◆
翌週の昼。
学食の隅のいつもの席でセシリアが切り出した。
「ヴァリーラ様、先日のお香はいかがでしたか?」
何気ない一言が投じた波紋の大きさをこの席の誰も正確に測ることはできなかった。ヴァリーラの匙がかちりと皿の縁に当たる。硬質な磁器が金属に触れる音は彼女の内心の動揺を翻訳していたが、それを読み取れるほどこのテーブルの人間は親密ではない。
「……効きましたわ」
あらゆる外交文書がそうであるように、この返答には記載されていない裏面がある。月経痛は消えた。だがその代償として、墓まで持っていく類いの秘密が生まれた。
「本当ですか! よかったです、本当に!」
セシリアの笑顔には裏がない。裏がないということはつまり表だけで出来ているということであり、それは一枚のガラスのように透明で、しかし一枚のガラスのように脆い。この透明さが曇る日が来るとすればそれはセシリア自身が己の調合物の副作用を知った時だろう。しかし、セシリアはすでに香を使用しているはずで、つまりは効かないタチであるということだ。
不公平でしょ、と内心でボヤくヴァリーラ。
「ねえ、セシリアさん。あのお香の成分について少し伺いたいのだけれど。何か身体に変わった影響が出ることはありませんの?」
「変わった影響、ですか。樹脂にはわずかに血行促進の作用がございますので、体が温まることはあるかもしれません。汗が多めにでたりとか……何か気になることがおありでしたか?」
「……温まったのは感じましたわ」
温まった。確かに温まった。帝都が焼け落ちた大火の年でもここまでは温まらなかったのではないかというほどに温まった。
イサクはスープを啜りながら二人のやり取りを聞いていた。アルフォンスはパンをちぎりつつ視線だけをちらちらとセシリアらに向けている。
セシリアが鞄から香包みを次々と取り出し始めた。一つ。二つ。三つ。テーブルの上に小さな布包みが星座のように並んでいく。古代薬学の復元という学術的偉業が学食のテーブルの上で行商人の露天商いのように展開されている光景には一種の滑稽さがあったが、本人はいたって真剣だった。情熱というのは周囲から見れば常に滑稽であり、当事者にとっては常に切実である。
「ずいぶんと精力的ですのね」
「すみません……でもこちらを試してみていただけませんか? 疲労回復に効くものなんです」
布袋を受け取るヴァリーラの手に一瞬の躊躇があったが──結局手は布袋を掴んだ。好奇心はいつだって恐怖に勝つものだ。ただ、恐ろしいのは彼女自身、なぜ手に取ってしまったのか分からない点である。
ヴァリーラ・ド・オルレアンという女は、知性で欲望を制御できると信じている種類の人間だった。その確信は彼女の最大の美点であり、そして今まさに崩れ始めている唯一の防壁でもあった。
──まさか、わたくし……
いや、さすがにそれはないだろうと思うヴァリーラだが……。
「ありがとう、セシリアさん」
「あの、僕にも──」
「お黙りなさい」
ヴァリーラの拒絶は素早かった。乾ききった砂漠を疾走する一陣の風のように。アルフォンスが固まった。
「なんでだよ」
「前回の無礼の保留がまだ解けていないからですわ」
ヴァリーラは根に持つタイプなのだ。
そんな二人を横目でちらと見て、「まあ僕には関係ないですね」というような
「もちろんです! もちろんです、イサク様!」
それをみながらヴァリーラは布袋を鞄に仕舞った。柑橘の微かな芳香が手に残った。前回のものとは違う香りだ。
別のものだ。大丈夫──そんな事を思うヴァリーラなのだが、じゃあ大丈夫じゃなかったらどうなのかという向きついては、敢えて考えないようにしていた。
なぜなら、もし「大丈夫じゃなくてもいいや」みたいな思いがあったとしたら。
自身を自分をド淫乱の腐れ娼婦が、と罵りたくなるだろうから。まあヴァリーラは公爵令嬢であるため、そのようなお行儀の悪い罵倒は例え自分自身にであってもしないだろうが。
