淫魔の王 作:Licht
俺は、歩いていた。
欲望が通貨だった街を離れ、祈りが通貨となる村へ辿り着いた。
通貨が変われば、人の目も変わる。──俺には、どちらも冷たい。
陽が傾き、空が金と灰の境目を彷徨っていた。
風は静かで、空気は重い。
何かが終わり、何かが始まる気配だけが漂っていた。
旅の疲れを癒すため、俺は小さな村へ足を踏み入れた。
石造りの教会の前には村人たちが集まり、祈りの声が風に溶けていた。
修道女が聖水を振りかけ、司祭が聖句を唱える。
中央には、捕らえられた魔族が膝をついていた。
「悪魔祓いか……」
俺はフードを深く被ったまま、静かに儀式を見守った。
光が降り、魔族は苦悶の声を上げ、やがて静かに崩れ落ちる。
浄化は成功した。村人たちは安堵の息を漏らし、神に感謝を捧げる。
俺は、ただ黙って見ていた。
この世界では、魔力を持つ者は例外なく魔族とされる。
魔力は人を惑わし、喰らい、穢す──異形の力だ。
人間に魔力はない。それが、この世界の絶対の前提。
魔族に抗えるのは、教会だけ。
聖句、聖典、聖具──それらを通して神の力を扱い、神聖魔法として祓う。
それが、唯一の手段だ。
だから人々は神を信じ、教会にすがる。
祈り、赦しを乞い、悪を裁く。
教会は絶対的な権威を持ち、信仰は世界の隅々まで浸透している。
人の姿をしていようが関係ない。
魔力を使った瞬間、そいつは魔族だ。
それが、この世界の理。──よくある光景だ。
──だが。
子供の悲鳴が、空気を裂いた。
教会の裏手、小さな影が子供に飛びかかろうとしていた。
「キィィィィィィィィ!」
甲高く、耳を裂くような声。
青黒い皮膚、ねじれた四肢。裂けた蝙蝠のような羽根、大きすぎる目に白目は無い。
口元は裂け、牙がむき出し。
村人たちは凍りついた。司祭も、修道女も、動けない。
誰もが祈りの余韻に浸っていたその瞬間、現実が牙を剥いた。
子供の瞳が、俺を見た。
助けを乞うでもなく、ただ絶望を映していた。
俺は、ためらわなかった。
ただ手を伸ばす。
魔力が掌に集まり、白光が迸る。
小悪魔の身体が光に包まれ、焼かれ、悲鳴を上げながら消えていく。
「キィィ……ッ!」
最後の声は、風に溶けた。
子供は無事だった。村人たちは驚き、そして安堵の息を漏らす。
「助かった……」
「子供が……無事で良かった……」
──だが、その安堵は一瞬だった。
腹の奥が疼いた。甘い痺れが、俺の内側を撫でる。
芯から焼かれるような感覚。蜜のようにとろりとした痛み。
下腹部が張りつめ、理性では抑えきれぬ湿り気が広がっていく。
誰も気づかない。誰も問わない。
魔力の代償は、いつだって俺だけが背負う。
それでも、顔をしかめない。
眉を寄せることすら、俺の誇りが許さない。
この疼きが、どれほど痛ましいか──それでも、俺は立ち続ける。
村人たちは俺を見つめた。
最初は驚き、そして──冷たい視線へと変わる。
「魔法だ! あの男、聖具も無く魔法を使ったぞ!」
「人間に魔力などあるはずがない……悪魔だ!」
司祭が眉をひそめる。誰かが叫び、村人たちは石を手に取る。
俺は、皮肉な笑みを浮かべた。
「助けてやったのに、礼の一つもないとはな」
肩をすくめる。
「この世界は、俺みたいな半端者には生きづらい」
罵声が飛ぶ。
「悪魔が現れた! 子供に触れた! 穢れが移る!」
「異端だ! 異端だ!」
「神の祝福を穢すな!」
異端審問官が剣を抜きかける。
だが、俺の顔は見られていない。フードの影が、俺を守っていた。
静かに笑った。
「いつものことだ」
そして、群衆の中をすり抜けるように走り去った。誰でもない“通りすがり”として。
──俺の背に、孤高の誇りが静かに揺れていた。
それだけが、俺を人間の形に留めていた。
夜が深まり、俺は石畳の街に辿り着いた。
尖塔が月を裂き、灯火が風に揺れている。
この街は、教会の中でも名高い
栄えてはいるが、俺には冷たい。
