※この作品はR-18です。

淫魔の王   作:Licht

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旧サブタイ:疼きの理を抱く者


プロローグ:理人/退廃の町

 駅のホームに、冷たい風が吹き抜ける。

 ここは東横町(トウヨコチョウ)。かつては歓楽街の玄関口として賑わったが、今では欲望と暴力の吹き溜まりとなった。

 金属の床が軋み、遠くで電車のブレーキ音が悲鳴のように響く。

 

 銀色の髪が、風に揺れて踊る。

 黒衣の青年は、無言で改札を抜けた。

 その瞳は、夜の街の喧騒を映してもなお、何も見ていない。いや、見ようとしていないようだった。

 

 街は腐っていた。

「巡回強化中」と書かれたポスターは色褪せ、端がめくれ、壁に貼られたまま誰にも見向きされていない。

 警官の姿はあるが、目は死んでいる。

 ネオンが瞬き、女の笑い声と男の怒鳴り声が交錯する。

 ギャンブル場、風俗店、違法薬物の売人。

 この街では、欲望が通貨であり、暴力が言語だった。

 誰もが何かを売り、誰もが何かを買い、そして誰もが、何かを失ったまま生きている。

 

 青年──理人(リヒト)は、静かに歩く。

 その背に、誰も気づかない。

 彼はこの街に溶け込まない。

 それは、彼がこの街の住人ではないからではない。

 彼の中にある、別の“理”──人ではない何かの理が、彼をこの街から浮かせていた。

 彼の歩みは、音を立てない。

 まるで、空気そのものが彼の存在を避けているかのようだった。

 

 パブの扉を押し開けると、酒と脂の匂いが鼻をついた。

 古びた木製の床が軋み、壁には女の裸のポスターが貼られている。

 カウンターに腰を下ろし、理人は黙って酒を注文する。

 料理は悪くない。酒もまあ、飲める。

 彼は、ゆっくりと咀嚼しながら、何かを確かめるように飲み込んだ。

 だが、空気は腐っている。

 誰もが、自分の欲望に負けることを当然としていた。

 

 周囲の男たちが、下品な笑い声を上げている。

 彼らの目は濁っていた。

 欲望に焼かれ、快楽に溺れ、理性を捨てた者の目だった。

 

「この前の女、マジでヤバかったわ。腰砕けてたもん」

「おいおい、今夜はギャンブルで一発当てて、風俗で極上の嬢にでも会うか?」

「いや、聞いたか? この世界のどこかに“淫魔の王”ってのがいるらしいぜ」

「淫魔? ああ、あれか。一緒にいるだけで気持ちよくなるってやつ」

「マジでそんな奴いたら、俺ら一生イキっぱなしだろ」

 

 理人は、グラスを傾けながら、小さく呟いた。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 男たちは笑いながら店を出ていった。

 ギャンブル場へ向かうらしい。

 理人は、彼らの背を見送ることもなく、グラスの底を見つめていた。

 そこには、何も映っていなかった。

 酒の色も光の反射も、彼の瞳には届かない。

 彼の内側には、誰にも触れられない何かが、静かに燃えていた。

 腰に下げられたベルトの青い石は、安っぽい店の蛍光灯の下でも煌めいていた。

 

 理人はグラスを空にすると、静かに席を立った。

 店の扉が軋み、夜の空気が流れ込む。

 

 ──夜が深まる。

 

 男たちは、運に見放されていた。

 金を失い、酒に酔い、苛立ちを募らせていた。

 彼らの笑いは、次第に罵声に変わり、拳がテーブルを叩く音に変わる。

 

 そんな時、路地の向こうから、ぼろを纏った若い女がふらりと現れた。

 まるで、何かに引き寄せられるように、男たちの前へと歩み寄ってきた。

 化粧は落ちかけ、目は虚ろ。

 風俗嬢のような雰囲気だったが、どこか品があった。

 それはまだ、彼女が“堕ちきっていない”証だった。

 

「おい、嬢ちゃん。ちょっと遊ぼうか」

「金はねぇけど、気持ちよくしてやるぜ」

「逃げんなよ、こっちはイラついてんだ」

 

 女は怯え、逃げようとするが、腕を掴まれる。

 通りの向こうに、制服姿の警官が立っていた。

 彼女は必死に叫ぶ。

 

「助けて⋯⋯お願い⋯⋯!」

 

 だが、警官は一瞥しただけで、ポケットから煙草を取り出す。

 その手には、折りたたまれた札束が握られていた。

 男たちの一人が、警官に向かって顎をしゃくる。

 

「見なかったことにしてくれよ、いつもの分は払ってるだろ?」

 

 警官は煙を吐きながら、無言で背を向けた。

 腐敗は、制度の中まで染み込んでいた。

 

 誰も助けない。

 この街では、それが“日常”だった。

 助ける者は、居ない。

 見て見ぬふりをする者だけが、街を構成している。

 

 男たちは、女を裏路地へ引きずり込む。

 倉庫の影、誰も来ない場所。

 女は叫ぶ。泣く。

 だがその声は、誰にも届かない。

 届かないように、この街は設計されている。

 その沈黙こそが、この街の“理”だった。

 

 男の拳が、女の頬を打った。

 乾いた音が、路地裏に響いた。

 壁にぶつかった女の肩が、震えながらずり落ちる。

 頬の腫れが、夜の闇に浮かび上がる。

 

