淫魔の王 作:Licht
鈍い下腹部の疼きを抱え、俺は歩いていた。
昨夜の逃走劇における魔法の乱用、異端審問官による苛烈な凌辱、そして先ほどまで見ていた淫夢の甘い残滓――。
それらすべてが体の奥底でじわじわと燻り、人間としての根源的な欲求を突き動かしている。
「腹、減った……」
声に出してみても、喉の渇きは少しも紛れない。
人と同じ肉の作りをしながら、魔族の血を引くこの身体は、魔力さえあれば力尽きることなどない。
死ねないという呪いは、飢えや渇きといった当たり前の苦痛を延々と引き延ばし、その代償として、禍々しい熱を身体の奥底から引きずり出してくるのだ。
俺は力尽きたように、湿った土の上に膝をついた。
視界の端で、朝露に濡れた名もない野草が揺れている。
「……食えれば何でもいいだろ、俺みたいな奴は」
自嘲を吐き捨て、震える手を伸ばした。
一本摘み取り、泥を払う余裕すらなく奥歯で噛み締める。
舌を刺すようなえぐみと、土のざらついた感触が口中に広がった。毒草ではないにしろ、とても食べ物とは言えない。
胃を誤魔化すことすらできない虚しい咀嚼音が、森の静けさに生々しく響く。
飲み下そうとした、まさにその瞬間――脳裏に昨夜の光景がフラッシュバックした。
代わる代わる男たちの欲望を突き立てられ、熱い白濁を喉の奥まで流し込まれた、あの悍ましくも甘美な充填感。
空腹を抱えて不味い野草を咀嚼する苦痛が、魔族の血を通じて、雌としての飢えを満たそうとする渇欲へと変換されていく。
「っ、ふざけるな……!」
俺は手に持っていた野草を、己の弱さを塞ぐように口の中へ押し込んだ。
甘美な精を求めるのではない。あくまで人間として、惨めに、不味いものを食べて生きるのだ。
「……ッ、ゴホッ、ウ、クッ……!」
繊維が喉を突き、強烈な嘔気が込み上げる。
それでも無理やり胃へ流し込むことで、俺は自分がまだ人間の側に立っていると信じたかった。
――本当は分かっている。
こんな草など、今の俺の栄養には一滴もなっていない。
今こうして立っていられるのは、無意識に足りないエネルギーを魔力で補っているからだ。
だが、魔力を練るたびに、その代償として内側の本能が少しずつ、確実に俺の精神を甘く浸食していく。
「汚らわしいな。これじゃ迫害されても文句は言えねぇ」
口の中に残った青臭さを吐き捨てるように息をつき、俺は重い身体を引きずって立ち上がった。
村へ続く道は、今の俺には絶望的なほど遠く霞んで見えた。
どれほどの時間、森の中を彷徨っていたのだろう。
足裏の感覚はとうに麻痺し、思考は霞のように散り散りになりながらも、ただ前へ進むという本能だけが身体を動かしていた。
ようやく木々の切れ間が現れ、顔を上げると、村を囲む魔族避けの結界が薄く大気を歪ませていた。
淡い光の膜が揺らぎ、風もないのに草木がざわめく。
人を守るための障壁魔法――本来なら、俺のような魔性を拒むはずのものだ。
だが、俺は淡々とその境界をくぐり抜けた。
不浄を弾くはずの障壁は、今の俺をただの疲れ切った旅人として扱い、何の抵抗も示さなかった。
昨日のように、魔族を浄化する神聖魔法をぶつけられても、傷つくどころかすり抜けるようにして何のダメージも受けない。
人を襲わずに生きようとしてきたためなのか、それとも混血の半端者だからなのかは、未だに分からない。
だが、その障壁を完全にまたぎ越した、まさにその瞬間だった。
大気の歪みの内側、生い茂る藪の陰から、不意に『ガサリ』と何かが動く微かな音が鼓膜を叩いた。
「――っ、誰だ!」
低く鋭い声を上げ、咄嗟に身構える。
気配のした生い茂る藪の陰、魔族避けの結界の内側に、どろりとした悍ましい気配が膨れ上がる。
「ギ、チ……、ギギィッ……!」
肉が腐ったような悪臭と共に、数条の醜い角を生やした下級の魔族が、音もなく眼前に躍り出てきた。
村の防壁であるはずの結界をすり抜け、内側に潜み込んでいたのだ。
(結界の中に、魔族だと……!?)
