※この作品はR-18です。

淫魔の王   作:Licht

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旧サブタイ:満ちても渇く心


第二話:教会に見捨てられた村/雑用と礼拝/水触手/男性器圧迫/小スカ

 清泉村(セイセンムラ)──その名は、かつて村の中央に湧き出ていた“清泉”に由来する。

 あらゆる痛みや病を癒すと噂されたその泉は、村の象徴だった。

 

 身体の奥で燻る疼きに耐えかねた俺は、その水に救いを求めて辿り着いた。

 だが、そこにあったのは──底がひび割れ、砂風が吹き抜けるだけの泥の窪地。

 かつては透明な水面に空が映り、旅人が足を止めたというが、今は生命の気配すらない。

 

 泉の縁に腰を下ろし、しばらく黙ってその光景を見つめる。

 村の広場からは、桶を抱えた青年らの足音が近づき、やがて止まった。

 空の桶を覗き込み、彼らは互いに目を合わせると、何も言わずに踵を返す。

 その背中は、諦めと疲労で重く沈んでいた。

 

 ──まあ、噂なんてそんなものだ。

 そう切り替えたつもりでも、疼きは消えなかった。

 

 連日、魔力を使って人を助けてきた。

 小悪魔を祓い、病人を癒し、呪詛を断ち切るたび──腹の奥が焼けるように熱を帯びる。

 蜜のような痺れが神経を撫で、快楽の残滓が肉体に絡みつく。

 炉が脈打つたび、その熱は血流に乗って全身を駆け巡った。

 

 それは戦いの疲労でも、怪我の痛みでもない。

 もっと質の悪い感覚だ。

 熱が下腹部から脊髄を這い上がり、皮膚の裏側を撫でるように広がっていく。

 

 魔力の代償は、使った瞬間だけじゃない。

 呼吸を整えても完全には消えず、休めなければ甘くも苦しくもあり、誇りを試すように膨らんでいく。

 

 だが、宿には泊まれない。

 フードを被った怪しい男に、誰も部屋を貸そうとしない。

 顔を見せれば淫魔由来の容貌が目に焼きつき、記憶消去魔法を使う羽目になる。

 まともな職にも就けず、金もない。結果、野宿するしかなかった。

 

 夜露の地面に横たわり、熱を抱えたまま眠る。

 それでも──誰も襲わない。

 

 魔族の魔力は、人間の生命力を喰らって得るものだ。

 血肉を啜るか、精を奪うか──方法は種族によって違えど、根は同じ。

 魔力は“奪う”ことでしか得られない。それが、この世界の常識だ。

 

 だが、俺は誰からも奪っていない。

 それでも、炉は動き続ける。俺の意思とは関係なく。

 

 

 

 

 

 街道を外れた森は、昼でも薄暗い。

 湿った土の匂いと遠くの獣の中、俺は腹の奥の鈍い熱をやり過ごそうとしていた。

 

 手のひらに転がる銅貨は三枚。

 それが、俺の全財産だった。指先からこぼれ落ちそうなほど軽い。

 財布の底を叩くと、乾いた音がして、小さなボタンが石の上に転がった。

 ポケットの中も探ったが、出てくるのは糸くずと、昨日の夢の残骸だけ。

 

 腹が鳴る。

 石の椅子に突っ伏して泣くこともできたが、泣いたところで腹は満たされない。

 

 袋から干し肉を取り出す。

 市場で銅貨十枚で買った、色も匂いも乏しい、石のように硬い肉だ。

 それでも煮れば、多少は旨味の出たスープになるはずだった。

 

 干し肉を鍋に放り込み、水を注ぐ。

 火を起こすと、ぱちぱちと薪が爆ぜ、その音が静寂に溶けていく。

 鍋の中で泡を立てる肉片を見つめながら、ため息を一つ落とした。

 

「……色は出てるけど、味は死んでんな」

 

 鍋の中にあったのは、色だけ移った頼りない“パサパサ肉の茹で汁”だった。

 立ちのぼる湯気にも、食欲を誘う匂いはほとんどない。

 

 パサついた干し肉を噛み切るたび、口の中の水分が奪われていく。

 それを、色だけ移った薄い汁で押し流す。

 温もりはあるのに、満たされるものは何もなかった。

 これが、今夜の俺の夕食だ。

 

「……誇りってのは、腹の足しにならねぇな」

 

 皮肉を吐き出した、その時だった。

 遠くから甲高い悲鳴が裂けるように響いた。

 

「魔族だ! 誰か助けてくれ!」

 

 ああ、またか。

 

 匙を置き、深くフードを被る。

 黒衣が風に揺れ、腹の奥が微かに疼く。

 

 魔法を使えば、また拒絶されるだろう。

 それでも、助けを求める声を無視するほど、俺は腐っちゃいない。

 

 ──この村の泉を蘇らせれば、疼きも癒えるかもしれない。

 そう思えば、動く理由には十分だった。

 

 

 

 

 

 村外れの冷たい土の上に、痩せこけた男が倒れていた。

 死人のように白い顔、乾ききった唇。

 胸はかすかに上下しているが、その呼吸は今にも途切れそうだった。

 

 背後から、湿った笑い声が耳にまとわりつく。

 振り返ると、闇の中に影が立っていた。

 赤い瞳が夜気に浮かび、魔族の輪郭を照らす。

 

「ほう、人間かと思えば──同族の匂いもするな」

「お前らと一緒にするな。俺は人間だ」

 

 魔族は舐めるように視線を這わせ、口元を歪める。

 

「巧妙に魔力を隠しているようだが……誰から奪った?」

 

 答えず、俺は掌に魔力を集める。

 淡い光が皮膚を照らした瞬間、疼きが一気に強まった。

 下腹部を締め付ける熱、背骨を這い上がる痺れ。

 皮膚の裏側を甘い感覚が撫で、呼吸が浅くなる。

 膝がわずかに揺らぐが──顔には出さない。

 

「……来いよ」

 

 魔族の笑みは、獲物を前にした捕食者のそれだった。

 

「奪わずに魔力を持つ魔族など聞いたことがない……いや、魔族ですらないのか?」

 

 嗤いながら魔族が地を蹴る。

 土と血の匂いが混じった空気が肌を刺す。

 俺は光を突き出した。

 

 刹那、光が弾け、衝撃が空気を震わせる。

 魔族の身体が吹き飛び、石壁に叩きつけられた。

 その瞬間、炉が脈打ち、熱が全身を駆け巡る。

 甘く、苦く、誇りを試すような疼きが深く絡みつく。

 

 魔族は塵となって消えた。──雑魚だ。遊びか、小手調べか。

 

 俺は倒れていた男に膝をつき、回復魔法を施す。

 不安定だった呼吸が落ち着き、顔色に血が戻った。

 

 悲鳴を聞きつけた村人たちが、雪崩のように駆け寄ってきた。

 驚きと安堵が入り交じった声が、あちこちから飛び交う。

 

「すごい……魔族が、一瞬で……」

「黒服……まさか、異端審問官様?」

「教会に救助要請を出したばかりなのに、もう来てくださるとは!」

 

 ……は? 眉間に皺が寄る。

 異端審問官? 俺のことか。

 村人たちは、俺の黒衣と魔力を見て勝手に納得しているらしい。

 

