◆
昔の話だ。
帝国魔術学院は今と変わらぬ佇まいで帝都の一角に鎮座していた。石壁は今よりわずかに白く、窓硝子に走る罅は今より少なく、大図書館の東棟閲覧席の窓を蔦が覆い尽くすにはまだ二十年ほどの歳月を要する時分。だが学院の空気──才能と嫉妬と野心が入り混じったあの独特の澱みだけは変わらない。三十年前も今と寸分違わず、若い魔術師たちの肺を蝕んでいた。
その年の入学者の中に一人の男がいた。
リシャール・ド・オルレアン。
帝国五指に数えられる大公爵家の嫡男である。十七歳。入学試験の成績は歴代三位。通常、入試の成績など入学してしまえば茶菓子の包み紙ほどの価値しか持たぬが、この男にとってはそうではない。三位という数字は彼の自尊心を甘く刺激すると同時に苛立たせてもいた。
一位ではなかったのだ。
その事実は些細なようでいて鳩尾の裏にちくりとした棘を残す。だが入学初日、棘の主と対面する機会は訪れなかった。首席入学者──グレイル・サザーランドが式に姿を現さなかったからだ。前代未聞の不敬。学院長は苦い顔で黙認している。
サザーランド侯爵家の名が効いたのか。あるいは単に咎めるだけの労力が惜しかったのか。
いずれにせよグレイル・サザーランドという男は学院での最初の印象を「不在」という形で刻む。
◆
リシャールは入学から一月もせぬうちに学年の頂点に君臨した。
成績においても人望においても社交においても。複数の科目で最高評価を得、教授陣からは将来を嘱望される存在。同期の学生から注がれるのは一種の畏敬の眼差しだ。オルレアン公爵家という後ろ盾もあったがそれだけではない。この男には人の心を掴む才覚が生まれつき備わっている。
声が通る。視線が相手を捉えて離さない。言葉の一つ一つに重量がある。
自信に満ちた若者特有の輝き。全身から溢れていた。世界は自分のために用意された舞台だと信じて疑わぬ者だけが放つことのできる光。後にこの男は帝国屈指の老獪な政治家へと変貌するのだが、この時点ではまだ磨かれる前の原石にすぎない。原石にしては随分と眩しいが。
ただし一つだけ問題があった。
成績一位が別にいる。
グレイル・サザーランド。侯爵家嫡男。痩身長躯。蓬髪。目つきの悪い陰鬱な空気を纏った青年。講義の開始五分で瞼が落ち、教壇に立つ教授が「静粛に」と声を張る頃には完全に意識を手放している。起こしても起こしても眠る。学院生活の九割を睡眠に費やしているのではないかという疑念すら湧く。
にもかかわらず──試験という試験のすべてにおいて首席を攫っていく。
一度も二位に甘んじたことがない。
後に帝国史に名を刻む大魔術師グレイル・サザーランドの、これが学院における姿であった。彼にとって講義とは単なる午睡の場であり試験とは寝覚めに解く退屈な計算問題にすぎない。そのことが周囲にどれほどの屈辱を与えているかなど、この男の想像力の射程外。想像力がないのではない。想像する動機がないのだ。
魔術と関わりのないことは全て瑣事──その価値基準はこの時点から既に完成されていた。
◆
リシャールがグレイルの存在を──成績表上の文字列としてではなく血の通った人間として──はじめて認識したのは入学から二月目のことである。
上級魔術理論の講義終了後。
リシャールは教室を出ようとして足を止めた。窓際の最後列。一人の男が眠りこけている。周囲の学生はとうに去り教壇にも誰もいない。世界から見捨てられた流木のように席に取り残された長い体。
──あれが首席か。
近づく。
机の上に開かれた本がある。古代語で書かれた分厚い研究書。頁の余白にびっしりと書き込みがされていた。一瞥しただけでは中身は理解できないが書き込みの量と密度が常軌を逸していることだけは分かる。文字というより設計図に近い。線と矢印と記号が蜘蛛の巣のように頁を覆い尽くしている。
──あれを……こいつが書いたのか?