結界の内部に平然と魔族が存在している異様な光景に一瞬、肝を冷やす。
だが、化け物が牙を剥くより、俺の身体が動く方が早かった。
「――失せろ」
手のひらから鋭利な光の刺突魔法を放つ。
白き魔力が矢となって大気を切り裂き、魔族の眉間を正確に貫いた。化け物は塵すら残さず、あっけなく光の粒子となって霧散する。
「はぁ、……っ」
熱い息を吐き出す。
一瞬だけ練り上げた魔力の代償として、下腹部がキュンと切なく疼き、内腿を甘い熱が伝っていく。
空腹で体力が底を突いている今、一発の魔法すら使いたくはなかったが、生き延びるためには仕方がなかった。
乱れる息を整えながら、先ほど越えた結界に触れてみる。
術式を確認するが、確かに防衛の魔力は正しく作動し、作用している。
念のため、さらに自身の探知魔法を薄く広げてみるが、周囲に他の魔族の気配はなかった。
(どういうことだ……。この程度の魔族が、この規模の結界をすり抜けられるわけがない)
機能は完全に生きている。それなのに、なぜ結界の内側に魔族が入り込めていたのか。
俺がいたから瞬殺して事なきを得たが、このままでは村の連中は気付かぬうちに全滅しかねない。
不可解な歪さに不穏な予感を覚えつつも、一応、村の様子をこの目で確かめてみるかと考え、再び歩き出そうとした。
だが、思考に没頭する暇は与えられなかった。
突如、すぐ近くの茂みから、凄まじい勢いで人影が飛び出してきたからだ。
「きゃっ!? わ、わわっ……!」
小柄な影が、俺の胸元へ容赦なく突っ込んでくる。
衝撃で俺はよろめき、相手の少女は派手に俺の身体に乗り上げる形で、二人して地面に転がった。
その手から溢れた山菜や買い出しの荷物が、泥の上に散らばる。
重なるようにして倒れ込んだ衝撃の最中、少女の華奢な身体が、俺の最も過敏になっている下腹部を強く圧迫した。
「──っ!?」
痛みはない。だが、昨夜の残滓を孕んだままの、魔力発動で臨界寸前だった「ナカ」が、その直接的な刺激に激しく跳ね上がった。
脳裏が白く染まるほどの快楽的な衝撃が容赦なくこみ上げ、俺は奥歯を噛み締めて、声にならない悲鳴を喉の奥で押し殺した。
肉体が浅ましくうねりそうになるのを、精神の力だけで必死にねじ伏せる。
「う、うわああん、ごめんなさいっ! わたし、また前を見てなくて……!」
少女は慌てて俺の上から退き、泥の上に尻もちをついた。
俺はフードの陰で必死に荒い呼吸を整えながら、鋭い眼光を彼女に向けたが、少女は「本当に、すみませんでしたっ!」と平謝りするばかり。
その呑気な様子を見るに、さっきの魔族との戦闘を見られたわけではなさそうだ。
もし見られていれば、こんなに声を上げてはいられまい。
「おい、あんた、大丈夫かよ」
低い平静な声を装いながら、地面に散らばった彼女の荷物を拾い集める。
少女は慌てて荷物の中から何かを取り出し、おずおずと俺の前に突き出してきた。
「あのっ、ぶつかっちゃったお詫びに、これ! 差し上げます!」
勢いよく差し出されたものを見つめ、俺は露骨に眉を引きつらせた。
少女の細い手のひらに乗っていたのは、食べ物でも何でもない、鈍い銀色に光る無機質な『金属のボルトと、古びた鉄の歯車』だった。
「……おい。てめぇは俺に、この錆びかけた鉄クズを喰えって言ってんのか?」
俺の冷ややかな突っ込みに、少女は一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「あ、あはははっ! すみません! ご飯は持ってきてなかったんでした!
