※この作品はR-18です。

侯爵家の影の支配者は熟女が大好き   作:埴輪庭

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学院生活⑮★アガサ

 ◆

 

 新しい季節の到来──などと云えば聞こえは良いがその実態は単なる暦の上での区切りに過ぎない。

 

 帝国魔術学院の新学期は華やかな期待や爽やかな決意とは無縁の、どことなく倦怠を含んだ空気の中で幕を開けた。無理もない話だ。この学院に巣食う学生の大半は冬の休暇などというものを額面通りに受け取って休息に充てたりはしない。彼らは休暇中も研究室に籠もり、あるいは図書館の黴臭い空気の中で羊皮紙と格闘し、己の脳髄を酷使し続けてきたのだ。

 

 休み明けの彼らの顔にあるのはリフレッシュした晴れやかさではなく、徹夜明けの賭博師のようなギラついた疲労感と、そして他者を出し抜こうとする焦燥の色だけである。

 

 桜が咲こうが鳥が囀ろうが、彼らの眼球には魔術式の羅列しか映っていない。季節の移ろいなど研究の邪魔になるノイズでしかないのだ。

 

 イサク・サザーランドもまた、その例外ではない。

 

 彼にとっての新学期とは講義という名の拘束時間が再び生活に組み込まれるという、いささか憂鬱なスケジュールの変更に過ぎなかった。

 

 ◆

 

 大講堂の空気は澱(よど)んでいた。

 

 数百人の学生が発する熱気と、古びた石材の冷気が混じり合い、独特の湿り気を帯びている。

 

 教壇に立つのはアガサ・メーベル。

 

 かつては「鉄の処女」と恐れられ、今はイサクの手によって別の意味での女の悦びを知ってしまった老魔術師である。

 

 彼女は黒板に複雑な図式を描きながら、いつもと変わらぬ厳格な声で講義を進めていた。

 

「──魔術の行使において、詠唱は不可欠な手順であると諸君らは教わってきたはずだ。あるいは杖による魔力制御、印を結ぶ指の動作。これらは全て、内なる魔力を外界の物理現象へと変換するための『型』であり、必要な儀式である、と」

 

 アガサの声は朗々と響く。その立ち姿には隙がない。だがイサクだけは知っている。そのローブの下にある肉体がどれほど柔らかく、そして淫らに濡れるかを。

 

 イサクは頬杖をつき、退屈そうに黒板を眺めていた。周囲の学生が必死にノートを取る中、彼はただ一人、別の思考の海を漂っている。

 

 ──相変わらず、いい声だ。

 

 あの唇がどのような音を奏でるか──それを思い出すだけで下腹部に微かな熱が宿る。

 

「だが」

 

 アガサが言葉を切った。チョークを置く乾いた音が教室の空気を僅かに震わせる。

 

「歴史を遡れば、その前提は崩れる。原初の時代──神代と呼ばれる遥か昔において、魔術はもっと直感的なものであったという記述が散見される。詠唱も、杖も、印も必要としない。ただ『そうあれ』と念じるだけで世界がその意志に従った時代があった、と」

 

 その瞬間、教室のあちこちから微かなざわめきが漏れた。

 

 それは驚きの声ではない。「またその話か」という呆れと、そして何より「あのメーベル副教授がよりにもよってその与太話を真顔でするのか」という困惑の響きであった。

 

 原初の魔術。

 

 意志のみで世界を変える力。

 

 それは魔術師を目指す者ならば誰もが一度は耳にする、お伽噺の類だ。酒場の酔っ払いが管を巻くネタであり、三流小説家が好んで使う安っぽい設定であり、真面目な学徒であれば鼻で笑って捨て置くべきオカルトの範疇に属する話題である。

 

 それを論理と実証の権化であるはずのアガサ・メーベルが、神聖なる講義の壇上で取り上げたのだ。学生たちが動揺するのも無理はない。彼らは厳格な老婆がついに耄碌したのではないかと疑っているのだ。

