランド。
ずんぐりとした体躯を揺らし、どこか気のない様子で歩いている。まるで近所のパン屋にでも出かけるかのような、不敬なまでのリラックスぶりだ。
「いいかい、二人とも」
不意にアルフォンスが足を止め、振り返った。その顔には一点の曇りもない。
「陛下の御前だ。失礼のないようにね。特にイサク、君は言葉数が少ないから心配だよ」
「ご心配には及びません」
イサクは淡々と答えた。
「僕は聞かれたことに答えるだけです。余計なことは喋りません」
「それが一番だわ」
ヴァリーラが横から口を挟む。その顔は蒼白だが瞳には強い光が宿っている。
「わたくしたちは研究成果を報告しに来たのです。媚びを売る必要はありませんわ」
「やれやれ、堅苦しいな」
アルフォンスは肩を竦め、再び歩き出した。
重厚な扉が開かれると、そこには暴力的なまでに権威的な空間が広がっていた。高い天井。整列した近衛兵たちの冷たい視線。シャンデリアが星の如く煌めき、深紅の絨毯が玉座へと続いている。空気は張り詰め、呼吸をするのも憚られるほどの静寂が支配していた。
その最奥──数段高い場所に設(しつら)えられた玉座に、女がいた。足を組み、頬杖をつき、退屈という病に冒された猛獣のような目で眼下を見下ろしている。
皇帝シェラハザード・バーラカーラ・シャマル・アルバラ。白銀の髪、アメジストの瞳。その美貌は年齢という概念を嘲笑うかのように妖艶で同時に冷酷であった。
「面を上げよ」
鈴を転がすような、しかし内臓を震わせるような声が響く。三人は跪(ひざまず)き、そしてゆっくりと顔を上げた。
その瞬間──イサクの鼻腔を微かな香りがくすぐった。
上質な香木。古いワイン。そして熟れきった果実が腐り落ちる寸前の、あの頽廃的な雌の匂い。
──あ。
イサクの思考が一瞬だけ停止した。記憶の彼方から鮮烈な映像が蘇る。高級娼館『黄昏亭』の最上階。豪奢(ごうしゃ)な調度品。高慢な女。そしてその白く滑らかな足の甲に口づけ、足指を舐め回した時の、ひやりとした感触。
シェラハ。
あの夜、イサクが徹底的に奉仕した謎の熟女。それが今、目の前で帝冠を戴き、この国を統べる絶対者として君臨している。
(……参ったな)
イサクは内心で乾いた笑いを漏らした。
世の中というのは実に狭く、そして悪趣味にできている。神という脚本家がいるとすれば、そいつは相当なひねくれ者に違いない。よりにもよって、風俗で濃厚なプレイを楽しんだ相手が自国の皇帝陛下であらせられるとは。しかも、ただ抱いたのではない。あんなことやこんなこと、およそ臣下が主君に対して行うべきではない数々の背徳行為の限りを尽くした相手なのだ。
イサクが視線を向けると、玉座の女帝もまた彼を見ていた。
アメジストの瞳がすうっと細められる。
気づいたか。
気づいただろう。
あの夜、イサクは彼女の体の隅々までを舌で味わい尽くし、彼女もまたイサクの全てを受け入れた。その濃厚な記憶が一瞥の中に凝縮される。
だがシェラハザードは微塵も動じない。
口の端に、微かな、本当に微かな笑みを浮かべただけだ。それは獲物を見つけた猛禽類の笑みであり、同時に共犯者に向ける秘密のサインのようでもあった。
◆
謁見は淡々と進んだ。
まずはアルフォンスだ。彼は待っていましたとばかりに、朗々とした声で自説を披露し始めた。質量弾投射魔術。土塊を固め、物理法則を魔術で強化して撃ち出す。
「……なるほど。土を鉄に変えるか。悪くない発想じゃ。軍部が好みそうな代物よな」
シェラハザードは短く評した。賞賛とも、単なる事実の確認とも取れる口調だ。アルフォンスはそれを最大級の賛辞と受け取り、紅潮した顔で一礼した。
次にヴァリーラ。彼女の声は微かに震えていたが語る内容は論理的で緻密だった。並列詠唱における術式の統合。
「ほう。干渉を避けるのではなく、呑み込むか。……オルレアンの娘にしては骨がある」
その一言でヴァリーラの表情がぱっと輝いた。安堵と歓喜。彼女はようやく、自分が認められたことを実感したのだ。
そして最後、イサクの番である。
「サザーランド侯爵家、イサク・サザーランド」
イサクは淡々と名乗った。緊張もなければ高揚もなく、淡々と自らの論文について語り始めた。古代語の多重意味構造。地味で難解で即効性のない理論。
だがシェラハザードは先ほどの二人よりも長く、じっとイサクを見つめていた。その視線がイサクの灰色の瞳と交差する。
「古代語か。……随分と地味な研究を選んだものじゃな」
「性分でして」
「ふむ。一見すれば骨董いじりの懐古趣味。だがその実、魔術の根源を揺るがす危険な火種を含んでおる」
シェラハザードはつまらなそうに鼻を鳴らした。だがその瞳の奥にある熱は消えていない。
そうしてともかくも一通りの問答が終わり、謁見の儀は終了した。