苛立ちの加速。
「おい」
声をかけた。反応がない。
「おい、サザーランド」
肩に手を置いた瞬間──グレイルの目が開いた。
灰色の瞳。
意識が覚醒するまでの時間はおよそ一秒。瞬きの間にこの男の瞳から睡眠の霞は完全に消え去り、代わりに刃物のように鋭い光が灯る。寝起きの人間の目ではない。休火山の火口が突然に赤熱するのに似ている。
「……何だ」
低く掠れた声。不機嫌というより、目の前に人間がいるという事実への根本的な戸惑い。
「何だとは挨拶だな。同学年のリシャール・ド・オルレアンだ。顔くらい覚えたらどうだ」
「……ああ」
興味がない。それは「ああ」の一語に込められた温度から火を見るよりも明らかだった。グレイルは大きく伸びをしてあくびを噛み殺し、開いたままの本を片手で掴んで鞄に突っ込む。立ち上がる。リシャールより頭半分ほど背が高い。
「待て。話がある」
「話か。私はない」
それだけ言って歩き出す。リシャールの存在など最初からそこになかったかのように。
残されたリシャールは指が白くなるほど強く拳を握りしめていた。
◆
以降、リシャールはことあるごとにグレイルに絡んだ。
「絡んだ」という表現は若い公爵家嫡男の品位にそぐわぬかもしれないが実態としてはそう呼ぶ以外にない。食堂で隣に座る。図書館でわざわざ向かいの席を取る。廊下ですれ違えば声をかける。講義後に議論を吹っかける。
返ってくるものは生返事か沈黙か、あるいは「……騒がしいな」の三択。
グレイル・サザーランドにとってリシャール・ド・オルレアンという人間は廊下に転がる小石ほどの存在感しか持たなかったのだろう。踏めば感触がある。だが一歩通り過ぎれば忘れる。そういう類。
その事実がリシャールをさらに逆上させた。
──人間として扱われていない。
怒りの源泉はそこにある。リシャールは凡人ではない。帝国五指の名門の嫡男であり同期の中でも頭脳と魔力の双方において頂点に近い位置にいる男だ。そんな男が空気扱い。成績一位の座を独占されるだけなら耐えもしよう。だが存在そのものを認識されないという屈辱は──プライドの高い若者にとって骨を齧られるに等しい。
三月目。
リシャールは学食でグレイルを捕まえた。
グレイルは大盛りの麦粥を黙々と食っている。食事中の彼は多少なりとも人間らしく見えた。少なくとも瞼は開いている。
「サザーランド」
「……何だ、またお前か。名前は──」
リシャールの瞳孔がきゅっと収縮する。
「リシャールだ。リシャール・ド・オルレアン。公爵家の。これで四度目だぞ、名乗るのは」
「……ああ。で?」
匙が麦粥をすくう音。グレイルの関心は完全に眼前の食事に向いている。
「杖比べを申し込む」
匙が止まった。
グレイルの灰色の瞳がゆっくりとリシャールに向けられる。今度は多少の──蒸留水の中の不純物のような、かろうじて検出可能な程度の──関心が含まれていた。
「杖比べ? 俺に?」
「ああ。お前に。正式にだ。修練場で、立会人を立てて」
長い沈黙。
グレイルは匙を置いた。麦粥はまだ半分残っていたが興味を失ったらしい。
「……面倒くさい男だ」
予想通りの返答。リシャールはたたみかける。
「断るのか」
「断るのも面倒くさい。お前は断ったところでまた来るだろう」
リシャールは否定しない。事実だからだ。
「……いいだろう。受ける」
グレイルが立ち上がった。長身がリシャールの上から影を落とす。
「いつだ」
「明日の放課後。修練場の第三練場が空いている」
「ああ」
それだけ言ってグレイルは食堂を出ていった。残された麦粥が湯気を細く上げながら冷めていく。リシャールの胸中では──ようやくこの男と正面から向き合えるという高揚と、どうせ練場でもあくびをするだろうという予感が同時に沸いている。
◆
翌日。修練場。
円形の第三練場に二人の男が立っている。
リシャールは杖を構えていた。術式の組み立てを頭の中で反芻する。万全の準備。一睡もできなかったが目は冴えている。全身の血管に闘志という名の火が巡っていた。
対するグレイルは──あくびをしている。
