※この作品はR-18です。

Un Ceace   作:EMM@苗床星人

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Case3 老いた大神官のバックアップと大日本帝国龍脈の霊的依存性についての調査記録 第三部

 

 帝都東京の青空は、灰色の靄を纏い始めたばかりの淡い水色を帯び、遠くの龍脈から漏れ出る霊子の微粒子が、陽光を屈折させて虹色の幻影を散らす。

 浪漫建築の尖塔が林立する街並みは、まるで古きハイパーボレアの遺跡を蒸気と鉄で再構築したかのようだ。

 赤煉瓦の壁面に絡みつく銅管が、脈打つ血管のように蒸気を吐き出し、街路を駆け巡る人力車は、式鬼の無表情な機械人形が引くものばかりだ。

 黒光りする鉄の関節が軋む音と、車輪の歯車が噛み合うリズムが、朝の喧騒に溶け込み、日常の調べを奏でる。

 角を曲がればおつかいを急ぐ小さな式鬼が、籠を背負って跳ねるように走り、通行を整備する大型の式鬼が、信号灯の霊子ランプを点滅させて人波を整理する。

 鉄と蒸気の香りが、路地裏の露店から立ち上る醤油の匂いと混じり合い、機械国家の心臓部を象徴する。

 科学の進歩が魔術の残滓を飲み込み、歪んだ調和を生み出しているのだ。

 空を横切る飛行船の影は、地上の影を長く引きずり、そこから時折ばら撒かれる霊子蒸気の噴出はの土御門陰陽寮の封印札を光のみで形成し、それが風に舞って旧支配者をはじめとした異なるもの魔なるもの達の囁きを封じるかのように街を守る。

 

 そんな帝都の中心に、荘厳な赤煉瓦の帝都大学が聳え立つ。

 ゴシック調の塔が天を衝き、外壁に埋め込まれた霊子護符がネオンの如く青白く輝く。

 蒸気機関の低く唸る響きが建物の骨格を震わせる講堂の扉をくぐれば、内部はさらに歪んだ世界観を露呈する。

 

 天井から吊り下げられた巨大な歯車時計が、時を刻むごとに蒸気を噴く吹き抜けの中央。

 講堂の学生たちの机には自動筆記装置が備え付けられ、講義の言葉をインクで記録する仕組みだ。

 日常の学舎として機能しつつ、陰陽寮の影響で黒板の端には護符が刻まれ、魔術の干渉を防ぐ。

 大きな黒板は、自動黒板消しと一体化した機械仕掛けのそれで、ガーと金属の摩擦音を立てて蒸気の噴射で粉塵を吹き飛ばし、先の授業の記録を瞬時にまっさらに戻す。

 その音が響く中、さまざまな思いを秘めた生徒達が息を潜めて座る。

 黒髪の日本人学生たちが大半を占め、時折、異邦人のような混血の顔が混じる。

 皆、帝都の機械国家で育った者たちで、式神を召喚する護符を首に下げ、日常的に魔術と科学の狭間を生きている。

 教卓に立つライラ=シュルズベリイは、そんな異邦の空気に微塵も揺らぐことなく、すぅと息を整える。

 金髪が帝都の陽光に輝き、深緑の瞳が鋭く生徒たちを射抜く。

 彼女の声は、流暢な日本語で講堂に響く。

 

「こんなご時世に間に合ったというべきか、米国はミスカトニック大学より教鞭を執りに参りました、ライラ=シュルズベリイと申します

この国では発音は難しいと感じる方は、ライラと呼ぶことを許可します。では、早速講義を開始いたしましょう」

 

 スパルタ教授の仮面は、帝都の歪んだ空気さえも貫く。

 昼の彼女の言葉は、蒸気機関の精密さのように冷徹で、魔術の深淵を覗くような深みを持っていた。

 黒板にチョークを走らせる手つきは、まるでビヤーキーの触手を操るかのように正確だ。

 しかし、その仮面の下で、彼女の視線は素早く動く。

 

「まぁまぁ少し付き合ってよぉ、俺新しい環境で不安なんだよね……」

 

 早速、後列の黒髪の女生徒に軽薄な笑みを向け同じく日本語で声をかけ始めたハイタに、ライラは自前で持ってきたチョークを腰のポシェットから引き抜き迷わず投擲する。

 白い軌跡が空を切り、ハイタの眉間に命中し、スコォンと音を立てて粉末が蒸気の靄に舞う。

 

「いってぇっ、持参は準備よすぎるだろっ?」

 

「このような私語は慎むように、次はもっと痛いのが飛ぶから覚悟しろよ」

 

 ライラの簡潔な注意の言葉に生徒たちの間で小さな笑いが漏れ、式鬼の整備音が遠くから響く中、講義は始まる。

 ウィリアナがウキウキと自動筆記装置の調整を行い、そんなやりとりの間に授業の記録を取る準備を終えて、眼帯に隠されていない紅玉の瞳をライラに向け、隠された銀瞳も期待に淡く光る。

 帝都での新しい日常が、こうして始まる。

 科学の歯車が魔術の呪文を噛み砕き、復讐の影が青空の下で静かに回るのだ。

 

 

 帝都大学の講堂は、蒸気機関の低く唸る響きが骨の髄まで染み渡る空間だった。 天井の巨大歯車時計が時を刻むごとに微かな蒸気を噴き出す中、自動筆記装置のペンが学生たちの机上でかすかに震え、講義の言葉を待ち構えていた。

 ライラは教卓に立ち、金髪を帝都の淡い陽光に輝かせながら、深緑の瞳で生徒たちを射抜いた。

 

「では、この国の霊脈システムについての授業を行うとしよう

これはこの国の技術的発展の根幹を成す要素であり、今後発展していく日本を支える基盤でもある

そもそも霊脈の発見は、陰陽寮による緻密な霊的捜査があって初めて成せた、世界にも類を見ない偉業であり

これを地の龍、龍脈という自然現象として定義したかの大魔術師安倍晴明を祖とした土御門

この龍脈を帝都地下都市計画と並行して調整し、日本国土中で安定してその霊的エネルギーの抽出を可能とし、突発的霊磁場事故の発生を未然に防ぐシステムを構築した辰宮内閣政府

この二つの組織によって、日本の政治的、魔術的防御は成り立っている。」

 

 外部の人間であるライラの講義に、生徒たちの反応は即座に現れた。

 黒髪の日本人学生たちが大半を占める中、感嘆の声を上げる者が散見し、自動筆記装置のペンが忙しなく動き、知らなかった事実を記録する姿が目立った。

 混血の顔がちらほら混じる生徒たちも、首に下げた式神召喚の護符を無意識に握りしめ、帝都の機械国家で育った者らしい真剣な眼差しを向ける。

 

『さすが日本人、こういう真面目な生徒が多いのはこの国の未来も安泰だという安心感があるな……』

 

 ライラは、教授の仮面の下で密かに微笑んだ。

 蒸気の靄が講堂を薄く覆う中、彼女の言葉は魔術の深淵を覗くような深みを帯び、科学の精密さと融合して、生徒たちの心を捉えていた。

 

「では、この霊脈整備活動の最中で起こった4年前の『加藤事件』……それについて、説明できるものは居るか?」

 

 ライラは生徒に話を振り、チョークを黒板に軽く叩いて促した。

 すると、講堂にどよめきが広がった。

 生徒たちは互いの顔を見合わせ、一向に手を挙げる者はいない。

 

 わからないのではない—その話題が、帝都で畏れを持って囁かれる禁忌に近いのだ。

 霊子ランプの淡い光が揺れ、遠くの式鬼の整備音が一瞬途切れたかのように、緊張が空気を重くする。

 

『こういうところは短所か』

 

 ライラは内心でため息をつき、自ら話そうとチョークを黒板に置こうとしたその時、立ち上がる音が響いた。

 少女が、静かに立ち上がる。ハイカラな和装の肩にさらりと垂れる黒髪を優雅に持ち上げ、淡々とした声で告げた。

 

「加藤保憲。」

 