間違えて買い出しの修理部品を出しちゃって……あはは、本当にお恥ずかしいです!」
わざとらしく頭を掻いてまくしたてる、必死の弁明。
必死に笑っているが――その瞬間、彼女の衣服の隙間、激しい動作でめくれた袖口の奥から覗く、無数の歪な痕が目に留まった。
「お前……なんだその怪我」
手首に残る、皮膚の奥深くまで色素が沈着したような青黒い指の痕。
首元や足首に散る、かつて激しく打ち据えられてそのまま歪に固まったような生々しい古傷の痣。
最近できた傷ではない。数年単位の長い時間を経てなお、消えずに残り続けている不自然な暴力の痕跡だった。
「あ、これですか? わたし、本当にドジで、この前も山菜採りで崖から派手に転がり落ちちゃって。
村のみんなにもいつも怒られてばかりなんです。あはは!」
俺はフードの陰から、彼女の姿を静かに観察した。
自分と大して年の変わらない小柄な少女が、一人きりで山道の買い出しに出され、その細い身体には不釣り合いなほどの重い大荷物を持たされている。どう見たって、訳ありだろう。今の言い訳も、どこまで本当だというのか。
胸の奥に少女への同情と、それに伴う不快感が広がる。
だが、これ以上余計な詮索をして、過去の古傷で彼女を追い詰めるつもりはなかった。
「……そ。ならいいけどな」
「じゃ、わたし急ぎますね! またどこかで!」
慌ただしく駆け出す少女。
案の定、三歩目で派手につまずき、転びそうになりながらも、なぜか絶妙なバランスで体勢を立て直して走り去っていった。
(……なんだあいつ。妙に図太いというか……)
計算されたかのようにも思えるドジな振る舞いと、不自然なほどの満面の笑顔。
胸の奥に奇妙な違和感の火種を燻ぶらせながらも、俺は彼女が消えた、活気付く村の方へと重い足取りを向けた。
広場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
森の湿り気と土の匂いしかなかった世界に、まるで別の層の大気が重ねられたように、温かく濃厚な香りが一気に流れ込んでくる。
肉と野菜が煮崩れる、甘く芳醇な香り。
焼きたての白パンが放つ、香ばしい匂い。
立ち上る湯気の向こうで交わされるのは、満ち足りた人々の笑い声だ。
世界に広く信仰されている宗教――唯一神を頂く『女神教』の聖職者たちによる、無償の炊き出しだった。
「なんて美味しいんだ……」
「不浄の魔族を倒す聖なる力だけでなく、豊かな自然の恵みをもたらした女神様に感謝を」
「神の奇跡は、今日も私たちを飢えから救ってくださる」
人々は涙ぐみながら、広場の中央に掲げられた純白の神像へ祈りを捧げ、神聖魔法がもたらした豊かな実りに感謝しながら、次々と皿を空にしていく。その光景を、俺はフードの陰から冷めた目で見つめていた。
見上げる神像の神々しい姿が、ガキの頃から耳にタコができるほど聞かされた「創世の神話」を、否応なく脳裏に引きずり出してくる。
かつて世界は、魔族の王である魔王によって滅亡の危機に瀕していた。
その暗黒の時代に女神が地上へ降臨し、人々に大地の恵みと魔を祓う神聖魔法を授け、死闘の末に魔王を討ち滅ぼした――とされる。
女神の慈愛を称え、再び彼女が降臨する救済の日を信じて祈ること。
それが女神教の絶対の教義だ。
すべての人を救う。魔を根絶し、世界に秩序をもたらす。
彼らの掲げる大義は、この世界において絶対の正論だ。
実際、人を襲う凶暴な化け物でしかない魔族から人間が生き延びるためには、異端審問官を各地へ派遣して魔を狩り、秩序を維持するしかないのだから。
