◆
三日が経っていた。
あの日から、セシリア・クラインフェルトの世界は根底から狂ってしまった。
食堂でイサク・サザーランドの後姿を見かけただけで、下腹部がきゅうと疼く。図書室で不意にすれ違った拍子に彼の衣服から漂う石鹸の香りを嗅いで、太腿の内側がじんわりと湿った。講義室の最前列に座るあの短躯が視界に入るたびに、あの日聴こえた音──ぐちゅ、ぱんっ、という肉の衝突と水音のすべてが、鮮明に蘇ってくるのだ。
そして蘇るのは音だけではなかった。
あの廊下で、自分が何をしたか。膝を石畳につき、スカートをたくし上げ、下着を横にずらして指を秘裂に沈めた。あの卑猥な水音を自分の身体が奏でていた事実が、セシリアの羞恥を焼き尽くすどころかむしろ燃料として機能している。思い出すだけで身体が火照る。寮の自室で枕に顔を埋めながら、もう三晩連続で自慰に耽っていた。
困ったことだ。
セシリアは本当に、心の底から困っていた。
◆
木曜日の午前。古代ルーン文字演習の講義中、セシリアは必死に羊皮紙へ視線を釘付けにしていた。自分の三つ席ほど離れた場所にイサクが座っている。彼はいつものように背を丸めた姿勢で、太った短い指を器用に動かしながらノートを取っていた。
──あの指が。
想像が暴走する。あの太くて短い指がメーベル副教授の中をかき回していた。あの女を何度も絶頂させていた。あの冷たい声で「まだいってはいけません」と命じながら──
セシリアは無意識に鳥の羽根ペンを握りしめた。先端がぱきりと折れて、羊皮紙の上にインクの黒い染みが広がる。
「大丈夫か、クラインフェルト」
隣の席のアルフォンスが怪訝そうに覗き込んでくる。
「え、ええ。なんでもありません」
声が裏返った。セシリアは折れたペンを素早くしまい、予備のペンを取り出した。顔が燃えるように熱いのが自分でも分かる。頬がどれほど紅潮しているか、想像するだけで穴があったら入りたかった。
視線が吸い寄せられる。
イサクはペンの折れる音にすら気づかない様子で、講義に没頭していた。太った身体に似合わぬ端整な字を書くことをセシリアは知っている。古代ルーンの解読課題で彼の記述を見せてもらった際、その正確さと美しさに舌を巻いたものだ。
──あの手で。
またしても思考が脱線した。セシリアは両手で自分の頬を叩いた。ぱちん、と小気味よい音が講義室に響いて、今度は前の席の女子学生が振り返る。
「あ、虫が」
セシリアの苦し紛れの言い訳を聞いたアルフォンスは、きょろきょろと周囲を見回していた。
◆
転機が訪れたのは昼食の席だった。
食堂でスープを飲みながらぼんやりと考え事をしていたセシリアの頭に、悪魔的な着想が閃いたのだ。
──私は秘密を知っている。
イサク・サザーランドとアガサ・メーベル副教授が肉体関係にある、という秘密を。聴覚増幅の術式で盗み聞きした、あの生々しい情事の一部始終を。
これは帝国魔術学院の規則において、明確な違反行為だ。教官と学生の間での性的関係は厳に禁じられている。発覚すれば副教授の罷免は確実で、イサクにも退学処分が下る可能性がある。
セシリアはスプーンを止めた。
つまり、私はイサク様の弱みを握っている。
その事実が脳裏に稲妻のように走った瞬間、セシリアの中で何かが弾けた。心臓の鼓動が一気に跳ね上がり、スープの中に映る自分の顔が紅潮しているのが見えた。
利用すれば──イサク様と二人きりになれるかもしれない。
スープが急に味を失った。代わりに胸の奥底から湧き上がってきたのは、甘くて禍々しい何かだった。
◆
セシリアの脳内で、天使と悪魔が殴り合いを始めたのはその直後のことである。
天使は白い翼を広げて涙を流していた。あなたは真面目な学徒でしょう、こんな下劣な考えに身を委ねてはいけません、と切々と訴えている。
悪魔は黒い翼をばたつかせて嗤った。何を綺麗事を。廊下で自慰した女が今さら清廉を気取るなど片腹痛い。