 

「……静粛に」

 

 アガサの声が鞭のようにしなり、ざわめきを打ち払う。

 

「諸君らが何を考えているかは想像に難くない。『そんなものは眉唾物の伝説だ』『学問の府で語るに値しない』。そう思っているのだろう?」

 

 図星を突かれ、数人の学生が気まずそうに視線を逸らす。

 

「確かに、現代の魔術理論からすれば、それは非効率極まりない暴挙だ。言語は魔力を束ね、方向性を与えるための枠組みである。枠組みなしに力を放てば、それはただの暴走するエネルギーの塊にしかならないはずだ。……だが、かつてそれが成立していた可能性を頭ごなしに否定することは研究者らしからぬ態度と言わざるを得ない」

 

 彼女は学生たちを見渡した。

 

「なぜ、かつてはそれが可能だったのか。そしてなぜ、我々はそれを失ったのか。……君たちはどう考えるかね」

 

 問いかけられた学生たちは互いに顔を見合わせるばかりだ。答えなど出るはずもない。それは魔術史における最大の謎であり、同時に「真面目に考えるだけ無駄」とされてきたテーマなのだから。

 

 だがイサクには何となく察しがついていることがあった。

 

 彼には前世の記憶がある。「魔術」という概念が存在しない、科学と論理の世界で生きた記憶が。

 

 ──それはおそらく、魔術ではない。

 

 イサクは内心で独りごちる。

 

 彼らが「原初の魔術」と呼んでいるもの。それはイサクの知識にある言葉で言えば、「超能力(ESP)」に近いものではないか。

 

 魔術とはシステムだ。

 

 この世界に張り巡らされた法則というOSを利用し、コマンド(詠唱)を入力することで現象を引き出す技術。それは言語的であり、論理的だ。だからこそ、イサクのような言語学者が解明できる余地がある。

 

 対して超能力はバグだ。あるいは特権的なアクセス権限と言ってもいい。

 

 システムの手続きを無視し、個人の脳波や精神エネルギーが直接現実に干渉する現象。そこには文法も論理もない。ただ「結果」だけが唐突に出力される。

 

 かつての世界ではシステムが未完成だったのかもしれない。あるいは人々の精神構造が今とは根本的に異なっていたのか。

 

 いずれにせよ、それは「退化」したのではない。「進化」したのだ。不安定な個人の資質に頼る超能力から、誰もが学べば使える技術体系としての魔術へ。それは文明の進歩そのものだ。

 

「……」

 

 イサクがそんな思考に耽っていると、不意に視線を感じた。

 

 隣の席。セシリア・クラインフェルトが上目遣いにこちらを見ている。

 

 その瞳は「イサク様なら答えをご存知のはずです」と雄弁に語っていた。彼女のイサクに対する過剰な信頼は時として重荷であり、同時に滑稽でもある。

 

「……イサク様はどうお考えですか?」

 

 小声で彼女が囁く。その距離が近い。肩が触れそうなほどに身を寄せてくる。

 

 甘い花の香りがした。それは若い娘特有の、瑞々しくも単純な香りだ。アガサやシェラハのような、複雑で深みのある芳香とは違う。

 

 イサクは小さく息を吐き、思考を言語化する作業に移る。「超能力」や「システム」などという異世界の単語を使ってもわからないだろう。

 

「……認識の在り方の問題ではないでしょうか」

 

 イサクは静かに答えた。

 

「はい? 在り方、ですか?」

 

「ええ。現代人は言葉によって世界を切り取り、定義します。『炎』という言葉を知っているから、炎を認識できる。ですが言葉が未発達だった時代の人間は世界をもっと曖昧でしかし全体的なものとして捉えていたのかもしれません」

 

 セシリアが首を傾げる。まだ理解が追いついていないようだ。

 