悧聖は、教会内でも十の指に入る権力者。
慈悲深き聖職者として町の信仰を支えていた。
彼の説教には涙を流す者も多く、献金箱には金貨が溢れていた。
俺は宿の扉を叩いた。
女主人は俺の姿を一瞥し、眉をひそめて言った。
「部屋は空いていません。不審者はご遠慮ください」
「おいおい、門前払いかよ。金ならあるぜ」
扉は閉じられた。──悲しいが、これもいつものことだ。
やれやれ、今日も野宿か。
俺は自然志向じゃない。土のベッドも石の枕もしんどい。
何より、腹の奥がかすかに疼いていた。
連日宿屋に門前払いをくらって、まともに休めていないのに、魔力を使う機会だけは積み重なっている。
疼きは、確かに続いていた。
少しでも体を休めるために、ちゃんとした布団で眠りたかった。
その願いすら、贅沢なのかもしれない。
その時、背後から声がした。
「旅人よ。良ければ、わしの家で休んでいかんか」
振り返ると、白髪の老人が立っていた。
その瞳は穏やかで、俺を拒まなかった。
少し悩んで、俺は頷いた。
「……助かる」
老人の家は、街の喧騒から離れた丘の上にあった。
木造の小さな家。軋む床板と、火の香りがする暖炉。
壁には見慣れない文様が描かれた布が掛けられていた。
教会のものではない。──異教の印だ。
「あんた、異教徒か?」
俺が問うと、老人は薪をくべながら頷いた。
「そうじゃ。わしの神は、教会の神とは違う。
だが、祈る心は同じじゃよ。誰かを守りたいと思う気持ちに、宗派は関係ない」
「違う神……? じゃあ、教会の神とは別物ってことか」
この世界の大半の人間は、神聖魔法を作ったとされる“あの神”を信じている。
ならば、この老人の信じる神は一体どんな存在なのだろう──そう思った。
老人は首を横に振った。
「いや、同じ神じゃ。ただ、教会は“神は裁きの御方”と説く。
わしらは“神は寄り添う御方”と信じておる。
同じ山でも、登る道が違えば見える景色も違う──そういうことじゃ。
誰かを守りたいと思う気持ちに、宗派は関係ない」
……結局、あいつかよ。
神聖魔法を作ったとされながら、誰にでも使えるわけでもない不完全な力を残しただけ。
魔族に苦しめられる人々を救えず、魔族が野放しにされるこの世界を見て見ぬふりをしている存在。
俺は鼻で笑った。
「守る? 神が? ──笑わせんなよ」
老人は手を止めた。俺は続ける。
「俺が神だったら、魔族に脅かされたり、快楽で人を壊したりする世界なんて作らねぇ。
罪を裁くために、子供を苦しめる魔法なんて許さねぇ。
神がいるってんなら、そいつは無能か、残酷か、どっちかだ」
沈黙が落ちる。暖炉の火が、静かに揺れた。
老人は、やがて笑った。優しく、悲しげに。
「……お前さんは、神を信じていない。
それでも、誰かを守ろうとしている。
それなら、お前さん自身が“神のようなもの”なのかもしれんの」
「冗談だろ」
「いや。神とは、誰かの痛みに寄り添える者のことじゃ。
わしはそう信じておる。異教徒だからな」
俺は黙った。
腹の奥の痺れは、まだ残っていた。
だが、少しだけ──痛みが和らいだ気がした。
老人は布団を敷いてくれた。
その手は、神聖都市の誰よりも温かかった。
俺は、異教徒の家で眠った。
神を信じない俺が、神のような優しさに触れながら。
翌朝、俺は家の戸口で、粗末な財布を取り出した。
「これで足りるか?」
老人は首を振った。
「要らんよ。君のような若者が無事でいてくれるだけで、わしには十分だ」
俺は鼻で笑った。
「聖人かよ。……ま、ありがたく甘えとくわ」
その言葉に、老人は微笑んだ。
その笑みは、昨日の暖炉の火と同じくらい、静かで温かかった。
──だが、街の門を出ようとした直後、衛兵に呼び止められた。
「異端審問官の元へ。最近、淫魔の潜伏が報告されている」
俺の格好は粗末な旅装、疲れた足取り──不審者としては十分だった。
俺は逃げなかった。やましいことはない。