 一応、訂正しておく。

 

「ただの旅人だよ。通りすがりのな」

 

 だが、誰も聞いちゃいない。

 

「異端審問官様が来てくださった! これで村も安心だ!」

「さあ、こちらへ! お食事の用意を!」

「お部屋も、最上のものを!」

 

 どうやら、教会の神聖魔法と魔族の使う魔法の違いも分からないらしい。

 おかけで、俺は完全に教会の人間だと思い込まれている。

 

 さて、どうしたものか──そう考えた時、ふと財布の中を思い出す。

 革袋の軽さが、やけに虚しい。

 

「……まあ、たまには甘えてもいいか」

 

 

 

 

 

 案内されたのは、村の中央にある食堂だった。

 しばらく待つと、湯気と香りをまとった皿が、木の卓の上に整然と並べられる。

 

 皿数は特別多くはない。だが、どれも立ちのぼる湯気と温かな香りが、鼻先をやさしくくすぐった。

 水源が枯れたこの土地では、作物も乏しいはずだ。

 それでも、この日ばかりは村人たちがありったけの恵みをかき集めてくれたのだろう。

 

 まず目に入ったのは、麦と芋を煮込んだ粥。

 鶏の骨から取った薄い出汁に刻んだ根菜が沈み、表面には香ばしく炒めた葱がひとつまみ。

 匙を入れれば、麦はほろりと崩れ、芋は舌の上で静かに溶け、鶏の繊維がほろほろとほどけていく。

 

 次に、小鉢の青菜の胡麻酢和え。

 さっぱりとした酸味が、口の中を軽く整える。

 

 干し大根と卵の炒め物は、卵のふわりとした甘みと干し大根の歯ごたえが絶妙だった。

 噛むたびに、干し大根の旨味がじんわりと広がる。

 

 さらに、川魚の塩焼き。

 身は痩せているが、皮は香ばしく、淡い旨味が骨の際まで詰まっている。

 

 そして──卓の中央に置かれたのは、山鳥の香草焼きだった。

 皮はこんがりと焼け、香草と獣脂の匂いが湯気とともに立ちのぼる。

 噛めば、しっとりとした肉汁が舌に広がり、香草の清涼感が後を引く。

 泉が枯れた村で、これ以上のごちそうはないだろう。

 

 最後に、土鍋で温められた野菜汁。

 大根、人参、茸、そして少量の豆腐が、味噌の香りに包まれている。

 村人たちの手で育てられた野菜の甘みが、戦いで張り詰めた身体をゆっくりと解きほぐしていく。

 

 決して豪華ではない。だが、どれも丁寧に作られ、村人の心がこもっているのが分かる。

 香りだけで腹が鳴った。

 俺は無言で粥をすくい、口に運ぶ。

 湯気と素朴な旨味が舌を包み込む。

 

(……うまい。くそ、うまい)

 

 魔族はこんなものは食わない。

 奴らの餌は、人間の血や生命力や精だけだ。

 だからこそ、これは人間の祝福だ。

 腹の奥の疼きが、僅かに静まった気がした。

 

 食事を終えると、村人の男が恐る恐る近づいてきた。

 皿を下げる手は少々震えていた。

 

「異端審問官様、お口に合いましたか?

 私どもが出せるのはこれが精一杯でして……」

 

 俺は首を振る。

 

「シケた村かと思ったが、食事はまともじゃねぇか」

 

 男はほっと息をつき、安堵の笑みを浮かべた。

 

「喜んでいただけて何よりです」

 

 そして、おずおずと尋ねる。

 

「お忙しいところ恐縮ですが、しばらくここに居ていただけませんか。

 度々魔族の脅威に見舞われるのですが、この村には他に教会の方もおらず……」

 

 教会のやつがいない、か。

 田舎者にしても妙だと思ったが、道理で俺を異端審問官と誤解したわけだ。

 にしても、聖職者が一人もいないのは普通じゃない。

 魔族に対抗できるのは教会の神聖魔法だけ──例外は、俺くらいだ。

 

 泉が枯れていることと言い、この村には何かあるのかもしれない。

 

「気紛れが続くうちは良いぜ。 それから、俺のことは理人でいい」

 

 そう答えると、男は深く頭を下げた。

 

 食後、案内された部屋には布団が敷かれていた。

 身を沈めると、藁の香りが鼻をくすぐる。

 疼きはまだ残っているが、今日は少し眠れそうだった。

 

 

 

 

 

 夕暮れの村道に、馬の蹄の音が近づいてきた。

 荷車を引く馬の背に、背筋を真っ直ぐに伸ばした人物が座っている。

 銀を帯びた黒髪を流し、深い紫の外套を羽織っていた。

 年の頃は六十前後──だが、その肌には無駄な緩みがなく、切れ長の瞳は鋭く光っている。

 まるで、長年の風雪を正面から受け止めてきた岩のような気配だった。

 

 村人たちが道の両脇に集まり、ざわめく。

 

「村長だ……」

「戻られたんだ……」

 

 荷車から軽やかに降りたその人は、土埃を払う。

 所作に無駄はなく、指先まで意志が通っているようだった。

 唇は薄く引き結ばれ、笑みも怒りも見せない。

 ただ、村の空気を一瞥で測るように見渡す。

 

「……何やら、騒がしいな」

 

 低く澄んだ声が、夕闇に溶けた。

 

 近くの村人が駆け寄り、息を弾ませながら告げる。

 

「異端審問官様が来てくださったんです! 魔族を一瞬で……!」

「……異端審問官、だと?」

 

 瞳がわずかに細まる。

 

「やっぱり神は我々をお見捨てになっていなかったんだ」

 

 村人らの弾んだ声と希望に満ちた眼差し。

 しかし、その人物の瞳は冷静に揺れていた。

 

 教会からは高額なお布施を求められていた。

 だが、魔族被害で作物は育たず、財政は逼迫し、支払いは滞っている。

 そんな村に、教会がわざわざ異端審問官を寄越すはずがない。

 

 村長は、まだ見ぬ“審問官”の姿を心の中で退けた。

 本物ではない──村を惑わす偽物だ。

 守るべきもののために、迷う理由はなかった。

 嵐の前のような静けさの中で、その決意は揺るぎなく固まっていく。

 

 

 

 

 

 翌朝。

 障子越しの光はまだ柔らかく、外からは鶏の声と井戸水を汲む音が届いていた。

 布団から身を起こすと、戸口の向こうに人影が立っている。

 その背後には、数人の村人が距離を置き、こちらを伺っていた。

 

「ようこそ、異端審問官様。ワシが、この村の村長です」

 

 低く抑えた声。

 戸を開けると、年齢を感じさせながらも背筋の伸びた人物が立っていた。

 皺の刻まれた顔は笑みも怒りもなく、ただ測るような鋭い目だけが俺を射抜いてくる。

 

「どうも、村長さんよ」

 

 俺が軽く顎を上げると、村長は一拍置いてから口を開いた。

 

「異端審問官様、お願いがございます……」

 

 背後の村人たちが、僅かに息を呑む。

 村長は一歩近づき、声を低めた。

 

「──そのフードを取っていただけますか。顔が見えないと、どうにも落ち着かなくて」

 