◆
その夜。
ヴァリーラの自室はいつも通りだった。蝋燭の灯り。論文の草稿が机に広がり、窓は春の夜気を通すために細く開けてある。紅茶の匂い。インク壺の蓋。前回と寸分たがわず同じ舞台が整っている。
問題は舞台装置ではなく、役者の方にある。前回この舞台に立った役者が何をしでかしたか、ヴァリーラは克明に覚えている。覚えていないふりはできる。しかし覚えていないことにすることはできない。記憶というのは消去できない類いの負債だ。
引き出しを開けた。布袋がある。柑橘の香り。
ヴァリーラは熱していく思考の中で、必死で三段論法を組み立てようとした。
前提一、これは前回とは違う調合物である。
前提二、異なる調合物は異なる効能を持つ。
結論、前回と同じことは起きない。
──論理としては一応の体裁を保っている。だが前提一の「前回とは違う」と前提二の「異なる効能」のあいだに横たわるのは仮定であって検証ではない。前回の
……そういうわけで三段論法の土台は砂だったわけだ。そして彼女はその砂の上に靴を載せ──当たり前のようにその土台は崩れ去った。
「ん……っ、あ……ぁっ……!?♡」
快感は突然に訪れた。
「ん……っ、あ……ぁっ……あ゙、ひぃッ!?♡♡♡♡♡♡」
炉に放り込まれた薪などではなかった。太陽が股間に降ってきたのだ。
柑橘の煙が鼻腔を満たした次の瞬間、下腹部に灯った熱は三千倍の速度で全身を焼き払った。子宮が爆ぜ、卵巣が煮え、脊髄の髄液が沸騰する。膣壁が意志とは無関係にひくつく。何もしていないのに女陰から愛液が溢れ出し、寝間着の内側を熱いものが伝い落ちてシーツに円形の染みを広げていった。
甘い。
凄まじく、甘い。
快楽が甘すぎて痛い。脳の奥で砂糖を練り固めたような鈍痛と歓喜が同時に明滅し、ヴァリーラは理解した。前回の「あれ」は序章にすぎなかったのだ。あの夜の疼きは──前菜だった。微かな予震にすぎなかった。本震が、今来ている。
「あ♡ あっ♡♡ やだ、なに、こ、れ♡♡♡」
触れてもいないのに達している。第一の波がまだ退かないうちに第二の波が重なり、その第二の波を第三の波が呑んだ。重なり合った快楽は足し算ではなく掛け算で膨張し、頭蓋の内側で白い光が炸裂する。脳が喜んでいるのか壊れているのか判別がつかなかった。腰がびくびくと跳ね、太腿の内側を伝う液体が膝の裏まで到達していた。
──声、が。
残された理性の最後の欠片が警報を発した。屋敷には使用人たちはおろか、家族もいるのだ。
並列思考──イサクとの研究で触れた概念がここで彼女を助けた。快楽に焼かれる意識の残り火を掻き集め、ヴァリーラは歯を食いしばって術式を編む。まだ焼かれ切っていない思考の切れ端を集め──そして。
防音の膜が部屋を包む。
だができたのはそこまでだった。防音という名の最終防衛線を敷いた瞬間、理性の全戦力はその一点に注ぎ込まれ、他のあらゆる前線は放棄された。
手が股間に伸びた。
「ぁ゛あ゛ッ♡♡♡♡♡」
指が触れた。
それだけだった。寝間着の上から、布越しに、陰核の位置をなぞっただけだ。なぞっただけで目の前に閃光が迸った。白ではない。紫と赤と金が混ざった、名前のない色の爆発だった。脳味噌の奥底からとてつもない力で引きずり出されるような絶頂が脊椎を貫き、四肢の先端まで痺れが走った。背中が跳ねた。肩甲骨がシーツを打つ音がした。
声は最早声ではなかった。
「あ゙あ゙ぁ゛あ゛ッッ♡♡♡♡♡♡ イッ、イって、イって、イッてるのにッ♡♡♡♡ と、止ま、んな──ひぎぃッ♡♡♡♡♡♡」
止まらない。波が退かない。潮が引くべきところで引かず、次の波が来るべきでないところで来ている。下腹の収縮が一定の間隔で繰り返され、そのたびに膣口からぐちゅりと音がした。何も入っていないのに音がしている。内壁が自らを搾るように蠕動し、分泌液を押し出しているのだ。
──防音は?