ただ、腹の奥がまだ微かに疼いていた。
審問室は冷たい石造りだった。
銀の聖具が机に並び、審問官が俺を見下ろすように座っていた。
「名前は?」
「理人。ごく普通の旅人だよ。魔族でも淫魔でもない……多分な」
「多分、だと?」
「俺を決めるのは、あんたらだろ。俺はただ、歩いてるだけだ」
探知の聖具が起動され、光が俺の身体をなぞる。
何も反応はなかった。
「……魔力反応は無し。だが、身なりの割に、随分立派なペンダントだな」
胸元の瑠璃が揺れた。
金色の粒がまぶされた深い青に、銀の細工が絡みつくように彫られている。
旅装の中で、そこだけが異様に美しかった。
まるで、身分違いの装飾品が一つだけ紛れ込んだような違和感。
審問官の視線が、そこに釘付けになる。
眉がわずかに動き、口元が緩む。
「何処で手に入れた?」
俺は目を伏せ、皮肉を捨てた声で答えた。
「両親の形見です」
その一言に、審問官の手が止まった。
「……そうか。なら、触れずにおこう」
俺は立ち上がり、ペンダントを握りしめた。
そして、誰にも聞こえないように呟いた。
「ちょろいな」
その笑みは、皮肉屋の仮面だった。
ペンダントを握りしめたまま、石畳の路地へと歩き出した。
だが、数歩も進まぬうちに、広場の騒ぎが耳に届いた。
「異教徒を捕らえよ! 昨夜、子供たちを連れ去り淫猥な行為をした!」
振り返ると、あの老人が異端審問官に腕を掴まれていた。
俺の目が細くなる。
「は? 昨日の夜って……俺と一緒だっただろ」
審問官は俺を一瞥し、冷たく言った。
「証言だけでは足りぬ。聖具が反応している」
「その聖具、さっきは俺に何も反応しなかったけどな。あんたらの道具、気まぐれか?」
審問官は無言で老人を引きずろうとする。
老人は抵抗せず、ただ静かに理人を見て微笑んだ。
その笑みに、胸の奥がざらりとした。
先程の自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
あの暖炉の火よりも、あの手の温かさよりも、今の沈黙が重かった。
俺はペンダントを握りしめた。
「恩を受けたなら、返すのが筋だろ」
小さいガキでも、そんなこと理解してる。
そして、俺は歩き出す。
誰が罪をでっち上げたのか。
本当の犯人は誰なのか。
この街の祝福の裏に潜む拒絶を、暴くために。
夜の路地裏。
石畳の隙間に、少女がうずくまっていた。
衣服は裂け、目は虚ろ。魂だけが先に逃げ出したような顔だった。
「……おい、聞こえるか?」
少女は反応しない。
腹の奥の疼きは続いている。
魔力を使えば、また拒絶される。
だが、ためらいはなかった。
魔力を掌に集め、回復魔法を放つ。
白光が少女を包み、傷が癒えていく。
顔に生気が戻り、少女は震えながら俺を見上げた。
「……ありがとう」
その言葉に、俺は微かに口の端を歪めた。
笑ったわけじゃない。ただ、少女の純粋な感謝に、少しだけ心が震えた。
魔法を使ったことで腹の奥が一段とざわめいた。
だが顔には出さず腰をかがめ、少女と視線を合わせる。
「何があったのか、話せるか?」
少女は無言で首を横に振る。
俺は少し間を置いて、言った。
「悪かった。教会まで連れて行く。あそこなら、お前を保護してくれるはずだ」
その言葉に、少女は怯えた。
目を見開き、首を激しく振る。
「教会には……行きたくない」
俺は黙った。
その拒絶は、ただの恐怖じゃなかった。
それは、知っている者の拒絶だった。
少女は、ぽつりと尋ねた。
「……お兄ちゃんも、教会の人なの?」
魔法を使ったのだから、疑問に思うのは当然だろう。
俺は答えなかった。その問いは、俺の立ち位置を問うものだった。
教会の魔法とは違う。
俺の魔力は、もっと根の深いところから来ている。
少女は、もう一度口を開いた。
「じゃあ……悪魔なの?」
その声に、俺は少しだけ笑った。皮肉でもなく、嘲笑でもなく。