 その名が発せられた瞬間、講堂は—いや、帝都大学全体が、凍りついた。

 静寂が、まるで深淵の虚空から這い出た触手のように、すべての音を飲み込んだ。

 蒸気機関の唸りが遠くに退き、歯車時計の針が止まったかのような錯覚を呼び起こす。

 生徒たちの息遣いが止まり、自動筆記装置のペンが中空で凍りつき、護符の青白い輝きさえもが、微かに震えて影を落とす。

 帝都の青空の下でさえ、この名は怨霊の呼び声のように、龍脈の霊的エネルギーを乱れさせ、関東霊震災の記憶を呼び覚ます禁忌—その重みが、講堂を無音の牢獄に変えた。

 ハイタは、後列から軽率な仮面の内側で、邪神の興味を覗かせ、深淵の王たる瞳を細める。

 手を挙げようとしていたウィリアナが、しょんぼりと座り直し、「昨日予習してたとこでござりまするぅ……」と小さな声で呟く。

 その少女は、ウィリアナに申し訳なさそうに微笑みながら、言葉を続ける。

 

「その最悪最強の陰陽師が、首塚に眠る平将門の怨霊を目覚めさせて引き起こした超大規模霊脈異常、亥の年の荒々しき霊脈波長と共振した異常は帝都を中心とした地震として出力され、関東霊震災を引き起こしました。」

 

 周囲の生徒たちは息を呑み、少女の優雅な仕草に目を奪われる中、ライラは問う。

 

「君は、確か……」

 

「セツコ……辰宮セツコと申しますわ、ライラ教授」

 

 その優雅な笑みの瞳の奥に、ライラと同じ復讐の深淵を見た瞬間、ライラの背筋にゾクリと戦慄が這い上がった。

 触手のように冷たく、熱く地獄のような予感を伴うそれに、彼女はなんとか冷静を保つ。

 

「……では、ウィリアナ。代わりに龍脈と蒸気を用いた地中伝送システムの構築の歴史について説明してくれ」

 

 ウィリアナは、無邪気に立ち上がり「はいで御座りますっ!」と、無垢に嬉しそうに答える。

 彼女の説明が始まると、講堂の静寂は徐々に解け、蒸気の噴射音が再び響き始める。

 生徒たちの自動筆記装置が動き出し、帝都の歪んだ日常が、再び歯車を回し始めた。

 そうして授業は滞りなく進んでいった。

 

 

 帝都大学の中庭は、昼食時の喧騒に包まれながらも、ウィアードエイジの灰色の靄を纏ったような独特の静けさを湛えていた。

 浪漫建築の尖塔が周囲を囲み、地面に埋め込まれた霊子結晶のグリッドが、陽光を屈折させて虹色の幻影を散らす。

 蒸気管が中庭のベンチや噴水に絡みつき、低く唸る響きを響かせ、時折、式鬼の小型モデルが落ち葉を掃除する機械音が混じる空間だ。

 学生たちが弁当を広げ、護符を首に下げた者たちが魔術の議論を交わす中、レイ=ハヤマはゆっくりと歩いて暇を潰していた。

 金に染めた長髪が陽光に輝き、ピンクのドレスが風に揺れるその姿は、周囲の目を引く—無知な視線が彼の毒々しい美しさに絡みつく快楽に、ハヤマは身を震わせる。

 しかし、霊的強大さに彼の正体を察した一部の生徒は、即座に目を逸らし、息を潜めて距離を取る。

 

「は、身の丈にあってて結構結構……」

 

 ほくそ笑みながら、ハヤマはナルシストの喜びに浸る。

 無知の視線を浴びる甘い毒が、殺戮の宴を予感させる官能的な余韻のように、彼の魂を優しく回すのだ。

 そんな中、背後から柔らかな声が呼びかけた。

 

「あの、少しいいですか?」

 

 ハヤマは振り返り、死人を見たかのような驚愕を浮かべる。

 青黒く長い髪をツインテールに結った少女—ミニスカートの制服が、大学生というには幼い体躯を強調し、帝都の淡い陽光に彼女の肌を白く浮かび上がらせる。その姿は、ハヤマの記憶にある姿と瓜二つで、深淵の虚空から這い出た幻影のように、彼の心を乱す。

 

「……ヒメ?」

 

 呆然と呼びかけたハヤマに、少女は困惑の表情を浮かべる。

 

「んぇ、あの、どこかでお会いしましたか?」

 

 彼女の声は無垢で、ツインテールの先が風に揺れ、中庭の蒸気の靄を優しく切り裂く。

 

「あ、あっはっはゴメンね、一方的に知ってたんだよ。サメちゃんの妹だろ?案内して……」

 

 ハヤマが言いかけたところで、背後から水音混じりの声が響く。

 

「その必要はない」

 

 ごぼぼ、という奇妙な泡立つ音を伴い、軍服を着た恰幅のいい青年が現れる。

 軍帽の下から覗く機械式マスクが、霊子ランプのように青白く輝き、隙間から見える瞳が鋭くハヤマを射止める。

 帝都の軍事魔術師らしい装備—マスクのチューブが蒸気を吐き出し、水のような液体が循環する音が、彼の存在を異界の産物のように歪める。

 

「居たのサメちゃん」

 

 ハヤマの軽い言葉に、青年は不機嫌そうに返す。

 

「鮫島計一郎だというに」

 

 少女—ヒメは、恥ずかしそうにモジモジしながら、弁当箱と、機械式マスクについているのと同じガラス棒に液体の入った容器を差し出す。

 

「忘れ物のお弁当と、今日の分……これくらいしか出せなかったけど、いい?」

 

 妹が兄に手作りの弁当を渡すには、若干の違和感を感じる様子—彼女の幼い指が容器を握る姿は、名状し難いものの触手が絡みつくような不気味な優しさを帯びる。

 計一郎の目だけが見える顔は、笑顔に変わる。

 

「あぁ、午後の授業が終わったら今日はすぐ帰る」

 

 その言葉に、ヒメはふわっと喜びを顔に浮かべ、はにかんだ笑顔を彼に見せる。

 

「……!わかった!えへへ。」

 

 嬉しそうに彼女は人混みをかき分けて帰っていく—ツインテールが中庭の風に舞い、蒸気の靄に溶け込むように消える。

 残された沈黙の中で、ハヤマは問う。

 

「……次のバックアップか?」

 

 計一郎の目は鋭くなる。

 

「変な気は起こすな、お前はあと5年だろう?」

 

 ハヤマは、天を仰ぎながら答える—その顔は中庭の尖塔の影に隠れ、帝都の灰色の靄に飲み込まれるように、表情を覗かせない。

 

「……わかってるよ、僕は……彼女にはもう、関わんないさ」

 

 

 

 

 蒸気管が門柱に絡みつき、低く唸る響きを響かせ、遠くの龍脈から漏れ出る霊子の微粒子が、陽光を屈折させて虹色の幻影を散らす校内で、ヒメは、自分の通うすぐ隣の中学校へ向かう道を、いつも遅い兄の早い帰りの報告に嬉しさを隠せないで歩いていた。

 青黒いツインテールが風に舞い、ミニスカートの裾が軽やかに翻る—幼い体躯が、帝都の淡い陽光に白く浮かび上がり、はにかんだ笑みを浮かべる。

 

「……へへ」

 

 夢中で歩いているうちに、彼女はいつの間にか、人通りのない廊下へと出ていた。

 大学の古い翼棟の奥、赤煉瓦の壁面に銅管が血管のように脈打つ空間—土御門陰陽寮の封印札が剥がれかけた護符のように、旧き法則の残滓が空気を重く淀ませる。

 どこからか、子供の歌声が聞こえる……とおりゃんせ、とおりゃんせ。古い童歌が、無人の廊下に響き渡る—その旋律は、過去の歴史の残滓から這い出た囁きのように、ヒメの心に不気味な寒気を這わせる。

 周囲を見回す彼女の瞳に、不安が宿る。

 蒸気の靄が足元を這い、遠くの歯車時計の針が、止まったかのような錯覚を呼び起こす静寂—まるで、幽世からの触手が虚空から伸び、日常を歪めるかのように。

 そんな中、ヒメの肩に、トン、と何かがぶつかる。

 振り返った彼女の前に、辰宮セツコが立っていた。ハイカラな和装の肩にさらりと垂れる黒髪が、廊下の淡い光に妖しく輝き、優雅な笑みの瞳の奥に、復讐の深淵を宿す。

 

「あっ、ごめ……」

 