 ああ、来たか。

 こういう連中はまず“顔”を見たがる。

 態度や口調、背丈といった外側の情報から勝手に“荒っぽい男”を想像し、その想像が正しいかどうかを顔で確かめたがるのだ。

 

 俺はフードの中で少し迷った。

 本当は顔を隠すなんて性に合わない。

 だが、教会に見つかると面倒だ。記憶消去の魔法も使えるが、魔力は食うし疼きもひどくなる。毎回やる気にはなれない。

 とはいえ、名前を偽っているわけでもなければ、容姿を変えているわけでもない。人目から徹底的に逃れているわけじゃない。

 

 ……まあいい。ここは先に信用を得るために顔を出しておくか。

 必要になれば記憶を消して立ち去ればいい。

 

「これで満足か?」

 

 指先でフードの端をつまみ、ゆっくりと下ろす。

 朝の風が髪を揺らし、銀色の髪が光を受けて淡くきらめいた。

 

 その瞬間、場の空気が一変した。

 村人たちが息を呑み、老若男女を問わず言葉を失う。

 驚きでも畏れでもなく──ただ見惚れていた。露になった俺の顔に。

 

 中性的で端正な顔立ち。

 大きな瑠璃色の瞳は光を受けて深く揺らぎ、長く濃いまつ毛が影を落とす。

 目元には冷ややかさと皮肉めいた光が宿り、口元は感情を読み取りにくい薄い笑みを形作っている。

 

 銀色の髪は肩に届かぬ長さのウルフカット。

 前髪は目元の少し上まで垂れ、風に揺れるたび淡く光を弾く。

 胸元には瞳と同じ瑠璃色のペンダントが小さく光っていた。

 

 女性的な繊細さを持つ顔立ちに反して、背は高く、長身から放たれる圧がその柔らかな線を裏切る。

 静かに立っているだけで、視線を奪う存在感があった。

 

 村長も、しばし言葉を失っていた。

 おそらく、フードで顔を隠しているのは不細工か人相の悪さを隠すためだと思っていたのだろう。

 それが予想に反して若く整った顔立ちの青年だったため、文句の付け所がなく、かえって苛立ったようだ。

 

「……その、思ったより……お若いのですね」

 

 やっと絞り出した言葉がそれか。

 俺は肩をすくめ、皮肉を返した。

 

「魔族を退治するのに、顔は関係ないからな」

 

 村長の眉が僅かに動いた。

 

「ところで、村のために、異端審問官様にいくつかお願いがありまして」

 

 その口調は丁寧だが、言葉の端に冷えた刃が潜んでいた。

 

「聞こうじゃないか」

 

 村長は淡々と告げた。

 

「では──村の掃除をお願いできますか。石運び、芝刈り、橋の修理、住宅の大工仕事、薬草採り……」

 

 さらりと並べられたのは、汗と泥にまみれる仕事ばかりだ。

 だが村長は続ける。

 

「それから、井戸の掃除に薪割り、家畜小屋の糞の片付けも。

 子どもたちの遊び相手と勉強の手ほどきも、ぜひお願いしたいですね。

 ああ、ついでに畑の畝直しと、壊れた柵の修理も頼みます」

 

 重労働から雑用まで、思いつく限りを押し付けてきやがった。

 

「おいおい、それも異端審問官の仕事か? ただの便利屋じゃねえか」

 

 なるほど、追い出す気満々というわけだ。

 この村長、他の村人ほど単純ではない。

 俺が本物の異端審問官ではないと、薄々感づいているのだろう。

 無茶な仕事を山ほど押し付ければ、俺が音を上げて出ていくと踏んでいるに違いない。

 

 じっと睨む村長に、俺は口の端を吊り上げた。

 

「まぁいいぜ、村長さんよ。暇つぶしにはちょうどいい」

 

 生憎だが、俺は性格が悪いんでね。

 その程度の雑事で、この俺がへこたれると思うな。

 むしろ全部やり遂げて、村長の目論見を潰す方が面白い。

 喧嘩を売る相手を間違えたな。

 俺は理人──子供時代のあだ名は、性格以外完璧な男だ。

 

 結果──掃除は隅々まで行き届き、石運びでは村の若者が俺の筋力に目を剥いた。

 芝は均一に刈り揃えられ、橋は補強され、住宅は美しく修繕された。

 薬草は束ねられ、山と積まれ、井戸は底まで澄み、薪は小屋いっぱいに積み上がる。

 家畜小屋は臭いまで消え、畑の畝は真っ直ぐに整った。

 

 昼、村人たちから渡された握り飯を頬張る俺を、村長は遠くから睨んでいた。

 歯ぎしりを噛み殺し、(偽物のくせに……なぜ全部完璧にこなすんだ……!)と心の中で毒づいているのが手に取るように分かる。

 だが、その顔にはまだ諦めの色はなかった。

 

 雑用の合間、村人と短い会話を交わすことが増えた。

 

「異端審問官様、あの泉……本当に戻るのでしょうか」

「さあな。ただ、信じる者は報われるって言うだろ」

 

「異端審問官様、どうしたら貴方のように強くなれますか」

「凡人はこつこつ努力するこったな。俺はいつの間にかこうなってたけど」

 

 村の男たちと言葉を交わすうちに、ふと気づく。

 広場にも畑にも、若い女の姿がまったくない。 見かけるのは腰の曲がった老婆ばかり──偶然にしては偏りすぎている。

 

 耳を澄ませば、子どもの笑い声はあっても、若い女の声は混じらない。

 洗濯物を干す手も、畑を耕す背中も、皆年老いている。

 まるで、この村から一定の年齢層だけがごっそり抜け落ちてしまったようだった。

 

 胸の奥に、じわりと嫌な予感が広がる。

 理由を尋ねるのは簡単だが、今はまだ時期じゃない。

 俺は何事もなかったように会話を続けながら、その違和感を頭の片隅に留めた。

 

 

 

 

 

 そして、午後は子どもの相手だ。

 集会所の窓から差し込む光が、舞う埃を柔らかく照らしている。

 木造の机に腰掛けた子どもたちは、頬杖をついたり、床をつま先で叩いたりして落ち着きがない。

 俺はその様子を一瞥し、ため息をひとつ吐いた。

 

「……じゃあ、始めるか。今日は“魔族”と“教会”についてだ」

 

 黒板に大きく“魔族”と書くと、前列の少年が首をかしげた。

 

「先生、それって悪魔のこと?」

「そうだ。お前らが普段“悪魔”って呼んでる連中の正式な呼び名が“魔族”だ」

「じゃあ、なんでみんな悪魔って言うの?」

「“悪魔”って呼び方は、恐怖と嫌悪を煽るための言葉だ。村の年寄りや旅の商人が話す昔話にもよく出てくるだろ。あれはほとんど、教会が広めた呼び方だ。危険を大げさに見せれば、人は神にすがる。説教じゃ“悪魔”と呼び、記録では“魔族”と書く。魔族自身は自分らのことを魔族と呼ぶし、俺もそっちで呼ぶ」

 

 子どもたちは「へぇ」と頷いた。

 俺は机の上の古びた聖具を指で弾き、黒板に“教会”と書き加えた。

 

「教会のいわれを知っているか」

 

 誰も答えない。沈黙が落ちる。

 

「おいおい、これは常識だから覚えておけよ」

 