効いている。それだけ確認した。それ以外のことは何ひとつできなかった。
寝間着を捲り上げた。下着を引き下ろす余裕すらなかった。布をずらした。指が直接、肌に触れた。
「ぉ゛お゛ぉ゛ッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
公爵令嬢の喉から出ていい周波数ではなかった。腹の底から絞り出された獣の呻き声が防音の膜の内側で反響し、自分の声が自分の耳に返ってくる。醜い。その醜さが羞恥を錐のように突き刺し、突き刺された場所から甘い汁が滲んだ。
指が動いた。中指が割れ目を滑り降り、愛液で抵抗なく滑る。皮膚と粘膜の境界が分からない。すべてが同じ温度で、同じ湿度で、同じように敏感だった。そのまま──入った。
「ンひぃ゛ッ♡♡♡♡♡ あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ♡♡♡♡」
膣壁が指を咥え込んだ。入り口が吸いつき、内壁が指の関節をぐにぐにと押し潰すように脈打つ。子宮の底がずんと重く引き下ろされる。それだけで達した。何度目かなど数えることを放棄していた。
掻き回した。
二本目を入れた。薬指が中指の隣に割り込み、膣壁を押し広げた。ぐちゅ、ぐちゅ、と音がする。ぬちゃり、と粘膜が指に吸いつく音がする。公爵令嬢の自室だ。古代語の論文がある。インク壺がある。万年筆がある。ルーン文字の参考書が開かれたままだ。蝋燭の灯りがまだ揺れている。それらすべてのものに囲まれた空間で、その空間の主は寝台に仰向けになって自分の膣に指を突き込み、ぐちゅぐちゅと音を立てて掻き回している。
「ひぎッ♡♡ あひぃ♡♡♡♡ んほぉ゛ッ♡♡♡♡♡♡♡♡」
親指が陰核に触れた。押した。擦った。人差し指と中指と薬指が膣の内側で暴れ、親指が外側で陰核を捏ね回す。右手はもう主人の指令を待っていなかった。
腰が跳ねる。跳ねるたびにシーツが捩れる。枕が落ちた。髪が顔に貼りついている。汗だ。額も頬も首も汗に濡れ、汗と涙と涎が頬の上で合流している。
「あ゙あ゙ぁ゛あ゛ぁ゛ッッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ だ、めッ♡♡ おか、し、くなっ、ちゃ♡♡ あ゛ひぃ゛ッ♡♡♡♡♡♡」
おかしくなりそうではない。もうおかしくなっている。熱い。重い。甘い。痛い。濡れている。指が動く。中が締まる。子宮が痙攣する。絶頂が来る。来た。また来た。背骨が弓なりに反り、喉の奥から声にならない声が漏れる。
灰色の瞳。
見えた。
頭の中だ。脳味噌の壁に映し出された映写幕だ。男の顔が浮かんでいた。凡庸な面立ち。冷淡な虹彩。講堂の斜め前の席に座る横顔。今度は影などではなかった。細部まで記憶が再生されている。顎の線。睫毛の角度。無表情に動く唇。あの灰色でこちらを見ている。
見ている。
見られている。
ヴァリーラの子宮が痙攣したのは快楽のためではなかった。この灰色の虹彩を脳裏に見た瞬間、彼女の身体は快楽とは別の回路で──もっと根源的な、名付けようのない衝動で反応した。恐怖ではない。怒りでもない。それは、獲物を見つけた捕食者の筋肉が理性に先んじて収縮するのと同じ現象だった。
「ひッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
その幻視が新たな絶頂の引き金を引いた。膣壁が指を万力のように締め上げ、全身が大きく痙攣し、腕の筋肉が引き攣るほどの力で指を抜き差しした。ぐちゅぐちゅぐちゅ。音が加速する。液が飛び散った。シーツの染みが拡がる。太腿が震え、足の指が丸まり、爪先が攣った。
「あ゙ひぃ゛ッ♡♡ ンほぉ゛ッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
腰を突き上げた。誰に向かって突き上げているのか。誰もいない。いないのに突き上げている。空の天井に向かって。蝋燭の灯りに向かって。灰色の幻に向かって。
「イっ、ぐぅッ♡♡♡♡♡♡♡♡ イッ、てぇ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
