◆
帝都の冬は去り際になって最もその陰湿な本性を現すものだ。空は鉛色の雲に閉ざされ、時折、思い出したように白いものがちらつくが、それはもはや純白の雪ではない。煤と泥にまみれ、地上に落ちる前から薄汚れた氷の粒となって、石畳の溝を這いずり回るだけの死骸である。
そんな季節の尻尾──冬休みの残り数日をイサク・サザーランドは相変わらず帝国魔術学院の大図書館、その最も奥まった一角にある閲覧席で根腐れした植物のように過ごしていた。
カビと埃、そしてインクの酸化した匂い。それらが混じり合って醸成された独特の空気こそがイサクの肺腑を最も安らがせる。そんなイサクだが、ここ最近はちょっとした熱を持て余していた。
要は性欲である。
普段であれば、この渇きを癒やすための手頃な、そして極上の水瓶がすぐ側にあった。
清掃婦のマージである。
あの中年の、生活に疲れた肉体。たるんだ腹、皺の刻まれた目尻、そして従順という名の鎖に繋がれた哀れな魂。イサクは彼女を書架の影に引きずり込み、その口に、あるいは股間の古びた泉に自らの鬱屈を叩きつけることを日課としていた。
神聖なる知識の殿堂で獣のような交わりを行う。その背徳感こそがイサクにとっては最高の香辛料であったのだ。
だがここ最近、その至福の儀式は著しく阻害されていた。
ヴァリーラ・ド・オルレアンという異物がこの聖域に混入したからである。あの金髪の公爵令嬢は共同研究という免罪符を得て以来、まるで回遊魚のようにイサクの周囲を泳ぎ回るようになった。
彼女がいる限り、イサクはうかつにマージを呼び出せない。神聖なる学府を図書館の裏ビデオ鑑賞室ごとき猥雑な空間に変えること自体に躊躇はないが、さすがに公爵令嬢の目前で清掃婦を犯すわけにはいかない。それは背徳云々以前に、単なる社会的な自殺行為である。
ならば、場所を変えればよいではないかという向きもある。
学院には使用されていない空き教室など幾らでもあるし、金さえ払えば帝都の連れ込み宿などよりどりみどりだ。あるいはリスクを冒して寮の自室に連れ込むという手もあるだろう。マージはイサクの命令ならば、たとえ火の中だろうと這ってくる従順な家畜だ。場所など選ばない。
だがイサクにはそれが出来ない。
イサクとしては極力、マージと外で密会してハメたりだとかしゃぶらせたりだとかはしたくないのだ。これはTPOなどという社会的なマナーの話ではない。もっと個人的で病的なまでに肥大化した座り心地の問題なのだ。
マージという女は清掃婦だ。労働で荒れた手、くすんだ肌、安っぽい洗剤と生活に疲れた体臭。それらは学院という閉鎖的で権威的な空間、そして図書室という静謐な知識の墓場においてこそ、その真価を発揮する記号なのである。
埃っぽい空気。古紙の匂い。いつ誰が来るかわからない緊張感。そして高尚な学問の場で行われる、最も原始的で卑俗な行為。
そのコントラスト。その落差。
それこそがマージという「素材」を最高に美味しく味わうためのソースなのだ。
もし彼女を着飾らせ、清潔なホテルのベッドに連れ込めばどうなるか。
それは単なる「冴えない中年女との情事」に成り下がる。
要は魔法が解けるのだ。シンデレラは灰被りだからこそ美しいのであって、舞踏会が終わった後にカボチャの馬車から放り出された娘をわざわざ宮殿の寝室に連れ込む王子はいない。
あるいは安っぽい連れ込み宿ではどうか。そこには生活という名のどうしようもない現実がへばりついている。薄汚れたシーツ、隣室から聞こえる喘ぎ声、安酒の臭い。そんな場所でマージを抱けば、イサク自身もまた、ただの性欲を持て余した俗物に同化してしまう。それはあまりにも生々しく、夢がない。
イサクが求めているのは現実からの逃避であり、同時に現実の肯定でもある。
とはいえ、以前イサクはマージの家で彼女の息子が寝込んでいるその前でバックから散々に犯してやった事があるが、それは特例である。息子の前だからという状況がイサクを昂らせたのだ。
とまれ、あるべきモノはあるべき場所に収めねばならない。
掃除道具が清掃用具入れに収まるように、便器が便所に設置されるように、清掃婦という性の便器もまた、掃除用具入れや図書室の片隅にあってこそ、その機能美を発揮するのだ。
実に身勝手でかつ差別的で救いようのないフェティシズムだ。だがイサク──あるいはその中身である虻川伊作という男はそういう文脈に支配された生き物なのだから仕方がない。
ゆえに、イサクは禁欲を強いられていた。
今日もまた、向かいの席にはヴァリーラが鎮座している。
彼女は真剣な眼差しで羊皮紙に向かい、時折、羽根ペンをインク壺に浸してはサラサラと何かを書き付けている。
その勤勉さは評価に値する。かつての高慢ちきな公爵令嬢がいまや学問の徒として真理の探究に没頭しているのだから教育者としての視点で見れば涙ぐましい更生劇である。だが一人の発情した雄としての視点に立てば、これほど邪魔な存在もなかった。