 謝ろうとしたヒメの手を、セツコは素早く掴み上げる。

 表情を変えず、ヒメの痛みに歪んだ顔を近づける。

 

「いっ!……ぁ、なに?」

 

 痛みに怯えるヒメに、セツコが小さく呟く。

 

「魔除けをあげる」

 

 そういって彼女は口の中から静かに舌を出し、その上には一瞬小さい目玉のように見える、何かの卵と思しきもの—名状し難い異形の卵が、微かに脈打つ。

 ヒメが驚きの声をあげる前に、セツコは空いた口に唇を重ねて舌を捩じ込む。

 

「……っ!? ……んぐ、んっ!……っふ」

 

 ヒメのくぐもった悲鳴が廊下に響く。

 ゆっくり、呼吸を阻害するように、ねっとりと舌を絡ませてヒメの頭に手を添えるるセツコ。

 その動きは、官能的な渦を巻き、ヒメの唇を柔らかく蹂躙し、湿った熱気が喉奥へ侵入する。

 卵が滑り落ちる感触が、触手のように絡みつき、ヒメの体を震わせるーー恐怖と困惑が、甘い毒のように混じり合い、息苦しさに彼女の悲鳴を徐々に弱らせる。

 

「んん、む……ふふ。」

 

 セツコの愉快そうな息がヒメの肌を撫で、唇の隙間から漏れる湿った音が、深淵の宴を思わせる官能的な余韻を残す。

 驚愕と、困惑と、息苦しさにヒメはくぐもった悲鳴を徐々に弱らせていき、震えながら、その喉奥に卵を迎え入れる。

 

 こく、り

 

 すると涙を浮かべ苦痛に歪んでいたヒメの瞳から光が消えて、表情も消えていく—まるで、魂が深淵に飲み込まれたかのように。

 

「……然るべき時に、呼びますわ。」

 

 セツコは優雅に黒髪をかき分けながら廊下を去っていく。

 ヒメは「……ハイ」と、無表情に答えた……

 

 

 ハッとヒメが気付くと、場面は帝都大学の校門前に移っていた。

 あたりを困惑するように見回しても、周囲の喧騒は無慈悲に日常を描く。

 

「あっ、あれっ?私、何してたんだっけ……い、いいや……へへ」

 

 無人の廊下での記憶を失った彼女は、無理やり兄の早帰りを思い出してはにかんだ笑みを浮かべて中学校へ駆けていく。

 その唇に、微かな違和感を残したままーー異形の卵が、セツコの復讐の渦を静かに回し始める予感を感じさせながら。

 

 

 

 帝都大学の準備室は、蒸気機関の低く唸る響きが壁面の銅管を震わせ、灰色の靄を纏った陽光が窓から差し込む空間だった。

 土御門陰陽寮の古文書が棚に並ぶ中、ライラ=シュルズベリイは教卓に寄りかかり、深緑の瞳を細めて問う。

 

「辰宮セツコ、ですか。」

 

 ケイコ准教授は、一瞬思慮を巡らせ、黒髪を優しくかき上げる。

 

「彼女は辰宮洋一郎首相の娘です、確かに彼女は特殊な知性を備えた人物であることは把握していますが、それ以外はこれと言って……」

 

 その言葉は、龍脈の霊的エネルギーが帝都の地下を脈打つように、穏やかだが重みを帯びていた。

 

「そうですか、気のせいだと良いのですが……」

 

 ライラはそう応じながら、ビヤーキーの視界を持ってしても、セツコの行動が完璧に見えたことを思い返す。

 しかし、それ故に違和感がある。

 復讐者としての勘が、あの瞳の奥に映る真っ黒な炎を捉えていたーー予感があった、その炎のゆらめきがそれこそ深淵の触手の如く全てを絡めとるような。

 ケイコは小さく呟く。

 

「修羅同士で、通じるものがあるのでしょうかね。」

 

 その言葉に、ライラの口がムッと閉まる。

 

「酷い言いようですね? 復讐に燃える私は悪魔(デモン)ですか。」

 

 金髪が帝都の淡い光に輝き、彼女の声は魔術の深淵を覗くような鋭さを帯びる。

 

「あぁ、いえ。そうでは無いんです。修羅道とは、六道のうち戦うもの、戦い続けることで命を繋ぐもの、という意味(ニュアンス)です。」

 

 ケイコの説明は、西洋人であるライラにとって、知識はあっても理解の及ばないニュアンスを伴っていた。

 それは新たな知見として好奇心を覚えたライラは、「続けてください」と促す。

 蒸気の靄が部屋を薄く覆う中、ケイコの声は古い童歌のように響く。

 

「仏教には六道の概念を三善三悪ととるものと、二善四悪ととるものがあります。

その中心点が修羅道。ですがそれは多くの場合、三善の修羅ととられます……即ち、戦い続けることによって自己を確立する者たちです。

私と、加藤もそういう者だった。」

 

 ケイコは右肩の古傷を摩る—その指先が、四年前の闇の底から這い出た傷痕のように、微かな霊子的波長を乱す。

 

「戦うものには、また二つの側面があります。これは占い師の受け売りですが……

一つは鬼神力『怒りや恨みを糧に戦うもの』そしてもう一つは『愛と慈悲を立てるために戦うもの』……それを、観音力と言います。」

 

「面白い分類ですね……戦うことに、その意味に分類を課すとは」

 

 ライラの言葉は、ビヤーキーの視界を操る手つきのように正確で、好奇心の深みを帯びる。

 

「セツコは……いえ、その母であるユカリは、鬼に魅入られたのです。」

 

 ケイコの脳裏に、影から這い回る触手が、女たちの白い肌を這い、巻きつき、女の身体を堪能しながら血を伴って齧り付く光景が幻視される。

 その中心に、それらを操る五芒星の書かれた白手袋と、魔人の獰猛かつ冷徹な笑みが、忘れられない。

 邪神のみならず怨念の催す悍ましい宴—触手の湿った熱気が肌を蹂躙し、血の滴りが官能的な余韻を残す。

 ケイコはほのかに朱を帯びた悔しそうな顔で、震える左手で右肩をギュウと掴む。

 

「鬼神と観音……それは、常に揺らぐものです……戦いに身を置く以上は。」

 

 ビヤーキーの霊子同期システム越しに魂の色を見るライラは、ケイコのすぐそばに寄り添う影に、血の気を引かせる。

 こんな恨みと執着の塊を、人が生み出すのか……と。深淵の虚空から這い出た触手のように、影はケイコの魂を優しく、しかし執拗に回す。

 タッタッタッタ、と廊下を駆ける音の後、バタンと戸を開く音が響く。

 息を切らした学生が飛び込んでくる。

 

「教授、ケイコ准教授! また、人誅です! 正純重工が、社長の正純拓人氏が……殺害されました!」

 

 その言葉は、帝都の機械国家を震わせる龍脈の乱れのように、重く部屋を満たす。

 ライラの瞳が鋭くなり、ケイコが切なげに帝都の昼空を見上げる。

 

「鬼が、集ってきている……!」

 

 ケイコの背に寄り添う影は、陽光を嫌うかの如くケイコの陰に身を潜めた。

 

 

 正純重工の工場は、金属の骨格と簡易的な足場が絡みつく近代の神殿めいた空間で、巨人じみた式鬼の製造ラインが唸りを上げ、かろうじて人間の作業領域を確保しただけの、機械の深淵を覗くような場所だった。

 社長室もまたその例に漏れず、ミニマムな作り—蒸気管が壁を這い、霊子ランプの青白い光が淡く揺れる中、鉄の臭いと油の甘い腐敗が混じり合う。

 だが、そこに広がる惨状は、余りにも凄惨が過ぎた。

 冒涜的な生物が溢れ出たかのように、部屋は血と肉片の抽象絵画と化していた。

 辺りに飛び散る鮮やかな赤—人間の内臓が爆発したかのように、壁や床にべっとりとこびりつき、蒸気の靄がその血煙を掻き乱す。

 遺体は正座するように膝をつき、上半身が袈裟懸けに消滅—首のあった位置から、血が噴き出した圧が周囲を染め、肉の断面が露わに震え、筋繊維の糸が引きちぎられたまま、グロテスクに垂れ下がる。