天使が反論する。あれは魔が差しただけです。一時の過ちを永遠の罪にしてはなりません。
悪魔が鼻で嗤い返す。三日連続で寝る前にイサクのことを思い出しながらまんこに指を突っ込んでいる女が「一時の過ち」。笑わせるのもいい加減にしろ。
天使が絶句した。
悪魔が畳みかける。考えてもみろ。あの秘密をちらつかせれば、イサクは言うことを聞くしかない。口止めの代わりに、抱いてもらうのだ。これは脅迫ではない。交渉だ。大人の、対等な、知的で洗練された取引にすぎない。
天使が目を見開いた。それは明確に脅迫です。
悪魔は肩を竦める。呼び方の問題だろう。
セシリアはスプーンを握りしめたまま、脳内の激論に翻弄されていた。周囲の喧騒が遠い。目の前のパンにバターを塗る動作すら忘れて、彼女はただ虚空を見つめている。
──もしイサク様が私の言いなりになったら。
その想像が頭に浮かんだ瞬間、悪魔が決定的な一撃を放った。
◆
妄想が始まった。
場所は第三研究室。あの日と同じ部屋。ただし今回、中にいるのはアガサではない。セシリアだ。
セシリアは妄想の中で研究室の扉に鍵をかけ、防音の術式を張った。振り返ると目の前に、椅子に腰かけたイサクがいる。あの太った身体。凡庸な顔。短い脚。およそ容姿端麗とは言い難い十八歳の青年が、不機嫌そうな顔でセシリアを見上げていた。
「何のつもりですか、セシリア」
冷たい声。だが今日は違う。今日のセシリアには切り札がある。
「私、知っているんです」
セシリアは一歩ずつイサクに近づいた。制服のリボンに手をかけ、ゆっくりと引き抜く。
「イサク様とメーベル先生のこと。全部」
妄想の中のイサクの表情が、初めて動揺に揺れた。あの鉄面皮が僅かに歪む。それだけで身体の芯がとろりと溶けそうだった。
「だから今日は──私の言う通りにしてください」
セシリアは制服のボタンに手をかけた。一つ、また一つ。ゆっくりと外していく。白いブラウスの間から、そばかすの散った鎖骨が露わになる。その下の、控えめに膨らんだ胸が、白い下着越しに姿を現す。
「私を見て、イサク様」
命じる側に立つ快感。それはセシリアが生まれて初めて味わう種類の陶酔だった。普段は「イサク様」と崇め奉り、彼の一挙手一投足に目を輝かせている自分が、今この瞬間だけは上位者として君臨している。
スカートを脱ぎ捨てた。白い下着一枚になったセシリアが、イサクの膝の上に跨る。太った腹の上に華奢な身体を押しつけるようにして座ると、布地越しに彼の体温が伝わってきた。
「セシリア、こんなことをして──」
「黙って」
遮った。イサクの唇に人差し指を押し当て、にっこりと笑う。
「今日は私が決めるの。全部」
下着の上から、自分の秘裂を彼の太腿に擦りつけた。既にぐっしょりと湿った布地が大腿部に貼りつき、むわりとした甘い匂いが立ち昇る。イサクの身体が微かに強張るのが分かった。
「ほら、もう感じてるでしょう」
セシリアの手がイサクの下腹部に伸びた。ズボンの膨らみに触れる。硬い。大きい。想像していたよりもずっと。指先で輪郭をなぞるだけで、イサクの喉から押し殺した吐息が漏れた。
「私が全部してあげる。イサク様は何もしなくてよいのです」
ズボンの前を開き、下着の中に手を差し入れる。熱い塊を握りしめた瞬間、セシリアの頭の中で火花が散った。ずっしりとした重みと、脈打つ熱。掌に余るほどの太さが、彼女の小さな手の中でびくりと跳ねた。
ゆっくりと上下に扱き始める。皮を剥くようにして、根元から先端へ。先端の割れ目からじわりと透明な液が滲み出して、セシリアの指を濡らした。
「気持ちいいですか?」
上目遣いで訊く。返事の代わりにイサクの手がセシリアの尻を掴んだ。肉に食い込む指の力に、甘い悲鳴が喉から零れ落ちる。
「私のことも触ってください──ほら、ここを」
