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馬車の中は思いのほか暖かかった。座席には厚手の毛皮が敷かれ、壁面には小さな魔術灯が仄かな光を放っている。外界の寒さを完全に遮断したその空間はまるで胎内のように静かでそして窒息しそうなほどに息苦しい。
イサクは窓の外を流れる帝都の街並みを眺めながら、これから対峙する相手の事を考えていた。
リシャール・ド・オルレアン。
帝国有数の財力を誇る大貴族であり、政治的には中立を装いながらも常に勝ち馬に乗る狡猾な男として知られている。商才に長け、領地経営は帝国随一との評判だ。だが同時に、彼は冷酷でもある。利益のためならば昨日の友を今日の敵として葬り去ることも厭わない。
そんな男が一介の学生に過ぎないイサクを招待する。
その意図が純粋な「礼」であるはずがなかった。
馬車が止まる。扉が開かれ、冷たい空気が流れ込んできた。
オルレアン公爵邸は帝都の一等地に聳え立つ、威圧的なまでに巨大な屋敷であった。正門から玄関まで両脇に並ぶ松明が夜道を照らしている。その炎の揺らめきがまるで来訪者を値踏みする無数の眼のように見えた。
「ようこそ、サザーランド卿」
出迎えたのは執事長と思しき初老の男であった。完璧な所作で一礼し、イサクを屋敷の中へと誘う。
大理石の床。壁面を飾る絵画の数々。天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア。どこを見ても金が余っていることを無言のうちに主張していた。成金趣味とは違う。代々受け継がれてきた富と権威がこの空間の隅々にまで染み込んでいるのだ。
食堂へ通された。
長いテーブル。だが用意された席は四つだけだった。上座にリシャール・ド・オルレアン、その隣に──
イサクの視線が一瞬だけ止まった。
マリアンヌ・ド・オルレアン。
公爵夫人である。
年齢は四十代半ばといったところか。だがその美貌には衰えの影がない。むしろ、若さという脂ぎった生々しさが削ぎ落とされ、洗練された静謐さだけが残っている。深い青のドレスに身を包み、金髪を優雅に結い上げた姿はまるで一幅の名画から抜け出してきたかのようだ。
だが彼女の瞳には何の光もなかった。
虚ろ、というのではない。それは凍りついた湖面のような静けさだ。何も映さず、何も求めず、ただそこにある。
──いい女だ。
イサクは内心で舌なめずりをした。
あの手の女は往々にして燃えやすい。表面が冷たければ冷たいほど、その内側には溶岩のような熱が溜まっているものだ。
「よく来てくれた、サザーランド卿」
リシャールが立ち上がり、両手を広げた。
五十代後半の、恰幅の良い男だ。顔には人当たりの良さそうな笑みを浮かべているがその奥にある目は笑っていない。商人の目だ。常に相手の価値を計算している油断のならない目。
「公爵閣下、本日はお招きいただき光栄に存じます」
イサクは形式通りの礼を返した。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今夜は私的な会食だ。娘の研究に力を貸してくれた君に、一人の父親として礼を言いたかっただけだ」
嘘だ、とイサクは思う。
だが表面上は素直に頷き、示された席に着いた。
テーブルを挟んでヴァリーラと向かい合う形になる。彼女は相変わらず緊張した面持ちで時折父親の顔色を窺っている。
料理が運ばれてきた。
前菜から始まり、スープ、魚料理、肉料理と続く。いずれも一流の料理人が腕を振るった逸品であることは一口食べれば分かった。だがイサクの意識は料理よりも、目の前の人間たちに向けられていた。
リシャールは饒舌だった。
話題は多岐にわたる。学院の研究動向、帝国の政治情勢、東方との戦争の行方。時折ヴァリーラの幼少期の話を織り交ぜ、場を和ませようとする。その話術は見事なもので会話の流れを完全にコントロールしていた。
一方、マリアンヌは一言も発しなかった。
ただ静かに食事を口に運び、時折グラスのワインを舐める程度だ。夫の話にも、娘の様子にも、全く関心を示さない。まるでこの場に存在しているのは肉体だけで精神はどこか遠くへ行ってしまったかのように。
だがイサクは気づいていた。
彼女が自分を見ていることに。
直接目を合わせることはない。だが視界の端で確実にこちらを捉えている。その静かな視線がイサクの嗜虐心を甘く刺激した。
イサクはリシャールの話に相槌を打ちながら、時折マリアンヌへ視線を送った。
それはほんの一瞬。瞬きにも満たない刹那。だがその中に、言葉では表せない何かを込めた。舌で舐め回すような、あるいは衣服の下に手を這わせるような、ねっとりとした欲望の滲んだ視線を。
マリアンヌの睫毛が微かに震えた。