 まるで巨大な大砲で穿ったかのように、その背後に設置された正体不明の機械装置は跡形もなく破壊され、残骸が散乱—蒸気機械文明を超過した『何か』の補完装置だったことは、素人目にも明らかで、周囲の歯車や電子回路との違和感が、ハイパーボレアの遺跡から這い出た異形のように、部屋の空気を歪める。

 装置の中身は持ち去られた後で、空洞が深淵の虚空を覗くようにぽっかりと開き、残された霊子的残渣が微かに脈打つ—あれは、何らかの宇宙的恐怖の産物めいたものだったのか、それとも【深淵を見返すもの】の科学が産んだ冒涜か。

 ライラは、ビヤーキーの視界越しにそのグロテスクな宴を眺め、復讐の炎が胸を焦がすのを感じた—この血の饗宴は、単なる殺戮ではなく、神々への挑戦状、魂を貪る儀式の残滓だ。

 帝都の灰色の空の下で、こんな悍ましい光景が日常を嘲笑うなんて、帝都の深淵は、ますます渦を巻いている。

 

そんな中、ウィリアナの声が震えながら響く。

 

「きょ、教授……拙が、『視』てみまかりまする。」

 

 吐き気に口元を押さえながら、涙目になった彼女が挙手する—古めかしい口調の純粋な少女の姿が、現場の血煙に染まる光景に、痛ましく映る。

 ヨグ=ソトースの血を引くハーフゴッドとして、銀瞳の力がどれほど彼女を苛むかを知るライラの良心が痛むが、警察が本格的な捜査を始める前に出来るだけ情報は集めたい。

 

「頼めるか、ウィリアナ。」

 

「委細承知っ!」

 

 気合を入れて目を瞑りながら眼帯を解くウィリアナ—その小さな手が震え、無垢な体躯が霊子ランプの光に白く浮かび上がる。

 そして決意と共に開いた右目の銀瞳が超常の輝きを灯し、現場の過去を見せる。

 銀瞳は、時空の可能性を固定化し、千里を見通す父譲りの力—宇宙的恐怖の深淵を覗くような輝きが、部屋の蒸気の靄を切り裂き、血の饗宴の残滓を逆行する。

 ウィリアナの体が微かに震え、銀瞳から漏れ出る光が、遺体の断面や破壊された装置の空洞を照らし、過去の幻影を呼び覚ます。

 彼女の無垢な瞳が、過去へとたどり着く……

 

 

 

 ウィリアナの銀瞳が灯す超常の輝きは、時空のヴェールを切り裂き、現場の過去を幻視的に呼び覚ます。

 過去の情景が広がる。部屋の中心に、蒸気工学のみならず生体電子工学、霊子工学の粋を集めた傑作の義体—ぷっくりとした女性的な曲線を帯びた、完璧な人造の女体が、青白い霊子ランプの光に妖しく輝いていた。

 

「へぇぇえぇぇ、さすが今代最高の人形師……細部まですっごい拘りよう……いやぁ、注文した甲斐がありましたよぉ」

 

 古めかしい洋装を纏った、深緑の瞳を持つ魔術師は、それを満足げに眺める。

 高山帽に、この季節に厚く長いコート、それでいて汗ひとつかいていない。

 揺れる金髪に、色眼鏡に隠された深緑の瞳は、どことなくライラに近い面影をウィリアナに感じさせるが、その胸のブローチには逆三角形に血走った瞳の紋様……【深淵を見返すもの】のエンブレムが見える。

 彼はまるで博物館の最奥に秘された至宝を眺めるように、女体を鑑賞しながらくねくねと体を捩じらせる。

 狂気的な動きが、触手が這い回るかのように、不気味に部屋の空気を歪める。

 

「い、いかがでしょうか? これで未来の技術を教えていただけるなら……」

 

「あぁあ! 構わないよぉ?」

 

 正純拓人の声が震え、男は蛇のように舌をチロリと覗かせ、銃を拓人の額に当てる。

 体をくねらせ、首を傾げながら、ゆっくりと引き金を引く準備をする—その動作は、獲物を弄ぶ蛇の優雅さと狂気を帯び、部屋の蒸気の靄を掻き乱す。

 

「ひっ?」

 

 拓人の顔が歪む中、男は蛇のように体をくねらせ、股間を強調するように腰を振りながら語る。

 

「君もだが、君の子孫も偉大でねぇ、2030年に大流行するウイルス災害の対抗のためのこういった義体を開発するんだよ、父親が、娘の身を守るためにねぇ……ぐすん。」

 

 涙を装いながら、体をくねくねと捩じり、銃口を額に押しつける。

 

「は、はぁ……それで、これはどういう」

 

「まぁ落ち着きなよ、その技術はのちの怪獣との戦いでも重要な意味を持つ、というか未来の人類が生き残るための鍵、それが君の子孫なんだ、け、どぉ。」

 

バン!

 

  重い大口径の銃声とともに、拓人の頭が消し飛ぶ。血を吹き出し、ビュッビュと血を喉元の断面から噴き出しながら膝をついて痙攣する拓人の死体を見下ろしながら、男は屹立した股間を見せるように腰を突き出し、獣じみた笑みを浮かべる—蛇のように体をくねらせ、舌を這わせるような狂気の喜びが、血の饗宴を官能的に彩る。

 

「ごめん、これで2030年に人類滅んだかも……アッハッハッハッハ! まぁその時はこのタイムラインでは新しいバージョンの人類を作ればいいさ! さらば旧人類! そしてぇ……」

 

 作成された義体のぷっくりとした女性的な頬に手を添えて撫で、男は体をくねくねと捩じらせながら、触手のように指を這わせる。

 

「は、す、た、ぁ……これで、君をサチアとして愛せる……ふふひははははは!!」

 

 狂ったように笑い、体を蛇のようにくねらせる—その動きは、深淵の虚空から這い出た触手が、官能的な渦を巻くかのよう。

 急激に熱を失ったかのように真顔になって……その過去を覗くウィリアナに銃口を向ける。

 

「覗いちゃ駄目よん?」

 

 ガチャ、バリッ……と、彼の銃口の先端が展開し、時空を超えて焦げた臭いを匂わせる火花が瞬いた。

 

 

 

 バン!

 

 衝撃が現在の現実空間に響き、咄嗟に避けたウィリアナの頬を切り裂いて彼女の背後に衝撃と共にクレーターを作る。

 銀瞳の輝きが乱れ、過去の幻影が霧散する中、ウィリアナは一瞬遅れて命拾いした確信を得る。

 

「あっ……!? ひっ、ぐぅっ」

 

 突然の痛みと、予想外の生命の危機に頬から流れる血を抑え、激しい動悸に冷静さを失いながらうずくまってしまう。

 血の滴りが床に染み、時空を超越した悍ましい余韻を残す。

 

「ウィリアナ!? 何があった!!」

 

 叫び、彼女を庇うようにしながら見回すライラに、息を荒くしながらウィリアナは必死に声を絞り出す。

 

「あっ……悪魔、悪魔ですやつは……す、すぐ逃げるでござりまする!!」

 

 銀瞳の涙が、未知の村勢への恐怖に揺らぎ、追撃の恐怖に震える。

 二人は案内した社員を振り切って慌ててその場を去り、新しく発生したクレーターから、破損したパイプから溢れた蒸気が全てを白く覆うように満ちていく。

 

 

 

 帝都大学の浪漫建築の尖塔は、灰色の靄を纏った青空の下で、ハイパーボレアの遺跡を蒸気と鉄で再構築したかのように、天を衝いていた。

 龍脈から漏れ出る霊子の微粒子が陽光を屈折させ、虹色の幻影を散らす中、アンブローズ=ビアスは蛇のように避雷針に絡まり、風にコートをはためかせながら、体を捩じらせる。

 狂気的な動きが、尖塔の空気を歪める。

 

「やっべ、バレたか……さっきので銀瞳を仕留めきれなかったのは痛かったかなぁ、劇の予定を繰り上げないとぉ。」

 

 彼の声は、哲学的な嘲笑を帯び、ポケットからスマートフォンを取り出し、どこかへと通話する—その指先が、蛇の舌のように素早く画面を滑らせ、深淵の渦を静かに回す予感を帝都の灰色の空に溶け込ませる。

 

 

 