杖すら持っていない。ポケットに片手を突っ込んだまま所在なさげに修練場の天井を見上げていた。この男は対戦相手の前であくびをすることの非礼に思い至らないのか。いや、思い至ったうえであくびをしているのか。おそらく前者。悪気があればまだ救いがあるが、この男にあるのは徹底した無関心だけだ。
立会人の教授が合図を出す。
「──始め」
リシャールが動いた。
先手を取る。それが彼の戦術。初速に優れる雷系統の術式を三節構成で詠唱れ、瞬く間に紫電の矢が虚空に編み上げられm唸りを上げてグレイルに向け射出された。魔力の密度は同学年の中で群を抜く。紫電が空気を裂き閃光が練場の石壁を白く照らし上げた。
グレイルの右手がポケットから出る。
杖なし。詠唱なし。
片手を軽く振っただけ。ちょうど顔にかかった蜘蛛の巣を払うような──あの程度の動作。
リシャールの雷撃は風に吹かれた蝋燭のように消えた。
消滅。霧散。跡形もなく。
練場が静まり返る。立会人の教授が小さく息を呑んだのが聞こえた。
「……嘘、だろう」
リシャールの唇から掠れた声が漏れる。だが怯むことはできない。ここで怯めばオルレアンの名が泣く。
二の矢。火炎。詠唱を二節に圧縮し速度を優先した。赤い渦が螺旋を描いてグレイルに迫る。
グレイルは半歩横にずれた。
火炎は蓬髪を揺らす程度の距離を通過し背後の石壁に激突して砕ける。壁面に黒い焦げ跡。
「……おい、少しは考えて魔術を放て」
グレイルが口を開いた。
「私の今の座標を狙っているから少し動かれただけで外れるのだ」
リシャールの血管がこめかみで脈打つ。
三の矢。四の矢。五の矢。手持ちの術式を次から次へと繰り出す。雷撃、火炎、風刃、氷嵐──。一介の学生にしては破格の精度と威力で叩きつけた。汗が額を伝い視界を滲ませる。呼吸が荒くなる。魔力の消耗が両腕に鉛の重さとなって溜まっていく。
グレイルはその全てを捌いた。
片手で。杖なしで。詠唱なしで。
ある術は虚空に溶け、ある術はあらぬ方向に逸れ、ある術は放った瞬間に凍りついたように停止してそのまま霧散する。汗の一滴もかいていない。息も乱れていない。あくびすら出そうな顔。
──化け物。
その二文字がリシャールの脳裏を走る。
もう一発。最後の一発。リシャールは残る魔力を右腕に集中させた。古代語の長大な詠唱を一息に吐き出す。喉が灼ける。声帯が軋む。だがこれがリシャールの切り札。オルレアン家に伝わる秘術の中でも最上位に位置する複合術式──雷と風を融合させた光の槍が虚空に実体化し、轟音と共にグレイルへ向けて射出された。
グレイルは──初めて両手を使った。
右手を前に突き出し、左手を添える。
何かを呟いた。声はリシャールの耳には届かない。だが口元が動くのは見えた。古代語の一節を──短く、ぞんざいに、まるで舌打ちのように。
光の槍が止まった。
空中で。リシャールの全魔力を込めた一撃が見えない壁にぶつかったかのように。光の槍はしばしそこで震え──そして弾けた。
術式の逆流。
リシャールの放った力がそのままリシャールに返ってくる。体の芯を巨大な拳で殴られたような衝撃。両足が地面から離れた。宙に浮く。視界が回転する。天井と床の区別が消えた次の瞬間──背中から石壁に激突。
肺の空気が搾り出される。
口の中に鉄の味。左肩に鋭い痛み──骨にひびが入ったか。あるいは折れたか。痛覚が判断を下す前に膝が石畳を打ち、視界の端が暗く揺れた。
崩れ落ちる。冷たい石畳に頬が触れた。
足音。
グレイルが近づいてくる。長い影がリシャールの上に落ちる。
「お前、名前は何と言ったか」
──五度目。
もう何も言えなかった。名乗る気力すら骨と一緒にひびが入っている。
「……リシャールだ」
歯を食いしばって答える。血の味。唇が切れていた。
「ああ。リシャールね。そうか、筋は悪くない」
グレイルは手を差し出した。
リシャールはその手を取らなかった。
「……自分で立つ」
左肩が悲鳴を上げる。膝が震える。体が傾ぐ。石畳に右手を突いた。指先に砂と冷たい石の感触。視界の端で立会人の教授がこちらへ駆け寄ってくるのが見えたが──その教授よりも先に動いた人間がいた。
