◆
春が来た。
帝国魔術学院の回廊を覆う白樫の枝にはまだ蕾も固いが空気の質が変わっている。冬の刃のような鋭さは失せ、代わりに生温い膜のようなものが帝都の上空に張られていた。鋭敏な学生ならば気づくだろう。空気中のマナの密度がほんの僅かに上がっていることに。春とはそういう季節だ。
朝食前。
寮室の扉の隙間から一通の手紙が差し込まれていた。
封蝋にオルレアン家の紋章。だが筆跡に見覚えがない。リシャールの力強く角張った書体ではなく、細く端正な曲線が便箋の上を走っている。差出人の名を読んで、イサクは僅かに眉を動かした。
──マリアンヌ・ド・オルレアン。
封を切る。便箋は上等な羊皮紙で仄かに見知らぬコロンが香った。文面は極めて短い。先日の食事会への短い礼。そしてグレイル・サザーランドの近況を尋ねる一文。学院時代の同期として久しくお会いしていないがお変わりないかと。それだけだった。余計な修辞も感傷もない端的な文章である。
イサクは便箋を畳み、机の上に置いた。
返信を書く。父は相変わらず研究に没頭しておりたいへん元気にしていること。先日は素晴らしいお食事をご馳走になり重ねて御礼申し上げること。ご自愛くださいという結び。儀礼的で過不足のない文面に仕上がった。
封をして寮の郵便受けに預ける。
それだけの話である。
◆
昼食時。
学食の隅にはもはや常連と化した四人の席がある。
イサクがスープを啜っていると向かいのアルフォンスが頬杖をつきながら天井を仰いでいた。普段の傲岸不遜がうそのように抜け落ちた姿勢だ。何かまた面倒事があったのだろう。この男は愚痴る時にだけ妙に人間味が出る。
「聞いてくれよ、イサク」
「聞いてますよ」
聞いていなかった。なぜなら、スープの具が昨日より少ないからだ。予算が切り詰められたのだろうかと心配になるイサク。
「マルグリット嬢に正式にお目にかかったんだ」
「前にも伺いましたね。身長がお悩みでしたか」
「身長の問題はもはや些事だよ。もっと根本的な、人間としての問題があった」
アルフォンスが身を乗り出した。金色の前髪の下で整った目が据わっている。据わりすぎている。何か相当のことがあったのだろう。
「最初の挨拶の時だ。僕は紳士的に手を差し出した。社交界の作法どおりにね。すると彼女は手を取る代わりに僕の腕を掴んで引き寄せて、こう言ったんだ」
アルフォンスは声を潜めた。
「『あら、思ったより細い。もうちょっと鍛えたほうがいいんじゃないかしら? わたくし力の強い殿方が好みですの』」
「……初対面で」
「初対面でだ! しかも腕を触りながらだぞ? 二の腕を揉むように。父上の前で!」
イサクはスープの匙を止めた。
「その後は?」
「ああ、もっとひどい。歓談の時間に隣に座ってきたんだが距離が近いんだよ。異常に近い。膝がずっと触れてた。それだけならまだ偶然かと思えなくもないが──」
アルフォンスの声がさらに低くなる。
「太腿だよ。テーブルの下で僕の太腿に手を置いてきたんだ。しかもぐるぐる円を描くように撫でながら! その後は手に触れてきて──『ロンドブル家の方ってお肌がおきれいですのね。すべすべ。女の子みたい』って。僕は婚約の席で性的嫌がらせを受けたんだよ!」
セシリアが真っ赤になって俯いた。イサクはスープの最後の一口を飲み干す。
「舞踏はどうだったんですか」
「舞踏! あれこそ地獄だ。ステップの間じゅう体を密着させてくる。必要以上にだ。胸を僕の胸板に──いや、胸板なんて呼べるほどの筋肉は僕にはないんだが──押し付けてきて、耳元で囁くんだよ」
「何と」
「『ねえ、今夜はこのまま泊まっていかれます? わたくしの部屋、広いですのよ?』」
フォークが皿に当たってカチンと鳴った。セシリアの手元だ。
「……初対面で、ですか?」
「初対面でだよ、セシリア嬢! おまけに背は僕より頭半分高いし、顔は確かに美人なんだが目がね。目が据わってるんだ。獲物を値踏みするような。僕は婚約者に狩られる側なんだよ!」
「大変ですね」
「大変なんだよ! 僕は清楚で控えめで、できれば小柄で華奢な女性が好みなのに、来たのはこう……慎みという概念を生まれた時に置いてきたような、逞しい肉食獣だ」
ヴァリーラがパンをちぎる手を止めた。
「聞いていて呆れますわ」
いつもの毒舌だ。だが今日は声の底に普段より太い棘が混じっている。
「あなたがサロンで女子生徒にしていたこととどこが違いますの。腕を掴む、距離を詰める、甘い言葉を囁く。まるで手口が同じではありませんこと」
「ぜ、全然違う! 僕のはあくまで社交的な──」