それ以外に反応はない。だがイサクには分かった。彼女は気づいている。気づいた上で無視している。いや、無視しようとしている。その僅かな動揺こそがイサクにとっては最高の御馳走だった。
「──ところでイサク君」
リシャールの声がイサクの意識を引き戻した。
「君の父君、グレイル卿とは学院で同期だったのだ」
その言葉に、イサクは僅かに目を見開いた。
「父と、同期でいらしたのですか」
「ああ。もう随分と前の話になるがね」
リシャールはワイングラスを傾けながら、遠い目をした。
「当時の私は自分を非常に優秀だと思っていた。実際、成績は常に上位だったし、教授たちからの評価も高かった。将来は帝国の魔術界を背負って立つ存在になると、本気で信じていたよ」
皮肉げな笑みが口元に浮かぶ。
「だがね、グレイルはその上をいった。いや、上というのも正確ではないな。次元が違っていた。私が必死で登っている山の頂上に、彼は最初から立っていたのだ」
リシャールの目が細められた。
「私は一方的に彼をライバル視した。だがグレイルは全く私など視界に入っていないようだった。授業中も、研究室でも、彼は常に自分の世界に没頭していた。周囲の人間など、風景の一部程度にしか認識していなかったのだろう」
ヴァリーラが何か言いかけたが父の話を遮ることはできなかった。
「不遜な奴だと思ったよ。正直、頭に来た。だから私は彼に杖比べを挑んだのだ。決闘ほど重いものではないがね、魔術師にとっては名誉をかけた真剣勝負だ」
リシャールは肩を竦めた。
「あっさりと負けたよ。それはもう、見事なまでに。私が放った魔術は全て、まるで存在しないかのように無力化された。彼は汗一つかかなかった」
イサクは黙って話を聞いていた。
「それから何度も挑んだ。結果は同じだった。私の魔術は彼の前では全くの無力だった。腹立たしかったよ、最初はね」
「最初はと仰いましたね」
イサクが口を挟んだ。
「ではその後は──」
「だんだんと気にならなくなっていった」
リシャールはワインを一口啜った。
「なぜです?」
イサクの問いに、リシャールは薄く笑った。
「彼が魔術以外はどうでも良い──そんな輩だと分かったからだ」
その言葉には諦観とも、理解とも、あるいは侮蔑ともつかない響きがあった。
「諍いというのはね、同じ場所に立つ者同士の間でしか起こらないのだ。私とグレイル、どちらが高いか低いかという話ではない。立つ位置そのものが違っていた。比べようがないのだよ。犬と鳥、どちらが優れているかなんて問うのは愚問だろう? 犬は地を駆け、鳥は空を飛ぶ。それぞれの領分があるだけだ」
イサクは静かに頷いた。
その言葉は父グレイルという人間をよく表していると思った。あの男にとって、魔術以外の全ては些末事に過ぎない。人間関係も、社会的地位も、名誉も、金も。全ては魔術という至高の探求の前では塵に等しいのだ。
「父は今でもそのような人間ですよ」
イサクは淡々と言った。
「ただ、閣下が知っている頃よりは丸くなっている……とは思いますが」
「そうかい? まあ、あの男が変わるとも思えんがね」
リシャールは苦笑した。
◆
食事は和やかに──少なくとも表面上は和やかに進み、やがて終わりの時を迎えた。
「遅い時間まで付き合わせてしまったね。馬車を用意させよう」
リシャールが立ち上がると、イサクもそれに倣った。
「本日は素晴らしい食事をありがとうございました」
「またいつでも来てくれたまえ。娘も喜ぶだろう」
その言葉に、ヴァリーラの頬が微かに染まった。
イサクは一礼し、案内の執事に従って玄関へと向かう。
その背中をマリアンヌの凍りついた瞳が見送っていた。
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馬車の車輪が石畳を叩く音が遠ざかっていく。
食堂にはリシャール、マリアンヌ、そしてヴァリーラの三人だけが残されていた。
マリアンヌは相変わらず無言だ。食後のお茶を前に、窓の外の闇を見つめている。その横顔には何の感情も浮かんでいない。
「父上」
ヴァリーラが口を開いた。
「先ほどの話ですが──」
「ああ、グレイルとの話か」
リシャールはワイングラスを置き、娘に視線を向けた。
「実はね、あの話には続きがあるのだよ」
ヴァリーラは息を呑んだ。
父の表情が変わっていた。先ほどまでの社交的な笑みは消え、代わりに何か苦いものを噛み締めるような顔になっている。
「マリアンヌ──お前の母、私の妻もまた、同期の学院生だった」
その言葉に、ヴァリーラは思わず母を見た。
マリアンヌは微動だにしない。ただ窓の外を見つめ続けている。
「そしてグレイルに恋をしていた」
時が止まったような静寂が食堂を支配した。
ヴァリーラは信じられない思いで父を見つめた。母があのグレイル・サザーランドに恋を?