◆
最初に感じたのは光だった。
暖かい光。色で言えば淡い青。蝋燭の黄色でもなく魔術の白い閃光でもない。泉に朝の陽が差し込んだときのような清冽で穏やかな青。それが左肩の上に広がっている。
痛みが退いていく。
灼けるような痛みの代わりに冷たい水が染み込む感覚。骨を包む。ひびの入った骨の繊維が一本一本結び直されていくのが判った。まるで体の設計図を内側から読み上げられているかのようだ。正確で、丁寧で、そして途方もなく静かな力。
リシャールは顔を上げた。
一人の女がそこにいた。
金髪を質素に結い上げた地味な装いの令嬢。演習用のローブではなく通常の制服姿。講義の合間にたまたま練場を通りかかったのではない。隅で最初から観覧していたのだろう。
深い青の瞳がリシャールの肩に注がれている。術式に集中するその表情には一切の邪念がない。唇がかすかに動いていた。詠唱ではない。体内の治癒魔力の流れを精密にコントロールするための──独り言のような小声の指示。
「……お前、は」
「お静かに。まだ繋がっていない箇所がございます」
落ち着いた声。丁寧だが有無を言わせぬ響き。命令ではなく、事実として「黙るべきだ」と告げている。
リシャールは黙った。
治癒魔術は万人が学ぶ基礎的な術式の一つだが、実用に耐えるレベルで使いこなせる者はそう多くはない。戦闘魔術と違い極めて繊細な魔力制御が要求される。骨の修復ともなれば教授資格を持つ治療師でも数分を要するのが通例。
それをこの女は二分で終わらせた。
左肩を動かす。痛みがない。可動域にも制限がない。怪我そのものが存在しなかったかのよう──いや、怪我をする前よりも肩の調子がいい気すらする。
「……見事なものだ」
リシャールは素直に言った。傲慢な男だが技術に対して敬意を払うことは知っている。
「治癒を専門に?」
「ええ、まあ」
女は立ち上がった。手についた砂を払いローブの裾を直す。
「ご無礼をいたしました。わたくしはマリアンヌ・デュバル。デュバル伯爵家の者でございます」
一礼。
深くもなく浅くもない。過不足のない角度。その所作の完成度にリシャールは内心で唸る。伯爵が公爵に対して取るべき礼の角度を一寸の狂いなく体現していた。練習して身につけた礼ではない。骨格に染み込んだ作法であった。
「リシャールだ。リシャール・ド・オルレアン」
今日二度目の名乗り。だが今度は苛立ちが混じらない。
「存じ上げております」
マリアンヌは微笑まなかった。微笑む代わりにほんのわずかに目を伏せる。それだけだが冷たい印象は受けない。寡黙な人間に特有の温度がそこにはあった。言葉を多く発しないぶん沈黙そのものが感情の容器になっている。
リシャールは改めてこの令嬢を見た。
華やかさには乏しい。社交の場で衆目を集める容姿ではないだろう。だがその静けさの中に──凍りついた湖面のような、深さの知れぬ透明さが見える。何も映さないのではない。映すものを選んでいるのだとリシャールは感得した。
「……暫くは余り激しく動かさないようにしてください」
それだけ言ってマリアンヌは練場を去った。
リシャールはしばらくの間、令嬢の去った方向を見つめていた。左肩に残る癒しの術の余韻。淡い青の残照がじんわりと肌に温かい。
──いい女だ。
性的な関心ではない。少なくともこの時点では。敗北の直後に差し伸べられた手の温もりが、ただ単純に心地よかったのだ。
ふと視線を巡らすとグレイルが練場の出口に凭れかかって立っている。いつからいたのか。帰ったものだと思っていたがリシャールの治療が終わるのを見届けていたらしい。
目が合った。
グレイルは無言で片手を上げた。それが「じゃあな」の意味なのか「お疲れ」の意味なのか。あるいは何の意味もないのか。リシャールには判別がつかない。
判別がつかぬまま、グレイルも去った。
修練場に残されたリシャールに二つの瑕が刻まれる。
一つはグレイル・サザーランドに刻まれた敗北の。
もう一つは──マリアンヌという伯爵令嬢の手のひらが残した、淡い青の。