 俺は続けた。

 

「昔、世界は魔族に蹂躙されていた。魔法を持たない人間は対抗できず、滅びかけた。

 だがある時、“神”と呼ばれる存在が人間に“聖書”と“聖具”を授けた──とされている。それを使って魔族を祓う術、神聖魔法が生まれた。

 人々はその力を信じ、広めるための組織を作った。それが教会だ」

 

 白墨を走らせ、“権力”と書き足す。

 

「今じゃ教皇が頂点にいて、その下に大司教、司教、司祭、修道士がいる。女も修道士になれる。

 教会の権力が大きいのは、神聖魔法を使えるのが聖職者だけだからだ。

 一般人は神聖魔法を扱えない。理由は単純──神の加護と、正しい聖句、聖具、そして厳しい修行が必要だからだ」

 

 黒板に“魔族”と書き足す。

 

「魔族ってのは、人間を襲って魔力を得る存在だ。空気からも魔力は取れるが、ほんの僅か。

 だから奴らは血や命──つまり人間そのものを喰う。それが生きる術だ」

 

「でも、中には良い魔族もいるんじゃない?」と小さな少年が口を挟む。

 

「さあな。少なくとも俺が会った中にはいなかった。魔族にとって人間はただの餌……それが現実だ」

 

 子どもたちは黙り込む。

 

「だから、学びは大事なんだ。魔族を倒せるのは神聖魔法だけだが、剣で時間を稼いだり、聖水で侵入を防いだり、やりようは色々ある。

 この村には聖職者がいない。……お前らの誰かが聖職者になって、この村を守るのも悪くないだろ」

 

 皮肉めいた笑みを浮かべる。

 

「……さて、次は“聖具の種類”だ。命を守る道具だ、覚えとけ」

 

 授業はそのまま続き、さっきまで退屈そうにしていた子どもたちも、今は真剣に耳を傾けていた。

 

 

 

 

 

 村に来てから数日。

 雑用も子どもの相手も、求められたことは全て完璧にこなしてきた。

 そのせいで、村人たちの視線は日に日に俺へ傾いていく。

 

 ──焦ったのだろう。

 村長は、このままでは自分の立場が揺らぐと感じたに違いない。

 そして次に持ち出してきたのは、こんな要求だった。

 

「では──次は礼拝をお願いできますか。司祭の代わりとして」

 

 声音は柔らかいが、奥に棘がある。

 周囲の村人たちはざわめきを飲み込み、一斉に俺を見た。

 

(なるほど……これが切り札ってわけか)

 

 礼拝は教会の人間なら当然こなせる。

 だが偽物なら聖句も作法も分からず恥をかく。

 最悪、異端審問官を騙る男として教会に突き出されるだろう。

 村長はここで俺を躓かせ、権威を剥ぎ取るつもりだ。

 

 俺は口の端を僅かに上げた。挑発は嫌いじゃない。

 

「いいぜ。やってやろうじゃないか」

 

 年季の入った祭壇の前に立つと、場の空気が張り詰める。

 この村では礼拝が簡略化されていたらしく、まともな儀式は久しぶりだという。

 長く使われていなかった匂いが、微かに鼻をかすめた。

 

 村人たちが見守る中、俺は祭壇の前に立った。

 深く息を吸い、幼い頃から耳に馴染んだあの声色を思い出す。

 孤児院の礼拝堂で、司祭がいつもそうしていたように。

 

「初めに、世界に混沌があり──神が光をもたらし、この地に秩序を与えた」

 

 低く澄んだ声が礼拝堂の壁に反響する。

 俺はそのまま、章の続きを一字一句、淀みなく読み上げた。

 手の動きも、間の取り方も、あの頃の司祭の真似だ。

 村人たちは静まり返り、息を潜めて耳を傾けている。

 

 ──だが、読み終えた瞬間、胸の奥に小さな違和感が残った。

 この言葉は、俺のものじゃない。

 教会の神を讃えるための言葉であって、俺が信じるものを語ってはいない。

 

 視線を上げ、俺は自分の声に戻した。

 

「……だが、秩序を与えたのが神だろうと、人だろうと、そんなことは大した問題じゃない。

 大事なのは、隣にいる誰かを見失わないことだ。

 罪とは、互いの背中を見失うこと。救いとは、その背中に手を置くことだ」

 

 村人たちの目が僅かに揺れる。

 俺は続けた。

 

「神が見捨てることはない──そう教会は言う。

 だが、見捨てるのはいつだって人間だ。

 だからこそ、俺たちは互いを見捨てないようにしなきゃならない。

 宗派も、血も、過去も関係ない。守りたいと思ったら、迷わず手を伸ばせばいい」

 

 それは、教会の教義からすれば少し外れた言葉だった。

 だが、俺にとってはこれが真実だ。

 

「……以上だ。これで満足か?」

 

 礼拝を終えると、村人たちは感嘆の声を漏らし、ざわめきが広がる。

 その中で、村長だけは腕を組み、じっと俺を見据えていた。

 

「……悪くはない。だが、ワシはまだお前を認めたわけじゃない」

 

 俺は肩をすくめる。

 

「そりゃ残念だな。認められるためにやってるわけじゃないけど」

 

 村長の目が細くなる。

 

「……ペテン師め。魔族を祓ったなどと、嘘をつきおって」

 

 低く、棘を含んだ声。

 俺は皮肉をひとつ返す。

 

「それは本当なんだがなぁ……。次は泉でも掃除して蘇らせてやろうか?」

 

 村長は鼻を鳴らし、踵を返した。

 その背中を見送っていると、近くの若い男が小声で話しかけてきた。

 

「……村長を責めないでください。この村、教会とはあまり関係が良くなくて……司祭ももう何年も不在なんです。

 お布施を払えない村は、見捨てられるのが常で……」

 

 なるほど。

 だからこそ、村長は俺を簡単には信用しない。

 教会の人間だろうが魔族だろうが関係なく、余所者には冷たいということだ。

 

 礼拝を終えた後、俺は村を歩き回った。

 やはり若い女の姿はどこにもない。

 そして、一軒だけ不自然に避けられている小屋があった。

 屋根は苔むし、窓は板で打ち付けられ、扉には古びた錠前がかかっている。

 

 近くを通る村人は必ず足を速め、視線を逸らした。

 子どもでさえ真顔でこう言う。

 

「そこは……行っちゃだめだよ」

 

 理由を尋ねれば、決まって同じ答えが返ってくる。

 

「病気がうつるから」

「女ばかりが死ぬ奇病なんだ」

「関わるな」

 

 ──病気、ね。

 一体どんな症状なのかとさらに聞いても、皆一様に口を閉ざした。

 

 夜になったら、確かめてみるか──そう心に決め、俺は小屋から視線を外した。

 

 

 

 

 

 夜。

 月は雲に隠れ、村は深い闇に沈んでいた。

 俺は小屋の前に立ち、錆びついた錠前に指をかける。

 金属が軋む音とともに、鍵はあっけなく外れた。

 

 中は湿気と闇に満ち、肌にまとわりつく空気が重い。

 鼻を刺すのは薬草と血、そして甘ったるい匂い。

 奥の寝台には女たちが横たわっていた。

 若い娘だけではない。腰の曲がった老婆も、まだ七つか八つほどの幼い少女も混じっている。

 額には玉の汗、唇は乾き、肌は白く透けるほど血の気がない。

 