「そのマリアンヌに恋をしていたのが私だ」
リシャールの声は淡々としていた。
だがその奥底に歳月をかけても消えることのなかった、何かが蠢いている。
「当時の私はそれが我慢ならなかった。自分より優れた男に負けるのは耐えられる。だが愛する女がその男を見つめているのは──耐えられなかったのだ」
リシャールは手の中のグラスを見つめた。
「だから決闘を挑んだのさ。マリアンヌをかけて」
「決闘を……」
「馬鹿げた話だろう? 彼からしたら迷惑以外の何物でもなかったはずだ。何せグレイルはマリアンヌのことなど、どうでもよかったのだから。いや、存在すら認識していたかどうか怪しい。だが彼は決闘を受けた」
「どうなったのですか……?」
ヴァリーラの声は掠れていた。
リシャールは答えた。
「私が勝った」
その言葉は勝ち誇るでもなく、喜ぶでもなく、ただ事実として放たれた。
だがヴァリーラには分かる。父の表情を。
それは怒りを押し殺している時の顔だ。何十年も押し殺し続けて、もはや原型が分からなくなってしまった怒り。その残骸が父の目の奥で今もくすぶっている。
「ふん、蛙の子は蛙だな」
リシャールは唐突に言った。
「あの小僧にお前は決闘で勝ったのだからな」
ヴァリーラは頬を染めた。
あの決闘。イサクとの決闘。彼女が勝利を収めたあの日のことは今でも鮮明に覚えている。だがあの勝利は──形式的なものに過ぎなかった。実際には彼女は完膚なきまでに打ちのめされ、ただ運良く最後の一撃を放つことができただけだ。
話をそらすように、ヴァリーラは口を開いた。
「それでお母様はお父様と──」
リシャールの目が一瞬だけ遠くを見た。
「マリアンヌは私と結婚する必要はなかった」
リシャールは静かに言った。
「かけた、といってもそれは本人の意向を無視したものだ。何の強制力もない。グレイルが負けたからといって、マリアンヌが私の所有物になるわけではない。彼女には拒否する権利があった」
マリアンヌは依然として窓の外を見つめている。
その横顔に、何かが揺らいだように見えた。だが一瞬で消えた。
「しかし彼女は私と結婚した。自分の意思で」
その言葉の最後に、微かな疑問符が滲んでいた。
本当に自分の意思だったのか。あるいはグレイルに見捨てられたという絶望から逃れるためだったのか。それとも、敗者を憐れむような慈悲からだったのか。
歳月を経ても、リシャールはその答えを得られていないのだ。
「お父様は」
ヴァリーラは意を決して問うた。
「お母様を愛している──のですよね?」
長い沈黙があった。
やがてリシャールは重い息を吐いた。
「愛しているとも」
その言葉は真実だった。
だが同時に、全てでもなかった。
「しかしそこに愛以外の何かが混ざっている事も事実だ」
リシャールは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
妻と同じ闇を見つめる。
「私はそれが何かを考えないようにしている」
その背中はヴァリーラがこれまで見てきたどの背中よりも、孤独に見えた。
窓の外では冬の最後の夜が静かに更けていく。
明日からは新しい学期が始まる。だがこの食堂に漂う沈黙は春の陽光をもってしても溶かすことはできないだろう。何十年もの歳月が堆積した凍土のように、それはオルレアン家の底に冷たく横たわり続けるのだ。
マリアンヌは依然として、何も語らなかった。
ただその凍りついた瞳の奥で今夜初めて見たイサク・サザーランドの灰色の瞳が微かに揺らめいていた。