※この作品はR-18です。

侯爵家の影の支配者は熟女が大好き   作:埴輪庭

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マリアンヌ(中)

 ◆

 

 恋だと自覚したのは秋の終わりだった。

 

 大図書館の東棟。午後の陽が窓硝子を通って書架の背表紙に琥珀色の斑を落としている。リシャールは帝国法の参考文献を探しに来たのだが目当ての棚の前に先客がいた。

 

 マリアンヌ・デュバル。

 

 薄い日差しの中で羊皮紙を広げている。背筋はまっすぐだが肩に力は入っていない。呼吸と同じ自然さで書架に溶け込んでいた。その横顔に美しさがあるとすれば、それは造形の話ではなく──余計なものが削ぎ落とされた結果としての均整だった。

 

 リシャールは書架の陰で足を止めた。

 

 声をかけるつもりだった。だが体が動かない。あの杖比べの日から二月ほどが過ぎていた。左肩の痛みはとうに消えたが、淡い青の残照だけがまだ消えてくれない。消えないどころか日増しに色濃くなっている。

 

 困ったことだ、とリシャールは思った。

 

 オルレアン公爵家の嫡男が伯爵家の令嬢に気を惹かれるのは身分的にはぎりぎり不釣り合いではない。だが問題はそこではなかった。問題は──。

 

 マリアンヌの目だ。

 

 羊皮紙から顔を上げた令嬢の深い青の瞳が書架の向こうに流れる。ほんの一瞬。だがリシャールはその視線の先を知っていた。東棟閲覧席の窓際に陣取り机に突っ伏して眠っている蓬髪の男。グレイル・サザーランド。古代語の大判写本を枕にして涎を垂らしている。

 

 マリアンヌの瞳は涎を垂らす男の横顔にほんの刹那だけ留まった。そしてすぐに手元の羊皮紙へ戻る。

 

 それだけのことだ。

 

 だがリシャールは胸に痛みを覚えた。この痛みに名前をつけるなら嫉妬だろう。だが当時のリシャールにはまだそれに名前をつけうるだけの経験がなかった。

 

 ◆

 

 まあ、見ているだけではなくとっとと話しかけるなりアプローチをしろという向きもある。リシャールもその辺は理解していたので、杖比べの後マリアンヌとは何度か言葉を交わしていた。

 

 治癒魔術の研究について尋ねたり、あるいは最近の帝国の施策についてだったりと、男が女に振る話題としては賛否がありそうな話題だったが、まあそれでも話しかけていた事は事実である。

 

 それらの涙ぐましいチャレンジはしかし、ことごとく空振りに終わった。会話は出来るが、進展は一切しない。

 

 ただ一つ確かなのはマリアンヌの側から声をかけてきたことは一度もなかったということだ。哀れリシャール──と言いたい所ではあるが、実のところ、マリアンヌは誰に対しても等距離を保っていた。近づきもしなければ遠ざかりもしない。丁寧で、礼節を弁え、公平な態度という名の壁を敷く。

 

 ──いや、一人だけ例外がいる。

 

 グレイルだ。

 

 マリアンヌはグレイルの前でだけ瞳が変わるのだ。色の熱ではない。凍っていた水面にほんのわずかな波紋が立つ──その程度の変化。常人には見えない。だがリシャールの目は常人ではなかった。有史以来、恋をした人間の眼球は対象に関する微細な変化を狂気じみた精度で検出するものだ。

 

 大図書館を出た。

 

 帝都の空は灰色に曇り遠くに冬の気配が匂っていた。回廊を歩きながらリシャールは自問する。

 

 ──何に腹が立っている。

 

 グレイルに負けたことか。否、それはもう済んだ話だ。

 

 マリアンヌがグレイルを見ていることか。

 

 認めたくなかった。だが否定もできない。リシャールは唇を噛み回廊の柱を手袋越しに殴り──痛みで一瞬叫び出しそうになった。

 

 貴公子らしからぬ所作だが、まあ、リシャールもまた()だと言う事である。

 

 ◆

 

 冬が来て冬が去り再び春が巡った。

 

 二年目の春。

 

 リシャールとマリアンヌの距離は近づくどころか、むしろ奇妙な膠着状態に入っていた。言葉を交わす機会は増えた。学食で。図書館で。講義の合間の回廊で。だがそれは常に偶然の体裁を保ち、意図的な接近とは言い難い。