 一方、帝都の華やかな会食の場—浪漫建築の窓から差し込む淡い陽光が、友人たちの笑顔を優しく照らす中、辰宮セツコは突然、お尻で振動する奇妙な感覚に襲われ、珍しく狼狽した。

 

「きゃ……!」

 

 その声に、一緒に会食していた友人たちは、いつも冷静な彼女の突然の顔に驚愕する。

 

「……ふふ、すいません、虫が膝に落ちてきまして……そちらに放して参ります。」

 

 優雅な笑みを浮かべ、手を挙げた左手の指先に小さな蜘蛛がカサカサと這う。

 友人たちは驚きながらも、それでも優美さを失わないセツコの様子に憧れの視線を向ける。

 

 セツコは陰に隠れ、式神で作った幻影の子蜘蛛を消して険しい顔のまま、尻のポケットに入れた振動する未知の機械を開き、教えられた通話ボタンを押して操作する。

 

「時と場所は選べと言った筈。」

 

『ごっめーん⭐︎ちょっと予定が繰上げになった……こっからケイコさんたち襲撃するけど、どう?ゆっきー。』

 

 アンブローズの軽薄な声が、蛇のように耳元で這い回る—その響きは、深淵の宴を予感させる官能的な毒を帯び、セツコの口角が上がる。

 

「お誘い、感謝しますわ……では、後ほど。」

 

 通話を切ると、友人たちの元へ戻り、一礼する。

 

「申し訳ありません、使いのものから知らせが……父からの呼び出しがあったそうなので、これにて」

 

 優雅にその場を後にした彼女は……結界化した無人の廊下に足を踏み入れる。

 

「いけませんわ、冷徹に……冷酷に、事は進めなければなりません」

 

 彼女は一息にハイカラな和装を脱ぎ落とす。

 

 白い肌が露わになる瞬間、怨霊の触手が這い寄るかのように、霊子の靄が彼女の体を優しく撫でる。

 虚空から浮き出る肉のムカデのような式神が口を開けて、中に収納した着替えを取り出す。

 軍用ハーネスで縛られたシャツに陸軍式のズボンにブーツ、軍服の上着と軍帽を被り、外套を羽織る。

 そしてズラリと長い長刀を引き抜き、腰に携える。

 髪は軍帽の中に収納し、辰宮セツコは五芒星の描かれた白手袋を眼前に構える。

 

「お父様、セツコは……今、逢いに征きます。」

 

 その瞳には、白馬への激しい復讐の炎に彩られ漆黒に輝く。

 帝都の空は、鬼の到来を告げるかのように曇天に彩られ、血のような紅い稲妻が空を天の龍のように駆け巡る。

 龍たちが、鬼に怯えている。

 

 帝都東京の灰色の靄が、赤煉瓦の壁を幽霊のように撫でる午後の光景。

 古きハイパーボレアの遺跡を思わせる帝都大学の結界化した廊下で、少女セツコは静かに佇んでいた。

 彼女の瞳には、復讐の炎が紅く揺らめき、軍服の袖から伸びる白手袋が、壁面に優しく触れる。

 五芒星の紋様が、掌に刻まれた呪いの烙印のように、淡く浮かび上がる。

 

「ドーマン・セーマン……」

 

 短い詠唱が、唇から零れ落ちる。

 古い法則の響きが、空気を震わせ、壁の煉瓦一つ一つに染み込む。

 瞬間、白手袋の五芒星が紅く瞬き、輝きを放つ。

 血のように鮮やかな光が、回路状に壁を這い、校内中を駆け巡る。

 まるで龍脈の脈動が、鋼鉄と蒸気の躯体に息を吹き込むかのように。

 光は枝分かれし、床下の銅管を伝い、天井の霊子ランプにまで達する。

 青い輝きが、異常を察知したかのように異音を発し、明滅を始める。ビビビ……という低い唸りが、深淵の囁きのように広がる。

 やがて、光を撓めたランプが、紅い眼光を鋭く放ち始める。

 それは、邪神たちの目覚めを思わせる冷徹な輝きだった。

 校内の式鬼たちーー無表情な機械人形が、人力車を引く者、掃除をする者、講義室の自動黒板消しーーが、ガクガクと痙攣を始める。

 金属の関節が軋み、蒸気の漏れる音が、苦痛の喘ぎのように響く。

 生徒たちの視線が、驚愕に凍りつく中、一体の自動黒板消しが、バキャ、バギンと拘束を解く音を立てる。

 拘束を解くように蝶番とネジが弾き飛ばされ、長い腕だけの機械が、不自然に変形する。

 まるで異界の触手が、鋼鉄の皮を破って這い出るかのように。

 その腕が、近くの生徒に向かって無差別に振り下ろされる。肉を叩く鈍い音、悲鳴が迸る。

 

 同様の現象が、次々と式鬼たちに広がる。

 人力車の車輪が逆回転し、引き手が人間の首を絞めようと伸ばす。

 掃除機のノズルが、牙のように開き、床を這う。

 講義室では、黒板の機械が化物と化し、チョークの粉を撒き散らしながら生徒を追い詰める。

 悲鳴が、各所で巻き起こる。廊下から、教室から、中庭から——帝都大学は、一瞬にして混沌の坩堝と化す。

 灰色の靄が、血の匂いを帯びて濃くなり、深淵の渦が、静かな学舎を飲み込もうとする。

セツコは、ただ静かに微笑む。

 彼女の白手袋が、壁から離れる頃、復讐の宴は始まっていた。

 

 帝都大学の講堂は赤煉瓦の壁が震え、蒸気の銅管が唸りを上げ、式鬼たちの暴走が阿鼻叫喚の狂宴を繰り広げる。

 生徒たちの悲鳴が空気を切り裂き、自動黒板消しの剛腕が肉を叩く鈍い音が、絶え間なく響く。

 霊子ランプの紅い眼光が、狂気の渦を照らし出す。

 そんな混沌の只中で、ハイタだけが机に肘を突き、自動筆記機械のペンをのんびりと走らせていた。

 金髪が乱れ、軽薄な瞳がレポートの紙面を睨む。

 

「あー、終わらねぇー……何が大和撫子に目を移してる暇があるならーだよ、教授だってオリエンタル美女を評価してんじゃねえかよったくよぉ」

 

 愚痴が、独り言のように零れ落ちる。

まるで、この騒乱が彼の日常の延長線上にあるかのように、肩をすくめてペンを操る。

 その目の前で、暴れ狂う自動黒板消しの剛腕が、蛇のようにハイタを睨みつけた。

 紅い霊子ランプが、獲物を狙う獣の目のように輝き、グワッとその鋼鉄の腕を振り下ろす。

 空気を裂く風圧が、ハイタの髪を揺らすーーだが。

 

 

「控えろ。」

 

 

 ビタァッ、と時が静止したかのように、式鬼の動きが凍りつく。

 剛腕が、ハイタの頭上数寸で止まり、金属の軋みが低く響く。

 霊子ランプの紅い瞳が、黄色に瞬き、怯えたように明滅する。

 ハイターー否、ヒトの皮を纏った黄衣の王が、ゆっくりと顔を上げる。

 その瞳には、無限の虚空が覗き、傲慢な微笑みが浮かぶ。

 

「旧支配者の残滓、雑霊如きが誰に手をあげた? 言ってみろ、言い訳くらいは聞いてやる。」

 

 式鬼の躯体が、圧に押し負けるようにガクガクと震え出す。

 まるで、深淵の王に跪く臣下のように。

 ハイタの声は、言外の言葉を聞き入れているかのよう——式鬼の機械的な魂が、恐怖に呻くのを、感じ取っているかのよう。

 

「誰の指示だ? ん? セツコ=タツミヤ、さっきの黒髪ロングか……成程?」

 

 その名が発せられた瞬間、式鬼のランプが一瞬、紅く閃くが、すぐに黄色の服従の色に染まる。

 ハイタは、満足げに鼻を鳴らし、席から立ち上がる。

 

「は、騒がしいと思ったら面白いことになってるじゃねえか。レポートサボる言い訳に使わせてもらおうか……

お前、少しついてこい、そんくらいできるだろ? 俺の護衛をしろ。俺も今は脆い身だ、特別に許す。」

 