ただ、答えを濁すように。
「さあな。俺は、俺だよ」
それだけ言うと、俺はそっと少女の手を引き、宿屋へ向かう。
昨夜、門前払いを食らったあの宿だ。
女主人が俺の姿を見て、またもや眉をひそめる。
「申し訳ありませんが、満室でして──」
俺は言葉を遮り、金貨を押し付けた。
「俺のことはどうでもいい。この子に、温かい寝床と食事を頼む」
女主人は目を見開いた。
少女の怯えた顔と、俺の声の温度に、何かを感じ取ったのだろう。
少しの沈黙のあと、女主人は頷いた。
「……わかりました。部屋をご用意します。あなたの分も」
俺は肩をすくめた。
「最初からそう言えよな」
少女は俺の袖を握っていた。
その手は、小さくて、震えていて──それでも、温かかった。
俺たちは食堂に通され、パンや温かいスープなどを用意してもらった。玉ねぎや人参やベーコンがたっぷり入った、栄養満点のコンソメスープだ。
少女はスープを前にして、じっと見つめていた。
湯気が立ち上り、香りが鼻をくすぐる。
俺は椅子に腰を下ろし、無言でスプーンを差し出す。
「冷める前に食っとけ。腹が減ってると、ろくなこと考えねぇからな」
少女は少しだけ躊躇ってから、そっと口をつけた。
一口、二口──そして、ぽろりと涙が落ちた。
「美味しい」
俺はそれに気づかないふりをして、パンを齧った。
黙々と食事をとると、部屋に入って布団にくるまった。
少女は言った。
「……ありがとう」
その声は、震えていなかった。
俺は軽く頷き、灯りを落とそうとした。
少女はぽつりと呟いた。
「教会は怖い。皆を助けて」
「教会が怖い?」
俺が聞き返しても、それ以上少女は何も言わなかった。
その言葉に、俺は礼拝に出ることに決めた。
この街の祝福がどこまで歪んでいるのか、確かめるために。
翌朝。荷物をまとめていると、少女が勝手に靴を履いていた。
俺は眉をひそめる。
「おい、どこ行く気だ」
「一緒に行く」
「は? お前、昨日まで怖いって言ってただろ。役に立たねぇし、ここで待ってろ」
少女は頬を膨らませた。
それでも、靴を脱ごうとはしなかった。
「……昨日は、怖かった。でも、今は……お兄ちゃんがいるから、怖くない」
その言葉に、俺は肩をすくめた。
「悪いが、俺は大人の空間に行かなきゃいけないんでね。お前は留守番してな」
「えー、やだー!」
少女は布団に飛び込んで、顔を隠した。
その背中は、小さくて、拗ねていて──それでも、温かかった。
俺は少しだけため息をついて、ペンダントを握りしめた。
「……帰ってくるまで、寝てろ。飯は残してある」
少女は布団の中から、かすかに頷いた。
俺は一人で宿を出た。
背中に、誰かの信頼を感じながら──それでも、孤独を選んで歩いた。
朝の礼拝堂。
ステンドグラスから差す光が、大司教悧聖の白銀の法衣を神々しく照らす。
その姿は、まるで天から遣わされた聖人のようだった。
⋯⋯あまりに、整いすぎていた。
「我らは神の子。罪なき者を守り、迷える者を導く。祝福は、拒絶の先にある」
信徒たちは涙を流し、子供たちは悧聖の手に触れようと列をなす。
その光景は、祝福と信仰に満ちていた──表面上は。
だが、礼拝後。
俺は地下に残された魔力の痕跡を探知した。
空気がざらつく。皮膚の内側が、微かに痺れる。
転移の痕跡。異教徒の祠へと繋がる隠し通路。
残された聖具の欠片。そして、悧聖の法衣の繊維。
俺は魔法を使い、聖具に刻まれた記憶を読み取った。
そこに映し出されたものとは──
光が収束し、悧聖の姿が別の空間へと消える。
そこは、異教徒の遺跡を改造した密室。
冷たい石壁に囲まれた檻の中には、性別も年齢も異なる子供たちが閉じ込められていた。
悧聖は微笑む。
その笑みは慈悲ではなく、支配の仮面だった。
「救ってあげよう。お前たちの穢れを、私が祓ってやる」
泣き叫ぶ子供たちを魔力の鎖で封じると、悧聖は祈りの手を差し伸べる。
