傷つき、外の世界に連れ出されてなお"自由"になれない少女のために
少年は海を目指す
マチュが最初から"カバスの館"のような娼館にいたら…というifの世界線です。
「ご馳走様でした。」
「お粗末様でした。」
お互い手を合わせてぺこりと頭を下げ、私たちの身体の一部になってくれた食材たちに感謝を捧げる。
私がいた娼館は、所謂高級娼館というモノで…やって来る"恋人さん"達も軍の高級将校といった"品のある人たち"だった。
彼らをもてなす私たちも、一通りの調理技術の他にもこういった礼儀作法を身に着けることを義務付けられていた。
「今日も美味しかった。マチュが来てくれてから、食事の時間が楽しみになったなぁ…。」
「まぁ…あの有様なら…そうだろうねぇ。」
私の手料理にヘニャリと笑って、しみじみとした様子で生活の変化を呟くシュウジ。
そんな彼に、私はここに来た日の事を思い出していた。
『ここ…キッチン、ですよね…?」
『うん、そうだよ。』
『いやぁ…コンロもオーブンもピカピカですね…。まるで一回も使ったことがないような…。』
『うん、使ったことないよ。』
『…えっと、お鍋とかフライパンは?』
『無いよ。』
『‥‥今まで食事はどうなされてたのですか?』
『レトルトとか、缶詰とか。』
『こんな立派なキッチン付きのトレーラー買ったのに?』
『これがオススメって言われたから。』
『今から買い物にいきますよ、今すぐにでも。』
『敬語やめてくれるなら、今すぐに。』
こうして、身請けされた初日は調理器具の買い出しとキッチン回りの動作確認に費やされることとなった。
あとどさくさ紛れで敬語もやめさせられた。
(ほんと…料理関係のスキル持っといてよかったぁ…。)
娼館の小間使いをやっていた頃を思い出す。
あの頃はコキ使われてはブツクサと文句を言っていたものだが、こうして僅かにでもシュウジの役に立てるのだから感謝しかない。
…身体を使えない以上、小間使いのようなことでしかシュウジを喜ばせることができないのが、私の現状だった。
(晩御飯は何にしようかなぁ…。)
今晩の献立を決めるために、冷蔵庫の中身を思い出していると…。
「晩御飯は魚がいいな。」
まるで心を読んだようにシュウジが自分の希望を述べてくる。
…ように、ではない。シュウジは、他人の心が読めるのだ。
つまり…シュウジは会話を必要としない。こちらが何か考えていれば、あとはシュウジが要求すればいいのだ。
所有物である私は、ただただシュウジからの要求を聞いていればいい…それでいい、はずなんだ。
だけど。
「魚かぁ…焼き魚?それとも煮魚?」
「う~ん、このまえ作ってくれたトマト煮。アレ、また食べたいな。」
「わかった。…トマト缶、余りそうだから…明日はチキンライスいやオムライスにしよっか。」
「オムライス!楽しみだなぁ!」
私はシュウジの声が聴きたいんだ。
シュウジの声は、とても安心する。心の奥底まで染み渡って、私の中の澱みを洗い流してくれる魔法のような声なんだ。
シュウジの労力を考えれば、私は言葉を発さずにシュウジの要求をひたすら呑み続けるのが最良だろう。
「そんなにトマト好きなの?じゃあ、またコンチにレシピ印刷しといてもらおうかな。」
「マチュの作ってくれるモノなら、なんでも好きだよ。」
「もう…そういうのが一番困るんだってば。」
それでも私はシュウジと会話せずにはいられない。
この何でもない会話が…どうしようもなく幸せで仕方が無いんだ。
(この"好き"は大丈夫そうだな…。)
心の中で『マチュが大丈夫な好きリスト』にまた一つ追加する。
マチュは…自分対する"好き"を怖がっている。
初めて彼女の心と通じ合った時、彼女が受けた痛み・苦しみを僕は知った。
娼館の日々の中で、最も彼女を傷つけたのは…"好き"だ。
まだ自由を信じられたころのマチュは、他人からの"好き"も信じることができた。
その"好き"を信じて、娼館から自由になれると信じたマチュ。
その"好き"に…裏切られるまでは。
ベッドの上での"好き"を保証するつもりもない男たちによって、マチュの心は何度も踏みにじられた。
中には、傷ついた彼女の姿を見たいがために直接裏切りの言葉を告げた輩もいたほどだ。
だから僕は、少なくとも今はマチュに、僕の"好き"を言わないことを決めた。
もし僕の"好き"をマチュに告げたら、彼女の心は恐怖に染まるだろう。
今のマチュにとって…"好き"は裏切りを表す言葉なのだから。
今は待つ…彼女の心が癒えるまで…。
マチュはもう…自由なんだと、再び信じられるようになるまで…。
"好き"という言葉以外で、マチュが大好きな僕の声を届けつづける。