ただ――その「すべての人」という救いの枠組みから、俺の両親はこぼれ落ちていただけの話だ。
人を襲わない奇特な魔族と、その魔族を信じた人間。
多数派の人間を守るための正義にとって、そんなほんの一握りの例外など、ただの不確定要素でしかない。
弾かれ、排除され、見せしめのように焼かれるのは、この世界の仕組みとして仕方のないことなのだろう。
(神の恵み、ね。……分かっちゃいるが、俺には一生縁のない話だ)
頭では理解していても、割り切れるほど達観はできていない。
足を無理やり逆方向へ向ける。列に並び、その施しを乞う自分を想像しただけで、胸の奥がざらついた。
……いや、正直に言えば、ほんの一瞬だけ迷った。
腹が減りすぎて、視界がぐにゃりと歪むほどだったからだ。
あの湯気の向こうに並べば、たった一杯のスープでも、この冷え切った身体はどれほど楽になるだろう――そんな弱気が、喉の奥で小さく蠢いた。
だが、すぐに自分でその思考を叩き潰す。
(……馬鹿を言うな。今さらあの連中の施しに縋ってどうする)
それに、大鍋の中身はもう残り少ない。
今から並んだところで俺の皿に届くはずがない――そう自分に言い聞かせることで、惨めな弱気を強引に押し殺した。
(まずは仕事でも探すか。……都合よく金でも落ちてりゃいいんだがな)
独りごちながら、賑わう広場を背にして通りを歩く。
足取りは鉛のように重く、腹の奥で疼く熱が脈動するたび、意識の端々が煤けていくようだった。
旅を始めてから、まともに飯にありつけないことなど何度もあった。これくらいでへこたれてたまるか。
そう自分に言い聞かせ、奥歯を噛み締めて地面を睨み据えた、まさにその瞬間――。
視界の端に、極めて不快な光景が飛び込んできた。
裏通りの湿った壁際。
先ほどの少女が、脂ぎった顔の男に胸ぐらを掴み上げられていた。
「や、やめてください……!」
男は盗賊崩れの小汚い風体で、震える少女を相手に尊大にのけぞっている。
「この女……! この《滅刃の豆蔵》様にぶつかっといて、タダで済むと思うなよ?」
「ごめんなさい……。でも、ぶつかってきたのはあなたの方で……」
「口答えすんじゃねぇ! 裏の世界じゃなぁ、落とし前は金で払うんだよ。
ほら、さっさと財布出せや」
思わずため息が漏れた。
男の素性なんざ知らないが、漂わせる空気だけで十分だ。村の外では相手にされず、こうして女子供から小銭を巻き上げることでしか自尊心を保てない、救いようのない小物。
(……こんな時に、何してんだか)
空腹も、下腹部の疼きも、今の俺にはどうでもよくなった。理屈じゃない。ただ、こういうみっともない奴の存在が、俺のざらついた神経を激しく逆撫でする。
フードを深くかぶり、微かな足音も立てず、死神のように男の背後へ歩み寄った。
「俺はなぁ……昔は《滅刃の豆蔵》って呼ばれてよォ……泣く子も黙る──」
「黙れよ」
鼓膜を直接揺らすような低い声に、豆蔵が肩を跳ねさせた。
「おい、あんた。女相手に何してんだ」
「あぁ? なんだテメェ、今いいとこ──」
振り向いた男の言葉は、最後まで紡がれなかった。
俺の拳が、正確に男の顎の先端を撃ち抜く。魔力なんて使わない。ただの、本物の死線を潜り抜けてきた者だけが打てる、予備動作のない鋭い一撃。
「ぶべっ!?」
情けない声を上げ、豆蔵と名乗った男は地面に転がった。そのまま白目を剥き、名前負けも甚だしい無様な格好で気絶する。
「雑魚が異名なんて名乗って粋がんなよ。みっともねぇ」
遠巻きに見ていた村人たちの、どこか投げやりで呆れ果てた声が耳に入った。