 

 一方でグレイルは相変わらず自分の世界にいた。

 

 二年次になってもなお成績は独走態勢を崩さず、教授陣からは畏怖と呆れを等分に向けられ、同期生の大半からは遠巻きにされていた。研究室に篭もりきりの日が増え講義への出席率が著しく下がったが、成績に影響が出ないのだから始末に負えない。天才に常識を期待するほうが無駄というものであろう。

 

 しかしリシャールはこの一年間でグレイルという人間を少し理解するようになっていた。懲りずに何度か杖比べを重ね、そのたびに一方的に叩きのめされたが、回を重ねるごとにグレイルの態度に微妙な変化が表れていたのだ。

 

 端的に言えば、リシャールを()()()()()()()

 

 そうした膠着の日々の中で、事件は起きた。

 

 ◆

 

 五月の末。

 

 大講堂の掲示板に一枚の公示が貼り出される。帝国宮廷魔術師団の二次選抜結果。三年次から始まる実地研修の選抜名簿であり学院生にとっては将来を左右する重要なリストだ。

 

 リシャールの名前はあった。合格。

 

 グレイルの名前は──なかった。

 

 辞退。試験を受けていないのだ。そもそも申し込みすらしていなかった。

 

 掲示板の前に人だかりができている。その中にリシャールはマリアンヌの横顔を見つけた。彼女は合格者リストではなくグレイルの名が載っていない空白に視線を落としている。

 

 その表情を見た瞬間にリシャールは確信した。

 

 この女はグレイル・サザーランドに恋をしている。

 

 理屈ではなかった。表情の筋肉の動きを分析したわけでもない。ただ、わかった。恋をしている人間は同じ病に罹った人間の症状を見抜くのだ。

 

 リシャールは人だかりに背を向け、修練場へ向かった。

 

 夕暮れの練場に人影はない。石壁に囲まれた円形の空間にリシャールは一人で立ち、杖を構えた。仮想の敵に向けて術式を撃つ。雷撃。火炎。風刃。氷嵐。一つ残らず壁に叩きつけ、焦げ跡と亀裂を刻んでいく。

 

 そのどれもが足りない。

 

 グレイルに届かない。マリアンヌの瞳に映らない。

 

 ならば──。

 

 リシャールは杖を下ろした。汗を拭い呼吸を整え、目を閉じる。

 

 ◆

 

 六月。

 

 学院の修練場に立会人付きの決闘が申し込まれた。

 

 申込者はリシャール・ド・オルレアン。被申込者はグレイル・サザーランド。

 

 杖比べではない。正式な決闘。帝国法第三十七条に基づく名誉の裁定。殺傷も法的に許容される──そういう勝負である。

 

 掲示板に貼り出された瞬間、学院中が騒然とした。まあそのほとんどが嘲笑に類するものだ。

 

 あのリシャールがまたグレイルに挑むのか。

 

 何度目だ。

 

 学ばない男だ。

 

 いい加減諦めたらどうだ。

 

 等々──

 

 だが今回は異質だった。

 

 杖比べではなく決闘。そして──賭けるものがある。

 

 リシャールはグレイルに直接告げたのだ。修練場の隅で、二人きりで。

 

「俺が勝ったら、マリアンヌ・デュバルに手を出すな」

 

 グレイルは案の定きょとんとしていた。

 

「マリアンヌ……誰だ?」

 

「デュバル伯爵家の。治癒が専門の。貴様、まさか覚えて──」

 

「ああ」

 

 思い出したのか思い出していないのか判然としない返事。リシャールの血管がまたこめかみで脈打つ。

 

「手を出すなというのがそもそもわからん。俺はその──マリアンヌとか言ったか、一度も話したことがないぞ」

 

「話したことがないのは知っている」

 

「ならなおさらわからん」

 

 グレイルは本当にわかっていない顔をしている。演技ではない。この男に演技という技術は備わっていない。ただ純粋に意味不明だという目をしている。

 

 まあこの場合はグレイルに非はないだろう。イカれてるのは明らかにリシャールである。

 

「いいから受けろ」

 

「…………お前、もしかして、その女に」

 