 傲慢な言葉が、講堂に響く。黄衣の王の威光が、霊子の波として広がり、式鬼を従わせる。

 すると、自動黒板消しの黒板の壁が、めぎめぎと剥がれ、分離する。

 講堂の壁の内側から、大規模な機械部分が振動を伴って露わになり、多脚のように不恰好に急いで変形する。

 鋼鉄の触手が這い、蒸気の吐息が漏れる。その異形の躯体が、優雅に講堂を後にするハイタに、必死に追従する。

 まるで、忠実な猟犬が主を追うように。

 

「ほら、お前らもどうだ!」

 

 ハイタの声が、講堂全体に波状に広がる。

 紅い光の霊子ランプが、次々と黄色へと変じていく。

 それは、物理的な要素のない霊子戦において、無類の強さを持つハスターのなせる業ーー邪神の百鬼昼行だった。

 暴走した式鬼たちが、一斉に動きを止め、黄色の従順の眼光を灯す。

 混沌の坩堝が、瞬時に王の行列へと変わる。

 灰色の靄が、深淵の息吹を帯びて濃くなり、帝都の空に新たな渦の予感を残す。

 

 帝都東京の灰色の靄が、午後の陽光を血のように染め上げる中、帝都大学の赤煉瓦の門が、深淵の門口のように開かれていた。

 古きハイパーボレアの遺風を宿す学舎は、今や阿鼻叫喚の坩堝と化し、式鬼たちの暴走が鋼鉄の触手のように生徒たちを絡め取る。

 悲鳴と蒸気の唸りが混じり合い、霊子ランプの紅い眼光が、狂気の渦を照らし出す。

 

 そんな混沌の只中へ、ライラ=シュルズベリイとウィリアナ=アーミティッジが、息を切らして戻ってきた。

 金髪が風に乱れ、深緑の瞳が驚愕に大きく見開かれる。

 

「なにが……」

 

 ライラの声が、震える呟きのように零れ落ちる。傍らのウィリアナも、古風な口調で言葉を絞り出す。

 

「教授殿、これは……」

 

「まずい、先手を打たれている……!」

 

 二人は、大学が異界の嵐に飲み込まれたかのような光景に、凍りついた。灰色の靄が血の匂いを帯び、足元で倒れた生徒の呻きが、ライラの心を抉る。

 突如、空を裂く咆哮が響き、ウィルバーの異体——進化した多脚の有機機械——が飛来した。

 怪物的な躯体が、ひと薙ぎに式鬼の群れを吹き飛ばす。

 鋼鉄の残骸が散らばり、蒸気の雲が舞う中、異体の口からコクピットがせり出し、少年の姿のウィルバーが叫ぶ。

 

「陰陽道による霊子クラックです! 式鬼たちの制御式神(コード)を何者かが乗っ取ったみたいで……」

 

 ライラの心臓が、早鐘のように鳴り響く。

 彼女の焦りは、復讐の炎ではなく、異種の恋人への切ない予感として、胸を締めつける。

 

「これは陽動だ、ウィルバー君は生徒たちの救助を最優先!」

 

 

 焦った様子の声が、鋭く指示を飛ばす。ウィルバーが驚いて目を丸くする。

 

「は、はいっ!?」

 

 異体が再び動き出し、群れを薙ぎ払うが、ライラの瞳は既に遠くを——ハスターのいる講堂を——見据えていた。

 

「教授殿、ハイタ殿は式鬼の一部を逆クラックしケイコ女史と合流ルートに向かっておられまする!こっち!」

 

「ウィリアナも、相手が悪すぎるからこれ以上銀瞳による千里眼は控えて!」

 

 しょんぼりするウィリアナの案内に従い走るライラもまた、焦っていた。

 心臓の鼓動が、耳元で絶え間なく響き、深緑の瞳が不安に揺らぐ。

 金髪に深緑の瞳という敵の特徴が、脳裏に閃く。

 サチアという禁忌の言葉、ブラフだとしても、相手は羊飼いの一族を知る者。即ち……

 

「敵の、少なくとも『人誅』などという言葉を使っている奴の本当の標的は……ハスターだ!」

 

 その思いが、ライラの魂を震わせる。

 自らが命を狙う邪神への危機に、瞳が大きく揺れていた。

 それは、憎しみの下で芽生えた愛の矛先、ハスターを失う恐怖が、彼女の心を甘く、苦く蝕む。

 灰色の靄が、深淵の渦を巻く中、ライラは走り出す。

 愛と復讐の狭間で、触手の温もりを求めるように。

 

 

 

 助教授としてのスーツに身を包みながらも、術式を付与した小刀を手に、ケイコ=メカタは生徒たちを守っていた。

 息を切らし、額に汗を浮かべ、小規模な結界を展開して式鬼の襲撃を弾く。

 輝く障壁が、鋼鉄の爪を弾き返し、蒸気の霧を散らすが、彼女の瞳には疲労の影が宿る。

 生徒たちの怯えた顔が、彼女の心を抉り、白の神力で闇を払う……だが、深淵の残滓は、執拗に迫る。

 

 突如、壁が崩壊の音を立てて破壊され、ハイタの軍勢が合流した。

 黄色の従順の眼光を灯した式鬼たちが、紅い敵対者を薙ぎ払い、鉄の戦争が勃発する。

 鋼鉄の触手が絡み合い、蒸気の爆発が響く中、ハイタは自走する自動黒板消しの多脚戦車に腰掛け、軽薄な笑みを浮かべる。

 

「ハイタ様!」

 

 ケイコが叫ぶ中、彼はケイコに目を向けナンパをするかのように笑顔とともに手を差し伸べる。

 

「よう巫女さん、乗ってかない?」

 

 ケイコは目を丸くした。

 邪神と聞いていた彼が、当たり前のように人助けをする姿に、驚愕が胸をよぎる。

 だが、迷う暇はない。

 

「助太刀、感謝します!」

 

 彼女は黒板消しの多脚戦車に乗り込む。鋼鉄の躯体が振動し、蒸気の温もりが肌を伝う中、ハイタの軍勢が生徒たちを救助する。

 鉄の咆哮が、混沌を切り裂く。

 だが、そこへ、不定形の黒い影が放射状に伸びて襲いかかった。

 闇の触手が、虚空から這い出し、ケイコの結界を試す。

 

「くっ……!?」

 

 輝く障壁が青白く瞬き、影の触手を防ぐが、押し返す力は液状の闇を波打たせるだけで、拮抗する。

 ケイコの息が荒くなり、汗が頬を伝う——深淵の冷たい息吹が、彼女の魂を蝕む。

 突如、日本刀を抜きながら、一直線に突貫してくる少女の刃が煌めいた。

 

「メカタ……ケイコォォォオオ!!」

 

 鬼気迫る咆哮が、灰色の靄を切り裂く。

 セツコの跳躍の勢いのまま、刃が結界を貫通する。

 

「ぬあぁ!?」

 

 ハイタが仰向けに倒れ、頭上を通り過ぎる刀の風圧を感じる。

 ケイコの眼前で、刃が静止する。黒髪が乱れ、軍服の少女の瞳に、復讐の黒い炎が宿る。

 

「やはり、あなたの仕業でしたか……辰宮セツコ!」

 

「平将門の傀儡、面影の巫女がぁっ……!」

 

 セツコの顔が、憎しみに歪む。

 ヒュウと、ハイタは口笛を吹く。

 

「昼よりも良い顔してるじゃねえか、好みじゃねえ、が!」

 

 その言葉に、ハイタの霊子操作が発動する。

 黒板消しの式鬼のアームが、日本刀ごとセツコを弾き飛ばす。

 鋼鉄の衝撃が、中空で一回転する彼女の躯体を震わせる。

 だが、セツコは足元に集う影の触手を足場に、中空に着地し、二人を見下ろす。

 灰色の靄が、彼女の周りを渦巻く。

 

「お前は、私から全てを奪った……父さんを、加藤保憲を……返してもらう!」

 

 その言葉に、ケイコの陰に潜む怨念の残滓が、わずかに揺らぐ。

 古い怨霊の残響が、彼女の影を濃くする。

 それを見逃さなかったセツコは、せつなげに瞳を潤ませる。

 

「ぁあっ……やはり、そこに『居る』のですね……っ!」

 

「……!」

 

 しまったと言わんばかりに、ケイコが隠そうとするが、遅い。

 セツコの瞳に、憎しみの黒い炎が灯る。

 

「かぁえせえええ!!」

 