 ──若い女だけを狙っていると思っていたが……女なら誰でも、か。

 

 俺の目には、その奥を這う黒い糸のような魔力の流れがはっきり見えていた。

 これは病じゃない。意志を持った穢れだ。

 

「……女にしか憑かないタイプの魔族か」

 

 背後で床板が軋む。

 振り返ると、灯りを手にした村長が立っていた。

 炎に照らされた横顔は、これまでの硬さの奥に、深く沈んだ影を宿している。

 その影は、長く耐えてきた者のものだった。

 

「この子たちは……病気だと、教会は言った」

 

 低く抑えた声。

 

「浄化はできぬ、憑いて長い、命と一体化している。

 治してほしければ……もっとお布施を、と」

 

 視線を落とし、唇を噛む。

 その手が、寝台の幼い少女の髪をそっと撫でた。

 指先は驚くほど柔らかく、長く張り詰めてきた者の手つきだった。

 

「……何年も、こうして見送ってきた。

 年も顔も関係なく……次は誰かと怯えながらな」

 

 かつては豊かな村だった。

 果樹園も、麦畑も、養蜂場もあった。

 だが、十年ほど前から土地が腐り始め、作物は枯れ、家畜は病み、女たちが倒れていった。

 魔族が、村に巣食っていた。村の証だった聖泉も枯れ果てた。

 だが、教会は動かなかった。お布施が減ったからだ。

 この村は、もはや“神の優先度”に入っていなかった。

 

「狡猾な魔族だ」

 

 村長は吐き捨てるように言った。

 

「ゆっくりと衰弱させ、一年に少しずつしか殺さない。

 だから教会も動かない。

 お布施も払えない村に、誰が助けに来る」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「数年前、一度だけ教会にお布施を払って浄化をしてもらった。

 あの時も、一度は静まったように見えた⋯⋯だが、すぐにまた別の女が倒れた。

 理由は分からない。ただ、終わっていなかった」

 

 吐き捨てるように言いながらも、その瞳は寝台の女たちから離れない。

 そこには怒りと悔恨、そして長く背負ってきた重さが滲んでいた。

 

「なるほどな。

 だが──誰かを犠牲にしていい理由にはならない」

 

 村長の目が揺れ、炎に怒りとも悔しさともつかない色が滲む。

 

「お前に……何が分かる!」

 

 ──だよな。

 部外者のペテン師が何を言ってるって思うだろう。

 だったら──俺がこの村の闇を全部祓ってやる。

 

 その瞬間、奥の闇がざわりと揺れ、湿った空気が一気に重くなった。

 甘ったるい臭気がきつくなる。

 寝台の女たちの指先がぴくりと動き、唇から微かな呻きが漏れた。

 

「来やがったな」

 

 闇の奥から、ぬらりと黒い影が這う。

 湿った笑い声と共に、細長い触手が村長の顔めがけて伸びた。

 村長の肩がびくりと震えた。

 触手は彼女の口元へ一直線に迫る。

 女しか狙わない魔族のやることなんて、狙いは明確だ。

 

「させるかよ!」

 

 俺は一歩踏み込み、村長を背中で押しやった。

 舌が俺の胸元に絡みつき、冷たい粘液が肌を濡らす。

 次の瞬間、魔族の意志が俺の中に突き刺さる。

 

『……なぜ男に……!?』

 

 低く湿った声が、腹の奥で震える。

 腹の奥が焼けるように痺れる。

 甘く濡れた感覚が神経を這い回り、背骨を駆け上がる。

 熱が下腹部から這い上がり、胸の奥まで満ちていく。

 呼吸が浅くなり、膝が震える。

 羞恥と痺れが意識を揺らす。

 

 背後で村長の驚愕の息が震えていた。

 

 光魔法を放ち、舌を弾き飛ばす。

 触手が悲鳴を上げ、黒煙を上げて崩れ落ちた。

 

「穴があれば誰でも良いってか。

 節操なしの下半身野郎」

 

 吐き捨てると、残骸はじゅうっと音を立てて溶け、動かなくなった。

 

 村長が息をつき、低く問う。

 

 「……これで、終わったのか。

 あの時も一度は静まった……だが、また始まった。

 今度こそ……終わっていてほしい」

 

 俺は首を振った。

 

「まだだ。胸騒ぎがする。

 この小屋に結界を張る。村人全員、ここに隠れてろ」

 

 村長は一瞬ためらったが、俺の目を見て頷いた。

 

 

 

 

 

 泉の縁に立った瞬間、足元の泥がぬかるみ、冷たい水気が靴底から染み上がってきた。

 干上がっていたはずの泉が、不自然に波打っている。

 水面の揺れは風ではない──底から何かが息をしている。

 

 次の瞬間、轟音。

 水柱が天へ突き上がり、飛沫が頬を打つ。

 その中から現れたのは、水と闇が絡み合った巨躯。

 立ち上がるたび、全身から滴る水が地面を叩き、ぬかるみを広げていく。

 

『また会ったな、小僧……』

 

 低く湿った声が、泉全体を共鳴させる。

 無数の舌のような水流がうねり、俺を舐めるように視線が上下する。

 

『我は水魔、ケートス。先ほどのは切り離した端末だ。教会の連中も、あれを浄化して満足していたな』

 

 水飛沫の奥で、目が細まり、笑みとも嘲りともつかぬ歪みが浮かぶ。

 

『よりによって……男に乗り移るとは屈辱だ。女の器だけを穢すのが、我の愉しみだというのに』

「悪趣味だな。だが──もう二度とさせねぇ」

 

 俺は光魔法を撃ち込む。

 白い閃光が水面を裂き、ケートスの肩口を抉る──が、傷口は瞬く間に水で塞がった。

 焼け石に水。まさにその通りだ。

 

 ケートスが嘲笑と共に巨体を揺らす。

 水面が爆ぜ、波が押し寄せ、足元をすくう。

 踏ん張りながら防御と攻撃を交互に繰り出すが、動くたびに水が絡みつき、体温を奪っていく。

 冷えが骨まで染み、体力の消耗が早い。長引けばこちらが先に沈む。

 

 四方から蛇のような触手が迫る。

 一本を斬り払った瞬間、別の一本が顔の横をかすめ、頬をなぞった。

 

『……どこかで見た面構えだと思えば――あの“慰み者”の子か。

 死んだと聞いていたが、やはり生きていたのだな』

 

 ぬめる冷たさが皮膚を這い、耳元で湿った声が低く響く。

 

『血は争えぬな。顔だけは悪くない。男なのは惜しいが』

 

 次の瞬間、首に氷のような帯が巻き付き、容赦なく締め上げられる。

 

『死ね』

 

 喉が潰れそうな圧迫に、息が詰まり、視界が揺らぐ。

 必死に振り払おうと腕を動かし、光魔法を込めた瞬間──

 腹の奥で燻っていた疼きが、不意に鋭く跳ね上がった。

 熱が一気に広がり、背筋を駆け上がる。

 その変化を、絡みつく触手が敏感に捉えた。

 

『……ほう。これは』

 