 グレイルの灰色の瞳がほんの僅かに──本当に僅かに、人間的な色を帯びた。

 

「ああ」

 

 リシャールは認めた。

 

「俺はあの女に惚れている」

 

 沈黙が修練場の石壁に反響した。

 

 グレイルはしばらくリシャールを見つめていた。それからゆっくりと頷く。

 

「──わかった。受ける」

 

 その返事には困惑と、そしてごく微量の──敬意とも呼べそうな響きがあった。感情の機微に疎い男なりに、目の前の人間が命を賭けるほどの何かを抱えていることは理解したのだろう。

 

「お前は阿呆だが、面白い阿呆だ。その顔は何かしら勝つ算段があるのだろう? 見せてみろ」

 

 そうして日取りが決まった。

 

 修練場第一練場にて──正式な立会人として学院長が指名された。

 

 ◆

 

 そして当日。

 

 第一練場には異例の数の観覧者が詰めかけていた。学生だけでなく教授陣の姿もある。公爵家の嫡男と学院首席の正式な決闘──しかも恋が絡んでいるという噂が既に広まっていた。

 

 リシャールは練場の東側に立った。

 

 杖を右手に。左手は空ける。五節詠唱の後半で左手を使う必要があるからだ。

 

 心臓が早鐘を打っている。だが手は震えていない。一月の修練が体に刻まれている。

 

 対するグレイルは西側に立った。

 

 前回と同じだ。杖なし。ポケットに片手。だが眠そうな目はしていない。それだけでリシャールの口元が微かに歪んだ。

 

 ──少しは本気を出してくれるということか。

 

 学院長が二人の間に立ち、決闘の規則を読み上げる。殺傷は許可。降伏の宣言か落命をもって終了。

 

 ──静寂。

 

 風が練場の石壁を撫でた。

 

「──始め」

 

 リシャールは動かなかった。

 

 前回とは違う。先手を捨てた。理由は単純だ。通常の術式をいくら放ったところでグレイルには届かない。一年間で嫌というほど思い知った事実。

 

 ならば最初から──切り札を。

 

 リシャールは詠唱を開始した。

 

 古代語。五節構成。第一節は大気に遍く散る魔素へ術者の支配を宣告する呪。第二節は火の元素の根源たる燃素を呼び覚まし術式の炉に据える。ここまでは通常の火炎魔術と変わらない。

 

 だが第三節から術式の本質が変わる。

 

 燃素の位階を書き換えるのだ。通常の火炎術が扱う燃素は「赤の位階」──すなわち火の元素が最も粗く最も扱いやすい状態にある。だが古代の錬成術師たちは燃素にはさらに上位の位階が存在することを知っていた。赤から橙へ。橙から白へ。そして最も高く最も危うい位階──「蒼の位階」。焔が己の熱すら超越し光そのものに近づく領域。

 

 蒼の位階に手を伸ばした術師は帝国の歴史において七人。うち四人は詠唱の途上で燃素の逆流に呑まれ己の骨まで炭と化した。二人は術の発動には成功したものの制御を維持できず片腕もしくは両腕を失っている。無傷で成功した記録はただ一人──二百年前の宮廷錬成術師アルベルトゥス・マグヌスのみ。そのアルベルトゥスですら晩年の手記に「二度とやるつもりはない。あれは人の身で触れてよい領域ではなかった」と書き残している。

 

 この位階変換を記述できるのが古代語動詞の「第七活用形」であり現代の術式構成においては死語同然とされている。リシャールはオルレアン家の秘伝書からこの活用形の機能を読み解き独力で実用化した。

 

 第四節。昇華した燃素を蒼の位階に固定する。声帯が軋む。古代語の発音が一音でも乱れれば燃素の位階が崩落し赤を通り越して黒──すなわち術者自身を焼く呪いに反転する。

 

 第五節。

 

 解放。

 

 リシャールの右手から焔が噴いた。

 

 ──青。

 

 観覧席がどよめいた。誰かが息を呑む音。立会人の学院長が身を乗り出す。教授陣の一人が椅子から立ち上がった。

 

 それは通常の炎ではなかった。

 

 透き通るような蒼。深海の底に沈む陽光のような、あるいは夜明け前の空の最も高い位置にだけ存在する色のような。熱を持ちながら冷たく見えるという矛盾を一身に体現した焔。