「社交的な性的嫌がらせを繰り返していた殿方が、社交的な性的嫌がらせを受けて泣き言ですの? 因果応報という言葉をご存じかしら」
斬れ味が尋常ではなかった。セシリアが小さく息を呑む。アルフォンスの顔から血の気が引いていく。
──今日のオルレアン嬢は一段と機嫌が悪い。
イサクはそう観察したが口には出さなかった。貴族の令嬢の不機嫌に触れるのは地雷原を素足で走り抜けるようなものだ。
だがアルフォンスにはその危機察知の感覚が根本的に欠落している。
「お? 随分とげとげしいじゃないか。どうしたんだい」
一拍置いて、彼は首を傾げる。
「もしかして、月のものでも来てるのかい?」
テーブルの空気が凍った。
ヴァリーラのフォークを握る指が白くなっている。蒼い瞳の奥で小規模な殺意が発火していた。学食のランプの光すら僅かに揺らめいた気がする。
──やれやれ。
イサクは内心で嘆息した。アルフォンスという男は場を読めないのではなく読んだ上で踏み抜くという特殊な才能の持ち主である。天然のノンデリカシー。悪気が一片もないぶん始末に負えない。
ヴァリーラの唇がわずかに開き、この学食の歴史に刻まれるであろう罵倒が放たれようとした瞬間──
「あ、あの! ヴァリーラ様!」
セシリアが身を乗り出した。
両手に小さな布袋を握っている。茶色の麻布で包まれ、結び紐だけが丁寧に蝶結びにされた素朴な包みだった。
「こ、これ……お使いになってみていただけませんか」
唐突な差し出しに、ヴァリーラの怒気が一瞬だけ揺らいだ。
「……何ですの、それは」
「お香ですわ。焚いていただくと、その……月の巡りに伴う不快が和らぐかと思いまして」
学食の喧騒の中でセシリアの声は控えめだったがそれでも近くの席の生徒が一瞬ちらりとこちらを見た。この手の話題を公共の場で堂々と切り出す度胸は大したものである。
「わたくしが調合したものなのですけれど」
誰かに止められる前に説明を終えてしまおうという勢いで、セシリアは早口に続ける。
「古代語の文献を読んでおりましたら薬に関する記述がございまして。簡単なものから再現できないかと試みてみたのです。帝都の薬師にも見ていただきまして、薬効はあるとのことでした」
「あなたが……調合を?」
「はい。ただ体質に大きく左右されるそうで……効かない方にはまったく効かないらしいのですが」
セシリアは不安そうにヴァリーラの反応を窺っている。
殺意の矛先はアルフォンスの首からセシリアの手許へと逸れていた。ヴァリーラは布袋をしばらく見つめ──
「……頼んでもいないのに」
呟きには棘があった。だが突き返しはしなかった。受け取ったのだ。
「ありがとう、セシリアさん」
礼の言い方がぎこちない。この女は素直に感謝することに慣れていない。だがセシリアにはそれで十分だったらしく顔をぱっと輝かせた。
「効くといいのですけれど……!」
イサクは一連のやり取りを眺めながら別の事を考えていた。
「クラインフェルト嬢」
「は、はい、イサク様」
「その文献はどの写本ですか」
「第四期バルディア写本の薬方に関する章でして、古代語の中でも特に古い語彙が使われておりまして……解読にはだいぶ苦労いたしました」
「バルディア写本か。未訳の領域が多いと聞いていましたが」
「ええ、大半が未訳です。ですが部分的に読み解ける箇所がございまして、そこから実際に再現できるものを探してみようと。まあ、その、何となくなのですが……」
先ほどまでの弱気は消え失せ、研究者の顔が覗いているのは、薬学という分野に対しての適正ゆえだろうかとイサクは思う。
「面白い試みですね」
イサクがそう言うとセシリアの目がさらに輝いた。褒められた嬉しさが全身から滲み出ている。この女は本当にわかりやすい。
「ところで」
アルフォンスが恐る恐る口を開いた。嵐が去ったかどうかを確認する小動物のような目つきだ。
「僕はもう許されたのかな」
「保留ですわ」
ヴァリーラが氷の声で答えた。
「次にそのような事をおっしゃいましたら、杖ではなく素手で決闘を申し込みますわよ。こうみえてもわたくし、格闘技も嗜んでおりますの」
「……肝に銘じるよ」
アルフォンスが大人しく引き下がった。学習能力は高くないが生存本能は人並みに備わっている。
◆
その夜。
ヴァリーラ・ド・オルレアンは寮の自室で机に向かっていた。
公爵令嬢に相応しい広さの個室である。壁面には書架が並び窓辺には小さな鉢植えが置かれている。机の上には精霊契約に関する論文の草稿が広がっていたがペンは止まったままもう三十分近く同じ頁を見つめている。
集中できない。