「おい、あれ、豆蔵じゃねぇか。さっき飯食わせてもらって、泣きながら『心を入れ替える』なんて言ってた癖に」
「全くだよ。司祭様たちも、あんな恩知らずにまで平等に分け与えるんだから、お人が良すぎる」
どうやらこいつは、この村で最も性質の悪い鼻つまみ者としての定位置を確立しているらしい。
足元で震えていた少女が、俺を見上げていた。
栗色の髪に、どこか冷たさを孕んだ琥珀色の瞳。怯えるような、あるいは激しく警戒するような目で俺を見つめている。
「大丈夫か」
「あ……はい。ありがとうございます、お兄さん」
少女はすぐに、何事もなかったかのように柔らかく丁寧な笑顔を顔に貼り付けた。その微笑みの奥にある不気味なほどの歪さに、俺の直感が微かな警告を発する。
だが、その警戒を塗りつぶすように、少女の細い腹から小さく虫の鳴くような音が響いた。
――つられて、俺の腹も地鳴りのような鈍い音を立てる。
近くの村人が眉をひそめて笑った。
「嬢ちゃんたち、さっき広場にいなかったな。まだ食べてないんだろ?
ほら、急げ。シチュー、もうすぐ無くなるぞ」
「あ、ぜひいただきたいです」
少女は頷いたが、なぜか俺の顔をじっと見つめていた。そのまっすぐな視線に耐えきれず、俺はそっぽを向く。
「俺の分は良い。腹いっぱい食ってこい」
平静を装って踵を返そうとした、その瞬間だった。
ぐい、と衣服の裾を強い力で引っ張られる。
「……あ?」
見下ろすと、少女が俺の黒衣の裾を掴んで離さない。
「じゃ、お兄さん、一緒に食べに行きましょう! せっかく皆さんそう言ってくださってるんですし」
「は? なんでそうなるんだよ。俺は腹なんか――」
「嘘つき。さっきお腹鳴ってたくせに」
「……」
目ざといやつめ。周囲の村人たちからくすくすと笑い声が漏れ始めた。
「おいおい、お兄さん。そこまで懐かれちゃあ、仕方ないねぇ」
「そうだよ、女神様の炊き出しだ、誰が食べたって罰は当たりゃしないさ。ほら、その子のために食べてってやりなよ」
外から迫る、温かい善意の視線。それが今の俺には、どんな刃よりも居心地が悪かった。
「一緒に食べましょうよ」
少女の頑固さと、周囲の視線に、俺は深くため息を吐き出す。
「……チッ、分かったよ。離せ、歩きにくいだろ」
渋々といった体でフードを深く引き直し、少女と共に広場の列へと向かった。
幸いというのか、大鍋のシチューはまだまだ潤沢に用意されていたようで、俺一人が食べたところで誰かが溢れるような量ではなさそうだった。
ムキになって、突き出された木皿を乱暴に受け取る。
だが、いざ広場の片隅で、差し出されたなみなみと注がれたシチューを口に運んだ瞬間――脳髄がひっくり返るような衝撃が走った。
「…………っ」
溶けた肉の脂が舌の上で広がり、ジャガイモはほくほくと崩れ、野菜の甘みと肉の旨味が混ざった熱いスープが、空っぽだった腹へと容赦なく流れ込んでいく。
(……美味い……ふざけんな、なんでこんなに美味いんだよ……っ)
拒絶しようとした理性は、一口目にして完膚なきまでに叩き潰された。
添えられた大きな円形パンをちぎり、塩気の強い黄色いバターをたっぷり塗ってシチューの底へ沈める。
スープを吸って肉の旨味を抱え込んだパンを口に放り込むたび、脳が揺れるほどの幸福感が押し寄せた。
「おい、おかわりだ」
一杯目を瞬く間に空にした俺は、無愛想な声のまま、だが迷いなく木皿を修道女へ突き出した。
「えっ? あ、はい……どうぞ」
二杯、三杯、四杯。
食べるほどに身体の緊張が解け、失われていたエネルギーが蓄えられていく。