その手が肌をなぞるたび、聖具が鈍く輝き、空間に異様な熱が満ちていく。
祈りの言葉は、肌を撫でる呪文に変わっていた。
その光は祝福ではなく、選別と凌辱の象徴だった。
ペンダントを握りしめながら、俺は呟いた。
「街じゃ誰もが敬う聖人様、裏では子供に手を出す変態? ⋯⋯笑わせんな」
そして、俺は教会裁判堂へと向かう。
この街の祝福の仮面を、剥がすために。
一方、悧聖は私室で理人の魔力に気付いた。
「愚かな魔族が我が聖域に侵入したか⋯⋯」
地下礼拝室に密かに仕掛けてあった“逆探知の魔法陣”が反応を示す。
僅かに快楽反応──淫魔の痕跡。
「淫魔か⋯⋯丁度良い」
聖具が震え、悧聖は静かに立ち上がる。
祈りの言葉は、誰にも聞こえないほど低く、冷たい。
俺は宿屋の部屋を引き払った。
少女をどこかに預けるつもりだったが──首を振られた。
やれやれ、ガキは本当に我儘だ。
美味い飯と柔らかいベッドを取り上げられて不満ってか。
俺は肩をすくめて言った。
「連れていけねえよ。俺はこれから仕事なんだ、教会でな」
「教会に行くの?」
「そうだよ。おっかねえおっさんたちとバトってくんだわ。だからここでお別れだ」
教会の名を出せば怯えて引き下がると思った。
だが──
「……私も行く」
意外な台詞だった。
俺は眉をひそめる。
「お前、教会は嫌なんじゃなかったのかよ」
「お兄ちゃん、皆のために教会行くんだよね。私も行く」
冗談半分で言ったつもりだったが、少女は真顔だった。
その目に宿っていたのは、怯えじゃない。火種みたいな決意だった。
沈黙が落ちる。少女はじっと俺を見つめる。
その瞳の奥に、言葉にならない何かが沈んでいた。
俺は、あの目を知っている。
逃げる目じゃない。痛みを越えて、立ち上がる目だ。
全く、仕方ねぇな。俺は溜め息をついた。
「俺の後ろに隠れてろよ。飛び出したりするんじゃねぇぞ」
「うん!」
その声は、震えていなかった。
俺は、少女を連れて行くことにした。
あの目を見ちまったからな。
あれは、逃げる目じゃなかった。
もしかしたら──彼女が悧聖について証言してくれるかもしれない。
その可能性に、賭けるしかなかった。
裁判堂は荘厳な静けさに包まれていた。
白銀の法衣を纏った悧聖大司教が、信徒たちの前に立つ。
その姿は、まるで神の代弁者のようだった。
「この男は異教徒であり、淫猥な罪を犯した。神の名において、裁きを下す」
老人に向かって裁定官が宣言しようとしたその瞬間──
「待て」
俺は扉を蹴破った。少女も後ろから離れずついてくる。
ざわめく人々の中、俺は声を張り上げた。
「この町を穢していたのは、信仰の仮面を被った者だ。
その者は神の名を騙り、快楽に溺れ、罪を他者に擦り付けた。
そして、真の犯人は――この場にいる」
地下礼拝室の魔法陣の写し。拘束具の痕跡。魔力痕の記録。聖具の欠片。法衣の繊維。
腐るほどの証拠が、悧聖の名を指していた。
俺の後ろで隠れていた少女が、悧聖を指差した。
「神様は、痛かった」
その言葉に、空気が止まった。
誰もが、何かを言いかけて、言えなかった。
それは、祝福の言葉ではなかった。
それは、拒絶の記憶だった。
悧聖の顔は微動だにせず、ただ俺を見据えていた。
「悧聖。あんたが、神聖魔法をゆがめて快楽魔法を行使し、子供たちを搾取していた。
神の名を騙り、罪を他者に擦り付けていた。その罪、あんたのだろ」
異教徒の老人は、涙を流した。
沈黙の中、悧聖は微笑んだ。
その笑みは、慈悲ではなく、嘲笑だった。
「よく喋るな、淫魔よ」
俺に向かって悧聖はそう言った。
「淫魔だって⋯⋯!?」
人々や異端審問官や裁判官が混乱する。
悧聖は言った。
「この男は淫魔の血を引く。証拠は偽造。神聖なる秩序を乱す者だ。その器がどれほど脆いか、皆に見せてやろう」
悧聖が詠唱を始める。
神聖魔法の構文が歪み、空気が震える。
祝福の光は濁り、淫靡な魔力が俺に向かって放たれる。