 その呟きには、先ほどまでの殺意とは別の色が混じっていた。

 首を締め上げていた圧が僅かに緩み、代わりに触手が肩から腰へと這い回る。

 水の冷たさが衣の下にまで染み込み、肌をなぞる。

 押さえつけるだけではなく──形を変えて探り、確かめ、愉しむような執拗さを帯びていた。

 

『興味深い。人間には珍しい構造だな……』

 

 低く湿った声が、耳の奥に絡みつく。

 硬く締め上げる冷たい帯が、男としての象徴を容赦なく圧迫し、力を奪っていく。

 同時に、別の流れが内奥の柔らかな部分をなぞり、熱を孕ませる。

 冷たさと熱が交互に押し寄せ、呼吸が乱れる。

 胸が上下するたび、羞恥が増していく。

 

「……っ、あ……!」

 

 奥を突かれた瞬間、喉の奥から不本意な声が漏れた。

 反射的に腰が逃げ、股を庇うように身じろぎが大きくなる。

 だが、その動きすらケートスには愉悦の種でしかなかった。

 

『ならば決めた。お前は女として仕立ててやろう。あの慰み者のように、屈服させてやる』

 

 下腹部を締め上げる冷たい圧が、男の部分をさらに押し潰す。

 同時に、柔らかくぬかるんだ奥を、別の流れが執念深く這い回る。

 そこだけがじわじわと熱を帯び、脈打つ感覚が意識にのぼる。

 

「……っ、舐めんなよ!」

 

 短く息を呑み、足元の水を蹴って魔力を爆ぜさせた。

 閃光が走り、絡みつく触手の一部が弾け飛ぶ。

 僅かな解放──しかし、ケートスはすぐに別の触手で補い、締め付けを強めた。

 

 瑠璃のペンダントが淡く光るが、感触までは誤魔化せない。

 目ざとく気付いた触手が胸元を這い、俺の胸元の瑠璃のペンダントに触れる。

 

『その石……込められているのは擬態の魔法か。しかもこれは、あの慰み者の魔力か』

「……黙れ」

 

 防御魔法を使うが、侵入は止まらない。

 背後の空気が重く沈み、逃げ場のない檻のように閉じていく。

 腰を絡めた触手が、外側を締め上げながら、内側の別の場所だけを執拗に刺激する。

 魔法を使うたび、奥の疼きが強まり、熱が脊髄を駆け上がる。

 

「……っ、ん……!」

 

 奥を突かれ、体がびくりと跳ねる。

 意に反した体の反応を悟られまいと歯を食いしばるが、締め付けは強まり、熱は逃げ場を失って張り詰める。

 

『濡れているな……流石あの慰み者……下等な淫魔の子だけある』

「……確かに俺の母親は淫魔だ。

 でも、お袋は喘いだんじゃない。

 お前みたいな下衆に、喉が潰れるまで叫ばされたんだ」

「貴様……!」

 

 触手の動きが荒くなり、冷たい魔力が体内に流れ込み、器をこじ開ける。

 甘く、苦く、熱い感覚が全身を走る。

 それは痛みと屈辱、そして否応なく混ざる別の感覚。

 

『女の精は甘い。命は濃い。血は熱い。

 それが魔力になる。我はそれを喰らう。

 それが本能だ』

 

 魔族はさらに潜り込み、粘りつく魔力が神経を這い回る。

 締め上げられる感覚と弄られる感覚が交互に押し寄せ、腹の奥が切なく疼く。

 

『どうだ……器の奥まで、我が魔力が染み渡る感覚は』

 

 嘲る声と共に、圧迫がさらに強まる。

 羞恥と屈辱が胸を焼く──だが、俺はその奥で、次の一撃のために魔力を練っていた。

 

「……っ、まだ……終わらねぇ!」

 

 一瞬、全身の魔力を外へ解放する。

 閃光と共に、絡みついていた触手の根元が弾け、ケートスの巨体がわずかにのけぞった。

 その隙に息を吸い込み、体勢を立て直す。

 だが、ケートスはすぐに別の触手を伸ばし、さらに深く抉り込んできた。

 

『足掻く様も悪くない……だが、結末は変わらぬ』

 

 その言葉と同時に、下腹部を押し潰すような圧迫が加わった。

 氷のように冷たい水が腰回りを包み込み、外側から膀胱を締め上げる。

 内部は熱に焼かれたように脈打っているのに、外は冷たく、感覚がちぐはぐに揺さぶられる。

 

 ──狙いが何か、すぐに分かった。

 反射的に下腹に力を込めようとするが、全身を絡め取る触手がそれを許さない。

 腰や背を僅かに捻られ、力の入りにくい体勢へと無理やり持っていかれる。

 ケートスはわざと俺の重心をずらし、腹筋に力を集められないようにしていた。

 

 それでも必死に下腹部へ力を送る。

 だが、その瞬間、男性としての象徴を締め上げていた圧がふっと緩み、代わりに下腹の奥を外側から押し込まれる。

 同時に、内側の別の場所からも膀胱を押し上げるような圧迫が加わった。

 二方向からの挟み込みに、制御が一気に崩れる。

 

 冷たい外気と水の中で、そこだけが熱く、そして──足元に温かさが広がった。

 水音に紛れて、自分でも信じたくない感覚が伝わってくる。

 

「……っ、あ……」

 

 喉の奥から、抑えきれない小さな声が漏れた。

 羞恥が一気に胸を焼くが、体は裏切るように熱を帯びていく。

 淫魔の血か、屈辱すらも倒錯した快感に変えてしまう。

 ケートスの視線が、濡れた衣の奥まで見透かすように絡みつく。

 

『ふふ……やはり女の器だな』

 

 その一言が、胸の奥を鋭く抉った。

 触手が外と内から容赦なく抉り、冷たさと熱が交互に押し寄せる。

 戦いの中で何度も魔法を放ったせいで、腹の奥には熱が溜まりきっていた。

 疲労で抑えが効かず、そこへ追い打ちのように刺激が重なる。

 

 奥底で膨れ上がった熱は、もう形を保てないほどに膨張していた。

 出口を塞がれたまま、内壁を叩き、擦り、暴れ回る。

 触手が跳ねるたびに、腹の奥がじわりと痺れ、全身の筋肉が反射的に震える。

 

 視界の端がじわじわと白く侵食され、輪郭が溶けていく。

 耳に届くはずの水音も、飛沫の冷たさも遠のき、代わりに自分の鼓動だけがやけに大きく響く。

 その鼓動は熱の波とぴたりと重なり、押し寄せるたびに奥を突き上げるようだった。

 

 服はもう、ただの水濡れではない。

 冷たい布地の下に、別の温かい湿りが広がり、肌に貼り付く。

 動くたびにぬるりとした感触が走り、そこからまた熱がせり上がる。

 その熱は、羞恥と屈辱を溶かしながら、甘く痺れる快感へと変質していく。

 

 ──やめろ……!