六度目。声帯が裂けるかと思った。涎が顎を伝って首筋に垂れた。背中の汗がシーツに張りつき、剥がそうとする力が腰をさらに浮かせた。膣から指を抜いた瞬間にぶちゅりと音が鳴り、愛液が糸を引いて指から太腿まで架橋した。
「んぐ、ぅッ……♡♡♡♡♡♡」
弛緩。波が退く。退く──かに思えた。
退かなかった。
指を抜いても内壁が勝手に収縮を続けている。粘膜が自律的に蠕動している。一人で。勝手に。
堪えられなかった。指を戻した。
「あ゛ッ♡♡♡♡♡♡♡♡」
三本の指が一度に沈み込んだ。中指と薬指と人差し指。膣がそれを迎え入れた。ためらいなどなかった。境界はとうに消えている。
ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ。
掻き回した。掻き回して掻き回して掻き回した。前壁を抉った。後壁を擦った。深く突いて旋回させた。指の腹がざらつきのある部分に触れたとき、視界が真っ白に吹き飛んだ。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ァ゛ッッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
七度目の絶頂は今までのどれよりも深かった。脊髄を引き抜かれるような収縮。全身の筋肉が同時に硬直し、呼吸が止まり、心臓が一拍飛んだ。視界の端が暗くなる。意識が途切れかけている。
途切れればいいのに途切れない。快楽が意識を手放してくれない。溺れかけた人間が水面に顔を出すように意識が戻り、戻った途端にまた波が来る。拷問だ。そしてその拷問を終わらせたいのかどうか、ヴァリーラ自身にも分からなかった。
──灰色。
まだいる。
まだ見ている。
あの凡庸な顔がこちらを見下ろしている。寝台に横たわって自分の中に指を三本突っ込んで涎を垂らして痙攣するヴァリーラを──冷たい目で。
「んぁ゛ぁ゛ッ……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
八度目。もう数えていない。数えることに意味がない。波と波の間の谷間が消え、絶頂が連続体になっている。イキ続けている。指が止まらない。止められない。止めたくないのか止められないのかすら判断がつかない。
涙が流れている。泣いているのではない。体から水分が搾り出されているだけだ。液体という液体がヴァリーラの体から出ようとしている。涙も涎も汗も愛液も、すべてが外へ。体が中身を全部外に出して空っぽになろうとしているかのように。
やがて指の動きが鈍った。腕の筋肉が限界だった。前腕が攣り始めている。だが膣内の収縮はまだ続いている。指が止まっても内壁が指を締め上げ続けている。最後の波は最も深く、最も長く、最も静かだった。声を出す力すら残っていなかった。口が開いたまま、掠れた吐息だけが漏れていた。
「……ぅ……♡……」
弛緩した。
今度こそ本当に弛緩した。全身の力が抜け落ちた。指が膣から滑り出た。ぬるりと温かいものが太腿を伝った。シーツを見る余力があったなら、そこに広がる染みの大きさに公爵令嬢は卒倒しただろう。しかし見る余力はなかった。見なくてよかった。
天井を見ている。見ているが見えていない。視界がぼやけている。蝋燭の灯りが橙色の滲みとなって天井に揺れている。さっきまで古代ルーン語の活用変化について思考していた脳味噌は、今や活用変化そのものを忘れている。ルーン語の「ル」の字も出てこない。唯一残っているのは灰色という色の名前だけだった。
唇が動いた。声はほとんど出なかった。喉が潰れている。何度叫んだのか覚えていない。防音の膜がなければ寮の全フロアが起きていただろう。
「覚えて、なさい、よ……」
息が詰まった。
「……サザー……ラン、ド……」
それだけ言って、ヴァリーラ・フォン・ヴァレンシュタインは意識を手放した。
何の覚悟をさせるのかは彼女自身にもまったくの不明だった。しかし確信だけはあった。この男に対して何かをしなくてはならないという確信が。その何かが何であるかは、明日のヴァリーラが考えればいい。今夜のヴァリーラはもう考える力を持っていない。
意識を失うのと同時に防音の術式が静かに解けた。維持する魔力の供給源が意識を失ったのだ。術者が眠れば術も眠るという寸法である。
が──。
彼女にかけられた、もしくは自身でかけた
なお、セシリアには一切悪意はなかった。単にヴァリーラが