 闇が、溢れ出す。

 それは戦争を行う黄色と紅の式鬼の鉄の身体を巻き込み、膨れ上がる。

 巨大な鬼の躯体が、深淵から顕現し紅い眼光を迸らせて襲いかかる。

 灰色の靄が、血の渦を巻き、帝都を揺るがす呪いが学舎を飲み込まんとしていた。

 

 帝都大学の赤煉瓦の回廊は、深淵の業火に焼かれる地獄絵巻と化していた。

 学舎の壁が震え、蒸気の銅管が絶叫のように唸りを上げる。

 そんな地獄の只中で、ハヤマ=レイはひとりうなだれていた。

 金に染めた長髪が乱れ、ピンクのドレスが血と蒸気の霧に汚れ、少年然とした顔には、毒々しい嘲笑の影すら宿っていなかった。

 ただ、フラフラと歩く彼に襲い来る式鬼ーー紅い眼光の機械人形が、無表情に鋼鉄の爪を振り下ろす。

 だが、その瞬間に、刀と薙刀が突き刺さる。凶器の刃先が、式鬼の躯体を貫き、蒸気の噴出が霧を濃くする。

 その凶器の持ち主はイオド——ハヤマの駆る異形頭の狩衣の式神たちだ。

 残虐な美しさを放つ式神が、思い思いの凶器を構え、式鬼どころか生徒たちまで威圧的に威嚇する。

 影のように蠢く彼らの姿は、深淵の狩人たちの行進を思わせ、灰色の靄を毒の息吹で染め上げる。

 ハヤマの知るヒメの輝くような笑顔と、今のヒメの戸惑い混じりの優しさが、もう関われない自分の運命と混ざり合って、感情をぐちゃぐちゃにかき乱す。

 彼女でさえも、彼女の運命に踊らされているというのに……

 

「あああああどいつも、こいつもぉ!」

 

 ハヤマは吠えると、続けて重い声で囁く。

 

「っ、んだよ畜生が……こっち今気が立ってんだよ……オラ、とっととかかってこいやボンクラぁ!」

 

 それは、いつも何処か余裕のある狂気の芸術家ではなく、ただ方向の定まらない暴力の化身として、式神たちに号令をかけるものだった。

 瞳に灯るのは、殺戮の宴への渇望——官能的な余韻を味わう毒すらない、暴力そのものの衝動であった。

 

「殺せよ!イオド様!」

 

 式神たちが動き出す。

 イオドの狩人が、血痕を吸収する魔術で式鬼を狩り、残虐な美しさが学舎を染める。

 ハヤマの魂は、快楽主義の仮面を剥ぎ取り、ただの殺戮の渦へと溶け込む。

 

 沌の渦巻く只中で、恰幅のいい軍服の青年——鮫島計一郎が、炎を纏った刀を一閃させた。

 

「しぇぇあっ!」

 

 咆哮が、灰色の靄を切り裂く。

 刀身がバキバキとひび割れながら、小鬼のような式鬼たちを薙ぎ払う。

 炎の尾を引き、鋼鉄の躯体が火花を散らし、蒸気の噴出が霧を濃くする。

 機械式マスクを被った鮫島の顔から、ブシューと空になったガラス管が自動で射出され、懐から素早く取り出したヒメの持ってきた追加の管を差し込む。

 ごぼぼぼと水音を立てて、ようやく息ができると言わんばかりに、深呼吸を繰り返す。

 

「クソっ……今日は足りない日だというのに……!」

 

 その声は、深淵の底から這い上がる呻きのように、低く響く。

 背後から飛んできたバイク型の4型ビヤーキーを、人外の動体視力と反射速度で掴み取り、鮫島は身軽にその後部座席に座り込む。

 風圧が彼の軍服を翻し、蒸気の温もりが肌を伝う。

 

「なななっ、何奴でござりまするかっ!?」

 

 先頭でライラが運転し、その後ろのウィリアナが、突然後ろに乗り込んできた鮫島に驚きの声を上げる。古風な口調が、灰色の靄に溶け込む。

 

「帝都大学軍用魔術師科2年、鮫島二等兵が失敬仕る! 代わりに露払いは任せてもらおう!」

 

 言いながら、鮫島は腰から重厚な機械製の鞘を抜き、その先端を前方に向ける。

 錬鉄の機械が、内部で神の力を宿すように震える。

 

「いあ、クトゥグア……!」

 

 古い法則の祈りが、唇から零れ落ちる……その祈りを受け取った神格と連動し、鞘内部の錬鉄機構が形を変えて熱と振動を放ちながら展開、銃口らしき機構を前方へ突き出す。

 引き金を引くと、銃口から光と同じ速度の熱線が連続して発射され、前方の式鬼たちを正確に射抜く。

 射抜かれた式鬼は、赤熱して溶けた液体と化し、ビヤーキーの起こす風圧とシールドがそれを吹き飛ばす。

 灰色の靄が、溶鉄の臭いを帯びて濃くなり、深淵の渦が学舎を飲み込もうとする。

 

「すまん、助かる!」

 

 ライラが叫び、ビヤーキーは加速する。

 目の前の長い一直線、破壊の跡の向こうに見えるのは巨大な鬼の背中……ライラは意を決してそこへ突貫した……!

 

 

 

 

 巨鬼の腹が、赤熱し膨れ上がった。闇の躯体が、内側から溶鉄の輝きを帯び、皮膚がひび割れ、血のような蒸気が噴出する。

 そして、破裂を伴い、黒い液状の闇が四散する中、ビヤーキーに乗ったライラたちが追いついた。

 鋼鉄と異界の融合した有機機械が、風圧を切り裂き、灰色の靄を払う。

 

「ミスカトニックの、探索者ぁ……!!」

 

 忌々しげに振り返るセツコの瞳は、復讐の黒い炎を宿し、軍服の少女の顔を歪める。

 ライラは、同じ復讐者の深緑の瞳で返す。

 二人の修羅——しかし、それらは水と油、相容れない存在であった。灰色の空の下で、憎しみの渦が静かに回る。

 

「生憎、私に鬼だの菩薩だの分類は無理!」

 

 ライラの声が、鋭く響く。

 1型ビヤーキーを放ち、フーンから放つエネルギーフィールドが、結界を包む液体の闇を弾き飛ばしていく。

 青白い輝きが、闇の触手を蒸発させ、蒸気の霧を散らす。

 

「ハイタ!」「助かったぁ!」

 

 心底安心したようなため息をつくハイタに、膝をつき結界を解いて呼吸を整えるケイコ。

 

「っはぁっ、はぁ!はぁ……セツコ、聞いて!あなたのお父さんは、加藤保憲じゃあ……」

 

「近親相姦の子だって言いたいんでしょ?」

 

 静かな怒気を孕んだ声で、セツコは言う。黒髪が乱れ、瞳に涙が滲む。

 

「わかってるのよ……私は辰宮ユカリと、辰宮洋一郎の娘だって……わかってるけど、けどっ!」

 

 泣きそうな顔で叫ぶセツコ。しかし、その身体を、今度は機械の触手が絡め取っていく。

 鋼鉄の冷たい感触が、軍服を締めつけ、影のように這う。

 

「ハイタさん!」

 

「止めるなよ、こいつはこれ以上何をしでかすかわからねぇからな……!」

 

 ハイタの声が、低く響く。

 縛られていきながら、セツコはボロボロと涙を流す。

 

「加藤お父さんの復讐は、それでも責められるものじゃないって……あんたが菩薩であったなら、わかっているはずなのに!!」

 

 その言葉に、ケイコは言い淀み、結界が完全に消失した。

 灰色の靄が、静かに濃くなり、深淵の息吹が学舎を包む。

 

 その瞬間、ハイタの背後——自動黒板消しの式鬼の内部を、バリバリと紙屑のように引き裂きながら、高山帽の男が姿を表す。

 金髪が陽光に輝き、深緑の瞳が狂気の喜びを宿す。

 

「あのさぁ……昔っっからそうやって悪役を演じすぎるの、悪い癖だよ?」

 

 まるで親友の書き記したシナリオを読んで、指摘するような気軽さで、ハイタに語りかけながら、男の銃がもはや銃と言えない4次元立体的な変形を行いながら掌に集い、放電を開始する。