だが、それと同時に、俺の皿の減り方と、突き出されるスピードの異常さに、周囲の空気がじわじわと凍りついていくのが分かった。
「……おい、あの旅人の兄ちゃん、凄まじいな」
「もう五杯目だぞ……? 細そうななりをして、どこにあの量が入っていってるんだ……」
最初は俺を連れてきた少女の健気さに微笑んでいた村人たちが、今や恐怖すら覚えた目で俺の木皿を見つめている。
当の少女すら、口をあんぐりと開けたまま、自分のスプーンを止めて俺を凝視していた。
「お、お兄さん、本当にお腹空いてたんですね」
「……何見てんだよ。残さず食うのが礼儀だろ」
俺は低い声のまま、六杯目のシチューを豪快にパンで拭い取って平らげた。
その瞬間、腹の奥の空虚が、圧倒的な満腹感と温かさで満たされる。
それと同時に、先ほどまで不快な熱を帯びて内腿を濡らしていた、あのじわじわとした下腹部の疼きも、胃袋がしっかりと満たされた重みによって、まるで波が引くように静かに気にならなくなっていくのを感じた。
「……ごちそうさま。美味かったよ」
満足感と、誰よりも食い尽くしてしまったという微かな決まり悪さを隠すように、足早に広場を出た。
その後、夕暮れまで俺は村で過ごした。
豆蔵を倒した腕前を見込まれ、魔族の騒ぎで男手の足りない村人たちからいくつかの力仕事を頼まれたのだ。
瓦礫の撤去や重い物資の運搬。魔力を使わずとも、人並み外れた身体能力があれば造作もない。
夜になる頃には、旅を再開できるだけの、いくらかの銅貨や銀貨が手に入った。一文無しだった今朝を思えば十分すぎる。
手に入れた僅かな報酬で村の宿に安宿を取り、その夜は久しぶりに泥のように眠った。
明ければ、抜けるような青空だった。
「これで、次の街へ行けるな……」
翌朝、身支度を整えて村を出ようとしたその時、広場の端にいた通りがかりの行商人の不気味な会話が耳に届いた。
「おい、この先の山道は通らない方がいい。旅人や行商人が何人も行方不明になっているんだ。獰猛な魔族の仕業っていう噂だぞ」
「しかも、ここ最近の話じゃねぇ。ずっと、もう何十年も前からそうだ。
噂じゃ、死んだ魔族の怨念が地に宿ってるってさ。
もっとも、教会が調べたが何の異常もなかったって話だが、俺はそうは思わねぇ」
(魔族の仕業、か……)
一応は目的あっての旅ではあるが、怪異の噂を無視するわけにはいかない。
ペンダントをそっと握りしめ、警戒を強めて歩き出そうとしたその瞬間、「お兄さん」と背後から声をかけられた。
振り返ると、昼間の少女がそこに立っていた。
昨日よりさらに大きな荷物を背負い、やはり、あの完璧な笑顔を貼り付けたままで。
「私は
実は、この村の人間ではなくて、少し離れた山奥の村から出稼ぎと買い出しに来ていたんです」
香鐘は一歩俺に近づき、あざだらけの細い手で古い硬貨を差し出してきた。
「もし、お兄さんがまだお金や行く宛てに困っているなら……私の村に来ませんか?
今日これから戻るんですけど、荷物も多くて、山道も危険ですから、護衛として来てもらいたいんです」
香鐘の全身に刻まれた、隠しきれない不自然な古傷の跡。
そして、先ほど聞いたばかりの、この先の山道で多発している行方不明者の噂。
(この少女を一人で歩かせるのは危険だ。それに、その噂の出処は恐らく――)
胸騒ぎを覚えた俺は、差し出された硬貨を見つめ、静かに頷いた。
「……いいだろう。案内しろ」
これが、あの因習に塗れた地獄への片道切符になるとも知らずに、俺は香鐘の後に続いて、村外れの山道へと足を踏み入れた。