今日は一日じゅう苛々していた。アルフォンスのあの軽率な発言のせいだと思い込もうとしたが正直なところあの男の暴言は導火線に過ぎない。火薬は前から体の奥に溜まっていた。春先はいつもこうだ。体の芯が重く、血が妙に熱い。
ペンを置いた。
引き出しからセシリアの香包みを取り出す。麻布を開くと灰色がかった粉末の詰まった薄い香盤が入っていた。嗅ぐと樹脂と乾燥した花のような甘くそしてかすかに苦い匂いがする。
──まあ、ものは試し。
蝋燭の火を傾けて香盤に移した。白い煙が細く立ち昇り、部屋の空気に溶けていく。
窓を少しだけ開けた。夜風が混じって煙がゆるやかに渦を巻く。
寝台に腰を下ろした。
確かに下腹の鬱血するような重さが和らぐ気がする。体が軽くなる。
……効果はあるらしい。あの女の調合も捨てたものではない。
だが。
体が熱い。
最初はお香で血行が良くなったのだと思った。しかし寝台に横になった瞬間にそうではないと気づいた。シーツの冷たさが肌を刺激する。薄い寝間着の下で肌が粟立ち、布地が触れるたびに微かな電流のようなものが全身を走り抜けた。
太腿の内側がじんと疼く。
──何、これ。
寝返りを打つ。だが姿勢を変えても体の奥で脈打つ熱は収まらない。むしろ強くなっている。心拍が上がり、呼吸が浅くなり、肌の表面がじっとりと汗ばんでくる。
知っている感覚だった。恥ずかしいことだが。
──気のせいよ。寝なさい。
強いて目を閉じる。だが閉じた瞼の裏で体の芯が脈を打っている。下腹部がじんじんと充血し、そこから放射状に熱が広がっていく。寝間着の裾が太腿に触れるたびに息が揺れた。
五分。十分。
眠れるはずがない。
ヴァリーラは仰向けのまま天井を睨んだ。白い漆喰に蝋燭のちらちらとした光が踊っている。お香の煙はもう消えかけていたが甘い残り香だけが部屋の隅に留まっている。
右手が動いた。
自分の意志で動かしたのか体が勝手にそうしたのかは判然としない。ただ寝間着の裾をゆるやかに掴み、生地を引き上げた。太腿の肌が夜気に晒される。
──やめなさい。
内なる声が制止する。オルレアン家の令嬢が、こんな──。
指先が太腿の内側を撫でた。
体の芯で何かが弾ける。
堪えきれない。
下着越しに秘所へ手を伸ばす。それだけで腰が浮きかけた。布越しでも伝わる熱と湿り気に目眩がする。自分の体がこれほど敏感になっているという事実をヴァリーラは信じたくなかった。
下着をずらす。
指が直接、濡れた肌に触れた。信じられないほど濡れている。太腿の付け根を伝うほどの粘膜液が指先を滑らかに包んでいく。
「……っ」
声を殺すが、呻き声にもにたか細い喘ぎはどうしても我慢できない。
陰核のすぐ上を指で圧した時、全身に鋭い快感が走った。腹筋が痙攣するように収縮し、足の指がピンと反り返った。
指が動く──ゆっくりと円を描くように。不器用な手つきではあったが体は正確に反応した。太腿の奥から背骨の根元まで快楽の回路が一つずつ灯されていく。
「ん……っ、ぅ……」
歯を食いしばっても声が漏れる。
指のテンポが上がった。もはや制御する気力がない。体が勝手に腰を揺らし、かかとがシーツを掻き乱す。
目の前に白い光が散る。
指先が滑り、陰核の先端を直接つまんだ瞬間、視界が白く飛んだ。
達する寸前だった。
そしてその白い視界の奥に──灰色の瞳があった。
ずんぐりとした矮躯。凡庸な顔つき。だがその奥に棲む何もかもを見透かすような冷たい知性。教室で頬杖をつく横顔。本を閉じる時の指の動作。「なるほど」と呟く時の苛立つほど冷静な声──
──なんで。
怒りが喉の奥を焼いた。
よりにもよってなぜ、あの男が。
だが灰色の瞳は消えなかった。快感が高まるほどに鮮明になっていく。
──違うッ……!
否定の最中に絶頂が来た。
ヴァリーラは枕を顔に押し当て、声を殺して達した。腰が跳ね、太腿が痙攣し、波が全身を貫いて指先まで駆け抜ける。
長い、長い波だった。
やがて波が引く。
寝台の上に崩れ落ちたヴァリーラは荒い呼吸を繰り返しながら天井を見上げていた。汗が額から枕に落ちる。濡れた指が寝間着のシーツに跡を残している。
お香の残り香がまだ部屋に漂っている。
あの男──イサクの顔が浮かんだ。その事実がヴァリーラの腹の底で燻り続けている。
──覚えていなさいよ、サザーランド。
何を覚えていろというのか自分でもわからないまま、ヴァリーラはシーツを引き上げて体を丸めた。
怒りなのか、羞恥なのか、それともまったく別の何かなのか。自分の感情の正体がわからない。わからないことが一番腹立たしい。
そうこうしている内に蝋燭が燃え尽き──暗闇の中で、お香の甘い残り香がふわりとかおった。