アルフォンスとヴァリーラは緊張から解放され、安堵の表情を浮かべている。彼らは知らない。たった今、この神聖なる玉座の間で言葉にならない卑猥な火花が散っていたことを。
「下がってよい」
シェラハザードが手を振る。
三人は一斉に礼をし、踵を返そうとした。
「ただし」
冷ややかな声が彼らの足を止める。
「イサク・サザーランド。お主は残れ」
空気が凍った。
アルフォンスがぎょっとしたようにイサクを見る。ヴァリーラもまた、驚きと不安の入り混じった視線を向ける。一人だけ残される。それは吉報か、それとも凶報か。
退出を促され、三人は立ち上がる。出口へと向かう最中、アルフォンスがすれ違いざまにイサクの肩を掴み、極限まで声を潜めて囁いた。
「おい、イサク。君、何かやらかしたのか?」
その顔は本気で心配している。
イサクはなんと答えるべきか一瞬迷った。
やらかしたと言えば、やらかした。それも、帝国の法と倫理を根底から覆すような特大の「やらかし」を。だがまさか「実は先日、風俗店で陛下と濃厚なセックスをしましてね」などと言えるわけがない。
「……いや。心当たりはありませんね」
イサクは無表情で嘘をついた。
「そうか……。まあ、無事を祈るよ」
アルフォンスは同情的な目を向け、渋々と退出していった。ヴァリーラもまた、何度も振り返りながら出て行く。
重厚な扉が閉まり、ドォン、という鈍い音が外界を隔絶した。
広い謁見の間にはイサクとシェラハザード、そして影のように控える数名の近衛兵のみ。
「人払いじゃ」
シェラハザードが短く命じる。
兵たちもまた、一礼して姿を消した。
玉座の上の女帝と階下の学生。その距離は遠く、しかし因果の糸で恐ろしいほど近くに結ばれている。
シェラハザードは立ち上がった。
かつかつと、ヒールの音を響かせて、階段を降りてくる。その歩調は獲物を追い詰める捕食者のそれだ。
イサクの目の前で止まる。香水の匂いがするがしかし、イサクの鼻はその奥にある本性を嗅ぎ分けていた。
「……面を上げよ、童(わっぱ)」
その呼び名。
『黄昏亭』での呼び名。
イサクはゆっくりと顔を上げた。そこにはもう、厳格な女帝の顔はない。あるのは獲物を見つけた愉悦に歪む、淫蕩な「シェラハ」の顔だ。
「妾の顔を覚えておるな?」
試すような問いかけに、イサクは溜息をつきたい衝動を堪えて静かに答えた。
「……忘れるはずもございません。陛下」
「あの時は熱い舌使いで奉仕してくれたのう」
シェラハザードは楽しげに笑うと、イサクの頬に指先を這わせた。冷たい指先。だがそこから伝わる熱量は火傷しそうなほどだ。
「まさか、あのグレイルの息子だとはのう」
彼女はまるで出来の悪い喜劇を楽しむ観客のように言った。
「世の中というのは実に滑稽にできておる。妾が抱いてやった男が、よりにもよってあの怪物の血を引く者であったとは」
グレイルの息子──その言葉に、イサクは微かに眉を動かした。やはり、知られている。当然か。彼女は皇帝なのだから。帝国内のあらゆる情報は彼女の元に集まる。それに父グレイルと彼女の間には何か因縁めいた契約があるようだ。
「父が……何か?」
とぼけてみる。だが無駄だとは分かっている。
「とぼけるでない。お主の父親は妾の飼い犬じゃよ。まあ、首輪を引きちぎって暴れ回る、たちの悪い駄犬じゃがな。先日も東方で派手にやってくれたわ。味方ごと大地をひっくり返してな」
シェラハザードはくすくすと笑った。
「でどうする? 童よ」
シェラハザードはイサクの耳元に唇を寄せ、甘く囁いた。
「ここでこの場で続きをするか? それとも、不敬罪で首を刎(は)ねられるか? ……まあ、お主の首ならば、別の意味で刎ねてやりたい気もするがの」
下品な冗談だ。皇帝の口から出る言葉ではない。イサクは観念したように、小さく息を吐いた。
「……陛下のご随意に。私の首は上も下も、陛下のものですから」
「よい心がけじゃ」
シェラハザードは満足げに頷いた。
「下がってよい。……また逢おう、そのうちにな」
含みのある言葉を残し、彼女は踵を返した。玉座へと戻っていくその背中はあまりにも遠く、そして恐ろしいほどに孤独に見える。
イサクは深く一礼し、謁見の間を後にした。
重い扉を抜けると、廊下の冷たい空気が肌を刺す。背中にはびっしりと冷や汗が張り付いていた。
──やれやれ。
見上げれば天井のフレスコ画には英雄たちが魔物を討伐する様子が描かれている。自分は魔物を討伐するどころか、魔物の寝床に自ら飛び込んでしまったようだ。
アルフォンスの心配顔が脳裏をよぎる。
──「何かやらかしたのか?」
──ああ、やらかしたとも。
だが不思議と後悔はなかった。むしろ、ガッツが湧いてくる。
──次は、尻から犯してやる。
イサクは内心で太々しく嗤った。