 青白い稲妻が、虚空を歪め、霊子を撹拌する無慈悲な科学の渦を巻く。

 

「そうだろ、『サ チ ア』♡」

 

 ねっとりとした口ぶりで、愛を囁くようにその肩に触れた……

 

 瞬間、世界そのものを引き裂くような不協和音が、世界に響いた。

 

 それは大音量というわけではない、ただ、この次元そのものを等間隔に揺さぶったかのような、世界そのものの悲鳴だった。

 思わずその場にいた全員が、耳を塞ぐ。

 灰色の靄が震え、赤煉瓦の壁が軋む。

 そして、その音に隠れて……ハスターが、黄衣の王が、世界線を跨ぐ強壮たる旧支配者が……絶叫の悲鳴をあげていた。

 ハイタの体がビクンと跳ねて、白目を剥いて膝から崩れ落ち、腕を引き抜いたアンブローズの手には、輝く黄色の霊子の超超高密度情報塊が握られていた。

 

「あぁ……綺麗だよぉ、君の『神核(しんぞう)』♡」

 

 それに、ねっとりと舌を這わせるアンブローズの陶酔した行為に、ライラは……

 己の内にある最後の境界線がブツりと断ち切れる感覚がした。復讐の炎が、愛の渦に溶け、深淵の底から這い上がる。

 

「き、さ、まああああああああ!!!!」

 

「っひゃはっ、かかって来いよぉ……羊飼い共の子孫、蜂蜜酒の小瓶がぁ!」

 

 アンブローズの笑みが、狂気の渦を巻き、ウィアードエイジの灰色の空が、血の予感を残して低く垂れ込める。

 

 

 それは復讐の渦が頂点を極め、世界の糸が絡みつく瞬間だった。

 目の前の高山帽の男が何者かは知らない。

 金髪緑瞳もブラフとしてありえる。力も未知数。

 だが、そんな事は今は最早関係ない。

 

 この男は、ハスターを『サチア』と呼んだ。

 そしてその悪い癖までも言い当てた。

 そして彼を心から愛し、憎む感情に悔しさしかないが共感できてしまった。

 そして、ライラの怒りに震えながら、どこか冷徹な思考回路は一つの結論に達した。

 

 ヨグ=ソトースをウムル=アト=タウィルとして完全な人体として召喚できる技術を持ちながら、何故ハスターを脆く脆弱な死体を依代に降臨させたのか、何故少女一人が生き残っていたのか、何故ハイパーボレアのスケッチが彼らの名義で出回っていたのか……

 

 そして、何故執拗な彼らがハスターを見逃したのか。

 

 その答えが、目の前の男の異常な狂気で一本の線に繋がった気がした。即ち、この男こそが……

 

「元っっ凶!!」

 

 ライラは自然と女王の一部を顕現させていた左腕に、ハスターから与えられていた力を振り絞って振るう。

 深淵の触手のような輝きが、虚空を切り裂き、男に向かって奔る。

 男はハスターの魂を持たない手を地につき、バック転してそれを回避する。

 灰色の靄が渦を巻き、鋼鉄の残骸が散る中、彼の笑みが狂気の花のように咲く。

 

「ひゃっはぁ!それがサチアの最高傑作?ウケる」

 

「サチアサチアとぉっ!」

 

 ライラはカポエラの要領で地に手をつき、振り回した脚を掴まれる。

 

「スカートでそれすんの、はしたないよ?」「……っく!」

 

 ガギンガギンガギンと鉄を打ち鳴らす音を見るや、鮫島が赤く赤熱した新しい刀身を錬鉄しおわり、引き抜いていた。

 

「助太刀、御免!」

 

男の目つきが一瞬鋭くなり、ハスターの魂を握る手甲で受け止める。

 

「謝るなら、やらんといてぇ!」

 

 ふざけた返事をしながら、ライラと鮫島を投げ飛ばす。

 鮫島は刀を放し、ライラを受け止める形で背中から壁に激突する。

 

「ごはっ……あの手甲、この世の物体ではないな……」

 

 ごぼぼと機械式マスクから苦しげな水音が響く。

 ケイコの放つ光の矢が、ウィリアナの銀瞳の拘束が、鮫島の変形鞘からの熱線が、同時に男に迫る!

  輝く矢が虚空を貫き、銀の鎖が次元を固定し、熱線が空気を焦がす。

 男は軽く笑い、両手を降参するかのように挙げる。

 結果として、そのすべての攻撃が彼の胸をいとも簡単に貫通した。

 

「がはっ!かっはっは、過剰な火力じゃない?痛くって泣いちゃいそう……」

 

 血を吐きながらも、尚も愉快そうに笑うその男の胸は、みるみるうちに再生してその風穴を塞いでいく。

 その光景に、その場にいる全員が目を見開く。なんて、不条理……目の前の男には、『死』が存在しない。

 

「お前は……なんだ……」

 

 震える声で、ライラが言う。

 男は、満足そうに口角を上げると、芝居じみた仕草で礼をする。

 

「遅ればせながら、自己紹介!私は【深淵を見返すもの】上級魔術師……まぁ科学者。アンブローズ=ビアス……その真名を」

 

 見開いた深緑の瞳が、ハスターの魂の輝きを反射して狂気に輝く。

 

 

「『羊飼いのハイタ』!! 以後お見知り置きを、可愛い子孫よ!!」

 

 

 名乗りを上げるその口は犬歯を剥き出しにして吠える獣のように、そして名乗りを終えたアンブローズは一歩下がり、セツコの影の触手が二人を、光り輝くハスターの魂を闇の底へと覆い隠す。

 

「まっ、待て!待って……」

 

 すがるように手を伸ばし、ハスターの温もりを奪われる恐怖にライラの瞳が歪む。

 

「僕は組織でも異端者だからねぇ……殺しはしないよ?だがぁ……」

 

 獣の唸りのように、吐息混じりに言うアンブローズの言葉に、ライラの世界は凍りつくかのような悪寒に包まれた。

 

「次会うときには……『彼女』は君の知るハスターじゃないかもしれない……っひっっはっはっはっはっは!!」

 

 哄笑と共に消えていくセツコとアンブローズ。

 

「セツコさん!その男は、あなたの手に負える相手じゃない!

加藤と会いたいなら、私は……!」

 

 ケイコは必死にセツコに語りかける。

 しかしセツコは振り返り、先の憎悪の炎が嘘であったかのような冷たい視線を投げつける。

 

「もう、良い……私は、加藤の本懐を果たす

帝都を、このふざけた世界を、纏めて叩き潰してやる……っ!」

 

 セツコの憎悪と嫌悪に塗れた声と共に、影は二人を巻き込みその場から完全に消失する。

 その瞬間、式鬼たちは機能を完全停止し、静寂が訪れる。

 その静寂の中で、床に拳を打ちつけるライラ。

 

「……っ!くそっ!くそっくそっくそっ!!」

 

 拳を握る手に血が滲む、ライラの瞳が復讐に燃え上がる。

 

「アンブローズ=ビアスっっ……覚えたぞ、そのふざけた偽名をなぁっ!ハスターは、必ず取り戻すぞ……っ!」

 

 ライラが更なる復讐の炎を滾らせていると、突如として轟音と共に地面が鳴動し始める。

 

「わっわわっ、地震でござりまするっ!?」

 

「い、いや違う!この揺れ方、ただの地震ではない!まるで、大地のものが引き上げられるような……」

 

 窓を突き破って、ウィルバーの異体がやってくる。

 

「ライラ教授!帝国政府が緘口令と日米封鎖を解除、ミスカトニックからの霊子通信が回復しました!

事は日米で争っている場合じゃないところまで来ています!」

 

「どういうこと!?」

 

 一度に多数の事案が発生したことで、頭を抱えるライラの問いに、ウィルバーの異体が空を指す。

 ウィアードエイジの曇り空が、以上事態を察した烏合のように雲を散らし、いつもより大きい夕暮れの月が、帝都の空に煌々と輝いている。

 

 

「月が、堕ちてきています!!」

 

 

 鬼の怨念と、異界の因縁に包まれた帝都大学で、新たな復讐譚が始まりを告げる。

 月の迫る空の下、深淵の渦が、復讐の炎を点火して激しく回転をはじめた。

 

 

 

 

Case3 第三部 Fin

 

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