「つまり、境界線です。自と他、内と外、精神と物質。それらの境界が今よりも曖昧だった。だからこそ、自分の内なる意志が外なる世界に直接滲み出すことができた。……言葉を獲得することで人は世界を詳細に定義できるようになりましたがその代償として、世界との直接的な繋がりを失った。そう考えることもできます」

 

 これはサピア・ウォーフの仮説を魔術的に解釈したものだ。言語が思考を決定するなら、言語以前の思考は世界そのものと未分化であった可能性がある。

 

 セシリアの目が輝いた。

 

「す、素晴らしいですわ……! 言葉を得ることで力を失った、だなんて……斬新な発想ですわね!」

 

 彼女は感極まったように手を組み、さらにイサクににじり寄る。その豊かとは言えない胸がイサクの腕に押し付けられんばかりだ。

 

 ──近い。

 

 イサクは心の中で顔をしかめる。いうまでもなく彼は別に雌乳が嫌いというわけではない。それが例え彼のストライクゾーン外の乳であろうと、揉めというのならば揉むだろう。だがTPOというものがある。

 

「あら、精が出ますこと」

 

 冷ややかな声が横合いから飛んできた。

 

 ヴァリーラ・ド・オルレアンである。

 

 彼女は腕を組み、冷めた目でセシリアを見下ろしていた。その視線は道端で交尾する野良犬を見るような、あるいは躾のなっていない子供を見るような色を帯びている。

 

「講義中によくもまあ、そこまで露骨に色目を使えるものですわね。クラインフェルトさん。発情するのは勝手ですが場所を選んでいただけますこと? 見ているこちらが恥ずかしくなりますわ」

 

 辛辣な言葉。だがそこにはかつてのような剥き出しの敵意はない。どちらかと言えば、呆れと、そして微かな苛立ちが含まれているように聞こえる。

 

 セシリアが飛び上がった。

 

「い、色目だなんて! わたくしはただ学術的な議論を……!」

 

「議論? その距離で? 耳元で囁き合うのがあなたの家の流儀なのかしら」

 

 ヴァリーラは鼻で笑う。

 

 セシリアは顔を真っ赤にして口ごもった。本人にも自覚があるのだ。

 

 ヴァリーラはセシリアへの興味を失ったように、視線をイサクに向けた。

 

「今のあなたの説。言葉によって力を失ったという話。……一理あるとは思いますけれど、少しロマンチシズムに過ぎる気もしますわね」

 

 彼女はイサクの説を否定しなかった。だが全面的に肯定もしない。彼女なりに噛み砕き、批判的に検討している姿勢が見て取れる。成長したものだ、とイサクは思う。

 

「僕はただの仮説を述べただけですよ。ではオルレアン嬢はどう考えるのです」

 

「わたくしは……そうね、もっと構造的な問題だと思いますわ。環境魔素の濃度とか、あるいは大気中のマナの質そのものが古代と現代では異なっていたのではないかしら」

 

「物理的な環境変化説か。それも有力ですね」

 

 イサクが頷くと、今度はアルフォンスが会話に割り込んできた。彼はいつものようにチャらい笑みを浮かべている。

 

「いやいや、僕はセシリア嬢の意見も聞いてみたいな。彼女は古代語の専門家だ。神話的な視点から、何か思うところがあるんじゃないかい?」

 

 アルフォンスの助け舟に、セシリアがおずおずと顔を上げる。

 

「あ、あの……わたくしは……」

 

 彼女はチラリとイサクを見た。イサクは無言で頷く。「言ってごらんなさい」という合図だ。

 

 セシリアは深呼吸をし、意を決して口を開いた。

 

「わたくしは……『管理者の不在』ではないかと、思います」

 

「管理者?」

 

 ヴァリーラが眉をひそめる。

 

「はい。創神記によれば、原初の時代、神はこの地上を直接歩き、管理していたとあります。そして七日目に、神は去った、と」

 

 セシリアの声に熱がこもる。彼女の得意分野だ。

 