 その瞬間、空気が変わった。

 

「……やめておけ」

 

 静かな声が、闇を裂いた。

 

 気を削がれた男たちは、人影に向かって声を放った。

 

「なんだお前。邪魔すんなよ」

「この街じゃ、こういうのが普通なんだよ」

 

 彼は冷笑した。

 

「暴行すんのが普通? お前らの倫理はイカれてんな。いや、そもそも最初からそんなもん持っちゃいねぇか」

 

 その時、風が吹き抜けて黒衣のフードがめくれた。

 月光が、彼の顔を照らす。

 白磁のような肌、切りそろえられた銀髪、冷えた水面のような瞳。

 その姿は、まるで夜そのものが形を持ったかのようだった。

 だが、その沈黙の奥には、誰も知らない“疼き”があった。

 

 男たちは一瞬で凍りつき、次の瞬間には別の欲望に飲まれていた。

 

「⋯⋯なんだよ、こいつ⋯⋯」

「顔、やべぇな⋯⋯」

「こんな上玉なら、男でもヤれるだろ。なぁ?」

 

 彼らの目は、理人の顔に貼りついた。

 それは、所有欲でも征服欲でもなく、ただの消費だった。

 

「なあ、嬢ちゃんの代わりにあんたでもいいぜ?」

「気持ちよくしてやるよ、兄ちゃん」

 

 理人は、無言で彼らを見た。

 その瞳には、怒りも軽蔑もなかった。

 ただ、冷たい拒絶だけがあった。

 

「くだらねえ」

 

 その一言で、男たちは再び怒りに火がついた。

 欲望と侮辱が混ざり合い、理人に向かって拳を振り上げる。

 

 ──だが、次の瞬間。

 

 男たちは膝をついた。

 身体が動かない。

 痛みはない。ただ、意識が遠のいていく。

 彼らの中の欲望が、理人の前で崩れたのだ。

 まるで、何かが内側から抜き取られたように。

 男たちは、酒に酔ったように静かに崩れ落ちていった。

 

 女は震えながら、理人に縋る。

 

「ありがとう……あなたは……」

 

 理人は、目を伏せた。

 下腹部に手を添える。

 指先が布越しに震えていた。

 まるで、何かが内側から疼いているように。

 彼女の手が彼の黒衣に触れようとした瞬間、彼はそれを拒むようにそっと身を引いた。

 

「これに懲りたら、この街を出てもっとマシな仕事に就くんだな。あんたはまだ若い。道は、もっとある」

「名前を……」

 

 だが理人は答えず、背を向けた。

 

 ──警察のサイレンが響く。

 

 警官たちが駆けつけた。

 男たちはまだ崩れていたが、女の頬の腫れが全てを語っていた。

 

「暴行の現行犯だな」

 

 警官の声は淡々としていたが、その目は女の頬に張り付いていた。

 記録用の写真が撮られ、彼女の頬の腫れが証拠となった。

 それが、逮捕の理由。

 表向きは、ただの暴力事件。

 

 女の頬の腫れを見た警官は、ため息をついた。

 

「ったく、今日は忙しいな」

 

 隣の警官も、書類をめくりながらぼやく。

 

「さっきの奴も逮捕したばっかだってのに。あの、賄賂もらってたやつ」

「東横町、今日は呪われてんのか?」

 

 男たちは逮捕された。

 女は、助けてくれた人がいたと証言する。

 だが、その名は誰にも届かず、ただ、夜の片隅に沈黙だけが残された。

 

 逮捕された男の一人が、パトカーの中で呟いた。

 

「まさか……あれが“淫魔の王”……?」

 

 誰もその言葉を拾わなかった。

 だが、街の空気が、わずかに震えた。まるで、何かが目を覚ましたように。

 

 女は、警察署で事情聴取を受けた。

 でも、彼女の目はもう虚ろではなかった。

 彼女は、理人の言葉を思い出していた。

 

「道は、もっとある」

 

 その言葉が、胸の奥で震えていた。

 女は署を出ると、東横町駅へ向かった。

 改札の前で立ち止まり、振り返る。

 街は、相変わらず腐っていた。

 ネオンは濁り、欲望は渦巻き、警官は札束を数えていた。

 だが、彼女の中には確実に何かが芽生えていた。

 

 彼女は電車に乗った。行き先は決めていない。

 しかし、この街を出るという選択で、何かが変わるのだと感じていた。

 

 電車が走り出す。東横町のネオンが、窓の外で滲んでいく。

 

 ──その頃、遠くのビルの屋上。

 

 理人は、街を見下ろしていた。

 腰に下げられたベルトに嵌められた瑠璃に、月の光が反射して青い輝きを放つ。

 

 ネオンが瞬き、欲望が渦巻く。

 だが、彼の瞳は、静かだった。

 その静けさは、街の喧騒を拒むものではなく、もっと深い場所から滲み出ていた。

 

 疼きは、沈黙の奥に潜んでいる。

 それは、彼の身体の奥底で、誰にも知られず、誰にも触れられず、静かに燃えていた。

 

 これは、“淫魔の王”の物語。

 淫魔でありながら、本能に抗い、人の理性と誇りを貫く者の物語。

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