避けるわけにはいかなかった。
少女を守るため、俺は正面から受けた。
「……っ、このクソ野郎が……」
それは光ではなく、甘い毒だった。
皮膚が焼けるように熱くなる。痛みではない。もっと質の悪い感覚だ。
腹の奥が疼き、熱が這い上がる。呼吸が浅くなり、体勢が崩れて膝をつく。
張りつめたものが震え、濡れた感覚が内側を満たす。
羞恥が肌を這い、痺れが意識を撫でる。
快楽魔法──それは、器の構造そのものを試す術だった。
悧聖の声が響く。
「お前は、甘く、湿った、淫魔の痕跡を纏っていた。だから分かる。
お前は快楽に溺れるために生まれた、穢れた器だ。淫魔の器は快楽に耐えられまい」
人々が息を呑む。俺の顔が紅潮し、神経が甘く痺れる。
だが、俺は倒れない。
「……これが、お前の信仰か」
ペンダントを握りしめる。冷たい瑠璃の感触が、意識を繋ぎ止める。
俺はゆっくりと立ち上がる。
「俺は淫魔の子だ。でも、快楽に震えても、誇りは折れない」
魔力がさらに強まり、裁判堂が軋む。
だが、俺は一歩踏み出した。
「誰にも祝福されなくても、俺は、俺の誇りを守る。
その魔法はもう、神聖じゃない。あんた自身が、もう神から遠ざかってる」
悧聖の顔が、わずかに歪む。
かつての悧聖は、一介の異端審問官だった。
信仰に生き、欲望を断ち、ただ神の意志に従っていた。
ある日、淫魔との戦いで呪いを受けた。
それは、肉体の奥に疼きを残すものだった。祈っても、断っても、消えない熱。
敬虔な信者だったからこそ、誰にも相談できなかった。
孤児院の子供たちを保護することで、悧聖は己を保とうとした。
だが、ある夜――純粋な瞳に触れた瞬間、何かが崩れた。
「これは浄化だ。穢れを祓うための儀式だ」
そう言い聞かせながら、悧聖は“魔法”を使った。
子供たちは怯え、沈黙した。その沈黙が、悧聖にとって“祝福”に見えた。
「神は、穢れを嫌う。ならば、穢れを祓う行為は、神の意志だ」
そう言い聞かせることでしか、悧聖は自分を保てなかった。
やがて呪いは消えた。だが、悧聖の心は戻らなかった。
神聖魔法は、快楽魔法へと変質した。
祝福の名のもとに、拒絶すべきものが生まれた。
悧聖の目が細くなる。
「黙れ。淫魔など、下等な種族だ。 あいつらに人生を壊された者の痛みを、お前が知るか!」
「分かるさ。俺も、ずっと疼いてる。
でもな――俺は、誇りを穢さない」
悧聖の魔法がさらに強まる。
子供たちを搾取してきた術。淫魔を弱らせ、倒してきた術。
その魔法が、俺の器を試している。
快楽は、俺の肉体を焼く。だが、精神は焼かれない。
俺は、淫魔の癖に──快楽に耐える。
それが、俺の誇りだ。
「淫魔の血よ、神の前に曝されよ!」
疼きが、骨の奥から這い上がる。
だが、俺は笑った。
「あんた、昔は異端審問官だったんだろ。信仰に生きて、欲望を殺してた。
⋯⋯でも、あんたは負けた。快楽に屈した。俺は、まだ立ってる」
その言葉に、悧聖が動いた。
高齢とは思えぬ速度で、法衣を翻しながら魔法剣を召喚。
異端審問官として鍛えた戦闘術が、俺に襲いかかる。
剣が唸りを上げ、魔力が炸裂する。
俺は紙一重でかわし、魔力を纏った剣で応戦。
刃と刃がぶつかり、火花が裁判堂を照らす。
「お前は穢れている! その血が証だ!」
「なら、穢れた血で、腐った祝福をぶち壊してやるよ!」
魔法が炸裂する。裁判堂の天井が砕け、信徒たちが悲鳴を上げる。
俺は魔力を集中させ、悧聖の術式の核を逆探知。
魔法陣の歪みを突き、術式を反転させる。
快楽魔法の奔流が、悧聖自身へと押し返された。
それは発情でも羞恥でもない。
悧聖が俺に向けて放った、濁った魔力の圧そのものだった。
「なっ──!」
悧聖の身体が震え、膝が崩れる。
その魔力は、俺を焼こうとした強度。
だが、悧聖は“器”ではなかった。
光が弾け、悧聖の身体が吹き飛ぶ。
法衣が裂け、魔法陣が崩壊する。
裁判堂の天井が軋み、瓦礫が降り注ぐ。