「この『七日目』というのは単なる時間の経過ではなく、世界の理が完成し、神の手を離れた瞬間を指しているのではないでしょうか。神がいる間は世界は神の意志によって流動的でした。だから人の意志もまた、神の似姿として世界に干渉できた。……ですが神が去り、世界が自律的に稼働し始めると、法則が固定化された。理が固まったのです。だから私たちは定められた『手順』を踏まなければ、奇跡を行使できなくなった……」

 

 一気に捲し立て、セシリアははっとして口をつぐんだ。

 

 沈黙が降りる。

 

「……なるほど」

 

 アルフォンスが感心したように唸った。

 

「神学的アプローチか。理が完成したからこそ、自由度が失われた。逆説的だが説得力があるな」

 

 ヴァリーラもまた、悔しげに唇を噛みながらも、頷いた。

 

「……悪くない見解ね。あなたの頭の中がお花畑だけではないことは認めてあげますわ」

 

 それは彼女なりの最大限の賛辞だった。

 

 セシリアはほっと胸を撫で下ろし、イサクに向けて誇らしげな、そして褒めてほしそうな視線を送る。イサクは小さく頷いてみせた。

 

 講義が終わる鐘が鳴った。

 

 アガサが一礼し、教室を出て行く。その際、彼女の視線が一瞬だけ、本当に瞬きするほどの一瞬だけ、イサクの方へ流れた。

 

 誰も気づかないほどの、微かな視線の交錯。

 

 だがヴァリーラは見逃さなかったらしい。

 

「……ねえ、サザーランド」

 

 教科書を片付けながら、ヴァリーラが低い声で言った。

 

「あなた、メーベル先生と何かありましたの?」

 

 ドキリ、とする問いかけだ。だがイサクの表情筋は微動だにしない。

 

「何かって、何のことでしょう」

 

「誤魔化さないで。最近、先生の雰囲気が変わったのは誰の目にも明らかですわ。そして先生は講義中も頻繁にあなたの方を見ていらっしゃる。……ただならぬ気配を感じますのよ」

 

 女の勘、というやつだろうか。鋭い。鋭すぎる。

 

 どう言い訳したものかと思案していると、横からアルフォンスが割って入った。

 

「考えすぎだよ、ヴァリーラ嬢」

 

 彼は笑い飛ばすように手を振った。

 

「イサクはアガサ先生の肝いりだ。あの論文盗用事件の時、彼がどれだけ尽力したか、君も知っているだろう? 先生にとって彼は恩人であり、自慢の愛弟子なんだ。信頼の眼差しを向けるくらい、当然のことさ」

 

「……そうかしら」

 

 ヴァリーラはまだ納得していない様子だがそれ以上追及する材料もなかった。

 

「ま、そういうことにしておきますわ。……でも」

 

 彼女はイサクをじっと見据えた。

 

「あなたが何をしていても驚きませんけれど、身の破滅を招くような真似だけは慎みなさいよ。あなたも立場があるのですから」

 

 共同研究者としての忠告か、それとも別の感情か。

 

 イサクが答えようとした、その時だった。

 

「イサク・サザーランド君」

 

 教室の入り口に、一人の職員が立っていた。事務的な、無機質な声。

 

「メーベル副教授がお呼びです。至急、第三研究室へ」

 

 その言葉に四人の間に再び沈黙が落ちた。

 

 ヴァリーラの視線が「ほらご覧なさい」と言わんばかりに鋭くなる。

 

 セシリアは不安そうにイサクを見つめ、アルフォンスは「やれやれ、人気者は辛いね」と肩をすくめる。

 

 イサクは内心で深いため息をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……分かりました。すぐに行きます」

 

 呼び出しの理由は分かっている。

 

 学術的な相談か、それとも情事の誘いか。

 

 ちなみにイサクとしては、知的な会話をするのも痴的な会話をするのも大歓迎だった。




そろそろセックスだ~
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