 

 心は拒絶しているのに、体は裏切るように高ぶりを増していく。

 時間の流れがねじれ、瞬き一つが永遠のように長い。

 熱はさらに密度を増し、皮膚の下を這い回りながら、逃げ場を求めて暴れ続ける。

 胸の奥から喉元まで、焼けた空気がせり上がってくる感覚に、呼吸が浅くなる。

 

 ──もう、持たない。

 

 限界を超えた瞬間、腹の奥で張り詰めた何かが破裂した。

 屈辱と快感が渦を巻き、爆ぜた熱が奔流となって全身を駆け巡る。

 絡みつく触手の内側から逆流する力に、ケートスの巨体がのけぞり、咆哮が泉を震わせる。

 

『──ッ!?』

 

 水と闇が裂け、触手が弾け飛ぶ。

 俺は間髪入れず光槍を叩き込み、泉の中心を貫いた。

 閃光が水面を裂き、暴風のような波が四方へ吹き荒れる。

 

 だが──ケートスはまだ沈まなかった。

 巨体を震わせ、周囲の水を一気に巻き上げる。

 渦巻く水流が壁のように立ち上がり、俺を包み込もうと迫る。

 同時に、残った触手が蛇のように伸び、再び腰と首を締め上げた。

 

『まだだ……このまま沈めてやる……!』

 

 冷たい水が肺を圧迫し、視界が暗く染まる。

 だが、腹の奥で暴れ狂う魔力は、もはや止められなかった。

 熱はさらに膨れ上がり、渦巻く水を内側から押し返す。

 

『な……何だ、この力は──』

 

 ケートスの声が震える。

 俺の全身から溢れ出した光が、水の檻を内側から焼き裂き、触手を粉砕していく。

 その光は泉全体を満たし、逃げ場を奪うようにケートスを包み込んだ。

 

『グオオオォォォォ……ッ!! 穢らわしい……どちらにもなりきれぬ……淫魔と人間の混じり物め……!』

 

 断末魔と共に、ケートスの巨体は崩れ落ち、黒い水煙を上げながら溶けていった。

 

 泉の底から、ぽたり、と水音が響く。

 干上がっていた泥がじわりと濡れ、透明な水が糸のように湧き出す。

 村を枯らしていた呪いが解けたのだ。

 

 俺はしばらく、その音を聞いていた。

 戦いの喧騒が消えた今も、腹の奥ではまだ疼きが燻っている。

 呼吸を整えようと深く息を吸うたび、胸の奥で熱がくすぶり、皮膚の下を微かな震えが走った。

 

 瑠璃のペンダントが胸元で冷たく揺れ、淡い光を放っていた。

 ──視覚を惑わせる術式が込められた、形見のペンダント。

 だが、戦いの最中に触れられた感触までは隠せない。

 その事実が、今さらながら胸の奥をざらつかせた。

 

 視線を落とすと、衣の内側に広がる湿りが、否応なくあの瞬間を思い出させる。

 屈辱と共に生まれた力で勝ったはずなのに、勝利の味は苦く、重い。

 それでも──生き延びた。

 そして、あの下種を倒した。

 

 泉の水面に映る自分の顔は、まだ僅かに紅潮していた。

 理性と誇りを取り戻すように、俺はそっとペンダントを握りしめる。

 冷たい感触が、胸の奥の熱を少しだけ鎮めてくれる気がした。

 

 

 

 

 

 夜明け前。

 空はまだ群青を残し、東の端だけが白み始めている。

 冷えた空気の中、俺は泉の縁に立った。

 

 昨夜の水音は幻じゃなかった。

 泉は澄み切った水を湛え、薄明の光を受けて淡く揺らめいている。

 水面はまるで生き物のように呼吸し、底の石までくっきりと見えた。

 

「……終わったな」

 

 泉の水面を見下ろし、小さく呟く。

 水は静かに揺れ、昨夜の戦いを何も知らないかのように澄んでいた。

 

 やがて、足音が近づく。

 眠たげな顔の子供、肩を寄せ合う男たち、杖をついた老婆。

 最初は恐る恐る──そして、誰かが声を上げた瞬間、歓声が広がった。

 

「水だ……!」

「泉が……戻った!」

 

 老婆が膝をつき、震える手で水をすくって口に運ぶ。

 若い男が泥を払い、子供たちは裸足で水際を駆け回る。

 笑い声が、長く乾いていた村に染み込んでいく。

 

 小屋に横たわっていた女たちも、顔色を取り戻し、ゆっくりと身を起こしていた。

 頬に血色が戻り、乾いていた唇が笑みを形作る。

 その光景を見て、村人たちは泣きながら抱き合った。

 

 俺は膝をつき、両手ですくった水を口に含む。

 冷たく澄み切っていて、喉を通る感触は心地よい。

 だが──腹の奥の疼きは、何ひとつ変わらなかった。

 炉はまだ、静かに、しかし確かに脈打っている。

 

(……無駄骨か。それでも、こいつらが助かったなら、それでいい)

 

 水面に映る自分の顔は、夜明けの光に淡く溶けていた。

 背後では、村人たちの歓声が続いている。

 その温もりを背に受けながら、俺は静かに立ち上がった。

 

 村長が近づき、声をかける。

 

「……借りができたな」

 

 その声は、昼間よりもずっと柔らかかった。

 だがすぐに、わざとらしく咳払いをして言い直す。

 

「勘違いするな。ワシはまだ、お前を全面的に信用したわけじゃない。……だが、今夜くらいは礼をさせろ。宴を開く」

 

 俺は口の端を上げた。

 

「良い酒を飲ませろよ」

 

 村長は鼻を鳴らし、背を向ける。

 その歩みは、昼間よりも遥かに軽やかだった。

 

 

 

 

 

 夕刻。

 村は久しぶりの活気に包まれていた。

 広場の中央には長い卓が並び、焚き火が赤々と燃えている。

 鍋からは湯気が立ち上り、香草を添えた肉の匂いが漂う。

 子供たちは笑いながら走り回り、男たちは酒を酌み交わし、女たちは歌を口ずさんでいた。

 

(……派手にやりすぎたな。教会に嗅ぎつけられてるかもしれねぇ)

 

 村の笑顔を眺めながら、俺は杯を傾けるふりをして、意識の奥では別の術式を回していた。

 足跡、魔力痕、接触した物──村に残した俺の痕跡を、遠隔で一つずつ消していく。

 さらに、村人一人ひとりに近づき、何気ない言葉を交わしながら、その肉体に薄い霧のような印を置く。

 それは今は何の変化も起こさない。

 だが──俺の姿が視界から消えてしばらく経った時、静かに広がり、記憶の輪郭を削り取る。

 名前も、顔も、声も、曖昧な影に変える。

 

(……これで、俺が消えた後、この村は俺を思い出せなくなる)

 

 去るべきか、居座るべきか──逡巡はあった。

 だが、あと一日だけなら……そう思い、俺は席に着いた。

 

「異端審問官様、本当にありがとうございました」

 

 老人が深く頭を下げ、子供が焼き団子を差し出す。

 俺はそれを受け取り、焚き火の赤に照らされた笑顔を見た。

 ──違う、と言いかけて、やめた。この笑顔を壊す必要はない。

 

「村に活気が戻ったのは貴様のお陰だ」

 

 村長は不器用に礼を言い、俺は杯を受け取った。

 杯を傾ける。

 疼きは消えないが、今だけは忘れてもいいと思えた。

 騒げば教会に目をつけられる危険はある。

 だが、この温もりを拒む理由もなかった。

 

 笑い声と杯の音が夜空に溶け、火の粉が星のように舞う。

 村の空気は、長い飢えと恐怖を越えた者だけが持つ、安堵と高揚に満ちていた。

 