イサクは本から目を離さず、視界の端でヴァリーラを観察した。
最近の彼女はどうも様子がおかしい。
以前のように敵意を剥き出しにするでもなく、かといって馴れ馴れしくしてくるわけでもない。ただ、そこにいる。イサクの視界の端に、風景の一部のように収まっている。
だが今日はその風景が微かに揺らいでいた。
彼女の手が止まっている。視線は羊皮紙に向けられているが焦点が合っていない。時折、チラチラとこちらを窺うような視線を投げてくる。何か言いたげに口を開いてはまた閉じる。
まるで餌をねだりたいものの、プライドが邪魔して鳴けない仔犬のようだ。
──面倒だな。
イサクは心の中で嘆息する。
用があるならさっさと言えばいいものを。貴族というのはどうしてこうも、物事を遠回しにしたがるのか。イサクは本を閉じた。パタン、という乾いた音が二人の間の沈黙を切った。
「……集中できていないようですね、オルレアン嬢」
水を向けると、ヴァリーラはびくりと肩を震わせた。
「……わかりますの?」
「貴女の視線が僕の顔に穴を開けそうでしたからね。魔術の相談ですか? それとも、僕の顔に何かついていますか」
ヴァリーラは頬を微かに染め、視線を逸らした。そして意を決したように口を開く。
「……父が」
その言葉に、イサクの目がすうっと細められた。
「オルレアン公爵が何か?」
「あなたを……招待したいと、申しておりますの」
ヴァリーラは一気に言った。まるで熱い石を吐き出すかのように。
「招待?」
「ええ。食事会ですわ。明日の夜、我が屋敷にて」
彼女は早口で続ける。
「今回の研究……並列詠唱の理論構築において、あなたが多大なる貢献をしてくださったこと。そのお礼をしたいと。……形式的なものですわ。サザーランド侯爵家の嫡男として、我が家の食卓にお招きしたい、と」
イサクは内心で舌打ちをした。
表向きは娘の研究に協力したことへの礼、そして成功の祝いということだろう。だがその裏に政治的な思惑がないはずがない。サザーランド侯爵家は今や「時の人」である。当主グレイルは東方戦線で敵を壊滅させ、息子のイサクは皇帝に直々に召喚された。腐りかけていた名門が息を吹き返しつつある。
オルレアン公爵としては早めに唾をつけておきたい、あるいは手綱を握っておきたいということだろう。
──面倒だ。心底、面倒だ。
イサクが望むのは平穏な日常と、適度な研究と、そして夜ごとの湿った情事だけだ。貴族の腹の探り合いなど、豚に食わせればいいと彼は思っている。
「光栄な話ですが」
イサクは即座に拒絶の構えを取った。声には氷のような冷たさを混ぜる。
「ご辞退申し上げます。僕は人付き合いが得意ではありませんし、公爵閣下のような雲上人との会食など、胃が痛くなるだけです。それに、僕と貴女の関係は対等な契約に基づくものです。礼をされる謂れはありません」
完璧な正論だ。これで話は終わりだと言わんばかりに、イサクは再び本に手を伸ばそうとした。だがヴァリーラは引き下がらなかった。
「……そう、おっしゃると思いましたわ」
彼女は俯いたまま、小さく呟いた。
その声には安堵と、そして焦燥が入り混じっていた。
「ですが……父はどうしてもと申しております」
「どうしても?」
「ええ。冬休みの最終日。その日ならば、あなたの予定も空いているはずだと。……父はあなたの行動を調べておりますの」
イサクは眉をひそめた。
行動を調べているだと? 脅しに近い。いや、明確な圧力だ。逃げ道はないぞ、と告げているのだ。ヴァリーラは顔を上げ、イサクを見た。その瞳は揺れていた。イサクは直感的に、この女はこの招待が何を意味するかを知っている、と考えた。
それにしたところで、ヴァリーラのの態度は奇妙ではあったが。
言葉では「来てほしい」と言っている。だがその表情は「断ってくれ」と叫んでいた。イサクを巻き込みたくない、汚い政治の世界に引きずり込みたくないという、彼女なりの良心が痛んでいるのだろう。しかし同時に「それでも来てくれたら」という、微かな、本当に微かな期待も見え隠れする。
矛盾。葛藤。引き裂かれた心。
その不安定な有様がイサクの嗜虐心ではなく、奇妙な庇護欲のようなものを刺激した。かつてはただの生意気な小娘だった。だが共に机を並べ、議論を戦わせる中で彼女の中にある一本の芯のようなものを見た気がする。彼女は努力家だ。才能にあぐらをかかず、泥にまみれても這い上がろうとする強さがある。
それはイサク──かつて「持たざる者」として足掻いていた虻川伊作の琴線に、少しだけ触れるものがあった。
──やはりこの招待は単なる礼というだけではないという事か。
イサクはヴァリーラに視線を向けながら考えた。
──彼女は僕を守ろうとしているのか?