 

 空気が変わった。練場の温度ではない。空間そのものの質が変容している。青い焔が発する魔力の波長が周囲の大気中の魔素と共鳴し石壁も天井も床も──淡い蒼の光に染め上げられていく。

 

 リシャールは右腕を振り抜いた。

 

 青い焔が龍のごとくうねり、練場の空間を一直線に駆け抜ける。その軌跡は──美しかった。暴力と芸術が同居する稀有な光景。帝国の歴史書にしか記述のない色を、一人の若者が執念と研鑽で現実に引きずり出した。

 

 グレイルの灰色の瞳が見開かれた。

 

 ──初めて見る表情だった。

 

 驚愕ではない。恐怖でもない。瞳に宿ったのは──純粋な感嘆。研究室で未知の術式理論に出会った時にだけ見せるあの目。世界にまだ自分の知らない美しいものがあったのかという、子供のような驚き。

 

 そんなグレイルに、あっさりと焔が着弾した。

 

 直撃。グレイルを蒼焔が呑み込む。

 

 練場が凍りついたように静まり返った。

 

 リシャールは荒い呼吸を繰り返しながら右腕を下ろす。五節詠唱の代償で全身の魔力が枯渇寸前。視界の端が暗く揺れている。

 

 ──やった、か? 

 

 リシャールがそんな事を思うやいなや、蒼焔の勢いが縮小し──そして、消える。

 

 視線の先に、グレイルが倒れていた。ローブがところどころ焦げているが、せいぜいが軽傷だろう。しかし倒れているのだ。あのグレイル・サザーランドが。

 

 リシャールは勝った──誰もがそう思った。

 

 だが、そんなわけがないと思っていたのは他ならぬリシャール本人であった。

 

 ◆

 

 歓声が練場を満たすより先にリシャールはグレイルの傍に駆け寄っていた。膝をつき、倒れた男の襟を掴む。

 

「おい」

 

 グレイルは目を開けていた。灰色の瞳が天井を向いている。

 

「……ふざけるな」

 

 リシャールの声が震えた。怒り。これは怒りだ。

 

「何で避けなかった。何で防がなかった。お前の実力なら片手であしらえたはずだ」

 

 グレイルの視線がゆっくりとリシャールに向けられた。

 

 そしてグレイルは──笑った。

 

 穏やかに。屈託なく。まるで珍しい鳥を見つけた子供のように。

 

「すまない。お前の魔術に見惚れてしまった。保護の魔術が間に合わなければ死んでいたかもな」

 

 リシャールの手が止まった。

 

「──何だと」

 

「お前はあれを──自力で?」

 

「当たり前だ。秘伝書と一月の修練で」

 

「一月。一月であの精度か。未熟ではあるが、()()()にもあの青い炎を出せるとは」

 

 グレイルの声には偽りの欠片もない。感嘆。純粋で透明な感嘆だけがそこにあった。

 

「見事だ。負けだよ。完敗だ。少なくとも今すぐ立ち上がる元気はないな。俺もそれなりに無理をしたんだ。で、どうする? とどめを刺したいか? 続けてもいいぞ。その時は俺も抵抗させてもらうが」

 

 リシャールは立ち上がった。

 

 拳を握り締め、歯を食いしばり、勝者の顔とは程遠い形相で天井を睨んだ。怒りが喉の奥で灼けている。だがその怒りの矛先がどこにもない。

 

 単純にグレイルが憎たらしいだけでもないのだ。

 

 ──お前の魔術に見惚れた。

 

 この男はマリアンヌを賭けた決闘で──マリアンヌではなく、リシャールの魔術を見ていた。

 

 褒められたのだ。心の底から。一片の嘘もなく。おそらくは帝国最高峰であろう魔術師が、リシャールを認めた。

 

 それは魔術師として最大級の賛辞であった。

 

 だが──。

 

 リシャールは踵を返し、一言も発さずに練場を出た。観覧席のざわめきが背中に追いすがる。勝者を祝福する声も混じっていたかもしれないが、何一つ耳に入らなかった。

 

 そんな二人を──マリアンヌ・デュバルは修練場の二階回廊から決闘の一部始終を見ていた。

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