セシリアはイサクの手を取り、自分の下着の中へ導いた。太い指先が秘裂に触れた瞬間、腰が勝手に跳ねた。ぬるりとした愛液が指を歓迎するように絡みつき、陰核がひくりと震える。
「そこっ……その小さいの、もっと触って……」
命じているはずなのに声が嬌声に変わっている。構わない。セシリアは下着を脱ぎ捨て、イサクの怒張に自分の秘裂を押し当てた。
先端が膣口に触れる。じわりと、沈んでいく。
狭い入口がこじ開けられる感覚。痛みと快楽が同時にせり上がってきて、セシリアは無我夢中でイサクの肩にしがみついた。
「んあっ──大き、い……っ」
奥まで呑み込むと、子宮口に硬い先端が当たった。内臓を突き上げられるような圧迫感。だがそれすらも快楽の一部として、セシリアの身体は貪欲に吸収していく。膣壁が異物を締め上げ、痙攣するように蠕動する。
「動くわ……私が、自分で」
腰を持ち上げて、落とす。
ずぷっ。
水音と共に快楽の稲妻が背筋を駆け抜けた。自分の重みで落下するたびに最奥を抉られ、視界が白く明滅する。制御できない。リズムが勝手に加速していく。
「あっ、あっ、あっ、イサク様っ──」
セシリアは妄想の中で完全に壊れていた。命じる側だったはずの自分が、腰を振る獣と化している。イサクの肉棒にしがみつき、自分から貪り、自分の膣で搾り取ろうとしている。
「い、イサク様のっ……私の中に、全部出してっ……!」
──現実のセシリアは食堂のテーブルに突っ伏していた。
◆
顔を上げた。
スープはとっくに冷めている。周囲の学生たちは自分の昼食に夢中で、セシリアの奇行に気づいた者はいないようだった。少なくともそう信じたかった。
太腿の間が湿っている。またやってしまった。妄想だけで身体が反応している。食堂の椅子の上で下着がじっとりと濡れているという事実に、セシリアは地の底まで落ちたような絶望を覚えた。
だがそれ以上に彼女を打ちのめしたのは、妄想の中で「命じる側」に立ったはずの自分が、結局のところ自分から腰を振って懇願する側に堕ちていたという、救いようのない現実だった。
支配するつもりが支配されている。弱みを握ったはずなのに、弱みを握られているのは自分のほうだ。この果てしない欲望に。
セシリアは冷めたスープを一口すすり、長い溜息を吐いた。
駄目だ。
こんなことはできない。
脳内の天使が、ぼろぼろに殴られた顔で立ち上がっていた。片翼はもげかけ、光輪は罅割れ、それでも最後の力を振り絞って叫んでいる。
──あなたはイサク様を本当に慕っているのでしょう。本当に慕っている人を脅して手に入れたとして、それは愛ですか。
悪魔が口を開きかけて、止まった。
卑怯な一撃だった。反論のしようがない。ずるい。あまりにもずるい。
セシリアはおさげの先を指に巻きつけ、くるくると弄びながら唇を噛んだ。
正攻法で行くしかない。
そうだ。自分は古代語の研究者だ。知性と教養と努力で勝負する人間だ。盗み聞いた秘密を盾にして意中の人を脅迫するような、そんな下衆な真似は自分の流儀ではない。
──もしかしたら、たとえイサク様は年上がお好みだったりするのかしら。
……。
…………。
その現実だけは見ないことにした。
セシリアは残りのスープを飲み干し、パンをちぎって口に放り込んだ。午後からは古代遺物の修復実習がある。イサクとは別の講義だ。少しは落ち着いて過ごせるだろう。
席を立ちかけて、ふと気がついた。
スカートの尻の部分が椅子に貼りついている。
下着がそこまで湿っていたのだ。
セシリアは何事もなかったかのように立ち上がり、外套の裾でさりげなく尻を隠しながら食堂を後にした。その足取りは不自然に内股で、すれ違った女子学生が怪訝そうに振り返ったが、セシリアは顔を伏せてその場を逃げ出した。
──寮の自室に戻ったら着替えよう。
そして今夜こそは──自慰なんかしないと、固く心に誓った。
しかし四日連続の記録更新が不可避であることを、セシリアの秘部は十分すぎるほどに知っていた。