悧聖は地に伏し、なおも詠唱を続けようとする。
だが、術式は逆流し、彼自身に跳ね返る。
「神よ、なぜ私を見捨てた──!」
その瞬間、裁判堂の鐘が鳴る。
誰も鳴らしていない。
それは祝福でも拒絶でもなかった。
ただ、沈黙だけが、神の答えだった
悧聖は地に伏し、祈りを続けようとしていた。
だが、神は語らなかった。
語る必要すら、なかった。
俺は、まだ立っている。
淫魔の癖に、快楽に耐える器として。
──それが、俺の“理”だ。
裁判堂の混乱が収まり、瓦礫の隙間から朝の光が差し込む。
裁定官が震える声で言った。
「悧聖大司教、神聖秩序の破壊、神聖魔法の濫用、子供への搾取──罪あり」
裁定官は震えながら、老人を無罪とし、悧聖の名を記録から抹消した。
だが、俺に向けられたのは感謝ではなかった。
「あの男も淫魔の血を引く者! 拘束せよ!」
衛兵たちが動き出す。
俺はペンダントを握りしめ、魔法陣を描く。
「……まあ、こうなるよな」
俺は笑った。
「悪いが、こっちも捕まるわけにはいかないんでね」
魔法を放ち、裁判堂全体に記憶消去の術式が展開される。
光が広がり、裁判堂にいた者たちの瞳が一瞬だけ虚ろになる。
「淫魔が侵入した。だが、姿も名も分からない。証拠は残らず、ただ、誰かが戦った──それだけが記憶に残る」
俺は最後に少女、老人の方を見た。
その目に、僅かな迷いがあった。
だが、術は発動した。
老人の瞳は、静かに揺れた。
理人の名も、顔も、記憶から消えた。
ただ、この日――誰かが自分を助けてくれたことだけは、確かだった。
少女は、理人の顔を見ていた。
だが、次の瞬間――その顔が、記憶から滑り落ちた。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
理由は、わからなかった。
悧聖の逮捕後、地下礼拝室の封印が解除され、異教徒の祠へと繋がる隠し通路が発見された。
衛兵たちが慎重に進み、冷たい石壁の奥から、怯えた子供たちが救出される。
性別も年齢も異なる彼らは、皆、悧聖の“祝福”の犠牲者だった。
少女はその場にいた。
理人の後ろに隠れていたはずの彼女が、救出された子供たちの中に駆け寄る。
その瞳は、怯えではなく、寄り添うような光を宿していた。
「大丈夫。もう、怖くないよ」
少女の声に、子供たちは少しずつ顔を上げる。
その中には、かつて彼女と同じように傷つき、沈黙していた子もいた。
理人はその光景を遠くから見ていた。
ペンダントを握りしめ、静かに背を向ける。
彼女は理人に気づかなかった。
振り返っていたとしても、理人が誰か分からなかっただろう。
だが、子供たちに寄り添う姿には、確かに“誇り”が宿っていた。
老人は、教会の外れにある異教の祠に立っていた。
誰かの名も、顔も思い出せない。
ただ、あの日──誰かが自分を助けてくれたことだけは、確かだった。
「名も顔も思い出せない。けれど、あの日──誰かが、わしを救ってくれた。
……どうか、あの人が無事でありますように」
老人は祠に手を合わせ、祈りを捧げる。
その手は震えていたが、心は静かだった。
街の門を抜け、俺は再び旅路へと歩き出す。
ペンダントが胸元で揺れ、陽光を受けて淡く輝いた。
「金は底を尽きるし、何度も魔力を使う羽目になるし──散々だ」
俺はぼやいた。
腹の奥の疼きは、未だに収まっていない。
張りつめた熱が、俺の中の奥で静かに脈打っている。
だが、快楽に震えても、誇りは折れない。
「……あいつは負けた。俺は、まだ立ってる」
振り返らず、ただ前を見て歩く。
誰にも祝福されず、誰にも拒絶されず。
それでも、誰かの祈りに包まれていた。
誰も俺を讃えない。誰も俺を覚えていない。
それでも、俺は、自分の誇りを守った。
それだけで十分だ。
そして、俺の旅は続く。
名もなき誇りを胸に、誰にも知られぬ祝福を背負って。
──それが、俺の理だ。