 ──その時だった。

 広場の外から、規則正しい足音が近づいてくる。

 笑い声が途切れ、視線が一斉に暗がりへ向いた。

 

 焚き火の明かりに照らされ、月光を背にした兵士たちが現れる。

 四、五歩間隔で横一列に並んだ兵士は、槍や剣を構え、無表情で村を見据えていた。

 その列の中央、最前列から一歩進み出たのは、白い法衣を纏った異端審問官。

 銀の鎖を手に、その瞳は氷のように冷たい。

 

「この村は、献金も払わず、悪魔を囲っていた異端の村──焼き滅ぼす」

 

 村人たちが凍りつく。

 誰かが椀を落とし、汁が地面に散った。

 老婆が震える手で子を抱き寄せ、若者が立ち上がりかけては座り込む。

 

 審問官の視線が、まっすぐ俺を射抜いた。

 その目は、到着前から答えを決めていた者のそれだ。

 

「我らはこの村にまだ審問官を派遣していなかった。

 だが、強い魔力反応と戦闘の光を遠くで見た。

 着いてみれば、魔族は既に倒されていた──教会の者でもない男の手でな。

 魔族を倒せるのは神聖魔法か、同族だけだ。

 しかもその服装……この村の者ではない旅装。

 そして、その顔立ち──人を惑わすほどの美貌は淫魔の特徴だ」

 

 ざわめきが広がる中、俺は一歩前に出た。

 

「異端は俺だ。村は関係ない」

「異端審問官様、ワシらを庇って……」

「その男は異端審問官ではない。──魔族だ」

 

 本物の異端審問官の断言に、一瞬空気が凍る。

 

「悪魔……!?」

「そんな、嘘ですよね」

 

 昼間、俺の説教を聞き、涙を流していた顔もある。

 泉を蘇らせたのを見ていたはずの目だ。

 だが、その瞳には迷いが揺れていた。

 

 村長が前に出る。

 皺だらけの顔に怒りを浮かべ、審問官を睨みつけた。

 

「泉が枯れた時は遅かった癖に……殺しに来る時だけは早いのか!」

 

 兵士の一人が眉をひそめ、槍を構える。

 村長の胸を狙い、踏み込んだ。

 

(……やめろ)

 

 胸元のペンダントに込められた擬態魔法を一時的に解く。

 抑え込んでいた魔力が一気に解放され、夜気が震えた。

 全身を駆け巡る脈動が、甘く痺れる熱となって肌を撫でる。

 

 その瞬間、審問官の腰の聖具が淡く光り、澄んだ音を立てた。

 兵士たちの目が見開かれる。

 

「……今の反応、間違いない。魔族だ」

 

 その声を合図に、兵士たちが一斉に動いた。

 背後から、横から、正面から──鋭い槍先が何本も突き込まれる。

 背中を貫き、脇腹を裂き、胸を突き破る。

 厚手の上着も容易く裂け、布切れと血飛沫が焚き火の赤に舞った。

 

 肺の奥で熱い血が泡立ち、視界が白く弾ける。

 痛みが脊髄を駆け上がり、下腹に重く熱い衝撃が広がった。

 

 兵士たちは槍を引き抜き、さらに布地を裂く音が夜気に混じる。

 それでも、俺は膝を折らない。

 胸や腹から温かいものが流れ落ちる感覚だけが、やけに鮮明だった。

 

「……何本も刺したのに、まだ……立ってやがる……」

「悪魔だ……」

 

 兵士の呟きに、村人たちの顔から血の気が引く。

 恐怖と混乱が広場を覆った。

 

 俺は笑った。

 血の味を舌に感じながら、悪ぶった笑みをわざと見せつける。

 

「こんな馬鹿な連中に、教会を出し抜いて魔族と手を組む度胸があるわけねぇだろ。全部──俺がやったことだ」

 

 杯を投げ捨てると、村人たちの顔に怒りとも悲しみともつかない影が走る。

 それでいい。憎まれた方が、後腐れはない。

 

 審問官が手を上げ、兵士たちが俺を押さえ込む。

 冷たい鎖が手首に掛けられた。

 金属は氷のように冷たく、肌にぴたりと張り付く。

 

「殺すのは後だ。教会に連行して余罪を洗いざらい吐かせる」

 

 ──この場で記憶を消して逃げることはできる。

 だが、それをすれば、この村は教会の疑いから逃れられず、結局は滅ぼされる。

 俺がいなくなった後、残るのは焼け跡と泣き声だけだ。

 

(……見捨てるくらいなら、鎖に繋がれた方がマシだ)

 

 泉の水面が月を映し、静かに揺れた。

 温もりは背後に残し、俺は引き立てられるまま歩き出す。

 

 背後で村人たちのざわめきが遠ざかっていく。

 怒号でも罵声でもない──押し殺した息と、言葉にならない戸惑いの音。

 

 村長が半歩踏み出しかけ、唇を噛んで立ち止まった。

 焚き火の音にかき消されそうなほど小さく、「……すまん」と呟く。

 俺は振り返らない。聞こえなかったことにする。

 

 夜道は冷え、湿った土が靴底にまとわりつく。

 足を引きずるたび、鎖が鳴った。

 やがて、後ろから乾いた音が走る。

 

 ビシッ──。

 背中に焼けるような痛みが走り、裂けた布地がさらに裂け広がる。

 銀細工を埋め込んだ革の先が、衣の繊維を容易く断ち切り、皮膚に食い込む。

 熱い血が布の下でじわりと広がり、冷えた夜気に触れて痛みが増した。

 

「歩け、魔族」

 

 足が止まるたび、鞭が飛ぶ。

 肩、脇腹、腿──破れた衣の隙間から直接肌を打たれ、肉が裂ける。

 腹の奥で炉が低く脈打つ。

 暴れたがっているのが分かる。

 だが、ここで暴れれば村が終わる。

 

 歯を食いしばり、足を前に出す。

 鎖の冷たさと鞭の熱が交互に肌を焼く。

 兵士たちは無言で歩調を合わせ、審問官は一度も振り返らない。

 

 やがて森を抜け、月明かりに白い尖塔が浮かび上がった。

 石造りの壁は夜でもなお冷たく、拒絶の気配を放っている。

 

(さて……どんな見世物にされることやら)

 

 口の端を僅かに吊り上げ、俺は足を進めた。

 背後に残した温もりは、もう二度と戻らないかもしれない。

 それでも──あの笑顔を守れたなら、賭けた甲斐はあった。

 

 

 

 

 理人が鎖に繋がれ、村の視界から消えてから──どれほど経っただろう。

 泉の縁に集まった村人たちは、澄んだ水面を見つめていた。

 

 だが、昨夜の宴に誰がいたのか、泉を蘇らせたのは誰だったのか──

 思い出そうとしても、霧の中の夢のようにぼやけていく。

 

 白い法衣の異端審問官が来たような気がする。

 誰かが助けてくれたような気もする。

 だが同時に、その人物は悪者だったような気もする。

 何があったのか、はっきりとは思い出せない。

 

 ただ、泉が澄んでいることだけが、確かな事実として残っていた。

 村人たちはその水をすくい、静かに祈りを捧げる。

 誰に向けた祈りなのか──それすら、もう分からなかった。

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