その仮説が浮かんだ瞬間、イサクの胸中に奇妙な感情が湧いた。それは憐憫に近い、しかしもっと温かな何か。イサクとしてもせっかく関係が改善したというのに、露骨に関係を悪化させるようなことはしたくない。それに、意外にもヴァリーラに対する情のようなものもあった。確かにイサクは性獣というような一面もないではないのだが別にヤれれば良いというタイプではない。並んで研究をした仲でもある。
それに、とイサクは計算する。
逃げれば、公爵は次の手を打ってくるだろう。あの手この手で接触を図ってくるはずだ。ならば、ここで一度会っておくのも悪くない。敵の腹の内を探る。リスクはあるが情報収集の機会としては上等だ。
毒を食らわば皿まで。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
いや、単に、この困り果てた少女の顔をもう少し見ていたいだけかもしれない。
イサクはわざとらしく大きな溜息をついた。
「……分かりました」
「え?」
ヴァリーラが弾かれたように顔を上げる。
「お受けします。公爵閣下のご招待、無下にするのは礼を欠くというものでしょう」
「ででも……本当に、よろしいのですか? 無理をなさっているのでは……」
ほら見ろ。受けると言ったら、今度は狼狽えている。やはり彼女の本心は「来てほしくない」側に振れているのだ。それが分かると、余計に行きたくなるのがイサクという男の捻じれた性格である。
「無理などしていませんよ。それに、公爵閣下の屋敷の料理には興味があります。帝都でも指折りの美食家と聞いていますからね。冬休みの最後を飾るには悪くないイベントだ」
イサクは肩を竦めてみせた。
そんな俗物的な理由ではないことなど、彼女も分かっているだろう。だがそう言っておくのが互いのためだ。
「……ありがとう、ございます」
ヴァリーラは深々と頭を下げたが、声は震えていた。感謝なのか、謝罪なのか、それとも安堵なのか。おそらくそのすべてだろうとイサクは睨む。
イサクは彼女が去った後の空席を見つめ、ふう、と息を吐いた。
泥沼に片足を突っ込んだ気がする。だが退屈よりはマシかもしれない。
結局、今日もマージは呼べなかった。下半身の熱は冷めやらぬまま、イサクは冷たい冬の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
◆
そして当日。
冬休み最終日の夕刻。空は低く垂れ込め、鉛色の雲が街を覆っていた。雪は降っていないが空気は肌を刺すように冷たい。
イサクは寮の自室で身支度を整えた。
普段の学生服ではなく、貴族として恥ずかしくない程度の上等な衣服を身に纏う。濃紺の生地は滑らかで仕立ては完璧だがイサクのずんぐりとした体型をスマートに見せるほどの魔法はかかっていない。
鏡を見た時、イサクは自分を「着飾った芋虫」だと評したがあながち間違ってはいないだろう。だがその瞳だけは冷めた色を湛えていた。
──さて、行くか。
魔窟へ。あるいは更なる堕落の淵へ。
イサクは外套を羽織り、部屋を出た。
寮の外門へ向かうと、そこには既に一台の馬車が停まっていた。
漆黒の馬車だ。
装飾は控えめだがその塗料の艶と、繋がれた馬の毛並みが持ち主の財力と権威を無言のうちに主張している。扉にはオルレアン公爵家の紋章が夕闇の中で鈍く輝いていた。